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学習規律の確立には学習者の内発的動機づけが肝心!!

インディゴカラーの布地の上に置かれたシルバーに光る「RULE」の大文字 「鍛地頭-tanjito-」の〈教員採用試験論〉
ルール(提供 photoAC)
この記事は約17分で読めます。

教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。

そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。

〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造

日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。


註:本ブログは教育に関心をお持ちの方にもお読みいただくため,内容の平易さ及び文字数(当塾比)にも配慮いたしております。

追記一覧
  • 「0 プロローグ」の②「授業=生徒指導」(下線部)に脚注を追記しました。(2019.10.5)

0 プロローグ

  1. 本ブログは「鍛地頭-tanjito-」の教育論(実践編)の第2弾です。
  2. 本ブログの主たるねらいは次のとおりです。「教員は授業で勝負する」「授業は教員の命」とよく言われます。ただし,これらの言表・言述行為を誤解してはいけません。「授業=教科指導力」のみとする固定観念に囚われていると,これらの言表は学習指導だけに精通する教員がプロ,もしくは〈ホンモノの教員〉と〈語っている/騙っている〉ように聞こえます。しかし,決してそうではありません。無論,教科指導力は然ることながら,教員自身の教科学力も必要です。しかし,学習規律を守らせる生徒指導力も必要なのです。「授業=生徒指導」[1] … Continue readingも成り立つのです。しかも,この「生徒指導力」は「外発的動機づけ」に発揮される指導力のみを意味しているわけでもありません。本ブログではこのような誤解を解くことが大きなねらいとなります。
  3. 本ブログは,当塾の他のブログ(ブロンブン[2] … Continue reading)とは異なった筆致及び体裁で記述してあります。それは,教育関係者及び教員採用候補者選考の受験主体だけではなく,それ以外の広く教育に関心をお持ちの読者を対象としているためです。なお,通常,当実践編はショートブログの体裁を取りますが,今回は内容上ロングバージョンで仕立ててあります。

アザーブルー(azure blue)の地に置かれたゴールドの「KEYWORD」の文字。その周囲を取り囲むように無造作に置かれた各種のローマ字。
KEYWORD(提供 photoAC)

1 キーワードの定義

本ブログで使用するキーワードの定義を記述します。

キーワードの定義一覧
キーワード 定   義
学習規律 学習規律とは,学び合いわかり合うことに価値をおく学習観を共有し,
共同的な関係をつくりながら学習に意識的に参加する意識及び行動のことで
ある。
『〈重要用語300基礎知識 2巻〉授業研究重要用語300の基礎知識』
(恒吉宏典・深澤広明編集,明治図書,1999.8,8 学習規律,p.137)…A
内発的動機づけ
(intrinsic motivation)

外的に与えられる賞や罰を必要とすることなく,行動の実行それ自体に
動機づけられることをいう。
『〈重要用語300基礎知識 20巻〉教育相談重要用語300の基礎知識』
(小川内哲生,鑪幹八郎,一丸藤太郎,鈴木康之編集,明治図書,1999.8,p.117)…B

外発的動機づけ
(extrinsic motivation)
自分の外側からの刺激によって意欲を引き出すこと。 成果に対する評価や
報酬,あるいは称賛や罰則などがこれにあたる。
コトバンク:外発的動機づけ(読み)がいはつてきどうきづけ
;外発的動機づけ,ナビゲート ビジネス基本用語集の解説,出典 ナビゲート
学  力 前項の場合においては,生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,
基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して
課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力を
はぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに,
特に意を用いなければならない。
学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号),
施行日:平成31年4月1日,最終更新:平成30年6月1日公布(平成30年法律第39号)改正

【教員採用候補者選考の受験者へ】
学校教育法第30条第2項は法が「学力」を規定した嚆矢[3]「最初」の意。として有名な条文です。新学習指導要領の根拠となる条文と言えます。条文の丸暗記や虫食い問題対策だけで,同条文が示す理念を理解することは困難です。条文の構造や条文が成立した教育史的な背景並びに新学習指導要領の改訂に込められた思い,目指す「学び」などを整理しておきましょう。

黄色のバーをクリックしてください。

【「学校教育法」とは】

「学校教育法は,我が国の教育課程の根幹である学校制度の基本を定める法律で,日本国憲法,教育基本法に示されている教育理念を具体的に法制化しています。」(『【改訂版】教育法規[解体新書] 速解! 校務に役立つ知識とトラブル対処法』(佐藤晴雄監修,学校運営実務研究会編集,東洋館出版社,平成21年7月,p.062/なお,本書には『新・教育法規 解体新書 ポータブル  校務に役立つ知識とトラブル対処法 』(佐藤晴雄監修,学校運営実務研究会編集,東洋館出版社,2014(平成26)年6月 )があります。)

【「学校教育法第30条第2項」の構造】

同条文の3層構造は新学習指導要領の3つの柱に相応しています。

〔学校教育法第30条第2項〕

  1. 基礎的な知識及び技能の習得
  2. 基礎的な知識及び技能を活用した課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力の育成
  3. 主体的に学習に取り組む態度の育成

〔新学習指導要領の3つの柱〕

  1. 実際の社会や社会の中で生きて働く「知識及び技能」
  2. 未知の状況にも対応できる「思考力,判断力,表現力等」
  3. 学んだことを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力,人間力等」

【法の読み方と新学習指導要領】

学校教育法第30条第2項の条文の述語に「特に意を用いなければならない。 」とあります。「~(する)ものとする」と比較すると,次のようなことが分かります。

~しなければならない法的拘束性を有する義務規定
~(する)ものとする義務ではあるが,違法行為に相当するという性格の定めではない。

ご存知のように,学習指導要領に罰則規定はありませんが,「学校教育法」の規定をうけて「学校教育法施行規則」で定められており,学習指導要領は法的拘束力を有すると解されます。(【参考】永山中学校事件最高裁判決(昭和51年5月21日)伝習館高校事件最高裁判決(平成2年1月18日))したがって,新学習指導要領の3つの柱は法的拘束性を有する(「~(する)ものとする」よりは拘束性の強い)義務規定と考えられます。

広島県呉市グリーンヒル郷原の四つ葉のクローバー
四つ葉のクローバー(撮影者 小桝雅典 於 広島県呉市 グリーンヒル郷原 2019.5.29)

2 日常的な生徒指導と連動する学習規律の確立

(1) 〈教育愛〉に乏しく生徒指導力の低い教員の授業が荒れた

具体的な事例のないところで,見出しのように記述すると,一般化・普遍化した「事実(原理)」として誤解を受けることが想定されるので,ここでは筆者の実体験であることを明言しておきます。飽くまでも,筆者の体験であり,感想であるわけです。

筆者が若かりし頃のことで,男女を問わず,元気な生徒が数多く在籍していた高等学校でのお話です。

授業中に教員が生徒を指導する大声や生徒の教員に対する怒声が聞こえる度,筆者はその教室によく駆け付けたものでした。また,筆者はよく授業中の校内を巡回したものです。その折,例えば,教員が独りで黒板に向かって語り掛け授業を進めている。それでいて,生徒たちは教室内外を立ち歩いたり,座っていても大きな声で雑談をしていたり,花札に興じていたり。このような凄まじい光景に何度も出くわしました。授業が成立していないのです。

そうした教員にはある共通の特徴がありました。

生徒に対する〈教育愛(educational love)〉[4] … Continue readingに乏しく,授業外の生活規律の指導を十分に行わない(≒そういう意味で,生徒指導力が低い)。

「〈教育愛〉」の充足度や生活規律の指導の度合いなど客観的に測定できるものではないのですから,「乏しく」及び「十分に行わない」は筆者の主観でしかありません。また,授業が成立しない原因は,その他にも考えられるところです。だから,先述したように,「実体験」として語っているのです。筆者が自己内で実際に感じた〈出来事〉なのですから。

先日,いつものように40歳を少し過ぎた教え子たち数人と繁華街で呑んでいたときのことです。上述した賑やかだったクラスの教え子たちです。

教え子A:「(一般に)私たちのためにと真剣に親身になって指導してくれる先生と,そうでない先生との区別くらい,すぐにわかるんよ。生徒というものはそういうもんじゃろう。」
教え子B:「(当時は,)真剣に親身になって指導してくれていても,その先生をウザイと思っていたけど,…ねえ~,先生(筆者のこと)~…(笑)…でも,今になってみれば,ありがたいんよね~。」
教え子C:「(授業が荒れた一教員を指して,)あの先生は自分のために(生徒を)怒っていた(指導していた)よね。他の先生の手前という感じ。」
教え子D:「授業の時だけ怒っても(指導しても)ダメなんよね~。授業以外の場面でもちゃんと怒らないとね。授業の中だけで怒っても聞こうという気がしない。自分(授業が荒れた教員)がスムーズに授業を進めたいだけじゃん。」
教え子B:「じゃけんねえ,先生(筆者のこと),あの先生(授業が荒れた教員)の授業の時には,みんなで暴れちゃろうって相談しとったんよ。(笑)」
筆者:「…………。」

彼ら/彼女らの話は当たり前と言えば当たり前のことです。いえいえ,勿論,授業中に暴れることを肯定していません。教員に対する見方のことです。

例えば,カッターシャツの裾をズボン/スカートからだらしなく垂らした生徒に,「カッターシャツの裾をズボン/スカートの内側にきちんと入れなさい。」などと指導する。常日頃,同じ格好の生徒に対して分け隔てなく,理由を説明しながら,丁寧に粘り強く,しかも毅然とした態度で指導を繰り返していれば,授業だけではなく,いつでも,どこでも,目が合うだけで,シャツの裾をきちんとズボン/スカートの内側に入れるようになるのです。―― 丁寧に粘り強く,しかも毅然とした態度で指導を繰り返していて,「目が合わなくても,いつでもシャツの裾をズボン/スカートの内側に入れている」状態にはならないのかと思われる節もあるでしょうね。「シャツの裾出し禁止」が学校のルール(規律)[5] … Continue readingでありながら,仮に2,3人の教員だけが熱心に指導したとしても,他の教員が指導しなければ,シャツ出しをする生徒はするわけです。しかし,熱心に指導する教員の姿を見ると,さっとシャツを整える。望ましくない光景が展開するのです。統一のない指導が人を見て態度を決める生徒をつくっていくのです。――だからこそ,学校組織として,全教職員が指導目標・指導方針等を共通理解した上で毅然とした丁寧で粘り強い指導を行うことが大切になるわけです。そうした指導の下では,シャツの裾出しをする生徒はいなくなり,その指導は(全教職員による共通理解がない時の指導よりも短期に)完結するのです。

ですが,服装指導だけではなく,指導全般において,数多くの学校で組織的な指導ができていない現状があります。とても残念です。なぜならば,「とにかく児童生徒を良くしたい。」と渇望する〈教育愛〉に満ちた〈ホンモノの教員〉が圧倒的に寡少だからです。「熱心に指導して何になる。」「熱心に指導する奴にさせておけば良い。俺は/私は大義~。」「俺は/私は給料を稼いでいれば良い。」

「生徒を指導するのが面倒臭いって思ようるんじゃろうが!! この給料泥棒が!!」

このように叫んだ生徒も,現実にいましたね。

おっと,話が大幅に脱線しそうですから,思い切り本論に戻します。

要するに,筆者の経験から考えてみると,「学習規律の確立は,溢れる〈教育愛〉及び日常的な生徒指導と連動している。」ということです。

(2) よりよく協働することができる資質・能力の育成と学習規律

授業における学習規律として,始業・終業時のあいさつ,発言の仕方及びグループ討議等の話し合いの仕方などは一般的な事例です。ただし,これらの学習規律も前節で既述したように,授業内だけの指導では奏功しないと言えます。

例えば,普段,児童生徒が職員室に入室する時のあいさつや先生方への発言の指導,休憩時間に交わす「児童生徒―児童生徒」間,「児童生徒―教職員」間,又は学校行事等で交わす「地域住民―児童生徒」間等の「対話」におけるマナー指導なども,学習規律の確立に多大な影響を及ぼします。

さらに,学級(ホームルーム)活動を基軸とした特別活動(児童・生徒会活動,クラブ活動,学校行事)や部活動などで,「自立した人間として他者とよりよく協働することができる資質・能力[6]『小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 特別活動編 平成29年7月』(第2章 特別活動の目標,第 2 … Continue readingを身に付けさせ,そのために「寛容さをもち,自己と他者を同時に尊重しながら,異なる意見や考え方をもとに新たな価値を創造的に生み出す力[7]前掲書a,p.26を磨いていくことが肝心です。なぜならば,「近年,地域を問わず,外国籍の生徒やいわゆる外国につながる生徒が学校に増えてきているように,様々な社会的・文化的背景をもつ他者と共に生活するということが急速に身近になりつつある」[8] … Continue readingからです。また,「実際に他者と対面する物理的空間だけでなく,インターネットなどを通した仮想的空間での他者との関わりも増え,地域や国という境界を超えて人と人とのつながりが広がっている」[9]前掲書a,p.26/前掲書b,p.24/前掲書c,p.23からでもあります。「この社会の変化において,児童は,多様な他者と関わり,今までに経験したことも見たこともない文化に向き合って生きている[10] … Continue readingのです。間近に迫った本格的なAI時代はシンギュラリティ(singularity)の問題を超克し,まさに「他者(AI)―人間」間の共存・協働を必要とします。(次代を含めて,)今の時代ほど〈他者とのつながり〉が必要,かつ,重要である時代はないと言っても過言ではないでしょう。換言すれば,全教育活動(学習場面)を挙げて,お互いに協力したり助け合ったりする集団づくりが行われなければならないということです。授業内/外で。しかも,将来の時代を俯瞰すれば,そうした集団づくりは「外発的動機づけ」による教職員からの指導だけに終始することなく,児童生徒が内発的な言動を形成することができるような指導(教育活動)でなければならないのです。なぜならば,児童生徒はいつまでも学校という組織に帰属・依存しているわけにはいかないからです。いずれかは社会を構成する一員となって羽搏いていくのです。

こうした考え方は学習規律の確立に通底するものと言えます。学習規律は児童生徒により内発的・共同的/協働的に形成されることが望まれます。

学習規律は,①教師が示した「チャイムが鳴ったら席に着く」「人の発言を静かに聞く」といった学び合いの前提をつくり出す外的な授業秩序の保持という局面から,②子どもたち自身が相互批判・相互援助によって自覚的に秩序を保ち,共同的な学び合いわかり合いを発展させようとする責務の遂行という局面へと発展するものとされる。

前掲書A,p.137

(前略)学習規律の指導をスタイルやきまりから始めるのではなく,子どもたちの学びの必然性に基づく内的規律の指導から構想する必要が生ずる。(中略)「みんなと学びたい」「みんなとわかるようになりたい」という学習意欲や学習要求,学習ヘの社会的動機に基づいて,学び合う共同体に参加しようとする個々の子どもたちの能動的な意識や主体的な行為のあり方として学習規律をとらえ直すのである。

前掲書A,p.137

(学習規律に関することだけではありませんが,)上述したような児童生徒の内発性に言及する際,危惧しなければならないことがあります。

学校という社会,厳密に述べれば,教職員の世界(思考性)は極端に歪んだ二元論の世界だと思います。「(文部科学省や県教委の行う教育施策は)良い/悪い」「校則は必要/不必要」などの二項対立の思考性のことです。こうしたレベルの低い思考性では〈新しい時代〉の〈新しい教育〉は〈創造(クリエイト)〉できません。

「管理/放任」ならば,まだ真面な・・・二元論なのでしょうが,「児童生徒への〈教育愛〉を持って指導する/指導するのが難儀だから指導しない」の構図が往々にして,かつ,堂々と構造化される教職員の世界で,「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」とを「内発的動機づけ/(>)外発的動機づけ」(二項対立の思考性はどちらかの項が必ずどちらかの項の上位(優位)であると捉える思考性)と捉え,「外発的動機づけの指導は大義だからしたくない」,しかも,「内発的動機づけ」を達成するためには「(「内発的」なのだから教職員は何も指導しないと屁理屈を付けて),児童生徒が自主的・主体的に学習規律を形作るのを待つ。」と考える向きが一部の教員にあるということです。

学習規律の確立には「外発的動機づけ」も,「内発的動機づけ」必要なのです。飽くまでも「動機づけ」なのですから,いずれにも教職員の指導(性)は不可欠なのです

事実,自己決定理論(self-determination theory)においては,「外発的動機づけ」と「内的動機づけ」とは必ずしも対置されるものでなく,連続帯状にあるものとして位置付けられているのです。

(前略)教育的には内発的動機づけの意義は大きいが,学習意欲を失っている児童・生徒にとっては賞罰や競争などを用いて動機づける方が効果的な場合も現実にはある。よって,外発的動機づけをうまく利用しながら,最終的には内発的動機づけによる学習へと移行させていくことが,教育上大切である。

前掲書B,p.117

上記の引用は「外発的動機づけ/内発的動機づけ」に関する時間軸に沿った教育的な展開を,その順で展開すべきだとは述べていない・・・のです。要するに,両者のバランスが大切だと述べているのです。両動機づけが共時的に展開されながら,両動機づけ間の比重は異なっている。その比重のバランスは児童生徒の実態や学校の教育目標,当該の教育活動が展開される環境等によって異なってくるわけです。バランスを考えた指導を計画的・継続的に繰り返しながら,最終的な目標は「内発的動機づけによる学習」への移行に置く。したがって,それを可能とする教職員の指導力が求められるとともに,その指導力の源泉となる〈教育愛〉が試されていると言えるのです。なぜならば,最終的な「内発的動機づけによる学習」が確立するまでには教職員のかなりの根気が必要だからです。最終的な「内発的動機づけによる学習」の確立は一朝一夕に成し得るものではないのです。

教科書,文具及び教具等のイラストに囲まれた制服のセーターを着た女子学生
充実した学校生活(提供 photoAC)

(次頁に続く)


References[+]

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