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2 教員採用試験の〈ホンモノの学習法〉―開始時期とその手法―

緑の植物を背景に机上に置かれ,開かれた1冊の書物 「鍛地頭-tanjito-」の〈教員採用試験論〉
分厚い本と緑背景(提供 photoAC)
この記事は約17分で読めます。

(2) 教員採用試験の開始時期

此の所,ちょくちょく次のような質問を頂くようになりました。

「教員採用試験の勉強をいつから始めれば良いのですか?」

正直を申し上げて,こうした質問を頂戴した際,いつも先述した「20世紀の「知」の弊害」を痛感します。やはり,現行の教員採用試験は〈受験ゲーム〉なのです。当塾は次のようにご回答申し上げています。

「教員になりたいと〈本気〉で思った時です。」

この言表が語弊を抱えるものであることを承知の上で,そのようにご回答申し上げております。なぜならば,その回答が当塾の信念だからです。―「信念」と述べるものの,「当たり前」のことなのですが…。―

「教員になりたいと〈本気〉で思った時が,教員採用試験の1か月前ならばどうなんだ!?」(a)
「受験されるのは当人様のご判断ですから。受験を躊躇されるようならば,来年,受験されたらどうですか?」

「例えば,高校1年生で教員になりたいと〈本気〉で思った。高校生から教員採用試験の勉強をするのか!?」(b)
「当塾は高校生でも学ぶことができます。当人様のご希望に合わせ,(学校での)勉強との均衡を図りながら,当塾で個別の指導計画を立て,立派な〈ホンモノの教員〉になっていただきます。大体,塾長は元高校教師です。その辺りの学習事情については百も承知です。」

つまり,「教員になりたいと〈本気〉で思った時」,特化して申し上げれば,「〈本気〉」の定義が明確になれば,「a」の質問にしても,「b」の質問にしてもすんなりと解決することなのです。では,その定義とは?

当塾に関する限り,「教員になりたいと〈本気〉で思った時」とは,

「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」

と思えるようになった時なのです。(本務者は当然のことですが,)例えば,大学(院)生が大学で教育学を学んでいても,(学校で勤務する)臨時的任用職(教)員や非常勤講師の方々が友人と「教育」の話題を交わしながら,一杯飲んでいても,発想/発言の原点に〈乳幼児・児童・生徒〉がある。何だかの「教育」的な事象が行政単位でも,個別でも生起する(動く)時には,まだ見ぬ乳幼児・児童・生徒の(想像される)顔(イメージ)が浮かぶ,少なくとも「乳幼児・児童・生徒」の文字が浮かぶ,あるいは,日常眼前に居る乳幼児・児童・生徒一人一人の顔が浮かぶ。

こうした心的状況に自然となれる時,それを(受験主体にとっての)「教員採用試験を〈本気〉で受験する時」というのだと思うのです。教員採用試験に向けての学習の開始時期なのです。

木製のテーブルの上に置かれたパソコン,付箋,ノート,筆入れ,ペンなどの筆記用具と観葉植物
テーブルと筆記用具(提供 photoAC)

(3) 「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」の教員採用候補者選考

このように述べてくると,必ず「綺麗事」との誹りを免れないのが,「エゴイズム(egoism)」が蔓延した世の常というものです。しかし,決して「綺麗事」ではありません。先述したことからもお分かりのように,「綺麗事」を口にする言述行為そのものが「エゴイズム(egoism)」の表象なのですから。しかも,教員採用試験は大学入試等の進学試験とは質的に異なるものなのですから。

極論すれば,進学試験は「自己(受験主体)」のためのものであり,教員採用試験は「自己(受験主体)」のためでもあるけれど,「他者(乳幼児・児童・生徒等)」のためのものなのです。確かに,資格試験などをクリアして「他者」のために(社会的に)役立とうとすれば,まずは進学試験を突破しないといけない場合があるわけですから,進学試験も間接的には「自己」及び「他者」のための試験と言えるでしょう。しかし,教員採用試験は「乳幼児・児童・生徒(他者)」に直面した試験なのです。合格→赴任となれば,眼前には乳幼児・児童・生徒がいるのです。

抑々,本サイト「BLOG「鍛地頭-tanjito-」」でも「教員採用試験」なる表現を採っていますが,それは人口に膾炙した言表であるから用いているだけのことであって,所謂「教員採用試験」は,正確には「教員採用候補者選考」と呼ぶのです。「教員として採用できる候補者」を「選考・・」するのが,所謂「教員採用試験」というものです。

せん‐こう〔‐カウ〕【選考/×銓衡】
[名](スル)能力・人柄などをよく調べて適格者を選び出すこと。「受賞者を―する」「書類―」

コトバンク:選考/銓衡(読み)センコウ,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館

したがって,所謂「教員採用試験」は受験テクニックを競う得点のための〈攻略ゲーム〉ではなく,教員としての資質・能力・人柄などを精査熟察し,それに相応しい「候補者」を選出する一つの(社会)システムなのです。

では,なぜ「試験」ではなく,「選考」なのか?

それは「試験」によって教員としての資質・能力・人柄などが不適格な者を採用すると飛んでもなく困ることが生起するからです。

では,「飛んでもなく困る」のは誰か?

それは,言わずもがな,まずは「乳幼児・児童・生徒」なのです。彼ら/彼女らの健全な成長を妨げるような人物を採用するわけにはいかないのです。

では,なぜ「言わずもがな,まずは「乳幼児・児童・生徒」 」なのか?

それは,教員としての第一条件は乳幼児・児童・生徒に向ける「熱き〈教育愛〉」だからです。「熱き〈教育愛〉」はペーパー試験の記述や得点だけで測れるものではありません。

教育愛 きょういくあい
educational love プラトンによれば,教師が生徒に対していだくべき愛情をさし,教師はこの愛に導かれて生徒をより高い真,善,美の世界に進めるべく努力する。このたゆまぬ努力こそが教育にほかならないとされる。つまり,人間の教育的行為の本質であり,原動力であって,教員養成の基本はこの教育愛の自覚と深化にあるとされるゆえんである。

コトバンク:教育愛(読み)きょういくあい(英語表記)educational love  ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,下線は筆者による。以下同様。

教育愛 きょういくあい Erzieherische Liebe ドイツ語
被教育者の成長可能性に向けられた教育者の人格的徳性の一つである。日常の教育活動において教育者は,被教育者の背信行為に幾度となく直面し,そのつど挫折(ざせつ)感にとらわれる。しかし教育活動はその本質において,そうした教育者の教育的・人格的挫折を契機として成立する。したがって教育者は,被教育者の背信行為をもって,被教育者に対する信頼を失ってはならない。むしろ自己の挫折の集積こそ教育活動をより実りあるものとする契機と受け止める必要がある。被教育者の成長可能性に自己を賭(か)けるという冒険的行為の繰り返しのなかに,教育愛とよばれる教育者の徳性が形成される。教育愛は,自己と他者に対する不動の信頼の念と挫折の可能性を予想して成立するものである。[田代尚弘]
『新堀通也著『教育愛の問題』(1971・福村出版)』

コトバンク:教育愛(読み)きょういくあい(英語表記)educational love 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説,出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

つまり,所謂「教員採用試験」のすぐ向こう側には「乳幼児・児童・生徒」がいるのです。所謂「教員採用試験」は強度の〈他者性〉に根付いています。「乳幼児・児童・生徒」の像(イメージ)が恒常的に脳裡に浮かぶようになった時,時を待たずして所謂「教員採用試験」の学習は(自ずと)始まります。「乳幼児・児童・生徒」に向ける〈教育愛〉が〈ホンモノ〉ならば,学習(≒対策)の時期を後伸ばしにするなど,到底考えられることではないのです。それが,例え,実の教育現場の未経験者でも。「乳幼児・児童・生徒と一緒に遊びたい/勉強したい/話したい/部活をしたい。」などという思いで十分ではないですか。〈本気〉ならば。

しかし,こうした展開で述べてくると,必ず終局的な質問が屹立してきます。

「教員採用試験は受験したいが,「乳幼児・児童・生徒」のことは全く脳裡に浮かばない。そういう場合は,受験してはいけないのか?」
(「何(誰)のために教職の道に進もうとするのですか? 目的は何ですか?」)

「教員採用試験の受験期から,そこまで「乳幼児・児童・生徒」のことを考える者はいないだろう。」
(「いいえ,います!!」)

乳幼児・児童・生徒の〈存在〉のないところに,教員の〈存在〉はないのです。

(4) 教員採用試験の〈ホンモノの学習法〉

ア 総合的な人間力と受験学力

「教員採用試験」ではなく,「教員採用候補者選考」が正式名称であることについては,先程触れたとおりです。ただし,ここでは人口に膾炙し,耳慣れた「教員採用試験」を使用して,ブログを書き進めます。

(ア) 例話3

私が担任をしていた頃の話です。元気で活発な生徒たちが,ほぼ毎日,何か(≒生徒指導上の問題行動)をやらかしてくれていた血気盛んな小規模の高等学校のことです。出張から帰校した私はすぐに自らのホームルームを覗きに行きました。掃除がきちんとできているかどうかを確認するためです。

生徒はもう誰も居残っていませんでした。

ホームルームの扉を勢い良く開け放った私は,思わず目に飛び込んできた光景にほくそ笑んでしまったのです。

  1. 生徒机が碁盤の目のように並んでいる。
  2. 黒板の溝が綺麗に拭かれ,チョークの粉はなく,黒板消しと長いチョークが整然と並べられている。
  3. 黒板は一点の曇りもなくてかっている。
  4. 床にゴミは一つも転がっていない。綺麗に掃いた跡がある。
  5. 全ての窓が施錠されている。

私はとにかく生徒たちと掃除することが大好きでした。生徒共々,私自身の〈心の塵〉を拭い落すためにも,掃除当番の生徒たちとの〈生の対話〉を営むためにも,「掃除大好き教員」だったのです。特に,トイレ掃除が好きでした。トイレは〈この世〉と〈あの世〉との分界としてのスピリチュアルな〈場〉です。不思議と生徒たちが心を開いて〈対話〉を営める〈場〉なのです。こうしたところにも学校掃除の意義があるのです。

ただ,ここで申し上げたいことは,日々の教員の姿が自然と生徒たちに投影しているということです。ミラーニューロンの影響でもあるのでしょうか?

「例話3」はそれを物語っています。「例話3」中の①~⑤は,教室を掃除する際の私の指導方針[1] … Continue readingでした。ですから,生徒たちと一緒に教室の掃除を行うときの完成形が①~⑤だったのです。やんちゃな生徒もそうでない生徒も,私が出張で校外に居ても,誰一人掃除をさぼることなく,完成形を再現していたのです。このように細かいところまで。

特に,生徒はものの考え方・見方が担任に似てくる傾向にあるように思います。

そうであるならば,先述したように,担任を初めとする教員の思考性が物心二元論(二項対立)を台座としていると,乳幼児・児童・生徒が必然的にそうなるのも理と言えそうです。また,教員が学生時代に〈受験ゲーム〉型の勉強法しか体得していなかったならば,授業そのものにそれは投影され,乳幼児・児童・生徒に転移すると考えることができます。そして,それは,大局的見地から,多くの場合,現実の様相です。

ただし,そうは述べるものの,現在の受験システム(=受験のパラダイム)が変転しないかぎり,それは明らかに〈新しい時代〉へのパラダイムシフトを意味していますが,受験主体からすれば,解放されようのない堅固な呪縛であることに相違ありません。

また,「受験学力」自体は全く否定できるものでもないでしょう。脳の訓練としての〈必要悪〉であり,「受験学力∈〈地頭力(=総合的な人間力)〉」は成立するものと考えます。

イ 学習のスタイル

(ア) 系統学習と問題解決学習との止揚(aufheben)

〈新しい時代〉が要請している〈教育〉とは何かを考究する際,教育史を蔑ろにすることはできません。そこで,日本の教育史を俯瞰・概括し,その視座を現代に据えると,そこには系統学習と問題解決学習とを止揚(aufheben)した学習スタイル(観)が浮き彫りとなります(参照:「20世紀の「知」の構造と教員採用試験」((1)-ウ-(ウ)-c))。それは既に始まっていることです。つまり,現状として教員に求められ,また教員が追究しなければならない学習スタイル(観)なのです。したがって,改訂学習指導要領もそのことを謳うのです。ただし,「コンプライアンスから述べれば,法的拘束力を有する新学習指導要領が謳うから,既述の学習スタイル(観)を追究しなければならないのだ。」とだけ考えるのならば,そこには〈乳幼児・児童・生徒の姿〉はなく,単にやらされ感があるだけです。社会構造をシステム思考で解きほぐそうとすれば,多岐にわたって絡まり合う繊維と突起物に圧倒されることでしょう。まるでニューロンからなる脳の神経回路のように。そして,一つの問題が複雑な有機的構造体であることが認識されることでしょう。しかも,それらを解決していくことが〈生の営み〉であることに気づくはずです。さらに,〈生の営み〉は「受験学力」だけでは成し得ない事実に打ちのめされることになるのです。それだけ問題は複雑多岐なのです。すなわち,問題を発見後,情報を収集・分析し,思考・判断を加えた上で,問題解決に挑む(表現・実践する)とともに,この過程を改善しながら継続的に営める能力と意欲とが必要であると思い知らされるのです。

このようにこれまでに解決を試みなかった難題に立ち向かう時流だからこそ,既に希求されている力が〈地頭力〉だと述べるのです。〈地頭力〉は現代を生きる万人に求められているものです。ということは,乳幼児・児童・生徒にも求められているわけです。教員を除く「人」にも求められているのです。当然,乳幼児・児童・生徒を教え導く〈教員(等)〉にも求められているわけで,寧ろ「求められている」という軽い言い回しではなく,必須条件としての資質・能力と言えるのです。お話するまでもなく,〈地頭力〉は「受験学力」だけをもって構造化されるものではありません。 そうであるからこそ,〈受験ゲーム〉のための受験スタイル(観)だけを身に付けるのでは,〈受験ゲーム〉で教員採用試験に臨む受験主体の〈地頭力〉だけではなく,乳幼児・児童・生徒に〈地頭力〉を養うことは不可能であると述べているのです。それでいながら,自らの教員採用試験における合格だけを「受験脳」で志向し,教壇に立とうとする態度は余りにも(乳幼児・児童・生徒等にとって)無責任ではないのかと申し上げたいのです。したがって,自我中心主義(≒エゴイズム(egoism) だと申し上げるのです。

このように考え進めると,一般的に述べて,系統学習(≒知識詰込み型の学習スタイル(観))と問題解決学習との二項対立を止揚(aufheben)する高次の学習スタイル(観)が必要になることがお分かりになると思います。それは,端的・簡略的に述べれば,探究を基調とする学習スタイル(観)を指します。換言すれば,教員の場合,教育研究を自力でできることが必須の資質・能力と言えるのです。ただし,自らの体験により,その能力は大学での卒業論文程度のものではなく,少なくとも修士以上の力量が必要であると考えます。

しかしながら,現行の教員採用試験が「場面指導」を加味した「面接試験」重視などの人物評価選考にパラダイムシフトしつつあるとは言え,確かに依然として〈受験ゲーム〉の土台にある以上,一挙に選考のための受験スタイル(観)を探究型に改善することには無理があろうかと思います。そうであるならば,例えば,教職教養に関する一問一答式の問題集を熟しながら,それら一題一題の出題内容にそぐう学校現場の〈教育事象〉を採り上げた〈生きた教材〉を加味し,受験主体が〈生きた教材〉の提供する課題を解決すべく,自らの思考・判断・表現に磨きを掛ける営為を営むことによって,問題集やその解答で得た知識を学校現場で活用できる〈知識〉として吸収するといった工夫も考えられるのです。そして,このような学習スタイル(観)こそが当塾のそれでもあるわけです。

なお,先程,「難題に立ち向かう時流」と述べました。無論,そのことは来たる本格的なAI時代を意識してのことなのです。

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」
(2019.10.脱稿)

追記

上述のたどたどしいブログを認めて半年以上が経過しました。その間,本ブログは熟成を待っていました。それは上述のブログを認めている段階で,既にある新たな〈学び〉が並行して行われていたからです。

その〈学び〉は,次に述べる素朴な疑問から始まっていました。

「教採対策の世界はなぜ「教育原理」,「西洋教育史」,「日本教育史」,「教育心理」及び「教育法規」等の領域に分けて学習を進めるのか? 教育原理対策講座(添削指導),西洋教育史対策講座(添削指導),日本教育史対策講座(添削指導),教育心理対策講座(添削指導),将又,教育法規対策講座(添削指導)などなど…。」

これでは受験主体に真の即戦力・実践力が付くはずがないのです。〈ホンモノの学習法〉ではないのです。その左證にそれぞれの領域を学習して得た知識を統合化できない受験主体がわんさかいるのです。これでは学校現場で現実に生起する複雑化・難化した教育事象に対峙することはできません。問題解決どころではないのです。

本文においても申し上げましたが,一つの教育事象(問題)は複雑化・難化した種々の要因が絡み合う三次元の有機的な構造体です。一人ひとりの児童生徒が抱える問題もそうです。しかも,現代,その複雑化・難化の度合いは過去に比して増しています。その構造体を多角的・多面的・総合的に捉えるための尽力が教職員に求められているわけです。

「教育原理」,「西洋教育史」,「日本教育史」…などと領域を分化するだけの「学び」の思考性は,デカルト(17世紀)以来の「知」の在り方を踏襲しているのでしょう。現代の学問の方法が示しているように,一つの事象(全体)を必要に応じて分化・分析しながらも,それが有機的な機能を有する全体であるからこそ,全般的な方向性として多視点に基づいて全体をまるごと捉える総合的な手法を用いた考察が必要とされているのです(システム思考)。分析から総合へ。教採の「学び」のパラダイムはそうした新たな〈学び〉へと確実にシフトしていかなければならないのです。

当塾は早くからそのような新たな〈学び〉を営んでいました。

  1. 当塾が出題する教育事象について個人で考察することにより,それについて「自己の内なる他者」と「対話」する。:総合的な手法を身に付ける練習
  2. ①の教育事象について他の受講者や当塾のスタッフと「対話」することにより,一層多面的・多角的・総合的に考察する。:総合的な手法の深化
  3. 他の受講者や当塾のスタッフとの「対話」後,①の教育事象について,再度「自己の内なる他者」と〈対話〉する。:総合的な手法のさらなる深化
  4. ①の教育事象及び他の受講者や当塾のスタッフ等(「他者」)との「対話」などから得た知識(情報)に基づいて,それらに関連する問題を市販の問題集等から見出し,解く。:知識(情報)の整理・体系化
  5. ①の教育事象に関する〈学力〉の定着

当塾の〈学びの方法〉を受講者様を主体に略述すると,上記①~⑤のようになります。

こうした新たな〈学び〉を体験された受講者様は次のように仰います。

  • 一つの教育事象を様々な角度から考察できるので学びが楽しい。
  • 洗濯をしていても出題となった教育事象を考えることができる。問題集の問題を解く場合は,そうはいかない。[2]問題集を広げ,机に向かっていなくても,例えば家事(洗濯)をこなしている時に当塾が出題したテーマについて考えることができるの意。
  • 一つの教育事象にこれほどたくさんの要素が絡んでいるとは思わなかった。
  • 一つの教育事象を多視点から見ようとする態度が養えた。
  • 問題集の問題だけを解いていた頃は,解答(術語)を覚え,理解できないところはそのまま放置する状態だった。しかし,「鍛地頭-tanjito-」の〈学びの方法〉を採り入れて以来,一つの教育事象を成り立たせるシステムそのものを理解できることから,問題集の解答・解説についての理解が深まった。
  • 「鍛地頭-tanjito-」の〈学びの方法〉を採り入れて以来,問題集の問題の正答率が上がった。
  • 「鍛地頭-tanjito-」の〈学びの方法〉を採り入れて以来,確実に底力が着いていると実感している。
  • 「鍛地頭-tanjito-」の〈学びの方法〉は教職教養だけではなく,一般教養の対策にも応用できた。その〈学びの方法〉を採り入れて以来,解らず放置していた一般教養の問題がいつの間にやら解けるようになっていた。

従来の問題集の問題を解いて,予備知識や疑問等を持ちながら,当塾の出題する一つの教育事象を考察するのも一方法であり,必要に応じて分析的手法を持ちながら,総合的な手法による〈学び〉を確立していけば,〈学び〉そのものが楽しく,学校現場においての即戦力・実践力を確と身に付けることができるのです。

上掲の受講者様のご感想は,その一端を物語ってくださっているのだと思います。

© 2020 「鍛地頭-tanjito-」
(2020.5.16 追記)


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