生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
本ブログは,【学校掃除の意義について】の第二弾です。今回と次回にわたって,フォークロア(民俗学)的な視点及び私の高校教師時代の実践とその分析に基づき,日本(東アジア,仏教圏)で児童生徒が学校掃除を行う理由について,「鍛地頭-tanjito-」の持論を述べたいと思います。
【小僧と鬼ばば】[「神(仏)性」と「便所」との連関]
山寺に和尚さんと小僧がいました。小僧が鬼ばばのいる山へ栗拾いに行きたいというので,和尚さんは三枚のお札を渡して送り出しました。
(引用:『昔ばなしの謎 あの世とこの世の神話学』,古川のり子,株式会社 KADOKAWA,平成28年9月,p.130, 改行位置は小桝が変えました。)
小僧が栗拾いをしていると,おばあさんが「栗を食べさせてあげよう」と,小僧を家に連れて帰ります。おばあさんの本当の姿をみて恐ろしくなり,小僧は「便所にいきたい」といいます。鬼ばばは小僧の足にひもをつけて逃げられないようにしますが,小僧は便所の柱にひもをくくり直し,柱に札をはって逃げました。
鬼ばばが気づいて追いかけますが,小僧は後ろに札を投げて走ります。お寺にだどり着くと,和尚さんが鬼ばばを豆粒に変えて飲み込みました。
さて,本小話をお読みになったみなさんの視点はどこにありましたか? 小僧ですか? 鬼ばばですか? 和尚さんですか? お札ですか? …
それとも,「語り手」ですか? 誰に同化しましたか? 異化しましたか?
それとも,どちらでもありませんでしたか?
(注:文学の授業が今回の目的ではないので,ここでは上述した質問の解答や術語,本小話の読み方などにはふれません。)
実は,私が注目していただきたいのは,小僧が捕らえられた,鬼ばばの家の中の「便所」なのです。
現代の「便所(トイレ・ウオッシュルームなど)」は,清潔で明るく,中には広い面積を有するものもありますね。しかし,元来,「便所」は排泄の場。伝統的に(?)不潔で(言い過ぎ?)暗くて狭い所。しかも,私もそうでしたが,幼心に恐怖感を覚える場所でもありました。
ですが,一方で,「トイレの掃除をすると,美しい子が生まれる」などの俗説があります。
(注:この場合の「美しい」が含有する価値観には,その背反事象が想定されるので,その価値観そのものに疑問がありますが,「俗説」として紹介しました。)
良い意味合いの引き合いに出されている「便所」の典型的な例です。
なぜ「良い意味の引き合い」なのか?
その際,想起するものに「産神(うぶがみ)」があります。出産期の母親と誕生してくるこどもを守る神様で,「産神」として「箒神」「便所神」「道祖神」「山の神」などの信仰もあります。
このように考えてくると,「トイレの掃除―産神ー箒神―便所神―道祖神―山の神」(*)は「安産」に帰結しますよね。特に,「掃除」と「箒」で思い起こすのは,前回のブログで紹介した「周利涅槃(シュリ・ハンドク)」です。「箒」一本で心の「垢」と「塵」を払い去り,仏性(ぶっしょう)を顕現したお釈迦様の十大弟子の一人です。
ということは,*の連関性には「浄化」が通底していると言えるのではないでしょうか? 恐らく,そこには,昔「お産は不浄なもの」との考えがあったからでしょうね。私はそうした価値観を全く持ち合わせてはいませんが。
何はともあれ,「便所」には「神(仏)」が坐(ま)しますということになります。冒頭の小話で述べれば,小僧を鬼ばばから救った「お札」に神(仏)性が宿っており,その対極に「鬼ばば」が位置付けられていると言えるわけです。そして,その「お札」の効験はあらたかであり,しかも,起点となった場所が「便所」だった。
(注:そうした意味において,「お札」を「小僧」に渡し,「鬼ばば」を「豆粒に変えて飲み込」んだ「和尚さん」は「便所神」だったとも考えられるわけです。)
では,なぜ「便所」に,上述したような霊的地場を感じるのか?
1冊の書物だけにその根拠を求めるのは余りにも浅薄なやり方ですが,ご容赦を願って,小話の引用元となった前掲書から目ぼしい箇所を抜粋してみます。
境界神としての便所神
この昔ばなしに登場する便所は,山奥の山姥の領域の内にある。山姥が住む異界は,小僧にとっては死の世界である。しかしこの便所はまた,小僧がこの世に帰るための脱出口でもある。つまり便所はあの世とこの世を結びつける境目にあり,死と生の転換点に位置づけられている。(前掲書 p.134)
便所は「この世とあの世との霊魂の出入り口」(宮田登『神の民俗誌』岩波書店,1979年)であり,その穴の奥は死の世界につながっている。だから生まれたてで,まだあの世の腐臭が漂う赤子を便所神のもとに連れていき,その魂がこの世に生まれ出たことを感謝するとともに,穴の奥の世界へもどることがないように願うのだ。(前掲書 p.136)
飯島吉晴氏は多くの習俗や伝承から,便所の意味について考察した(飯島吉晴『竃神と厠神』講談社学術文庫,2007年)。それによると,便所はこの世と異界の境界領域であり,異なるものが出会うきわめて両義的な空間である。それゆえに人が別のものへと変身したり,時空間が新たなものへ移行するのを媒介する転換の場でもある。便所神はこのような便所の特徴を凝縮した境界神であるという。(前掲書 p.136)
要するに,今流行(?)の言葉で述べれば,「便所」は「異界」と「現世」との狭間に存する「スピリチュアルスポット」というわけです。便所(トイレ)を舞台とした(学校の)怪談が多いのも,そこに所以があるのかもしれません。
ただ,前述した引用にあって看過してならないのは,「人が別のものへと変身したり,時空間が新たなものへ移行するのを媒介する転換の場でもある。」という件(くだり)です。
次回のブログで詳述しますが,私が高校教師であった頃,トイレ掃除を共に行う生徒たちに,不思議とこうした「変身」や「転換」が起こったのです。その事例を挙例しながら,生徒指導(特別活動)に視座を据え,生徒たちに生じた「変身」や「転換」について分析し,「日本(東アジア,特に仏教圏)で児童生徒が学校掃除を行う理由」についてまとめてみたいと思います。
では,次回,またお会いいたしましょう。
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