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「鍛地頭-tanjito-」私の合格体験記 vol.63

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「鍛地頭-tanjito-」私の合格体験記
この記事は約35分で読めます。

2022.11.18
2020.5入塾
塾生 さくら

「鍛地頭-tanjito-」と出会ったからこそ,粘り強く頑張ることができたのです。
(さくら)

さくら先生,ホントウによく頑張られましたね。
並々ならぬ努力をなさっていることはよく分かっていました。
家事・育児・パートタイム…それに「鍛地頭-tanjito-」での勉学。
幾度か「睡眠時間を確保されていますか?」と伺ったことを覚えています。
午前2時や3時に先生のOneNoteが動き出す。
それを見て,[1] … Continue reading内心,とても心配していました。

「身体を壊されては元も子もない。」

学問や教育実践に妥協を許さないのが当私塾です。
つまり,塾生・受講生は確固たる自己管理を行いながら,徹底的に学び続けなければならない。
それが〈ホンモノの教員〉の責務というものです。
〈ホンモノの教員〉には学問[2]理論だけを修めることが「学問」ではない。理論と実践とは表裏一体であり,その一体化した体系を「学問」と呼ぶ。に正対する〈学び〉のレジリエンスが必要なのです。
だから,当私塾はそれを鍛えるのです。

さくら先生が私に改めて教えてくださったことがあります。
それは,「謙虚」,「誠実」,「実直」であることと「レジリエンス」とは一体であるということです。
また,それらは学問を修める身の奥底にあるのだと。
そして,「謙虚」,「誠実」,「実直」であるからこそ,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」であり,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」であるからこそ,「謙虚」,「誠実」,「実直」であるのだとも。

講座や雑談中,さくら先生はよく「生徒たちに力を付けたい。」とおっしゃっておられました。
それはまるでさくら先生の阿頼耶識から発せられるように,私には聴こえていました。

人一人ひとり異なった様相はあるにせよ,家事・育児・パートタイム……を熟しながら,どのように学び続けることができるのか。共に学ばせていただいて,これから出会う/既に出会っているさくら先生と同様の環境にある塾生・受講生の方々とどのように学び続ければ良いか,私自身,一定の共通解と自信を持つことができたと喜んでおります。偏にさくら先生のお蔭です。

これまで,私はさくら先生に次の言葉を語り続けました。[3] … Continue reading

「あなたの存在自体がこどもたちの〈学び〉になる,あなたのありのままの言動がこどもたちに〈学び〉を与える,〈あなた〉からこどもたちは(暗黙裡に)〈学び〉を得る,そのような教員を目指してください。」

そして,これからも,私はさくら先生にこの言葉を語り続けるのです。

                                          (塾 長)

〔追記〕
次に,さくら先生から頂いた「「鍛地頭-tanjito-」私の合格体験記」(文字の背景 ピンク色)を掲載するとともに,それに対する「塾長の気儘な呟き」(トグルバー:バーの背景 浅葱色/文字の背景 黄色)を添えることにします。

 1 はじめに

私は,「鍛地頭-tanjito-」塾生の“さくら”と申します。
家事と育児を熟しながら,勉強をしています。
秋[4]2022年の「秋」のこと。からはパートタイムも始め,日夜奮闘しております。
2023年4月からは,現場の教壇に立ち,一教員として,さらに奮闘して参る所存です。

 2 「鍛地頭-tanjito-」との出会い

2020年3月,教員採用候補者選考(以降「教採」と表記)の筆記試験合格を目指していた時のことです。 試験まで時間が無い中で,日夜,市販のテキストに記載されている語句をインターネットで調べておりました。 

ある日,いつものように調べていると,急にパソコンの画面が乱れました。 
突然,「鍛地頭-tanjito-」のオープンチャットへアクセスするためのQRコード画面が開かれました。 
何度も出てきて,何度も消しました。
時計を見ると丑三つ時でした。 
部屋が薄暗いのも相俟って,恐怖を感じて寝床に入りました。 

翌朝,落ち着いてから,「鍛地頭-tanjito-」のホームページを閲覧しました。
そこに記された塾長や副塾長[5]現在,副塾長は独立し,メンタルケア心理士として活動中です。の経歴,数々のブログを拝読しました。 

この教員養成私塾を立ち上げた塾長と副塾長は,人生の多くで労苦を重ねた方々なのだなと思いました。 
ここならば,安心して身を委ねられそうだと思いました。 

そうして,オープンチャットの門を叩いたのです。 

最初はまやかしのような不思議な感覚でしたが,今思い返しても,この出会いが,合格に近づく第一歩だったと確信しています。 

因みに,オープンチャットは数多くの参加者がいらっしゃるにもかかわらず,その閉室時に,塾長が1人,ポツンと「本日も終焉です。」と最初に述べてから,翌日の開室に向けて教採に関するコンプライアンスの問いを出題しておられました。その問いに答える方は極限られたメンバーでした。

おいおい,当私塾がパソコンにウイルスを忍ばせたような語りになっているよ(笑) 読者の皆様,そのようなことは決してありませんから,ご安心ください。「丑三つ時」なんて霊感商法紛いも行っておりません(笑)

それにしても,この出会いを〈運命〉と呼ばないで何と呼べば良いでしょうか。どう考えても〈運命〉しかない。そう,〈運命〉は人間の力で絶対に変えられるものではありません。変えられたと思った現象こそがまさに《運命》だからです。変えられると思うのは人間の思い上がり,人間(自我)中心主義の産物なのです。変えられないからこそ,さくら先生も当私塾も,〈運命〉に誘われるまま,一刹那一刹那を大切に生きているのです。[6]「一刹那一刹那を大切に生きている」ことこそが,さくら先生や私の《運命》なのです。

さくら先生,だから当私塾との出会いは「まやかし」ではなく,確実に〈運命〉だったのです。

そう言えば,さくら先生,まだ他に「学問」をキーワードとした〈運命〉としか思えない,世俗風に言えば,スピリチュアルな出来事がありましたよね。例の吉田松陰の……。

オープンチャットの運営で再認識したこと。それは,「対話[7] … Continue reading力」のない教職員は教職員の資質・能力の一つを欠損しているということ。だからこそ,教職員にとっての「資質・能力の三つの柱」を鍛えることが喫緊の課題であるということ。

 3 「鍛地頭-tanjito-」の学び

塾長は,とことん勉強に付き合ってくださいます。特に,次に掲げる3つの方法です。

〈学縁〉[8]学問とのご縁。学問を志す同志のご縁。があるからです。私自身も常に学んでいたいし。だから,とことん付き合います。


学びの方法の1つ目は,添削です。

OneNoteを用いて,塾長から課された課題に解答し,教職員としての「資質・能力の三つの柱」を鍛えます。

私は,勝手に「薔薇色の添削」と呼んでいます。
課された課題を解答するためには,数多くの書物や参考資料を読み込まなければなりません。
そして,自身で言語化し,文章で書き表すのです。
その解答について,塾長が添削してくださるのです。

また,ふと思い付いた質問についても,回答をくださいます。
一言問うと百の返事があるくらい,マメです。
そのため,課題を熟すごとに,どのようなお返事がいただけるのか,毎回楽しみでした。

解答した瞬間に添削をくださったことも多々ありました。
いつでもどこでも他者と繋がることができるというところがオンラインのメリットですので,「鍛地頭-tanjito-」は最大限にICTを利活用していますね。

飽きずに,諦めず,粘り強く勉強を頑張れたのは,塾長によるマメな「薔薇色の添削」があったからだと実感しています。その結果,書く能力が格段に鍛えられたと感じております。

なぜ「薔薇色の添削」を施すのか。その理由を例示してみます。

  • 教職員としての「資質・能力の三つの柱」を鍛えるため。…A
  • (Aとの連関で)〈相対化能力〉を養うため。
  • (Aとの連関で)エピステミックな/手続き的な知識を習得するため。
  • (Aとの連関で)〈学問〉に正対する態度を養うため。
  • (Aとの連関で)自らの〈学び〉に責任を持つため。
  • (Aとの連関で)〈学び〉のレジリエンスを鍛えるため。
  • 言語(運用)能力を高めるため。
  • 情報活用能力を高めるため。
  • 問題発見・解決能力を高めるため。
  • 理論(知)と実践(知)との一体的な感覚を養うため。
  • 塾生・受講生個人の〈学び〉を深めるために,塾生・受講生その〈人〉を知るため。
  • 〈学び〉の楽しさを味わうため。
  • ……………

学びの方法の2つ目は,対面指導です。
オンラインによるリモート対面で,教職員としての「資質・能力の三つの柱」を鍛えていきます。

リモート中,船を漕いでしまったあの日々を,懐かしく思います。

また,その時々でカウンセリングを実施してくださいました。

私は,入塾当初,自信が全く持てませんでした。
そのため,何も答えられないことが多かったのです。
緊張もあったと思います。

そんな私を見て,塾長は「対話」を通して,「個別最適な学び」を試行錯誤してくださいました。

特に印象的な「対話」を,3つ紹介致します。

家事・育児・パートタイム・当私塾での学び……講座中,次第に世界が遠くなるような,一点を凝視し動かなくなったさくら先生のまなこ。その刹那,全身が波打つノッキング。それでも恰も気を失っていなかったかのように身を乗り出しリモート対面指導に食らい付くさくら先生。今でも覚えています。こうしてレジリエンスは鍛えられていきました(笑)

「カウンセリング」と言っても,ガイダンス・カウンセリング風のお悩み相談といった感じですかね。

当私塾には「「鍛地頭-tanjito-」メタローグ」(教職・教採に関する相談ルーム)を設置しておりますので,ご活用ください。

「対話」を通して,塾生・受講生の個性的な〈良さ〉を見出す。それは〈学縁〉を結んだ同志として当然のことです。さくら先生ご自身も粉骨砕身して自らの〈学び〉を構築しようと懸命でした。だからこそ,猶更,当たり前のことなのです。

抑々,自らの〈学び〉には自らが責任を持たなければなりません。他者に丸投げするのは以ての外。教職員たる者が「学び方が解らないのでどうしたら良いでしょうか。」では話になりません。

「主体(性・的)」とは何かといった問題は,今は扨措くとしても,他者視点[9]自己内他者の視点を含む。を介在し,自己内対話を通して「(学びの)自己ー(学びの)自己内他者」間の鬩ぎ合いの中で屹立してくる「主体」を〈相対化〉した上で,自らの〈学び〉を構築する。教職員ならば至極当然の姿がさくら先生には見えたので,やはり当たり前だったのです。


1つ目は,やりとりです。

例えば,導入です。
講座の始めに,「あのニュースを知っているかい?」と,質問から始まります。
そして,私が答え,繰り返し言葉のキャッチボールを行うのです。

教育時事は教員ならば知っておかねばなりません。

また導入は,不思議と,一元的に,講座の本題へとつながってくるのです。

「言葉のキャッチボール」,つまり,「対話」のことですね。

塾生・受講生には常に述べるところですが,「思考・判断・表現しようとしても,知識・技能がなければ,それは十分には叶わない。コンプライアンスを含めて,教職員として必要な知識・技能も身に付けておかなければならない。また,それらの知識を統合するための〈知識〉を持っておかなければならない。しかも,それらの恒常的なアップデートを怠ってはならない。」と。したがって,各種の講座は「やりとり(「対話」)」を実践する確固たるねらいを持っているわけです。

「不思議と」? いえ,意図的です。


2つ目は,話す特訓です。

例えば,広島県のお好み焼きに関する話です。
広島県には美味しいお好み焼きがたくさんあるのだそうです。

私が住む東京にもお好み焼きは勿論あります。
本場で食べるお好み焼きはもっと格別だと思います。

私の専科は家庭科ですので,食の話題は大好きです。

話す特訓は,お好み焼きの話に限りません。
熟した課題の中でも話す特訓は行われます。

塾長と話す特訓をしていくうちに,あることに気が付きました。
それは,自分自身との〈対話〉を行っていたということです。

塾長との「対話」を通して,私自身が最も大事に思う,「揺らがない学問とは何か」を再認識できました。

私は生粋の広島人です。だから,お好み焼きは大好きです。ああ,アルコールも。お好み焼きは広島が一番だと思っています。因みに,カープも大好きです。

それにしても,講座の中で「食」を話材にすることは多いですよね。元来,(私は)食いしん坊ですから。

「熟した課題の中でも話す特訓は行われます。」………💦 あのう~,「熟した課題」の話材の方が「お好み焼き」のそれよりも圧倒的に多いのですが……。

まあ,それは扨措き,塾生・受講生の先生方から「広島に集結してお好み焼きツアーをしよう!」といったお話が出ていますね。

大歓迎です!! 行き付けの「おいしいお店」に皆様をお連れしますよ。

コロナに早く終熄して欲しいものです。

流石ですね。よく気が付かれました。「話す特訓」の一つのねらいは,そこにあるのです。

「主体的・対話的で深い学び」の「対話」の入り口から少し奥に入ったところに「自分自身との〈対話〉」があるのです。そして,さらに奥に入ることができれば・・・・,〈相対化〉の境地がある。ただし,その〈対話〉の内実が大切なのです。内実次第では〈相対化〉の境地は出現しません。ですから,次の講座でさくら先生のその内実を確と伺うことにしましょう👹

これで,「主体的・対話的で深い学び」の特に「対話」に関する理論(知)と実践(知)がさくら先生には見えてきたのではないですか? それとともに,児童生徒に「主体的・対話的で深い学び」を行わせるための一つの方法(問答法)に手掛かりを見出されたのではないかと思います。さらに,そのような「対話」を実現化するためには,教職員自身に教職員としての「資質・能力の三つの柱」が確実に育っていないと,それは実行不可能であることもお解りになったはずです。

以上,今述べた点について,さくら先生,今一度,ご自身をメタ認知(=〈相対化〉)してみてください。


3つ目は,言動の指摘です。

塾長の専科は国語ですから,徹底的に国語表現を鍛え直してくださいます。

例えば「ら」抜き言葉です。
断固として許さず,言葉を発した瞬間に,指摘されます。

また,ある日のことでした。面接に行くときの髪型について,ぼそっと独り言を漏らしたことがありました。

「スタイリング剤を用いて,髪全体をカッチリと固めてっと。」

それを耳聡い塾長が聴き付けられ,その刹那,一言を放たれました。
「ヘルメットを被るのか!?」
今でも鮮明に記憶が蘇ります。

身だしなみを清潔にすることは大切なことです。ですが,嘘のように塗り固めるのは人として良くないということを仰ってくださったのだと思います。

兎に角,リモートによる対面指導の中で,認め伸ばすところは認め伸ばし,直すところは徹底的に改善指導をしてくださいます。

まずは,日本語の美しさや豊潤さを感じ取っていただきたいからです。そして,正しく遣う/遣おうとする意志を持っていただきたいからです。

教職員は乳幼児・児童・生徒の言語環境の一部です。人間は外的環境に左右されやすい存在ですから,猶更,教職員の言語行為は慎重に営まれなければならず,そういった意味で,責任を伴うものです。

教職員の営む言語行為は「潜在的カリキュラム」を構成します。このカリキュラムはプラス面に作用するだけではありません。マイナス面にも作用します。

「潜在的カリキュラム」と「顕在的カリキュラム」とが整合・補完するとき,甚大な教育効果を及ぼすことを鑑みれば,教職員はやはり自ら営む言語行為に責任を持たなければなりません。言語行為を含めた自らの教授活動に責任を持つ態度を養うこと,これが,現状,教職員の喫緊の課題だと思うのです。

無論のこと,上面で教採の面接を通過するための似非-パフォーマンス(服装指導)をでっち上げようというわけではない。当私塾がそのような陋劣な指導を行うはずがない。

当私塾では「面接試験対策講座」を通して,教職教養全般について広く深く学びます。その指導法は三段階を数えるのです。[10]「三段階」の内情を語ることは,本ブログの目的ではない。別稿に譲りたい。

当私塾で学ぶ者は学問や教育実践に対してだけではなく,例えば,「面接試験対策講座」などを通して,自己に対するレジリエンスを形成していきます。したがって,普段,「身だしなみ」や「所作」を気に懸ける必要はないし,気にする必要もないのです。学問や自らの教育実践に真摯に向き合えば,必然的に真面になるし,抑々,真面な塾生・受講生しか入塾して来られないのです。

「身だしなみを清潔にすることは大切なことです。ですが,嘘のように塗り固めるのは人として良くないということを仰ってくださったのだと思います。」

「申し訳ない! 残念ですが,そのようなことを思ったのではないのです。抑々,さくら先生は我が身を似非-パフォーマンス(嘘・騙り)で塗り固める方ではない。」

「何たって教採の面接選考は「ヘルメット」を被って立ち向かうところではない。戦場ではないのだ。」

瞬間的にただそう思っただけなのです。

「良いことは良い。」「いけないことはいけない。」

そのように減り張りと(そのように述べる)理由を付けて/理由を思考させる指導を行うことは至極当然です。

「良いことは良い。」と言えるが,「いけないことはいけない。」と言えないようでは,教職員にならない方が良い。

そうした発話の対象に改善が期待できないからです。それは「教育」ではないし,「指導者(教職員)」ではない。

減り張りと理由を付けて述べる/理由を思考させることができるようになるためにも,日常の人間関係を形成しておく必要があるのです。――仮に,人間関係が形成されていなくても,「いけないことはいけない。」と言えないといけないのですが。

このように考えてくると,「「良いことは良い。」「いけないことはいけない。」と減り張りと理由を付けて適切に評価言を運用できる教職員の資質・能力とは一体何か。」といった問いが立ってくるのです。

そうです。あれです。

さくら先生はよくお解りのはずです。次回の講座で伺います👹


以上,3つのやりとりを紹介しましたが,これはほんの一例に過ぎません。

塾長は,時にはエスパーの様に,時には月の様に,時には厳しい阿修羅の様に指導してくださいました。

その結果,他者に,どのような場面でも,自信を持ち,自己開示できるようになりました。
思いやりに大変感謝しております。

教員としての現役時代には,生徒の問題行動の兆候を先読みし,それが的中することが重なったため,「ノストラコマス」と渾名されていました。

私本人とすれば,問題行動の未然防止(発達支持的生徒指導の一つ)に努めていたつもりでした。

「月」……私が「月」??

「自然美」,「神聖性」,「受容性」,「感応性」,「潜在意識」…もしかして…「冷たい光」…

いずれも該当しないような…。えっ,「冷たい光」は合っているって!?…それはないでしょう💦

さくら先生とは「お月さまと コロ」(『わたしたちの道徳 小学校1・2年』(文部科学省,pp.48-51)),「二人の弟子」(『わたしたちの道徳 中学校』(文部科学省,pp.126-131))を,長い時間を掛け,一緒に読みましたね。その際の印象で,「月」と「私」とが重なり合いましたかね?

ああ,私がよく「自己内他者」と述べるから,「月ー自己内他者ー私」の連関を仰りたいのですかね?

狭苦し~い

ここで「阿修羅」は学問に対する厳しさの象徴ですかね?

確かに,私自身のいつもの口癖(の一つ)を想起します。

「学問は厳しいもんよ!」

児童生徒等に自然に「自己開示」できる先生方がおられるのです。そのような先生方には生徒指導のプロが多いように思います。さくら先生はまた一つ専門性をグレードアップされたのですね。

先程,「学問は厳しいもんよ!」が口癖であると述べました。そして,また一つの口癖を思い起こします。

「優しさ(思いやり[11]パターナリズムの陥穽に陥ることのない,脱中心化した〈思いやり〉のこと。)と厳しさはコインの表裏の関係じゃけんね。」


学びの方法の3つ目は,書籍の勧めです。

フランスの哲学者ルネ・デカルトは次のような言葉を残しています。
「すべて良き書物を読むことは,過去の最もすぐれた人々と会話をかわすようなものだ。」

入塾して間もなく,始まったのは学習指導要領と解説の講読でした。

これは,「鍛地頭-tanjito-」から始まったことではありません。
大学の教育課程の時間から始まっています。

特に私には,過去に実施した教育実習において,胸を撃たれた経験があります。
それは,教育実習の担当教官から受けた,次の指導です。
「学習指導要領は基準です。最も,大事です!」
教師たる者,いつの時代も,学習指導要領が最も大事なのです。

「鍛地頭-tanjito-」では,大学の記憶は過去の記憶として留めて置きながら,一言一句,丁寧に学習指導要領を読んでいきます。

専門教科に始めは捉われていましたが,次第に他教科の学習指導要領も気になってきます。
そこで,一瞥することも少なからずありました。

学習指導要領の講読は,勿論,塾長との「対話」による指導付きです。

また,塾長から多くの書物や参考資料を読むように勧められました。
勧められた書籍を町の図書館で借り,本屋やインターネット等で購入するなどして,できる限り読み漁りました。

塾長は,まるでデカルトの様に最良の書籍や参考資料を勧めてくださいます。
私は結果的に,専門分野だけでなく,学習指導要領全体の見方・考え方を知りました。
そして,私自身の見方・考え方が広がり,深まったと感じています。

「教師たる者,いつの時代も,学習指導要領が最も大事なのです。」

この言述に激烈な抵抗感を覚える教員と呼ばれる者が結構多いのではないでしょうか。

自由意思で教育公務員の枠組みを選択しておいて,その世界のルールブックに反対する/を知らない。それでいながら給与は手にする。「学習指導要領」の(記述内容の)是非は扨置くとしても,そのようなことが許されるプロの世界がどこにあるのか! エゴで無理やり契約を不履行にする。一体,そのような者たちがこどもたちに何を教えるのか!

日本は法治国家なのです。「学習指導要領」は学校教育法施行規則と同等の法的拘束力を持ちます。

校種を超越し,学習指導要領の全体を俯瞰することによって,その体系を摑む。だからこそ,自らの校種に関する学習指導要領の記述内容が理解できるのです。

体系化された記述内容と教育の歴史的時間軸やこどもたちの発達段階を重ね合わせる時,「過去ー現在ー未来」連関の中で現代が要請してくる学力(学習指導要領に措定されている学力観)や該当する発達段階に必要な学力が浮揚します。こうした行為を営むことは,教育公務員を自ら選択した者の当たり前の責務です。

因みに,デカルトは物心二元論の祖と言える存在ですが,私は物心一元論の立場です。なぜならば,万物は一であるからです。時代も既に一元化の一途を辿ろう/戻ろうとしています。

それと,さくら先生,これからはご自身で良書をお探しください。〈学問〉に正対する起点はそこにあります。決して冷たく突き放しているのではありません。勿論,ご相談のための「対話」はこれまでどおり重ねて参りましょう。〈厳しさ〉と〈優しさ(思いやり)〉はコインの表裏の連関にあるのです。


 4 「鍛地頭-tanjito-」で自分に打ち克つ

塾長は常に問答無用で次の言葉を投げかけてこられます。

「ホンキで教員になりたいんか!?」

この問いを投げかける時,塾長は,いつも心の底から強く訴えておられるのです。
〈教育愛〉に満ちているのです。

だから,本来,自分がどうしたいのかを考えさせられます。
「自己をメタ認知せよ!」

教員養成の阿修羅と化した塾長の訴えは,単なる口からの誤魔化しではありません。
「アウフヘーベンじゃ!」

私は,「鍛地頭-tanjito-」で学びながら,日々,「自分自身」と向き合っていました。
本当はどうしたいのか,家事・育児等,ふとした瞬間に〈自分自身〉が私の脳に問いかけてくるのです。
特に,勉強が滞っている時に限って,脳裏を過ることが多かったのです。

答えは教師になりたいという気持ちでした。

自問自答の日々を過ごし,粘り強く学んだ結果,「自分自身」の弱い気持ちに打ち克つことができたのだと考えます。

ひん曲がった自我中心主義が跋扈する現代社会。教員志願者に餞として贈る唯一無二の声掛けです。

「ホンキで教員になりたいんか!?」

「教員」とは,無論のこと,〈ホンモノの教員〉のことです。

この声掛けにリアクション,少なくともレスポンスするためには,教職員としての「資質・能力の三つの柱」が鍛えられていなければなりません。

教職員としての「資質・能力の三つの柱」が鍛えられてくると,「縁起」が理解できるようになります。そこに〈利他性〉が宿ってきます。

これが「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」に通ずるのです。

「他者視点を介在し,自己内対話を通して「(学びの)自己ー(学びの)自己内他者」間の鬩ぎ合いの中で屹立してくる「主体」を〈相対化〉した上で,自らの〈学び〉を構築する」と「「個別最適な学び」を試行錯誤してくださいました」のところで述べました。

さくら先生の仰る「自問自答」とは,このこと,〈自己内対話〉ですね。

「鬩ぎ合い」は難行苦行です。一朝一夕には成し得ない。「資質・能力の三つの柱」の三本目で「調整(=メタ認知)」と「粘り強さ」が求められている所以です。

したがって,こうした認知行為を(十分に)成し得ず,堅固なレジリエンスを身に付けていない教職員が児童生徒等にそれを求めることはできない。だから,教職員としての「資質・能力の三つの柱」が鍛えられなければならないわけです。

「答えは教師になりたいという気持ちでした。」

「「自分自身」の弱い気持ちに打ち克つことができた」瞬間,一つの「鬩ぎ合い」に終止符が打たれた。(教員になるための)「主体」が屹立した瞬間だったのかもしれません。

ただし,これからも種々の「鬩ぎ合い」は継続するものと思われます。それを「人生」と呼びます。


 5 勉強に心が折れることもあった

塾長は塾生・受講生の実態を見極めて,「個別最適な学び」を組み立ててくださいます。

私は,入塾当初より,塾長に,自信を持って他者に話ができるようになりたいと要望していました。
話す力を鍛えるためには,聞く力,書く力,そして読む力も必要です。

初めは自信が無く,塾長から課される課題について解答できずにいました。
その理由は,調べたり考えたりするだけで時間が過ぎていたからです。

ですが,その甲斐があって,段々と知識量は増えました。
それは自分自身でも自覚できました。
暫くして,「今までよりも賢くなったよね。」と,身近な周囲も認めてくれるようになりました。

しかし,やっと課題に解答できるようになった頃に,とある問題が起きました。
塾長の鬼の添削です。
「文章が捻じれています。」といった文言と共に再提出になるのです。
それも頻回です。

解答する度に,文章が捻じれるのです。
自分自身でも自覚できるほどでした。

再提出の度に,正直心が折れました。

初めて心が折れた日に,少々落ち込みながら,たまたま古本屋へ入りました。
そこで,最初に目に入った本のタイトルが,『マンガでわかる 地頭力を鍛える』(細谷 功 (著), 星井 博文  (著), 汐田 まくら (著),東洋経済新報社 ,2017/6/30)でした。

塾長の口癖の「セレンディピティー」でしょうか。

その書籍を観た瞬間に「鍛地頭-tanjito-」の滞っている課題を熟さなければならない気持ちになりました。

また,いざ課題から離れてみると,勉強していたことが頭の片隅で沸々と湧いてくるのです。
こんな感じです。
例えば,「あの課題についてはこうだな」とか…「塾長がおっしゃっていたことってこういうことか!」とか…。

それからというもの,気分転換を差し挟みながら,課題を熟していきました。

あの日々が,私自身の心・技・体を鍛えたのだと自負しています。

「調べたり考えたりする」ことが一つのねらいでした。

総合的な学習(探究)の時間など問題発見・解決学習に「調べたり考えたりする」ことは当然の付き物です。各教科等にもそれは求められています。学習指導だけの話ではなく,それができなくて,教職員が務まるものではない。

そういうことです。

また,学びを粘り強く調整できたからこそ,その結果,「身近な周囲も認めてくれるようにな」ったのです。

粘り強くよく頑張られました。

ですが,こうした〈学び〉のレジリエンスが十分でなくて,教員とは呼べません。こどもも大人も自らの学びに責任を持つ時代が到来しています。

認知スキル,ICTスキル及びSTEMに関するスキルなどだけではなく,それらと相互連関を有する非認知スキル(社会・情動的スキル)を鍛えなければ,VUCAの時代を乗り越えることは困難でしょう。「学習に対する構え」[12]参考:『OECD Education2030 … Continue readingが注目を浴びる時代なのです。

こうしたスキルの獲得は,当然,こどもたちにも求められている。だからこそ,「それを教職員が身に付けていなくて,一体,どうするの?」と,これも口癖のようにぼやいてしまうわけです。

さくら先生は〈ホンモノの教員〉になるための一つの登竜門を突破されたのです。

私塾内でも述べました。私自らの実体験から述べたのです。

〈学問〉にホンキで専心していることが条件です。難題に解決の方途を見出せず,暗闇に突き落とされることが往々にして起こります。しかし,それでも粘り強く・・・・解決の方途を見出そうと藻掻くのです。その苦しみは並大抵ではない。自らの喉元を自らの両手両指で掻き毟るような思いを味わう。そのようなケースで「セレンディピティー」が起きるような気がするのです。

私の一つの「セレンディピティー」も,さくら先生と同様,学生時代に大学の周辺にあった古本屋で起こったのです。その古書は古びた書棚に鎮座していたのです。難題とは全く無縁に思えたその古書を何気なく手に取りました。そして,また何気なく開いた両開きのページに目を落とした瞬間,思わず瞠目してしまったのです。

そこには難題の解決に結び付く二十数行のリニアがありました。――未だにどうしてその古書を手にしたのか,なぜそのページを開いたのか,理由は全く分かりません。だから,「セレンディピティー」なのでしょうが。――

体育学で述べる「黄金の休止」に酷似した現象なのでしょうね。

運動の領域において,ある期間,特定の練習に専念する。その後,しばらくの間休止状態をつくり,練習を再開すると,以前に増して練習の成果が上がる。

しかし,「黄金の休止」が奏功するのは,運動だけではなく,学問においても,成長の初期段階ではないかと思います。無論,「黄金の休止」に気づく段階に辿り着くまでに人並みならぬ努力が必要でしょう。

したがって,万一,この「黄金の休止」に効果が伺えなくなったとき,さくら先生の学問はまたワンランク上の段階を迎えている。そのように考えて良いのではないかと思います。

そのためにも,連続する毎日が「黄金の休止」となってはならない。これも私の口癖で塾生・受講生に小言のように述べている言葉です。

「学びに「0」の日をつくるな!」

「学び続ける教員」,それが責務です。


 6 合格発表当日

待ちわびていた最終合格発表の当日です。
いつもならば,合格発表の時間前にはパソコンの前に待機し結果を待ちます。

しかし,今回は忙しく,合格発表当日を忘れておりました。

たまたま,その日は「鍛地頭-tanjito-」家庭科部会第6回の定期開催日でした。
塾長から開口一番に結果を尋ねられました。

知らなかった私は,その場で結果を見ました。
名簿に私の番号が載っていました。

その時の反応は,事前に結果を知っておられた塾長が期待する反応では無かった様です。
「無」でした。
現実味を感じられないような,夢を見ているような感じでした。

悶々と,色々と考えました。

1つ目は,塾長への感謝です。 
塾長が親身になって勉学に付き合ってくださったからです。

2つ目は,家族への感謝です。
いつも応援してくれたからです。そのお陰で,勉強を頑張ることができました。

3つ目は,面接官への感謝です。
私の考えや思いを親身になって聴いてくださったからです。

4つ目は,自分への感謝です。 
自分の弱さに打ち克ったからです。

最後に,嬉しいことに集団面接で同じグループだった先生方が全員合格されておりました。
これから一緒に働けると思うとワクワクします。

当私塾の塾生・受講生に起こる現象です。そのような塾生・受講生の共通点は「無(欲)」であることと言って過言ではないでしょう。

(教採の)受験勉強が学問に変身する。

それが「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉です。再三繰り返すように,受験ごっこ・受験ゲームに現を抜かしている場合ではないのです。当私塾の殆どの塾生・受講生は,現に教壇に立っているのです。当然,当私塾の〈学び〉は学校現場で〈生きて働く学び〉でなければならないのです。常に乳幼児・児童・生徒が基軸です。だから,利他的に真剣なのです。エゴイスティックに真剣ではないのです。

したがって,必然的に無意識裡に〈学び〉に自己同一しようとします。その際,人(塾生・受講生)は無に帰するのです。そうした〈学び〉が継続すれば,蓋然的に合格発表当日を忘れるのです。

自らの受験番号を視認したさくら先生は至ってクールでした。それも必然です。

その後,4つの感謝が心底から湧出します。就中,さくら先生らしい「感謝」は,「3つ目」の「面接官への感謝」です。「私の考えや思いを親身になって聴いてくださった」には,日頃,他者とのつながりを重んじるさくら先生の為人が如実に伺えます。H先生と同様,「謙虚」なのです。

現代人の数多くが失った美徳。教採等の受験対策などを通して,エゴの塊と化した者を含め,教職員の衣服を纏ったエゴイストたちが闊歩する学校教育界にあって,両先生はなくてはならない〈存在〉なのです。

「いやあ,参りました。」

当時を思い出すと,あの時感じたバツの悪い思いが蘇ります。何も言えなくなった…。

私は,まず,リモートの画面に姿を現すさくら先生の神妙な顔付と「合格しました。」との冷静ではあるのですが,張りのあるお言葉を期待していました。

「一つ目の想定は外れたらしい。さくら先生はまだご自身の合格をご存知ないようだ。」「それならば,二つ目の想定で。」

私は,

「来年に目標を持ち,これまでの〈学び〉をさらに伸ばしていこうではないか!」

と高らかに嘯いたのです。

「落ちたのですね。」

と,さくら先生は静かに低い声で応じられました。そして,厳かに「合格者」欄に掲載されていた自らの受験番号をチラ見された後,一層低くなった声で,

「あっ,あった…。」(沈黙)

(さらに,沈黙)

(もう一つおまけに,沈黙)

「…………(反応がない……。)………(掛ける言葉が見当たらない。あれだけ頑張られたのだから,何か多少なりとも反応があると思ったが……表情も変わらない……)………(「(不合格の素振りは)嘘でした~」などと述べる雰囲気では……ない。)……」

さくら先生,嘯いて申し訳ございませんでした🙇

    H先生の「合格体験記」

 7 家事・育児と勉強との両立

私は,家事・育児の傍ら,隙間時間を用いて勉強していました。
独学で教採を突破しようと思っていました。

そのため,「鍛地頭-tanjito-」に本格的に入塾する際には,かなり勇気が必要でした。

初めの無料カウンセリングの際に,副塾長が次のようにおっしゃいました。
「私だったら,子どもをおんぶしてでも勉強するよ。オンラインの魅力はそれができるところよ!」

私は,自信が無いことから来るモヤモヤとした言葉にならない悩みを抱えておりました。
それが一気に吹き飛びました。

「できる/できない」といった二項対立の陥穽に陥らず,どのように学び続けていくかを考えることが大切なのだと学びました。

入塾してからは,勉強が楽しくて,いつの間にか両立していました。

また,「鍛地頭-tanjito-」の他の塾生の声にもあるのですが,炊事・洗濯をしている最中であっても,(塾長から出題される)教育事象(課題)を相対的に捉えるようになりました。
これは,問題集をただひたすら解いていくだけでは,そうはいきません。
家事・育児をしている時ほど,脳が整理され,ふと閃くこともありました。

「鍛地頭-tanjito-」で理論知・実践知を身に付け,日常で実践していく。

家事・育児を行っていても,合格できることを証明できたと思いました。

二項対立アンチノミーの陥穽に陥るな!」
「止揚(Aufheben)しろ!」

「令和の日本型学校教育(答申)」が指摘するように,学校教育界は「できる/できない」の二項対立で教育活動を捉え,同調圧力の下,往々にして「できない(やらない)」を選択するのです。その際の精神エネルギーは教職員の個々の内なる世界に向き,自己にとっての「損/得」のメジャーを凝っと/刹那に見つめるのです。言うに及ばず,この時点で思考は停止します。そして,外に向けられることのない精神エネルギーは,乳幼児・児童・生徒を放置します。これを似非-教職員の最たるエゴイズムと呼びます。

特に,17世紀来の西洋思想を背景に背負ってきた人間たちは,二項対立の陥穽に陥りやすい存在と言えます。だからと言って,そのままで種々の文化が高次化するわけがありません。頽廃するのみです。学校教育界も同様です。だから今,教職員の資質・能力の低下,公教育の質的低下が叫ばれています。

二項対立の陥穽に陥る人間に最も欠けているものは,「つながりの意識(利他性)」です。他者とつながることが面倒臭いのです。自分さえ良ければそれで良い(利己性)。それでどうして教職員が務まりますか? 乳幼児・児童・生徒とつながることが前提の職種にあって,務まるわけがない。だから,似非-教職員と呼ぶのです。

当私塾はそうした腐敗・堕落した似非-教職員を養成するところではありません。だから,

「「できる/できない」ではない。それを超越しろ!」
「自分に何ができるか。どうしたらできるかを常に考えろ!」

と,口煩く言い続けるのです。

そのためには,猛烈に学び,実践し続けるしかない。教職員としての「資質・能力の三つの柱」を鍛え続けるしかないのです。

「「理論(知)/実践(知)」と二項対立で捉えるな!」
「「理論(知)―実践(知)」の往還でもない。一体的に捉えろ! コインの表裏の連関だ! そういう意識を持て!」

理論(知)と実践(知)とを一体的に捉えて,初めて〈学問〉と呼ぶのです。

だから,さくら先生は述べるのです。

「問題集をただひたすら解いていくだけでは,そうはいきません。」

学校現場に「生きて働かない活動(=生きて働かない教採対策とやら)」を行うよりも,どうせ同じ時間を掛けるのならば,〈生きて働く学び〉を形成する方が良い。その結果,教採に合格した方がこどもたちにとっても,受験主体にとっても未来が明るいわけです。

「鍛地頭-tanjito-」はそういうところです。

学校教育界・教採は,今,こうした当私塾のような〈学び〉を求めているはずなのです。

「家事・育児があるから教採の勉強はできない。ましてや「合格」はムリ・ムリ!!」

これを二項対立の陥穽に陥った状態と呼びます。この発話主体の内的世界には「できる/できない」のメジャーが存在しているのです。つまり,思考は停止しています。

このように述べると,お叱りを受けるのが今世でしょうが,事実,当私塾には(出産を経て)新生児・乳幼児の育児をされながら,「合格」された塾生が複数おられます。

では,これらの塾生たちが異常なのでしょうか? 全くそうは思いません。「できる/できない」ではなく,「どのようにすれば,(教採の勉強が)できるのか。」と常に思考と実践を繰り返す共通の姿(=試行錯誤)がそこにあります。その根底には粘り強さ・レジリエンス(折れない心)があるのです。

「何があっても教員になりたい。」

かわいい笑顔につい見とれて,講座をスタートできずにいる広島の爺やがいます。ディスプレイの向こうには「(将来,塾長と)一緒に勉強するんだ!」と言ってくれるかわいい笑顔があります。

「ホンキでこどもたちのためになる教員になりたいんです。」(さくら先生)

そうであるならば,協力して当たり前です。かわいい笑顔のお子さんを両脇に抱えられながら,ディスプレイの向こうで懸命に学ぶ逞しい塾生・受講生の姿は珍しくありません。

「鍛地頭-tanjito-」はそういうところなのです。


 8 子どもたちへの学びの還元

私はこれまで,人生の様々な場面で「粘り強さ」を求められてきました。
私は私自身で人生を選んでいる様な気もしますが,これが運命で,使命なのだと思います。

教員になりたいという気持ちが,「鍛地頭-tanjito-」を引き寄せたのかもしれません。
自分が望む場所で教員として教壇に立てる切符を得ることができたのは,「鍛地頭-tanjito-」のお陰です。

「鍛地頭-tanjito-」での学びを,今後,子どもたちに還元していきます。
そして,全体の奉仕者として,全力で子どもたちに〈教育愛〉を注いでいきたいです。

そのためには,益々,教員としての「知識・技能」,「思考力・判断力・表現力等」及び「学びに向かう力,人間性等」を鍛えていかなければなりません。

ですから,「鍛地頭-tanjito-」で,今後も粘り強く学ばせていただく所存です。

さくら先生は本章の見出しに「子どもたちへの学びの還元」と付けてくださいました。彼女をこれまで支え続けてきた/今後も支え続けるものは,まさにこの強い思いだったのです。そして,それは当私塾「鍛地頭-tanjito-」の意思でもあります。

「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉は全てこどもたちの「学び」に端を発します。学校教育に携わる私塾なのですから,それは当たり前のことです。その「学び」を,理論(知)と実践(知)とが一体化する〈学びの空間〉で「対話(インターアクション)」や「共話(メタローグ)」を介し,学校現場で〈生きて働く学び〉に高次化した上で,こどもたちに還すのです。

そのためには,〈教育愛〉なくして何も成し得ることはないのです。

〈教育愛〉が教職員のエゴイズムを撃滅します。〈教育愛〉があるからこそ,主体的に〈学び〉に正対し教職員に必須の資質・能力を鍛えることができるのです。前述して来た「粘り強さ」と「(学問を初めとする種々の)レジリエンス」は〈教育愛〉が育みます。

〈教育愛〉とは「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」ということです。

一元化する時代の趨勢にあって,負に一元化する,最早「できる/できない」ではなく,「できない・できない」「したくない・したくない」のメジャーを懐に忍ばせた似非-教職員たちが瀰漫している現状が確とあります。その〈弱き心〉を摧破してみせた教員。それがさくら先生だったのです。

「何があっても教員になりたい。」(さくら先生)

塾長を初め,塾生・受講生の皆様へ。

今後とも御指導・御鞭撻のほど,どうぞ宜しくお願い申し上げます。

そして,教師になりたいと思っている方,私から僭越ながらアドバイスさせていただきます。

早くから勉強することをお勧めします。

焦って勉強をしても,高額な出費が嵩むだけで,意味が無いことになってしまいますから。
もしも教師とは異なった人生を歩むことになったとしても,学びは人生を豊かにします。
ですから,一緒に「鍛地頭-tanjito-」で学びましょう!

以上,“さくら”の合格体験記とさせていただきます。
最後までお付き合いいただき,誠にありがとうございました。
「鍛地頭-tanjito-」スタンプ:弱鬼に打ち克つ!
弱鬼に打ち克つ!
作成:さくら先生
ⓒ 2023 「鍛地頭-tanjito-」

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