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「最適解」・「納得解」考(その2)

木製の人形一体がポンと掌を合わせ,「納得!」と大きな声を上げている得心のイメージ 「鍛地頭-tanjito-」の教育論
納得するイメージ(提供 photoAC)
この記事は約9分で読めます。

本ブログは,令和元(2019)年12月27日(金),当塾運営LINE Openchat「教員採用試験対策講座「鍛地頭-tanjito-」」,「みんなで創る〈新しい教育〉を求めて 教育研究の寺小屋 オンライン「鍛地頭-tanjito-」」の塾長による「朝のご挨拶」として投稿したものを公開しております。

皆さん,おはようございます!

昨日も誠に申し訳ございませんでした。
トークルームを留守に致しました。🙇🙇🙇

昨夜の講座は小規模で実施したものです。
ですが,〈考える講座〉としては受講者の方々に満足いただけたのではないかと思います。

1つの物事を,多角的,抽象具体(システム思考)でみることがどの分野にも必要だということ。

「鍛地頭-tanjito-」主催 無料体験講座 「教育座談会 《ありのままの自分探しの旅》」 アンケート調査の回答

上記引用は,受講後にご提出いただいた(講座)アンケートの回答の一部抜粋です。
問いは「今回の講座で特に印象に残ったことは何ですか?」でした。
「何を目的とした,どのような講座であったのか?」については,日を改めて,ご報告できたらと思います。

閑話休題。

先日,「最適解」・「納得解」をテーマにお話しました。

当塾が運営するLINE Openchat「みんなで創る〈新しい教育〉を求めて 教育研究の寺小屋 オンライン「鍛地頭-tanjito-」」で同テーマについて,メンバーの方から貴重なご意見(トーク)を頂き,私もこのテーマについてさらに考えていました。

「最適解」って,「現状から最適と考えられる解答」のことですよね。
「納得解」って,これまた今流行りの「自他共に納得する解答」のことですよね。

当塾運営LINE Openchat「教員採用試験対策講座「鍛地頭-tanjito-」」,「みんなで創る〈新しい教育〉を求めて 教育研究の寺小屋 オンライン「鍛地頭-tanjito-」」 2019.12.26の筆者のトークより

結局,現状の「最適解」・「納得解」の両者間に通底する概念(授業観)は,現状の知のフレーム内での二次元的「納得」,宜しくない言述を用いれば,二次元的な「妥協」ではないのかと。そこには学習者内にわだかまる「矛盾」を,授業成立言説及び教授者そのものの有する権威性から,学習者自身にベールに包み込ませてしまう外圧が働くのではないのかと。したがって,世の中全体がこぞって,正解のない問題―この言表にも甚だ疑問が残る―に「最適解」・「納得解」を求めたとしたならば,授業成立言説及び教授者そのものの有する権威性に代わる「出る杭は打たれる」「風見鶏」もどき言説が有する権威性に抑圧された土壌が生成されることになり,そこに〈新しい文化〉が創造される萌芽は期待できないということになるのです。「最適解」・「納得解」を得るために,仮にブレーンストーミング法を用いたとしても,帰結点が前提として位置付けられ君臨する共通文化コードとしての暗黙の了解である「納得」ならば,「納得言説」の見えざる権威性に人々は屈服してしまうことでしょう。「矛盾」には目を瞑るのです。悶々としながら「納得」したように自らを思い込ませるのです。かくして,ブレーンストーミング法の本来の目的は消滅します。

要するに,ポイントは「矛盾」の在り方にあるのだと思います。

仮に,「矛盾」を〈矛盾〉として内包したまま止揚(aufheben)した三次元的高次元の〈新たな文化〉の創造物を〈最適解〉・〈納得解〉と呼んでいるのであるならば,他者に「それでサイテキ(最適)カイ(解)?」「それでナットク(納得)カイ(解)?」と訊ねられたとしても,「サイテキダヨ」「ナットクシタヨ」に近い回答はできるのだと思います。「最適解」・「納得解」ではなくて,〈最適解〉・〈納得解〉ならば。ただし,ここには「解(カイ)」をどのように捉えるのかという問題は残ります。

特に,ポストモダン終焉期の現代,「矛盾」はそうやすやすと解消されないでしょう。なぜならば,「矛盾」は自我中心主義(egocentrism),エゴイズム(egoism)の生産物だからです。だから,「矛盾」を,一旦,〈浄化(katharsis)〉する必要があります。そして,その方法には〈自己内対話〉を含んだ「他者」との〈対話〉しかありません。〈対話〉でもって「矛盾」を〈矛盾〉に〈浄化 (katharsis)〉するのです。しかも,その過程は当塾の基本理念である脱中心化した〈恕(思いやり)〉に通ずるのだと思います。

多視点でもって,「ありのままの《自己》」を含む了解・到達不能の「ありのままの《他者》」に近接する行為こそが,当塾が求める〈思いやり〉であり,当塾の基本理念である〈思いやり〉は 「〈自己〉―〈(自己を含む)他者〉」関係が前提となった「脱中心化」の思考性の上に成り立っているものなのです。

「思いやり」と温情主義―ポストモダン終焉期の実相〔12-2〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.10.4)
《ありのままの自分探しの旅》模式図(作成:「鍛地頭-tanjito-」)
《ありのままの自分探しの旅》模式図(作成:「鍛地頭-tanjito-」)

上図(《ありのままの自分探しの旅》模式図)は当塾のオリジナルです。実は,昨夜実施した当塾主催の「教育座談会《ありのままの自分探しの旅》」[1]この座談会は広島大学の学生を対象として,令和元(2019)年12月26日にRIPPLEにおいて催されました。の資料から引用したものです。「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」に少しでも近接するために,私たち(=「自己」)は「自己を含む他者」や〈自己〉と〈対話〉・《対話》を繰り返します。それが「ありのままの《自己(他者)》」を希求する《ありのままの自分探しの旅》(=止揚(aufheben))であり,喜怒哀楽を伴う〈鬩ぎ合い〉・《鬩ぎ合い》でもあって,「人生」と呼べるものだと思うのです。

「矛盾」を〈矛盾〉・《矛盾》に〈浄化(katharsis)〉・《浄化(katharsis )》する過程は〈対話〉と《対話》に一形態として含有され,それは「矛盾」を〈矛盾〉・《矛盾》として共存しようとする〈鬩ぎ合い〉・《鬩ぎ合い》であるとともに,脱中心化した〈恕(思いやり)〉を形成する過程でもあるのです。

これを授業化すれば良い。

上掲の模式図を読み換えて,(乳幼児・)児童・生徒が「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」」を希求する側面と個と個とのものの見方・考え方が〈対話〉・《対話》し〈鬩ぎ合い〉・《鬩ぎ合い》,自他の「矛盾」を〈矛盾〉・《矛盾》と捉え,自他共に〈思いやり〉ながら,高次のものの見方・考え方(これを〈最適解〉・〈納得解〉と呼ぶのならば,〈サイテキ〉だと思うし,〈ナットク〉もできる。)を個として,また学習集団として形成する側面との二面性をオーバーラップさせて構想してみれば良いのだと思うのです。

ただし,例えば,「「矛盾」を〈矛盾〉として〈浄化(katharsis)〉する具体的な教育方法は何なのか?」といった疑問が湧出するものと拝察します。その回答の一つは,要するに,学習者が「他者―自己」間の連関から,その〈連関性〉そのもの及びそれぞれの〈立場性〉を〈相対化〉できる授業づくりを行えば良いのだと考えるのです。しかし,ここでは紙幅の関係で詳述はできません。その辺りについての詳細は,今後,当サイトのカテゴリー「「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論」のブログ記事として,詳らかにしていきたいと思っています。

さて,次の引用文は前述の筆者の考え方に類似した『技術にも自治がある 治水技術の伝統と近代 (人間選書)』(大熊孝,農山漁村文化協会,2004.2)の巻末に所収された内山節の解説文(一部引用)です。長文になりますが,上述した授業論の観点から読み換えてみてください。

 河川工学もこの方向に沿って進んだといってもよい。科学の進歩,技術の発達,そして大きな工事を可能にする経済の拡大によって,人々は洪水に悩まされることから永久に解放され,必要なだけ水が利用できる社会を手にするときがくると,人々は未来の理想を描いた。
 ところが大熊の発想は違っていた。大熊が提案していたのは矛盾との共存であり,それができなければ川は川でなくなるし,人は川を失う。つまり,川とともにつくりだす豊かな社会を失うということであった。矛盾と共存する構想力を,人と地域,流域社会に求めたのである。
 たとえば世界にはさまざまな性格の川がある。そして日本の川だけをみても,川は一本ずつ異なる個性をもっている。そのなかには氾濫を起こしやすい川も,水とともに大量の土砂が流れる川もある。雪解け水が入る川も,台風の襲来を受けやすい川もある。自然は画一的にはつくられていないのである。とすると川と人との共存の仕方にも,地域ごと,流域ごとの個性があってよいはずである。
 ところが日本の近代化の過程はこの大原則を踏みにじった。河川の管理権はそのほとんどが国家の手に集められ,国家による画一的な河川改修が進められるようになる。それは地域,流域の人々が管理に関与できない川をつくりだし,そのことがかえって地域の人々がもっていた川を治める技術や知恵を喪失させていった。日本の河川荒廃はその結果生じてくる。
 このように述べるとき,大熊はいくつかの重要な思想的提案を行なっている。その一つは,「平等」についての思想で,平等とは均一的,あるいは画一的なことと同じではない。むしろ自然は不平等につくられていることを積極的に認め,その不平等のなかに個性があることをみている。そして,その不平等によって発生する被害や問題点を人々が共有し,それが大きな被害や問題点にならないように工夫する。つまり川を画一化し,同じような川に変えることによって不平等を実現するのではなく,川の個性を守り,その結果として特定の地域に多少の洪水被害が発生したとしても,その被害をやり過ごすことのできる余裕と連帯感のある社会をつくることによって,より深い平等な社会を創造する可能性の先に,大熊は高次な平等をみつけだす。
 いわば,大熊は平等という概念を,画一化の概念から連帯の概念へと転換させようと試みたのである。

見事な教育論,授業論に様変わりしますね。これからの授業創造が求める理想の姿がそこにあるような気がしてなりません。

それにしても,ここまで記述(トーク)してきても,何だか巷間で述べるところの「最適解」・「納得解」には,「最適」ではない,「納得」がいかない,どこかもやもやとした「矛盾」を払拭できないのです。だから,筆者はこれが流行している「最適解」・「納得解」の正体なのだと実感するのです。こうした思いは(乳幼児・)児童・生徒にはあまり持たせたくないですね。

「まあ,そう言わずにナットクカイ?」
「はい! 納豆ならば食べます!! 大好物ですから。」
「???」
「ナットウ(納豆)クウ(喰う)カイ? 納得解…なんちゃって…💦💦」

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


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