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教員採用試験,生涯二度の合格…vol.62 

「鍛地頭-tanjito-」ブログ教材アイキャッチ画像:合格体験記 生涯二度に及ぶ真夏の教員採用試験での奮闘と二回の合格・・・ 一般ブログ教材
合格体験記 生涯二度に及ぶ真夏の教員採用試験での奮闘と二回の合格・・・
この記事は約15分で読めます。

 合格体験記(H先生,高等学校 工業・電気,兵庫県)

2021年秋

 「こんなこと,無能な私に許されていいの?」

 申し訳ない気持ちです。本来教員たるもの,その人格において高い完成度を垣間見れ,深く寛大で仏様のような母性を秘めている有様を少しでも感じ取れるものなのです。

 私には微塵もない…どうして選ばれたのか全くわかりません。

 ただ小桝先生と出会い,深い「対話」を重ねるうちに,「教育とは何か?」と原初から考え直したことは事実です。「鍛地頭-tanjito-」での〈学び〉を常に学校現場(臨時講師)での教育活動にフィードバックし,実践・評価するといったPDCAサイクルを繰り返すようになりました。

 振り返れば,これが教師としての成長であり,それを面接官は伸び代として捉えていたのかもしれません。飽くまでも推論ですが…。何はともあれ,頂いた貴重な正式採用,講師としての職務への取り組みから更に進化した姿勢で全身全霊をもって職務に励むつもりです!

【後半へつづく】

スミレ(素材提供 photoAC)
スミレの花言葉は「謙虚」(素材提供 photoAC)

2021年秋から冬,そして2022年春から夏へ

 1回目の奇跡の合格の後,私は「鍛地頭-tanjito-」の「合格道場」を継続することにしました。理由は小桝先生のご指導を受けた塾生ならば,皆察しがつくはずです。

 「鍛地頭-tanjito-」は採用試験の合格だけを目指した指導を行う私塾ではありません。〈ホンモノの教員〉を目指す志高い先生方が集い,小桝先生の分厚いご経験に裏打ちされた指導・助言や「対話」を道標(漆黒の中の一筋の光明!)として,今後の「日本の公教育再生」を真剣に考える現代版松下村塾なのです。

 正式採用になったからこそ,この私塾で〈ホンモノの教員〉を目指して学ぶ必要があるのだと思うのです。小桝先生と「対話」を重ね,気づきを得,時には同志の先生方とも「対話」を重ねていくうちに,私の「日本の公教育再生」に対する見識は厚みのある論理とそれに裏打ちされた実践に一歩ずつ変容していったのです。それまでは希薄で,非論理的な実践といった確かな裏打ちを伴わない思い込みと誤解の日々の教育活動に従事していたのです。

 教育界の漂流者だった。

 生涯2度目の採用試験の最終面接。百戦錬磨の面接官の観察眼は鋭かったのです。

 公教育の理念に対する姿勢が漂流しているのか。
 その反対に,流行の荒波にも揺るがない重厚な錨を下ろし,教育界の正確な羅針盤コンパスをもって日本の公教育が進むべき針路までをも見定めているのか。

 二者を選別しようと受験者の全身を凝視していたように思います。あらゆる角度から精査される対話が30分強続きました。

 その結果,面接官は私を後者であると判断したのです。

【完】

 「合格体験記」を〈読む〉

謙虚の美徳とH先生

謙虚の美徳

「謙虚になるな!」
「「謙虚」たる昭和の美徳的価値観を粉砕しろ!」

コンテクスト次第では,エゴ丸出しの低俗な言述である。「謙虚」と「卑屈」・「消極的」との区別が付いていない。

それか,パラダイムを〈相対化〉する術がない。ただ感情の赴くまま「昭和」のフレームを毛嫌いするヒステリックな悲鳴だ。

心を「虚」しくすることは足るを知ること(知足)である。満足と感謝の心を持てば,自ずとその身は「謙(遜)」る。それは心の豊かさを意味する。「謙虚」に努め励む「志」は叶うのだ。

「謙虚の美徳」は〈道〉[1] … Continue readingを拓く。

罪莫大於可欲,禍莫大於不知足,
咎莫大於欲得。故知足之足,常足矣。

『老子』第四十六章[2] … Continue reading

知足者富,強行者有志。

上掲書 第三十三章[3]〔もてるものに〕満足することを知るものは富み/つとめはげむものは志がかなう

金・地位・名誉。人間の作為による不毛なカチに妄執する者は足るを知らない。それらを手中にすれば,さらに増幅する次のそれらが欲しくなる。悪足掻きする我利我利亡者。そうした者に決して〈道〉は拓かれない。

金・地位・名誉・自分だけのラクとトク。寄って集ってそれらを手中にすれば,さらに増幅する次のそれらが欲しくなる。乳幼児・児童・生徒抜きの我利我利教職員[4]本来,このような者を「教職員」とは呼ばない。。そうした者に決して〈教員道〉[5]「攖寧」であるとともに,(乳幼児・児童・生徒を含む)万物と一となった〈教員〉としての存在。は拓かれない。

上善如水。水善利萬物而不爭,處衆人之所惡。故幾於道。居善地,心善淵,與善仁,言善信,正善治,事善能,動善時。夫唯不爭,故無尤。

上掲書 第八章[6] … Continue reading

H先生

上掲の「合格体験記」に滲み浮かぶ謙虚さ。それがH先生の為人である。

決して他者と争うことなく,所属校の誰しもが嫌がる業務に常に身を置いている。

敦篤虚静,真実なる言葉,コミュニティーをうまく取り纏め,事に処しては有能で,行動は時宜に叶う。

上善如水,明鏡止水。

H先生を想起する明言である。だから,〈教員道〉にちかいのだと思う。

塾長の述懐(「2021年秋」について)

ここには,上掲の「合格体験記」から気儘に,塾長の意中を徒然なるままに綴ってみる。

1本来教員たるもの,その人格において高い完成度を垣間見れ,深く寛大で仏様のような母性を秘めている有様を少しでも感じ取れるものなのです。

幾度か繰り返して読んでみた。「なぜこのような言葉をおっしゃることができるのだろう?」と思ったからだ。

H先生の理想の教師像が表象化した言述であることに間違いはない。

この言述を日頃「対話」を持たせていただいているH先生の実像と重ね合わせて〈読む〉。

他者(生徒)に幸福を与え,他者から苦を抜き去ろうと常に取り組まれている。「慈悲」の二文字に幾しい姿を想起する。

そして,「攖寧」の二文字も。

2私には微塵もない…どうして選ばれたのか全くわかりません。

「謙遜」ではなく,「謙虚」なのである。本質的な「謙虚」なのだ。

だから,どうして「選ばれたのか」が明白である。「謙虚」に努め励む(者の)「志」は叶うからだ。

3深い「対話」を重ねるうちに,「教育とは何か?」と原初から考え直したことは事実です。

〈学び〉の世界において,塾生も塾長も同列である。「対話」を重ねるうちに,自ずと行き着いた問いが「教育とは何か?」である。

やはりここに還ってきた。漸く問いが立った。

ここからが〈対話〉の始まりである。これが《対話》の効用である。

H先生と塾長の内なる宇宙に多(他)視点が形成されてきた。ここから視点統合化のための〈対話〉が始まる。

4PDCAサイクルを繰り返すようになりました。

謙虚な省察リフレクションである。繰り返されていなかったことが前提にある。

「PDCAか,AARか,OODAか。」では問いが立たない。教育活動の局面を精査して考えるべきである。

当私塾は「PDCAも,AARも,OODAも。」と問いを立ててみる。

現代,そして今後の時代を展望し〈相対化能力〉が万人に必須であることに疑う余地はない。その意味においても「PDCAも,AARも,OODAも。」である。ただし,それは〈学び〉のコンテクストを度外視した選択ではない。八方美人でもない。理想論,俗にいう精神論であるわけがない。しかし,科学を妄信しているわけでもない。

5それを面接官は伸び代として捉えていたのかもしれません。飽くまでも推論ですが…。

「推論」のままで良い。否,「推論」すら必要ない。

面接官は受験主体にとっての対象物・・・ではない。

「面接官に人材を見極める能力がない。」や何やらかやら。そう非難する言説自体に〈人材を見極める能力〉がない。

邪(幻)術の言説だ。惑わされるな! 邪心を捨てろ! どの立場で何を根拠に面接官を罵倒するのか! そうした邪心を持って他者に接する教員を真面な教員と呼べるのか!? 他者を見下す邪心の持ち主が乳幼児・児童・生徒を導くのか!

濁っている。

「謙虚」であれ。

6全身全霊をもって職務に励むつもりです!

「全身全霊をもって職務に励」まれたことは事実であろう。視認はしていないが,H先生と毎週繰り返している「対話」はそれを如実に物語る。なぜならば,そこには常に「生徒ありき」で教育活動に取り組まれるH先生のお姿があったからだ。

塾長の内的宇宙にH先生のお姿が髣髴とした事実を否定することは,誰もできはしない。

「全身全霊をもって職務に励むつもりです!」

この言述を(も)「謙虚」だと思うのだ。「強めて行う者」の「志」は叶うのだ。

塾長の述懐(「2021年秋から冬,そして2022年春から夏へ」について)

1私は「鍛地頭-tanjito-」の「合格道場」を継続することにしました。

「これからも「合格道場」を受講します。本務者だからこそ,受講する必要があります。理論と実践との統合化を,日々図る必要があるからです。」

今でも忘れられないH先生のお言葉である。脊髄に稲妻が差し込んだ思いだった。

合格道場」は,本私塾の「上級」クラスに位置付く講座である。ただし,この「上級」は学校教育に必要な(実践を含めた)学問分野の種々の知を統合化する意を有している。

したがって,「上級」とあるものの,塾生に応じて,〈学び〉の領域・領野や方法等は異なっている。単に受講のための講座レベルが「上級」云々というわけではない。

だから,学校教育には全くの素人の方が受講可能な講座である。一方で,学校現場で活躍されているベテランの先生方の受講も可能である。学校教育の専門家となるため,じっくりと腰を据え,一から学ばれる塾生が,現に複数おられる。

「統合化」のための「知識・技能」を豊かにすることと,それらを指導等のコンテクストに応じて統合化する《知識・技能》を得,統合化する《思考力・判断力・表現力等》を養う。さらに,その上で,具体的な統合化の手法等を学び,実践に生かすことを目的とする講座だ。〈学び〉のレジリエンスや学問に正対する態度も身に付く。そうした意味において「上級」なのだ。

だから,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」を体現し,「合格道場」の趣旨をしっかりとご理解されているH先生は,「合格道場」の継続履修を切望されたのである。

学び続ける教員の姿がそこにある。

2「鍛地頭-tanjito-」は(中略)今後の「日本の公教育再生」を真剣に考える現代版松下村塾なのです。

「志」は大きい方が良い。ただ「現代版松下村塾」は言い過ぎである。しかし,目標である。

公教育の現況を甚だしく憂うることは,国の行く末を激烈に憂懼することである。

慇憂する公教育の現況を打開するためには,各都道府県に,まずは一人ずつ〈ホンモノの教員〉を輩出・育成することである。

松下村塾の学びは基底に「対話」を据えたようだ。

〈ホンモノの教員〉を目指す同志よ,「鍛地頭-tanjito-」で「対話」を営み,〈対話〉を構築しようではないか。「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉の基軸は「対話(インターアクション)」・「共話(メタローグ)」である。

(龍馬ではないが,)日本の公教育を今一度洗濯致し申し候。

3私の「日本の公教育再生」に対する見識は厚みのある論理とそれに裏打ちされた実践に一歩ずつ変容していったのです。

「「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について~「新たな教師の学びの姿」の実現と、多様な専門性を有する質の高い教職員集団の形成~(答申)(中教審第240号)」(中央教育審議会,令和4年12月19日,以下「答申A」と表記)のキーワードの一つは「理論と実践を往還させた省察力による学び」(p.30,45,46)だ。…A

「以前から語られていることだが,現代ほど「(教員の)養成教育ー教採ー現職教育」が一貫性を持った〈つながる〉システムであることに注目された時代はない。」

「〈ホンモノの教職員〉の「祈り」ー脳科学の知見からー vol.61」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,教採の学習と教員となる/であることとを二分法で考えるな!,2022.10.10))で「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い,高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~(答申)」(中央教育審議会 平成27年12月21日)や県教委時代の経験知を根拠にこのように語っている。…B

したがって,A及びBにより「また、養成段階において「新たな教師(教職志望者)の学びの姿」を実現する際の視点として、「理論と実践の往還」も重要である。「理論と実践の往還」は、教職大学院において同制度導入以来の中核的な理念であるが、学部段階での養成も含め、理論と実践を往還させた省察力による学びを実現する必要がある。」(答申A,p.23)と述べる理由が「(教員の)養成教育ー教採ー現職教育」が一貫性を持った〈つながる〉システム」の構築にあると解される。

このように考えるならば,「教採」の根底にも「理論と実践の往還」概念が措定されていることになる。

さらに「答申A」は続ける。

「その際、理論知(学問知)と実践知、研究者教員と実務家教員などの、いわゆる「二項対立」の陥穽に陥らないことに留意すべきである。「理論と実践の往還」を実現するためには、理論の実践化と実践の理論化の双方向が必要である。つまり、単に学んだ理論を学校現場で実践するのみならず、自らの実践を理論に基づき省察することが必要になってくる。研究者教員が理論を、実務家教員が実践や実習を担当し、それぞれが分断されているという構図ではなく、教師間の連携・協働により、教職課程を運営していく必要がある。」(pp.23-24)

「鍛地頭-tanjito-」は開塾以来「一教師は一研究者なり。」と主張し続けている。その意は一教師は「研究者教員」であり,「実務家教員」であるということである。

「元来――「元来」と言わなければならないところに,現代の社会システムの歪みを感じますが――「教員」というものは学問・学習指導のプロであるはずです。そのためには,日々,自らが歩むべき道の専門性を高めるため,研修と修養,特に学問には直向きに誠実でなければなりません。〈理論〉を修め,(教育)〈実践〉し,〈実践〉から得た結果を〈理論〉化する。当塾が「一教師は一研究者也[7]「也」は現在平仮名表記。」と申し上げる所以です。」(当私塾のInstagram「tanjito.official」より,2019)

だが,当私塾は「往還」とは考えていない。なぜならば,「理論知(学問知)と実践知、研究者教員と実務家教員などの、いわゆる「二項対立」の陥穽に陥らないことに留意すべきである。」と述べているにもかかわらず,「往還」と口にした途端,それは二項対立の陥穽に陥ってしまうからだ。

理論(知)と実践(知)はコインの表裏の連関にある。つまり,一教師は「研究者教員」であり,「実務家教員」であるということだ。

そのためには,まずは全ての教職員が学問に正対しなければならない。「新たな教師の学びの姿」[8]● 変化を前向きに受け止め、探究心を持ちつつ自律的に学ぶという「主体的な姿勢」● … Continue readingを実現するためには,全ての教職員が学問に正対するしかない。そして,このことは同時に,教職員の学問に正対するレジリエンスの鍛錬の必要性を物語る。こうしたレジリエンスの基盤なくして,「学校組織のレジリエンス」(答申A,p.24)を高めることはできないのである。

ただ,「一教員は一研究者なり。」は,何も今始まったことではない。学校教育界に教職員が誕生したその日から,それは当たり前に存在している概念のはずである。

H先生の気づきは,そこにあったのだ。

4教育界の漂流者だった。

「鍛地頭-tanjito-」は港であり,寺であるのかもしれない。最近,特にそう思う。

当私塾は,受験産業界の各所で学ばれた方々が,その志が叶わず,どういうわけか最終的に流れ着く場所である。[9]改めて断っておくが,当私塾は受験産業を営んではいない。

そして,学ばれている塾生・受講生は,「塾生・受講生—塾長」間や「塾生・受講生—塾生・受講生」間でしきりに交わす「対話」によって,H先生のお言葉を拝借すれば,「教育界の漂流者」であったと自己をメタ認知するのである。

いつしか当私塾は「教育界の漂流者」であった塾生・受講生の母港となる。

ある日,ある塾生が講座中におっしゃったお言葉が忘れられない。

「「鍛地頭-tanjito-」は(学校)教育界の駆け込み寺[10]「何か困ったときに相談に乗ってくれたり,問題解決を共に行ってくれたりする場」の意。ですね。」

5百戦錬磨の面接官の観察眼は鋭かったのです。

面接官を無能呼ばわりできる科学的・・・根拠は存在しない。曇った心眼に「面接官の観察眼」の鋭さは読み取れない。

だが,繰り返す。面接官は受験主体の対象物・・・ではない

6教育界の正確な羅針盤コンパス

「教育界の正確な羅針盤」と言述されるとき,H先生の脳裡には,常に学習指導要領の「資質・能力の三つの柱」とOECDの「ラーニング・コンパス」があるものと思われる。

7あらゆる角度から精査される対話が30分強続きました。

選考後,H先生が語られたお言葉にゆっくりと首肯いた。

「面接本番はまるで「鍛地頭-tanjito-」の講座で交わす塾長との「対話」のようでした。」

H先生,二度の合格が示すとおり,先生の「謙虚の美徳」は複数の自治体の面接官のみならず,あらゆる他者が感じ取っていることです。塾内のメンバーもそうですよ。面接官が「私を後者であると判断した」のは,至極当然のことだったのです。

「謙虚なくして学問は成らず。」(「鍛地頭-tanjito-」)

                                           (塾 長)

ⓒ 2023 「鍛地頭-tanjito-」


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