1 ジャッキー・チェン氏の苦言と学校教育との相関を〈相対化〉する
今年,新年を迎えたばかりの頃だった。ふと,あるネット記事が気になった。
「ジャッキー・チェンが若手俳優に苦言「腹が立つ」」(BIGLOBEニュース,1月4日(火)14時40分 Record China,翻訳・編集/川尻)
何が気になったのか?
勿論,記事の内容が気になったことは事実である。記事中の映画業界,「若手俳優」及び「自分自身が感謝をする時」を学校教育界,「数多くの教職員」及び「乳幼児・児童・生徒及び保護者等が感謝する時」と読み替えれば,記事中の作品世界を語る「語り手の欲望」と読み替え後に加工・再構築される作品世界の〈語り手の欲望〉とは通底するからだ。そういう〈読み〉もあるだろう。ただし,学校教育界の諸教育活動において乳幼児・児童・生徒及び保護者等に感謝されることそのものを目的とする言説化は誤りだ。
そのようなことよりも,さらに気になったことがあったのである。この記事中のジャッキー・チェン氏の発言に賛否両論が噴出していることだ。このことは,「若手俳優が誰か」を問題とした,所謂巷間の言述「犯人探し」にかかわっての賛否を指して述べているのではない[1] … Continue reading。――同氏の発言に対しては,例えば,「役者の事故や怪我を避けるために,近年,急速な発展を遂げているCGを積極的に導入すべきである。」などとする反論があり,それは一例に過ぎないが,――同氏の所謂役者魂言説と事故防止のCG言説との対立(だけ)の構造(二項対立)を指して述べているのである[2] … Continue reading。
この構造,何やら学校教育界と似通っていないか? 確かに二項対立は,17世紀以来,人間(自我)中心主義の産物として世界中の数多くの文化圏における思考の台座となっているから,何も日本の学校教育界だけの話ではない。そうではあるが,学校に勤務歴のある読者ならば,その脳裡には二項のそれぞれに,それこそ多種多様な学校現場での事象(一場面,一場面)が乗っかかってくるのではないだろうか? 枚挙に遑がないほどに。
だからこそ,「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)」(中央教育審議会,令和3年1月26日)は強かに繰り返すのだ。例えば,次の指摘だ。
○ さらに,一斉授業か個別学習か,履修主義か修得主義か,デジタルかアナログか,遠隔・オンラインか対面・オフラインかといった,いわゆる「二項対立」の陥穽に陥らないことに留意すべきである。どちらかだけを選ぶのではなく,教育の質の向上のために,発達の段階や学習場面等により,どちらの良さも適切に組み合わせて生かしていくという考え方に立つべきである。
p.23
○ その一方で,ICT を活用すること自体が目的化してしまわないよう,十分に留意することが必要である。直面する課題を解決し,あるべき学校教育を実現するためのツールとして,いわゆる「二項対立」の陥穽に陥ることのないよう,ICT をこれまでの実践と最適に組み合わせて有効に活用する,という姿勢で臨むべきである。
p.30
「「二項対立」の陥穽」の呪縛から解放されていなければ,「所謂役者魂言説と事故防止のCG言説との対立(だけ)の構造(二項対立)」とは異なった内実を持つ構造のように読める答申の言述である。しかし,超克しなければならない構造は同一である。そう,二項が対立するだけの構造である。テーゼとアンチテーゼだけの世界である。右か左か。左か右か。二項を止揚(Aufheben)し統合するジンテーゼ((文化的,教育的など)高次のステージ)がないのである。
したがって,答申は「どちらかだけを選ぶのではなく,教育の質の向上のために,発達の段階や学習場面等により,どちらの良さも適切に組み合わせて生かしていくという考え方に立つべきである」や「ICT をこれまでの実践と最適に組み合わせて有効に活用する,という姿勢で臨むべきである」とジンテーゼを希求しようとするのである[3]「組み合わせ」ではなかろう。単なる二次元的な足し算ではいけない。せめて「統合」だろう。。
○ このような取組を含め,憲法第 14 条及び第 26 条,教育基本法第4条の規定に基づく教育の機会均等を真の意味で実現していくことが必要である。なお,ここでいう機会均等とは,教育水準を下げる方向での均等を図るものではなく,教育水準を上げる方向で均等を実現すべきであることは言うまでもない。
p.24
○ 例えば,新型コロナウイルス感染症による学校の臨時休業期間において,一部では「全ての家庭に ICT 環境が整っていないので,学びの保障のために ICT は活用しない」という判断がなされたという事例や,域内の一部の学校が ICT を活用した取組を実施しようとしても他の学校が対応できない場合には,域内全体として ICT の活用を控えてしまった事例もあるが,このように消極的な配慮ではなく,「ICT 環境が整っている家庭を対象にまず実施し,そうでない家庭をどう支援するか考える」という積極的な配慮を行うといったように,教育水準の向上に向けた機会均等であるべきである。
pp.24-25
つまり,「二項対立」によって「教育水準を下げる方向」での低次化は許されないのである。「教育水準の向上に向けた」高次化した発想・実践が必要なのである。なぜならば,全ての乳幼児・児童・生徒に〈学力〉[4] … Continue readingを付けなければならないからだ。
「所謂役者魂言説と事故防止のCG言説との対立(だけ)の構造(二項対立)」が止揚(Aufheben)・超克されるとき,(飽くまでも記事中の)映画業界もさらなる高次の世界への展望を開くのだろう。
漸く話を元に戻そう。何が気になるのか?
VUCAな時代を超克する(学習者及び教職員,引いては万人の)真正の〈学力〉を形成するため,日本中の学校に止揚(Aufheben)する意気込みとその思考,そしてそれを体現する実践力・指導力及び自らの〈学力〉を持つ教職員がどれだけいるのか,ということである。右と思えば右だけ。左と思えば左だけ。右も左も分からない/何も思わない。挙句の果てには,地位や名誉に囚われ/執拗く自身のラクトク(楽得)を追い求め,大切にするのは自分だけ。もうそのようなエゴイズム・ナルシシズム丸出しの不毛な教職員は必要のない時代を迎えているのである。
そう思うと,無性に,矢鱈と気に懸かって仕方ないのである。
現代の教職員に求められる真正の資質・能力は〈(不二の)利他性〉に他ならない。だから,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」なのだ。学校教育界の二項対立を超克する地平には,まずは乳幼児・児童・生徒の存在がなければならない。換言すれば,トランスモダンの発想,それを教育活動に具現化する〈能力(学力)〉がないところで,〈新しい時代〉の〈新しい教育〉を担う〈ホンモノの教職員〉は確実に存在しないということだ。〈(不二の)利他性〉に根付く〈(〈相対化能力〉を含んだ主体的な)対話力〉が止揚(Aufheben)を支える限り,それらに欠損する教職員は学習者,そして自らの〈学びの責任〉を果たすことができないのである。
このように考えてくると,現状としてなぜ「主体的・対話的で深い学び」(ルビは稿者)が声高に叫ばれるのか,その理由が解るはずである。「主体的・対話的で深い学び」は,まずは教職員に求められる〈学び〉である。
2 作品(教材)と〈正対〉する
二人の弟子
『私たちの道徳 中学校』(文部科学省作成教材,pp.126-130)
(1) はじめに
今回も前回から引き続き,「語りの構造読み」を用いて,〈作品の生命〉に迫ってみたい。(読み手=授業者が)作品と〈正対〉し,つまり,作品と〈対話〉する行為の結果が基底を成すことによって,初めてコクとキレのある〈教材化〉が可能となる。「語りの構造読み」を用いて,〈作品の生命〉に迫る教育的な意義はそこにある。学習者の発達段階によっては,授業そのものが意図的・計画的に〈作品の生命〉に辿り着かない場合があるだろう。それでも,授業者が教材研究の前段階として〈作品の生命〉に辿り着こうと足掻いておかなければ,授業はコクとキレを生ぜず,ただ流しただけの皮相の授業となる。学習者を冒瀆してはならない。
今回採り上げる作品は「二人の弟子」である。紙幅の関係上,作品の本文は省略する。
今回は,本作品を一読した後に,自らのOneNoteに書き付けたメモを,臆面もなく披瀝したい。いつもの本ブログ教材の他のコーナーのように,つれづれなるままに書き付けたメモであるため,それらの配列に際しても,表現においても,何ら加工を施していない。したがって,メモの内容の中には,今後,再考を必要とするものが混ざっているかもしれない。また,単なる感想もある。予めありのままであることをお断りしておく。
塾長註:ここに採り上げる本作品における語り手の欲望は,本作品を単品として読んで摑めるものではない。同時代・同ジャンルの他の作品群や同一作者の他の作品群との位相等,その言語宇宙を旅して初めて摑めるものである。したがって,以下の記述は前述する言語宇宙の旅に出る前の〈読み〉であることをお断りしておきたい。
(2) 作品の「語り」と〈語り〉について
本作品の語り手はかなりの語り上手である。読み手の心中にそっと忍び込み,閾下刺激(subliminal stimulus)を与え,ハートを摑む手練の〈語り〉を頻繁に繰り出してくる。それは読み手を〈作品の生命〉に誘うための連綿とつながり合う微動のような〈語り〉である。そのために,つい読み飛ばしてしまいそうになる。
だが,ここでは,それには触れない。主に構造的に大胆に語られる「語り」と小道具の「語り」に注視したい。
[次の付箋中の記号について]
- 【読】…「語りの構造読み」にかかわる言述
- 【感】…塾長の単なる感想
- 【指】…指導(授業実践)にかかわる塾長のつぶやき
【読】語り手の欲望を〈読む〉鍵は,登場人物名にある!
- 「智行」及び「道信」(二人の名前)が語るものを読み取れ。
- (二人の名前を語る)〈語り〉の地平の終着点はただ一つ。
- 「智行」,「道信」を語るそれぞれの語りは対照的な「語り」に読めて,それはある意味〈騙り〉であり,〈共通性〉を持つ「二人の弟子」を語る〈語り〉(A)であるととともに,〈●●〉[5]何が入るか? 本ブログ教材の読み手に考えていただきたい。とを語る〈語り〉(B)であって,(A)と(B)との〈語り〉が対照性を持つ《語り》となっている。
- しかし,その対照性は作品構造の一部であり,本作品はある姿[6]ここが肝心である。「ある姿」とは? 本作品から読み取っていただきたい。に係る止揚の前後を焼き付けた全体構造を持っている。
【感】人間も経年変化を起こす(笑) この作品は時間軸に沿った人生の節目・節目において読み返せば,その都度,異なって味わえるのだろうなあと思う。本来は長い人生の時間を掛けて,棺桶が見えてきたくらいに,初めて〈作品の生命〉に辿り着ける(かもしれない)逸品だ。
【感】数多くの読み手は自らに染み付いた二項対立の図式から「智行>道信」と読んでしまうのではないだろうか? 「善>悪」の構図のように思えるだろうからなあ。仮にそうではないと頭では理解(読解)していても,読後感は「智行>道信」ではないだろうか? そういう土俵に上がれば,自分の場合,「智行<道信」だよな。でも,語り手はそう語っていない。どちらにおいてもそう語っていないんだ。
【読】「智行」・「道信」の言動を語る「語り」から人間として気高く生きる姿勢を読み取ることができるか? それは「フキノトウ」と「白百合」との連関から生じる読みだろうが…。語り手は「フキノトウ」と「白百合」とを「気高さ」の暗喩としては語っていない。「気高さ」と読むならば,それは人間中心主義が根底にある。
【読】「フキノトウ」は絶対に「フキノトウ」でなければならない。「ゼンマイ」や「シダ」で代替できない。なぜならば,「道信」が本山を出奔した後,「フキノトウ」に邂逅するまでの語りは,単に人間的に堕落した「道信」の肉体的な「生(蘇生)/死」に収斂していないからだ。この語りを「語る」語り手の欲望は「フキノトウ」に昇華し,「フキノトウ」に凝縮されたその欲望は「フキノトウ」の象徴性と相俟って作品世界全体と擦り重ねられることにより,読み手の現前に険峻となって屹立しているからだ。その左證は「道信」(という名前)にある。
【読】「フキノトウ」,「白百合」,「雪」,「月」,「池の水のきらめき」及び「涙」は,「フキノトウ」,「白百合」,「雪」,「月」,「池の水のきらめき」及び「涙」でなければならない。例えば,「お月さまと コロ」(文部科学省作成教材,小学校1・2年生)で「月」は「コロ」の「●●●●●」[7]読者においてお考えください。であった。「コロ」の「涙」は「カタルシスの涙」とも言える。そうであるならば,「智行」の「涙」は…。
【指】自らの弱さを克服して生きていこうとする態度を養う。→自分の弱さは何か。→どう克服するか。 👈このような教訓的な指導では作品が,将又,授業が泣いてしまう。ただし,発達段階は考慮せねばならぬ。
【指】「智行」を中心に読むとか,「道信」を中心に読むとか,そのような読み方をしていては,〈作品の生命〉に迫れない。「智行」と「道信」とは一体的なものであり,(コインの)表裏の関係にある。
【指】「道信」の仲間への恩返し,これに重点を置く指導(授業)…そんなのあり得ない!
【読・指】人間(その人)の強さ/弱さの「強さ」や「弱さ」は人間のつくった価値(観)によるもの→「智行」や「道信」はその「強さ」や「弱さ」を超克した境地を目指しているのである(ホンモノの仏道修行を行う途に就いたのだから)。〈自己内対話〉を繰り返して,それに二人は気づき,(登場人物としての,また,徳ある僧としての)上人へと近接していくのである。それだけ人間は「気高い」のではなく,〈泥臭い存在〉なのである。(だから,「修行」するのだ。人間中心主義からすれば「気高い」のだろう。)世俗の価値を超克し〈懸命〉に生きていかなければならない存在なのだ。しかし,その段階に至るまでには,悲しい哉,強さ/弱さの葛藤(迷い)の中で生を刻み続けていくしかない。苦しみ悶えるしかない。だが,それも〈懸命〉に生きていくがための「懸命」な足掻きなのである。(本作品において,中学生を学習対象とする場合,下線部を授業化するのが関の山だろう。)
【感】本作品(教材)は,本作品(教材)を丸ごとありのままに使用する場合,道徳の授業がねらいとする道徳的価値に基づいて学習者に自己省察させ,次なる新たなステージに踏み出させる(≒〈相対化〉)には,あまりにも高次であり,中学生を学習対象者とする道徳の授業自体が耐え得るものではない。
【読・感】本話は『宇治拾遺物語』に収録された仏教説話とは異なる角度の〈語り〉を持つ。その角度が狂えば誤読する。だから,もう一度,その角度を測ってみよう。
3 近頃の「鍛地頭-tanjito-」
合格道場
タイトル:「コスモス」と「教育」
猛暑を終え,ようやく涼しくなってきた頃に控えめに咲く可憐な花の姿に「教育は国家百年の大計」という謂れが重なる。教育という大事業の成果と恩恵はすぐに現れはしない。現れたとしても期待に比べ控えめなものである。しかしコスモス同様へし折られても枯れない強い生命力を持っている。成功した教育の成果と恩恵。それは控えめながらも国難に耐え,混乱の後,国を再生してくれる賢い国民達である。(by H先生)
「合格道場」の科目(セクション)に「言語(運用)能力」がある。その主目的は,文字どおり,塾生(教員及び教員を目指す者)の言語(運用)能力の育成にある。さらに,現代の教育を俯瞰し(振り返り),未来の教育を見通すことも,目的の一つだ。
上記のエッセイのタイトルは「「コスモス」と「教育」」。当私塾が必ず塾生に課すてっぱんのオリジナル演習課題[8]タイトルを踏まえ,自由に論述する課題。制限字数は200字。だ。塾生が綴る解答文は度重なる塾長の添削を受けた後,リモート「対面指導」[9] … Continue readingの俎上に載せられる。解答文の内容について「塾生ー塾長」間で「対話」を持つためだ。「対話」の中で言語(運用)能力の一端が磨かれる。そして,塾生は(特に,本課題の場合には,)「令和の日本型学校教育(答申)」の底流にある基本的・哲学的な知見について自ずと理解することになる。
上記のエッセイは,合計10回程度の受講で教員採用候補者選考に見事に合格され,その後も当私塾で学び続けておられるH先生の手になるものである。原文のまま掲載した。
2年程前,ある方からご相談のあった話が胸中にこびり付いて離れない。
とある小学校。課題を抱える児童への指導方針・指導方法を検討する中での出来事。
ベテランの教員:●●の方針で,○○の方法をもって当該児童を指導しよう。この案を管理職に相談してみようじゃないか。
20代の教員:その案って,速攻,効くんッすカ?
ベテランの教員:即効性のあるものではない。教育というものは…
20代の教員:あっ,速攻,効かないのなら,僕,やらないッす。時間とエネルギーの無駄ッす。
ホントウに教員なのか!!
上記のエッセイの背後に,VUCAな時代の混沌(カオス),混迷する赤裸々な教育界の実相を見る。だが,混沌(カオス)は新たな何かの胎動であり,胎動は人間の強い生のエネルギーを源泉とする。それは混沌(カオス)を秩序(コスモス)と化す。そう,パラダイムはシフトする。秩序(コスモス)は調和[10]「秋桜(コスモス)」の花言葉の一つ。であり,調和はつながり[11]学習指導要領(解説)の基底を成すキーワード(概念)である。である。人間は二元論の呪縛から漸く解放される[12]「令和の日本型学校教育(答申)」にも「いわゆる「二項対立」の陥穽に陥らないことに留意すべきである」(p.23)とある。。他者とつながることによって[13]現代の教育は「協働(性)」を求めている。。「へし折られても枯れない強い生命力」を宿す「控えめに咲く可憐な(一輪の[14]H先生のイメージは「一輪の秋桜(コスモス)」であった。)花の姿」に「教育」という名の壮大なコスモロジー(宇宙論)を見る。
広島県公立高等学校入試
Iさん,合格おめでとう!!
「鍛地頭-tanjito-」第1号
© 2022 「鍛地頭-tanjito-」
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