1 「言語(運用)能力育成私塾」の誕生
次に記述する熱き思念により,「鍛地頭-tanjito-」に言語能力及び言語運用能力を鍛え,「地頭力」を育成する私塾が誕生したのである。
現代ほど,「地頭」を「鍛」えなければならない時代はない。
来たる一元論的トランスモダンの時代に向かって,教育は大きな方向転換を図ろうとしている。主に知識量を問う大学入試は,「地頭」の良さを問うそれに移行していく。「大学入試センター試験」から「大学入学共通テスト」への移行がその左證(先駆け)である。
それは他者と〈共創造(co-creation)〉できる,豊かな感性を内包する「地頭力」を持った人材が必要とされる初期AI時代の必然的な要請である。そうした時代に指示待ち人間は〈不要〉である。つまり,現行の大学入試により養成されたステレオタイプの人材はほぼ〈不要〉なのである。
言語能力及び言語運用能力を「鍛」えよ。即ち,それが「地頭」を「鍛」えることである。
そう,「「地頭」を「鍛」える」とは,まさに当私塾「鍛地頭-tanjito-」の教育理念なのである。
本ページに綴った「開塾の趣旨」は飽くまで開塾時に言及したものです。したがって,本「開塾の趣旨」の内実は時間の経過と共に〈変容〉していきます。つまり,新旧の概念の去就は本「開塾の趣旨」に語られた内実の様相を変えていくのです。その理由は,「組織は「学習する組織( Learning Organization )」でなければならない。」と当私塾が考えているからです。それが当私塾の一つの経営方針なのです。〈組織〉はマネジメントサイクルを基軸としながら,日々,〈課題の抽出→改善〉が図られるものだと考えているのです。そのことは,当私塾のように個人経営のちっぽけな所謂「学習塾」でも同様だと考えます。ですから,本「開塾の趣旨」に語られた内実は,その折々の当私塾の「ありのままの〈姿〉」を表象し変貌していきます。したがって,その時々の当私塾の学習指導及び組織経営等について,適時にご指導・ご助言を賜りますならば,これほど幸甚なことはございません。(塾長)
2 目指す塾生像
自らの身辺に日常的に生起する諸問題を自らが発見・解決できる継続性・発展性に富んだ思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)を有するとともに,〈思いやり(恕[1]「他人の立場や心情を察すること。また、その気持ち。思いやり。」 (コトバンク:恕(読み)ジョ,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館))〉の心を持って,豊かな人間関係を構築することにより,来たる一元論的トランスモダン[2] … Continue readingの時代に,種々の価値観を率先して止揚[3] … Continue reading・統合し,他者と協働しながら高次の文化を創造する総合的な人間力を備えた塾生
3 現代の教育を〈俯瞰〉する
脱現行受験社会の必要性
4 「地頭」及び「鍛地頭」の定義と意義
「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる
現行の(小・中・高・大学等の)受験をクリアするために,脳を鍛えること(=受験脳の育成)は,それはそれで必要です。脳を鍛えることに変わりはないからです。しかし,ただそれだけのことなのです。これからの一元論的トランスモダンの時代,受験脳だけで飯は食えません。主に知識量だけを蓄えた人間が「偉い人」とする幻想的な言説は〈相対化〉を受けなければならないのです。
これからの時代,膨大な知識(情報・データ)の蓄積と処理は初期AIが極短時間で行ってくれることでしょう。人間の身の周りに生起する問題に対して,種々の知識(情報・データ)をAIに記憶させ(=インプット),必要な知識(情報・データ)を抽出・分析・加工させた上で,それをAIと共に人間が表現(=アウトプット)する,それらの営為が次代を生きる人間の「生きる道」なのです。したがって,アナクロニズムに陥らぬよう,今まさにそれらの営為を可能とする能力を鍛えておかなければならないのです。
抑々,「現状,受験脳だけで真面な生活を送ることができると思われますか?」
答えは「No!」です。受験脳は「地頭」の一部に過ぎないのです。受験脳はインプットした知識をほぼそのままの形でアウトプットするよう馴致されています。ところが,種々の地球的規模の問題を抱えるVUCAな時代に希求される能力は,極論すれば,インプットした知識を他の知識と統合しアウトプットできる能力なのです。そのためには「地頭」を丸ごと「鍛」える必要があるのです。
受験脳は鍛えられた「地頭」を基盤として機能します。鍛えるべきは「地頭」そのものなのです。「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできるのです。
「地頭」の定義
「地頭」とは「総合的な人間力」である。
(例)
豊富な知識・技能を基盤とした,
思考力・判断力・表現力・〈相対化能力〉等
言語能力及び言語運用能力
情報活用能力
問題発見・問題解決能力
豊かな人間性
他者と高次の新しい文化を
〈共創造-co-creation-〉する能力
〈学び〉に正対する粘り強い態度
自らの〈学び〉への責任感
思考力や判断力は知覚段階で統合化し形成されたアルゴリズム(知識)を既存/新規のアルゴリズムと統合化するなど〈相対化〉・止揚(Aufheben)・再構築できる能力です。〈相対化能力〉とは現象・事象を〈相対化〉し,高次の段階へ止揚(Aufheben)できる能力のことです。それらの〈統合知〉等を種々の様式によってアウトプットできる能力が表現力です。
当私塾では,非言語を含めて次のように定義しています。
言語能力:人間に生来備わっている普遍言語。
言語運用能力:「話す」「聴く」「読む」「書く」技能をバランス良く運用できる能力。言語能力とは相補的な連関にある。実際の生活の場で行われる他者の発話において,目的及び意図をよく理解し文脈を読んだり,他者に適切に伝達できる。
「世の中の様々な事象を情報とその結び付きとして捉え,情報及び情報技術を適切かつ効果的に活用して,問題を発見・解決したり自分の考えを形成したりしていくために必要な資質・能力」[4]「教育の情報化に関する手引」(文部科学省,令和元年12月,第2章 情報活用能力の育成,p.18)のことで,情報を収集,整理・選択,分析及び発信・伝達できる力を言います。情報機器を操作する能力や情報モラル等に関する資質・能力を含みます。
問題発見・解決能力は,VUCAな時代にあって,自らを取り巻く環境に生起する複雑化・難化・多様化・曖昧化した諸問題を自ら発見し,解決する能力です。主に〈学び〉に正対する態度・責任を基盤とする「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力等」との往還的な連関の中で形成されます。
自他,国家及び環境などを大切にする気持ち,多様性,共感性,協働性,調和性,寛容性,誠実さ及びレジリエンスなど。VUCAな時代の地球的規模の諸問題を解決する際,知の統合化による〈共創造-co-creation-〉は必須であり,それは他者を敬い,個の尊厳(dignity)を貴ぶ思いやり[5]パターナリズムの陥穽に陥ることのない脱中心化した〈思いやり〉のこと。なくして成し得ません。
〈共創造-co-creation-〉には二項対立(テーゼ/アンチテーゼ)を超克し,止揚(Aufheben)できる一元論的なシステム思考が必要です。また,〈共創造-co-creation-〉は他者との協働なくして成らず,多(他)視点を獲得し自己/他者を多角的・多面的・総合的に理解する主体を必要とします。したがって,そうした主体は問題発見・問題解決能力,思考力・判断力・表現力・〈相対化能力〉等及び豊かな人間性を兼ね備えています。主体の目指す地平には持続可能な社会の構築・継続があるのです。主体はそのような社会の形成者とも言えます。
「態度や価値観[6] … Continue reading」を獲得することは,知識・技能の獲得に影響します[7]自己意識や自己コントロールを身に付けていれば,知識・技能を効率的に身に付けていくことができます。。また,これからの時代はますます〈共創造-co-creation-〉が求められます。そのためには,他者の視点で考える態度や社会的・文化的なコンテクストに沿った倫理的な判断が求められるようになります。このように,これからの新しい時代の教育界では「態度や価値観」の獲得が一層重視されます。その獲得の根本に「〈学び〉に正対する態度」があるのです。
【参考】『OECD Education2030 プロジェクトが描く教育の未来――エージェンシー,資質・能力とカリキュラム――』(白井 俊,ミネルヴァ書房,2020年12月,pp.134-137)
これからの新しい時代において,複雑化・難化・多様化・曖昧化した地球的な規模の問題はますます山積していくことでしょう。そうした時代を生きる人間には絶えず振り返りと見通しを行う問題発見・問題解決の能力が必要となります。また,このようなマネジメント・サイクルを恒常的に回して問題解決に当たることが社会的な責任ともなることでしょう。このような態度や責任感は一朝一夕にして成らず,これらの育成は今後の学校教育における責任の一つとなります。こどもの時代から「自らの〈学び〉への責任」を持つことが求められているのです。
「鍛地頭(「地頭」を「鍛」える)」の定義
「鍛地頭」とは「地頭」を鍛えること,すなわち,「総合的な人間力」を鍛え,磨き上げることである。
5 ポストモダン終焉期の実相
ポストモダン終焉期の諸相
20世紀的な「知」の終焉―多視点を喪失した〈鄙陋〉の残滓の大衆化―
私たちの言語(運用)能力の低下は,各人のものの見方や考え方における単視点化に近い現象を巻き起こしました。人間が「言語」で思考・判断する限り,例えば,身の周りに生起する諸現象を捉える視野は,言語(運用)能力が低下すればするほど,偏狭なものになることは論を俟たないところでしよう。その結果,論理的な思考力や創造性だけでなく,最早「感性・情緒」の欠落といった危機に直面しています。それは現実的に私たちの尊厳(dignity)をも喪失する,恐ろしい話となるのです。
デカルトを始祖とした物心二元論を源とする二項対立の思考(=20世紀的な「知」)は,言語(運用)能力の低下により一層色濃くなりました。ポストモダンの終焉期を生きる各人が保有する視点はますます単視点化・内在化していく傾向にあります。その結果,「自己(有能=仮想的有能感),先(優先))/他者(無能,後)」とする二項対立関係を台座とした自我中心主義が瀰漫するようになったのです。ポストモダンが生産した「小さな価値観」は消滅しました。その代わりにカントが「根源的悪」としたエゴイズム( egoism・利己主義)が蔓延り,大衆は我執に塗れた「〈鄙陋〉の残滓」と化したのです。
ポストモダン終焉期の大学入試対策
主に「思考力・判断力・表現力等」を問う入試への完全移行には,この先,膨大な時間を必要とするでしょう。この枠組みはなかなか堅固です。なぜならば,地位や名誉やお金に惑わされる大衆が形成する社会が存続しているからです。受験システム自体も問題ですが,そうした大衆こそが問題なのです。
だからと言って,受験脳(受験テクニック)だけを鍛える思考にしがみ付くことは止めなければなりません。自己のためにも,他者のためにもならないからです。この先,受験脳だけでは兎角生きにくくなります。そうならないためには…。
一度は受験界に身を置くとしても,進学先を選定するのに,「偏差値」だけに頼らないことです。[8]「偏差値」そのものを問題視していません。「偏差値」に惑わされる大衆を問題視しています。何の目的で,何をどうやって学ぶのか――自己の身に付ける(学校教育法第30条第2項に謳う広義の)学力――を明確にしてください。
このように述べると,「世の中が偏差値一辺倒で,偏差値の高い大学に入学しないと将来が安定しないのだから,偏差値に拘り,受験テクニックだけを身に付ければ良いのです!!」といった怒声が聞こえてきます。「この子が生涯を終えるまで,時代(言説・社会システム)は変わりません。だから,偏差値の高い大学に入学すれば良いのです!!」といった保護者の罵声も聞こえてきます。――ですが,本当にそう言い切って良いのでしょうか?
そこに拘泥する世間体と仮想的有能感[9]速水敏彦(2016.10):『他人を見下す若者たち』,講談社[キンドル版]を参照のこと。を〈相対化〉し,「鍛地頭」の意義を再確認した上で,〈こどもを大切にすること〉を再検討する必要があると思うのです。――受験脳という脳の一部の機能だけを鍛えるのではなく,その他の多機能をもっと鍛えた方が良いのではないでしょうか。これからの時代を鑑み,しっかりと自らの頭で思考・判断し,自ら表現できるこどもに育てることが肝要であると考えるのです。そのことが本当の意味で〈こどもを大切にすること〉だと思います。自分次第で切り拓かれやすくなった地平がこどもたちの眼前に広がっています。
確かに,「地頭」を「鍛」えるには長い時間が必要です。ただし,受験脳という一部の機能を他の多機能と関連付けて鍛えれば,受験脳は必然的に一層機能化するはずです。将来的に機能化が然程必要でなくなる一部の受験脳を鍛えるよりも,若いうちに他の諸機能を鍛えておく方がこどものため,社会のためというものです。「木(受験脳)を見て森(「地頭」)を見ず」では,余りにもこどもたちが可哀想です。大人の見栄に象徴されるエゴイズムは即刻払拭されなければならないのです。
では,どうすれば多機能を鍛えることができるのか?
まずは,言語(運用)能力を鍛えることです。強いて述べれば,それが現行の受験をクリアするコツでもあるのです。
人間は言語でものを思考・判断し, (ノンバーバルな表現を含む) 言語で表現します。言語でイメージすらするのです。人間は言語を超えることができません。言語(運用)能力が豊かな人間は「感性・情緒」も豊かになります。「総合的な人間力」は言語(運用)能力が左右すると言っても過言ではないのです。
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