新規塾生募集中!!
受講者募集中!!

教採受験界のパラダイムシフト!!
教員研修を基盤とする
教採対策
筆記選考と人物評価選考との
アウフヘーベン

〈ホンモノの教員〉 を
育成します

「場面指導Weekly解説ルーム」へはこちらからどうぞ。

2 教員採用試験の〈ホンモノの学習法〉―開始時期とその手法―

緑の植物を背景に机上に置かれ,開かれた1冊の書物 「鍛地頭-tanjito-」の〈教員採用試験論〉
分厚い本と緑背景(提供 photoAC)
この記事は約15分で読めます。
Masan
Masan

本ブログは,「自己内のパラダイムシフトを生起する教員養成私塾」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.8.18)の続編です。

(1) 教員採用試験と「エゴイズム(egoism)」

ア 例話1

20代前半の本務者を目指す臨時的任用職(教)員の方(「A」と表記)とお話した時のことです。

私:「教師を目指す理由は何ですか?」
A:「私のライフスタイル[1] … Continue readingをそろそろ固めようと思いまして。」
私:「それは大切なことですね。」
A:「採用試験まで残り5か月程になったのですが,まだ先生になるか,知り合いの民間企業に就職しようか,迷っているのです。先生になれば,給料は安定しているけど,仕事量は多いから辛いし,自分のために自由になる時間が少ないですよね。一方,民間はと言うと,いつ倒産するかわからないから,金銭的に不安定ですし,何たって(私がお世話になりそうな所は)安い!…でも,(私がお世話になろうかと思っているところは,)結構,時間が自由になるようです。」
私:「そういう理由で迷っているのですね。」
A:「はい。ただ,最近は先生にしようかなあという気持ちの方が強くなってきているんです。それというのも,現在,勤務している学校で周囲の先生方を見ていたら,勤務時間が終了したところで,その日の仕事が完結しないまま,毎日,すぐに帰って行かれる方が数人おられ,…無責任と言えば,無責任なのですけれど,…勤務時間を過ぎているのだから,特段,追及されることもないので…私もそういうふうにしてライフスタイルを固めようかなあとも思うんですよね。賃金程度の仕事をして,後は自分の趣味に費やす。ワークライフバランス!! ふふふっ…そんなライフスタイルも良いのかなあと思ってきたのです。やっぱり,お金と自分の時間を大切にしないと。」
私:「先生のお話には,目の前の生徒やこれから出会うであろう生徒のことは一切出て来ませんね。」
A:「えっ?」

イ 例話2

20代前半の本務者を目指す非常勤講師の方(「B」と表記)とお話した時のことです。

B:「教員の世界はいくら一生懸命にやったって報われる世界ではない。これまで働いてきてよくわかったんです。時間単価の仕事をしておけば良いって。」
私:「質も量も共に?」
B:「はい。勤務時間を超えて,生徒と熱心に話し込んでいる先生方を学校でよく見掛けますけど,どうもそうした先生方の姿にピンと来ないのです。そういう働き方で良いのかと。」
私:「そうですか。わかりました。あっ,もうこんな時間だ。あなたとお話をする約束の時間はとっくに終わっていますよ。あなたのお考えを尊重すれば,私の勤務時間はとっくに終わっているのだから,私はこの辺で失礼します。」
B:「ええっ! それは困る! もっといろいろ為になるお話を聞かせてくださいよ!!」

ウ 自我中心主義・普遍主義,そして教員採用試験

「自我中心主義」と「普遍主義」については,当塾のブログ記事で書き散らしていることなので,ここでは略筆いたします。

(ア) 自我中心主義

近代はデカルト的二元論を思考の台座としました。「精神/物質」「主観/客観」「男/女」「理論/実践」「自然/文化」「勝/負」「聖/俗」「光/闇」「天/地」「都/鄙」など挙例すれば際限がありません。際限がないからこそ,こうした二元論が思考の支柱となった文化圏内の人々は無意識裡にこの対立の構図で物事を考えるのです。我々もそうではありませんか。

こうした二元論的な思考性は二項のいずれかがいずれかの上位(優位)にあると考えているのが普通です。例えば,「精神>物質」「男>女」「聖>俗」「都>鄙」など。中でも,その典型的な例が「人間>自然」です。人間は自然を対立する項に据え,常に上位(優位)を保ってきたつもりでした。人間の力で自然をコントロールできると考え続けてきたのです。人間は「自然は精神を持たない単なる物質であり,一定の因果律に従って機械的に動くもの」と考えたのです(機械論的自然観)。そこには「世界の全ては人間の自我を中心に回っている」という考え方が存在します(自我中心主義)。しかし,現状,例えば,地球規模の「環境問題」が生起し,今頃になって,二元論的な思考を見直す動きが起こっているのです。

つまり,極論すれば,終始,二項対立の構図だけで物事を考えている人は,得てして自我中心主義に陥りやすいということですね。だから,当塾は自己のものの見方や考え方を恒常的に〈相対化〉する必要があると主張しているのです。

(イ) 普遍主義

前項において,二元論は対立する項の間にあって,〈優位/劣位〉を基本とする思考性を有すると述べました。このことは「環境問題」に浮き彫りになった〈中心化思考〉を物語っていました。「人間>自然」,つまり,人間が中心なのです(人間中心主義)。

このような〈中心化思考普遍主義を生む傾向にあります。

ふへん‐しゅぎ【普遍主義】個別のものよりも、多くの、あるいはすべてのものに共通する事柄を尊重する立場。→個体主義

コトバンク:普遍主義(読み)ふへんしゅぎ(英語表記)universalism,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館

例えば,分かりやすい例を挙げれば,「男は万事女に勝る」などがそうでしょうね。「普遍者=全体を個別者(=個人)の上位におき,後者は前者にかかわることによってのみ存在性と意義とをもつとする立場」[2]コトバンク:普遍主義(読み)ふへんしゅぎ(英語表記)universalism,ブリタニカ国際大百科事典 … Continue readingを「普遍主義」と呼ぶのですから,「男性」を〈中心化〉して考えようとする思考は,こうした言述行為を反復して営むことにより,〈男性優位〉の言説を生成させ,普遍的な原理をつくろうとうするわけです。こうした状況を一般化して鑑みると,歯に衣着せぬ物言いで換言すれば,このような思考性を有する人間(たち)の中には,必ず「自分だけが「得」をしようとする人間(たち)がいる。」ということになります。

昔々,「とにかく(学校の)先生はエライ。」とする普遍性を持った言述が当たり前の時代がありました。現代では「とにかく(学校の)先生は(業務量が多過ぎて心身共に)エライ。」が普遍化してきているようです。したがって,後者の言述も〈中心化思考〉による自我中心主義の言表と考えられますね。誰が「得」をしようとしているのか。だからこそ,その自我中心主義を〈相対化〉する必要があるということです。乳幼児・児童・生徒のために。その際,〈先生〉を機能としてみる内田樹氏の『先生はえらい』(ちくまプリマ―新書,筑摩書房,2005.1)などが参考になるのではないでしょうか。

(前略)
私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではありません(そんなことを言っても何も始まりません)。
あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもありません(そんなことを言っても誰も聞いちゃくれません)。
そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという必勝不敗の同語反復を断固主張するところの書物なのであります。
(中略)
ともあれ、レヴィナス、ラカン両老師のご高説をすべて「えらいの構造分析」という視点から読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したというのがことの真相であります。

Amazon:先生はえらい (ちくまプリマー新書) 新書 – 2005/1/1,商品の説明,著者からのコメント

要するに, 「男は万事女に勝る」 や 「とにかく(学校の)先生はエライ。」 に見受けられるように,現代,普遍主義は〈相対化〉を受けつつあると考えて良さそうです

(ウ) そして教員採用試験

a 自我中心主義と教員採用試験

話を教員採用試験に戻しましょう。

結論から述べれば,私は教員採用試験の受験界に前述の「自我中心主義」と「普遍主義」とを見て取っているのです。

まずは,前者からです。

教員採用試験に自分が・・・合格すれば良い。

どのような勉強法であろうが,実力を蓄えてなかろうが,「○○のために自分が合格さえすれば,それで良い。」―この「○○」には「自分」が「得」をするものが入るのです。あるいは,そのまま「自分」が入るのか?―こうした「思い」を持つ受験主体が数多いのではないでしょうか。例話1,2に通底する「思い」を持った主体が。まさかこうした「思い」を「自己を大切にする思い」と捉える人はいないでしょうね。―そう願います。―

一方で,「(乳幼児・児童・生徒のために,)まずは合格しなければ。」と〈思う〉受験主体もおいでになることでしょう。

同じ「合格」を願うのでも,「○○のために」と「乳幼児・児童・生徒のために」とでは雲泥の差があります。教員としての資質に地と天との開きがあるということです。私の長い職歴から申し上げて,(「自我中心主義」と言えば「自我中心主義」に申し訳がないので,)「カントが「根源的悪」と表した「エゴイズム(egoism)」に走る教員は,鯔のつまり,その本性を(乳幼児・)児童・生徒に見破られる」という〈事実〉があります。発達段階が上がっていけばいくほど,児童・生徒も〈賢く〉なりますから,直接,当該の教員に態度を明らかにしなくなる傾向があるので,当の教員は気づいていないことが多いようですが。そこに信頼関係は存在しません。

だから,先程,「まさかこうした「思い」を「自己を大切にする思い」と捉える人はいないでしょうね。―そう願います。―」と申し上げたのです。教員が「エゴイズム(egoism)」に走ったとき,〈不幸〉になるのは乳幼児・児童・生徒であり,当該の教員なのです。―当該の教員の場合には自業自得とも言える。―この状態は「自己を大切にする」とは決して言えるものではないのです。

教員採用試験の受験期から,こうした「エゴイズム(egoism)」に走る教員を目指したいですか? 

「でも,(受験主体の数多くは)自分のことで精一杯じゃないか!!」(以下「a」と表記)と仰りたいのならば,「精一杯にしてしまったのはどなたのせいですか?」と申し上げた上で,「その言述行為こそ,自我中心主義(≒エゴイズム(egoism))が織り成す普遍主義そのものではないですか!!」とお返事いたします。「a」 が醸成する言説の権威性を隠れ蓑にしようとする姑息な言述行為(騙り[3]「だます」の意。)だということです。「a」を「全体(中心)」に祭り上げ,「自分のことで精一杯」にしてしまった,恐らく数多くの受験主体等が普遍的な原理をつくりあげようとしているということです。

黒板に何かを書こうとし,こちらを振り向いている白いサマーセーターを着た女子大生
黒板にチョークで書く女子大生2(提供 photoAC)
※被写体の女性は本文の内容とは関係ありません。
b 普遍主義と教員採用試験

教員採用試験に関する普遍的な原理と言えば,また次の言表を想起してしまいます。

「教員採用試験の勉強(対策)は大学4年生になって/大学院を修了する年度になってから。」
「教員採用試験の勉強(対策)は,まあ,1年程前から。」

これらが生産する言説の権威性は「偉大」だと思うのです。その言述行為の主体(たち)にとっては。ですが,そうは言っても,「「大学4年生」,「大学院を修了する年度」又は「1年程前」まではその他の勉強(学問)に勤しんでおきたい。」ならば,少なくとも解るところはあります。しかし,大半の実相は「それまでは趣味や遊びに興じ,大学生活等を満喫しておきたい。」ではないでしょうか。―この壁越し推量が的外れで無礼なものであるならば,予めお詫び申し上げておきます。―

ただ,そこでは,大学受験時の感覚が教員採用試験の受験主体を大きく支配しているのではないかと思えてならないのです。

「受験勉強(試験対策)のスタートがギリギリでも何とか間に合うかもしれない。」

なぜこのように考えるのか? それは無意識裡に「受験」を〈ゲーム〉として捉える感覚があるからだろうと思います。自己の無意識の裡で自然と〈ゲーム〉の〈終着点〉を設定してしまっているのです。その〈終着点〉が教員採用試験の当日(最終日)です。この日を迎えれば,取り敢えず「GAME OVER!」。コンピューターゲーム(computer game)のように即時に結果(試験の合否)が分かるわけではありません。しかしながら,それでも「GAME OVER!」は 「GAME OVER!」 。―だから,試験後,結果が出るまで何をして良いか分からないと述べる受験主体が現れるのです。本来「しなければならない」ことは山ほどあるはずですが。―受験技術(テクニック)を駆使し,立ち塞がる問題群を攻略して/攻略されて「THE END!」というわけです。

このような〈終着点思考〉に普遍化された原理「教員採用試験の勉強(対策)は大学4年生になって/大学院を修了する年度になってから。」や「 「教員採用試験の勉強(対策)は,まあ,1年程前から。」 が相俟って,教員採用試験攻略のための短期間の・・・・〈練習〉が始まるのです。

ですから,要は,攻略のための受験テクニックを磨くことに意識は向かっていくのです。〈終着点〉を目指して。したがって,漸次,物理的に〈終着点〉が近接すればするほど,そうした意識は志向性を高め,受験主体は所謂「(教員採用試験に対しての)攻略本(≒手っ取り早い成果が期待できる受験テクニック)」を希求しようと激甚なる衝動に駆られていくことになります。

「(教員採用)試験にはどこが出題されますか?」
「(教員採用試験において)大切なところはどこですか?」
「(教員採用試験に出題されそうな)問題を予想してもらえませんか?」

こうした言表群を耳にする度に,私には思い起こされるある過去の忌まわしい出来事があります。それは,私が某国立大学で教鞭を執っていた頃のことです。私が担当する「教育課程論・教育方法論」は教員免許状を取得するための必修科目でした。単位修得のため,学内で実施する試験が近づいてきたある日のことでした。講義を終えるや否や,普段,目にしたことのない光景が眼前に展開しました。私の講義を受講していた学生が机間に列になって連なっています。

「質問ですか?」
私は列の先頭の学生に訊ねました。
「はい。教官,今回の試験範囲においてどこが重要ですか?」
私は回答を敢えて避け,列の前から2番目の学生に同じ質問をしました。
「はい。今日,先生が書かれた板書の中で重要な箇所はどこでしょうか?」
私はこの質問にも回答をせず,列の前から3番目の学生に同じ質問をしました。
「私も同じなのですけれど,…,試験範囲の中でどこが出題されるのでしょうか?」
「次の君も同じ質問ですか?」
「はい。」
「その次の君も?」
(頷くだけ)

「君たちは,一体,大学に何を学びに来ているんだ!!」

私の怒声がマスプロ教室の隅々に響き渡りました。
受講していた学生はその殆どが教員志望だったのです。

科学系の実験をイメージさせる液体の入ったフラスコ,ボールペンと英語の論文
研究イメージ(提供 photoAC)

都合の良いことに,当該の「攻略本」は巷間のあちらこちらに転がっているのです。それらは書籍であったり,個人であったり,組織体であったりします。お金さえあれば手に入る「攻略本」なのです。

一方,人物評価を重視する方向にシフトしつつある(ように見える)教員採用試験ですら,「攻略本」の大量販売を促進するかのごとく,依然として受験テクニックによる〈攻略〉を待っているようなところが見受けられるのです。

このように概観した世の趨勢からして,受験主体が「受験勉強(試験対策)のスタートがギリギリでも何とか間に合うかもしれない。」と勘違いするのも無理からぬところがあるように思えてしまえることが,何とも不思議で情けないわけなのです。

c 20世紀の「知」の構造と教員採用試験

先述した「世の趨勢」を支え続けるものは「20世紀の「知」の構造」なのでしょう。「自我中心主義」((1)-ウ-(ア))や「普遍主義」((1)-ウ-(イ))において既述したとおり,二項対立の構図による思考性のため,教育界では,昭和20年代以来,系統学習派と問題解決学習派との激烈なる論争が巻き起こります。「優/劣」を付けなければならない思考性ですから,見掛け上は「系統学習>問題解決学習」として決着が付きます。ただし,「問題解決学習」は滅絶したわけではありませんでした。学校現場における教育活動として細々と営まれ続けてきたのです。そして,今や,例えば,「総合的な学習(探求)の時間」を経て,両系統の学習は止揚(aufheben)が目論まれています。

ただし,余りにも「系統学習」が優勢を誇る時代が長すぎたのです。ドリル学習に代表される機械的な学習・知識注入型の教育が「偏差値教育」を築き上げ,受験テクニックの体得による「受験脳」は育ったものの,〈ホントウの意味〉で物事を考え抜く(思考・判断・表現する)「地頭」は育成し難かったのです。だからこそ,漸くこの期に及んで「偏差値教育」が見直される俎上に載せられ,学習指導要領が改訂されたのです。この傾向は必ずや今後も継続します。

大学入試を初めとする現行の多くの入試及び教員採用試験等における受験界が醸し出す様相(「b 普遍主義と教員採用試験」で既述)は,まさに「20世紀の「知」」の弊害と言って過言ではないのです。その結果,自我中心主義(≒エゴイズム(egoism))に駆られた数多くの教採受験主体が見失ったものがありました。それは,自己内に思考のベクトルを向けすぎたために見えなくなったものでした。

乳幼児・児童・生徒の〈存在〉

〈教育〉に欠くべからざる乳幼児・児童・生徒の〈存在〉を見失ってしまったのです。

自我中心主義(≒エゴイズム(egoism)) の教員は,日常の教育活動(?)を通して乳幼児・児童・生徒に物心二元論(二項対立)の思考性を知らぬ間に植え付けていきます。当該教員本人にも,無論,乳幼児・児童・生徒にも植え付け/植えつけられる自覚はありません。だから,当然のこと,そうした思考性の教員が多ければ多いほど乳幼児・児童・生徒は物心二元論(二項対立)を体現する「人」に育ち上ります。現状がそうです。20世紀的な「知」の確立以降,こうした教育が王道だったのです。

おぞましいことです。

「自我中心主義」や「普遍主義」が〈相対化〉を受けている時代が到来しています。「偏差値教育」も然り。確実に時代のパラダイムはシフトしています。時代は二元論の申し子とも言うべき「ポストモダン(終焉期)」から一元論的トランスモダンの時代へと移行していきます。その移行の帰結であり,象徴がAI(時代)だと考えられます。二元論の西洋文明は鳴りを潜め,一元論の東洋文明が目を覚まします。

そのような歴史的な時代の過渡期に,「20世紀の「知」」の弊害とも言うべき「大学受験の勉強法」は,殊に教員採用試験の受験界において罷り通らない。いや,それは「勉強法を弊害的な「大学受験の勉強法」から「当塾が述べる学習法」(後述)にシフトせよ。」と述べているのではなく,まずは「大学受験の勉強法」を一先ず〈相対化〉する必要があると訴えているのです。なぜならば,「当塾が述べる学習法」は教育の〈不易〉に当たるわけで,何も「シフト」する必要はないからなのです。「大学受験の勉強法」を〈相対化〉した先には,必ずや「当塾が述べる学習法」が出現してくる。だからこそ,「当塾が述べる学習法」は(教員採用試験に特化することなく,あらゆる分野において)〈ホンモノの学習法〉と言えるのです。

このように考えれば,教員採用試験の合格の先にある本務者(教員)としての20世紀的な在り方は,直ちに〈相対化〉を受け,異なった〈相貌〉[4]本ブログの直截的な主旨ではないため,詳述は避けます。改めて別のブログで述べることにします。を示す必要があることになります。乳幼児・児童・生徒が眼前に存在し続けることを勘案すれば,このことは喫緊の課題なのです。

(次ページに続く)


References[+]

タイトルとURLをコピーしました