〈ホンモノの教員〉・〈ホンモノの教員〉を目指す同志よ,
「鍛地頭-tanjito-」に集結せよ!
1 二元論/一元論
巷間には,「我々はデカルト二元論の思考の台座に乗って生きている。」と思っている人が数多い。そうした自覚はなくても,垣間見ることのできない/しない心底ではそう思っている。
そう,そのお蔭で確かに科学は進歩した。しかし,一方で,その二項対立(dichotomy)≒二律背反(antinomy)は人間と自然との「つながり」を切り離してしまった。二項対立の思考の様式では,片方の項がもう片方の項よりも常に優位にある。つまり,「人間は自然よりも偉い(人間>自然)。」と錯覚してしまったのである(人間中心主義)。その結果,個人は皆偉くなってしまった(自我中心主義)。仕舞にはエゴイズム・ナルシシズムの剝き出しが当たり前(常識≒歪んだ共通了解)となり,人間は人間の「つながり」までも切り離してしまった。個人はアトム化・孤立化し,遂にアイデンティティの危機を迎えた。と同時に,自然災害に表象されるように地球的規模の環境問題等が生起した。自然と人間との一体化を破壊した人間への自然によるしっぺ返しである。自然は人間との(これまでとは異なった)高次な一体化を望んでいるに違いない。
本世紀は確実に一元化の道を歩んでいる。
2 心身二元論/心身一元論
癌の治療を行うとして,癌であることが明らかになった時,外科手術,放射線及び抗癌剤などだけの治療を考える。――だから,後になって転移していることが明らかになれば,またそれらの対処療法だけを考える(心身二元論)。
まるで児童・生徒等の生徒指導上の問題行動に際して,当該の発生した問題行動そのものへの対応・処理だけを(日常的・恒常的に定式化して)考える教員のようだ(二元論)。
〈ホンモノの教員〉は(日常的・恒常的に,しかもフレキシブルに)「事前―事中(問題行動の生起時)―事後」の時間軸に沿って/を想定して指導に当たる。その時間的・事実的コンテクストの底流には,問題行動とその前後の時間的・事実的経緯に細かく表象化された児童・生徒の心的推移がある(一元論)。
生徒指導の一側面として,問題行動が何も生起していない時(事前,それは事後になることもある。)の指導,すなわち未然防止(事前)と問題行動生起後の(二度と同じことを生起させない)振り返りと見通し(事後)とを含む日常的な指導が最も大切なのだ(一元論)。
癌になる原因に心の不安定な状態(種々の要因を伴う日常的・恒常的なストレス等)などが考えられる。体調が悪い時に不機嫌になったり,不安定な心の状態が免疫力を低下させ,風邪を引いたりするものだ。誰にでも経験のあることだ。つまり,心身を二分法[1] … Continue readingで捉えることは不可能なのだ(一元論)。
だから,日頃から心身の「つながり」を意識した生活(「(病気の)予防(事前)―病気への対処(癌などの外科手術等を含む事中)―対処後の心身の在り方(事後)」を時間軸に沿って一体化した生活)を大切にするべきなのである(心身一元論)。
3 面接選考と〈ありのままの自己〉
嬉しい時には思わず笑みが零れてしまう。悲しい時には思わず涙が頬を伝う。誰もが経験することだ。「自己」は心身より成る(心身一元論)。
教員採用候補者選考(以下「教採」と表記)は数多くの人にとって緊張の場なのだろう。余計にも〈ありのままの自己(心)〉が表情,言動及び態度(身)に現れるようだ。
市井に氾濫する同一・定式化した,まるでゲームを攻略するような乾いた感覚の戦略(strategy)・スキルだけをもって面接選考に臨むべからず。
他者により成る同一・定式化した台本に踊らされ,似非-パフォーマンスの練習を積まされた,ニセモノの自己(傀儡[2]傀儡の操り手は台本の作者である。・悲しき化身)が形象化されるだけである。そして,その根底には〈ありのままの自己(心)〉と分裂・分離させる心身二元論がある。
今や,教採界は,他者による同一・定式化した台本のコピーを身に纏う受験主体が構成員のシミュラークルな世界と化した。
それはWorld Wide Web(WWW)の中,VR・ARの出現が原因なのか,それともSNSの誤った操り方の瀰漫が原因なのか,いずれにせよ,いとも容易く「他者」に成りすます環境によって,身体性や人格性の輪郭を失い始めた現実世界の複製の〈げんじつせかい〉なのである。果たして,そこに住まう者に罪悪感・危機感はない。
「他者による同一・定式化した台本のコピーを身に纏い,(例え自己のアイデンティティを喪失したとしても)教採の合格だけが欲しい。」(心身二元論)―それは,一体,何のためなのだ?―
だから,そうした風潮を評して,近年徐々に批判を伴う世界的な共通了解となりつつある「人間中心主義≒自我中心主義≒エゴイズム・ナルシシズム」と呼ぶのである。
したがって,そうした性状の持ち主である受験主体の表情,言動及び態度等(身)には「人間中心主義≒自我中心主義≒エゴイズム・ナルシシズム」(心)が知らぬ間に,自ずと滲み出ることになる(心身一元論)。
他者[3]実体を伴う他者のみならず,書籍,絵画,自然及び神仏などを含む。を介して形成されるアイデンティティの喪失は,いずれアトム化・孤立化した人間の「人間中心主義≒自我中心主義≒エゴイズム・ナルシシズム」でさえ萎えさせるのかもしれない。一方で,それはアイデンティティの多元(複成)化を物語る。
それが教員集団の成れの果てか? 危険極まりない。
海千山千の面接官を侮る勿れ。
「海千山千」――面接官を揶揄するつもりはない。――だから,面接官は「悲しき化身の自己」を見抜いているものと思われる。抑々,プラグマティックな考えだけで面接選考を何とか乗り切ろうなど,「教員道」の〈本質(共通了解)〉にはない。
滲み出る「人間中心主義≒自我中心主義≒エゴイズム・ナルシシズム」を母体とした言述を耳にして,「あの人,嘘を吐いている~。」と直感的に気づくことは誰にでもある経験であり,そうした輩が数多くいることも衆生の共通了解の裡にある。況してや面接官においてをやだ。
外科手術等の(その場凌ぎの)対処療法だけで,万人が癌を完璧に克服することはできない。まずは,日頃から心身を一体的に捉え,それら両者を鍛錬することだ。その営為が自らの生命をつなぐのだ(心身一元論)。
そのことと同様だ。
教員(志願者)たる者,教員にとって必要な「学問(身)」を〈自己(心)〉と内化・統合するように日常的に鍛えておくことで,初めて真面な教育活動が叶うのであり,またそれが責務でもある。これが〈学び続ける教員〉の一義だ。――当私塾「鍛地頭-tanjito-」に込められた一つの意義でもある。――だから,そうでない者は見せ掛けは教員であっても,〈ホンモノの教員〉としての生命を宿さないか,閉ざしてしまうのである(心身二元論)。
こうした日々の鍛錬の積み重ねが,他者を介して(人間≒)教員としての〈ありのままの自己〉を形成していく。――ただし,〈ありのままの自己〉を形成するオーセンティックな鍛錬の方法は,(人間が棲み分ける各世界に)確かに存在する。当然のことながら,教員の世界にもある。ただし,それはほんの一握りの教員にしか認知されていない。ましてや教員経験のない/乏しい者には分からない。――〈ありのままの自己(心)〉は〈自己の内なるボイス(身)[4]〈ありのままの自己〉から発せられる有声/無声の(心の)発露〉と化し表情や態度(身)を覆い,学校現場で,将又,教採の面接選考等において自ずと表出されるのである(心身一元論)。
教採の面接選考で,ゲームの攻略本のような台本のコピーをぶら下げたタキシード/パーティードレスを着飾り,いくら優雅に舞い踊ったつもりでも(身),〈ありのままの自己〉(心)を置き去りにしたタキシード/パーティードレスに,ダンスに誘う手を差し伸べる者[5]面接官のこと。は誰もいないのである。
【面接試験対策講座】の〈知〉のフレーム
「メタローグ(metalogue)」に予め決定された結論はありません。
受講者は塾長(他者)との哲学対話/種々の教育現象等を通して自己を〈相対化〉し,
自己を〈了解〉していきます。
「対話」中,受講者と塾長(行為体)はそれぞれ相手の視点を自己の内に住まわせます。
そこから世界を見ようとする営為は〈対話(interaction)〉により,
止揚(aufheben)された高次の新たな視点を形成する
「共話(metalogue)」を生み出します。
「鍛地頭-tanjito-」の「面接試験対策講座」は,
行為体の協働によって意味を共有する「関係核(shared shells)」を形成するのです。
4 面接選考対策のホントウの〈学び〉
面接選考対策は「対策」のための「たいさく」であってはならない。この場合の「対策」は「〈学び〉」と同義である。教員としての資質・能力の三つの柱[6] … Continue readingを鍛錬する〈学び〉のことだ。したがって,況してや「ゲーム」ではない。ゲーム脳で(現実界と区別が付かなくなり)「ゲーム」と思い込むのならば,それは面接選考そのもの,延いては教育に対する冒瀆に当たる。学校教育界で「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」とホンキで苦労に苦労を重ね〈教員道〉を歩み,極めてきた者は面接選考対策を「ゲーム」感覚で決して捉えることはない。抑々,そう考える者に教員としての資質・能力はない。ホンキで困苦した経験のない者には解することができないのである。
「鍛地頭-tanjito-」の「面接試験対策講座」は受講者と塾長(行為体)の〈対話(interaction)〉が止揚(aufheben)を誘発し,高次化した視点を形成する「共話(metalogue)」によって「関係核(shared shells)」を構築する場と言える。そして,その「関係核」はその後繰り返される〈対話(interaction)〉と「共話(metalogue)」の〈相対化〉を受け,解体と再構築を繰り返す。高次化した視点はさらに《高次化》する。
教職教養の幾多の知識は〈対話(interaction)〉と「共話(metalogue)」による「関係核(shared shells)」の構築→解体→再構築の繰り返される過程において知識統合された〈知識〉となる。受講者は教職教養の幾多の知識をただ詰め込むだけではなく,講座で用意されたテーマ(各教育現象例)のコンテクストに沿った知識統合のための《(手続き的な)知識》を体得し,幾多の知識を統合する。だからこそ,知識統合された〈知識〉は現実の学校現場に生起する数多の教育現象それぞれのコンテクストに即した《生きて働く知識》となる。
学力論・教職教養全般等を中心テーマとする当私塾の「面接試験対策講座」は学校現場で生きて働くことのない「対策」のための「ゲーム型のたいさく」となることは決してなく,教員としてのオーセンティックな〈学力〉を鍛錬・形成する場となるのである。
〈学力〉を積み上げることなく,只管ゲーム脳に磨きを掛け続ければ,その先にはゲーム依存症が待ち受けている。他者の書いた攻略本に踊らされる受験主体がそうなるのであれば,それは自業自得だ。
だが,オーセンティックな〈学力〉が伴わず,教育現象をゲーム感覚でしか捉えることのできない教員に指導される乳幼児・児童・生徒のことを思うとき,胸が痛んでならない。「悲惨」などの言述では済まされない,公教育の持続不可能な瓦解が進行しているのである。
面接選考対策はオーセンティックな〈学び〉の場でなければならない。
〈ホンモノの教員〉及び〈ホンモノの教員〉を目指す同志よ!
「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉を体感せよ!
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