教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。
そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。
〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造
日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。
【今回のポイント】
「保護者―学校等」間の協力関係を構築するためには,
○ 「敵/味方」の二項対立の思考を超克・止揚(aufheben)しなければならない。
○ エゴイズム(egoism)から自己を解放せよ。
それは全てお子様,乳幼児・児童・生徒のためである。
1 「お前なんか教員を辞めろ!!」
〈対話〉前,生徒及び保護者に「教員(学校)=敵/(>)味方」の二項対立の思考(固定観念・先入観)があった。
「お前なんか教員を辞めろ!!」
29年程教員をやって,合計2組の親子に言われましたね。時と状況はそれぞれ異なりますが。学校の指導方針と指導方法を伝える場面でした。しかも,まだ〈対話〉の「た」の字も行えていない状況で。
しかし,家庭訪問や学校で,当該の親子と〈対話〉を繰り返すうち,1組は棟上げ式に,1組は当該生徒の結婚披露宴に賓客としてご招待を頂きました。
美談を語るつもりは毛頭ありません。鈍臭い筆者(私)だから,そうした結末を頂いたのだと思います。
どうも2組の親子には,当初,「教員(学校)は敵だ!!」と捉える固定観念があったように思います。
(そうした観念は,これら2組の親子だけではなく,巷間には意外と多いのでしょうね。表に出すか出さないかが異なるだけで。――それは,残念ながら,一部の教員にも当て嵌まることです。「保護者は敵/(>)味方だ……。」――)
その原因は,当該の親子がそれまでに「当該の親子=敵/(>)味方」の二項対立の思考を持つ教員(学校)に出会っていたことにあるのかもしれません。そうであるならば,親子・一部の教員共々,「敵/味方」観にどっぷりと浸かっていたのだから,ぶつかり合うのが定め。まさに西洋文明の象徴,物心二元論の弊害を被っていたわけです。不幸にも,お互いで「敵/(>)味方」の二項対立による思考を超越・超克→止揚(aufheben)し,高次の「保護者―教員(学校)」関係を構築する場面を持ち得なかったのです。
2 お互いに二項対立の思考を止揚(aufheben)せよ!!
指導方針・指導方法が異なったとしても,お互いが「お子様/当該乳幼児・児童・生徒をより良くしたい[1] … Continue reading。」と意識して子ども中心の思考を持ち,お互いの「敵/(>)味方」の二項対立を止揚(aufheben)せよ。
「お互いに二項対立の思考を止揚(aufheben)せよ!!」
「そんなことができたら苦労せんわい!!」と怒られそうです。保護者からも先生方からも。まあ,20世紀以降を生きてきた私たちの思考がそう容易く無意識のうちに変容するとしたら,地球も逆回転するでしょうね。ですが,意識して変容することは可能なのです。筆者は経験しましたから。何度か。
では,どうすれば,そのようなコペルニクス的転回[2]「1 … Continue readingを成し得るのか?
まず,お互いを「敵」と意識するからトラブル(争い)が絶えないのです。したがって,お互いを「敵」として意識しないように意識すれば良いのです。抑々,「敵・仇(てき・かたき)」は「争いの相手,恨みのある相手, 害を与えるもの」などの意味を持ちます。[3]参考:コトバンク:敵/仇(読み)カタキ;かたき【敵/×仇】 てき【敵】,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館)「保護者―教員(学校等[4]保育所(園)及び幼稚園を含め「等」と表現しています。)」の間にお子様/乳幼児・児童・生徒が介在していて,何を「争い」「恨み」,「害を与えるもの」と意識するのか?
保護者にとってはお子様を,一方,教員(学校等)にとっては乳幼児・児童・生徒を「今以上に良くしよう!」という共通した話ではないのでしょうか?
「今日という日は,担任に散々言ってやってわ!」
「あのモンスターペアレントを打ち負かしてやったよ!」
このような「武勇伝」(?)を捲し立てて,「保護者―教員(学校等)」間に介在する乳幼児・児童・生徒が今以上に良くなるのでしょうか?
余談ですが,「武勇伝」の「武」について,筆者は若かりし頃,教員の大先輩に当たるある方から,次のようなお話を伺ったことがあります。この先生は元日本陸軍の中尉で特攻隊の指揮官だった方です。
「小桝先生。「武」という字を書いてごらんなさい。そして,その一字を凝と見て。「戈」と「止」という二文字が見えるかい。「戈」は「刀」と思えば良い。「止」の元の字形は「敵を攻めに行く」という意味を表していたが,ここでは「とまる,とどまる」の意で,「おさえる,こらえる(我慢する)」の意味もある。つまり,「武」とは「刀を抜かないこと」を言うんだ。抜こうとする「刀を止めること」なんだ。「刀」を抜いてしまっては「武」ではないんだ。これが,(私から)小桝先生に教えてあげられるたった一つのことだ。」[5]このお言葉を頂いて以来,私の生徒指導観は変わったのです。
保護者も教員(学校等)も「刀」を抜いてしまってはいけないのです。抜いてしまった「刀」は必ずやお子様/乳幼児・児童・生徒を傷付けてしまいます。「この子を良くしよう!」(保護者からの〈愛〉),「この乳幼児・児童・生徒を良くしよう!」(教員(学校等)からの〈教育愛〉[6] … Continue reading)と意識して矛を収めるのです。そうした態度はお互いを「敵」と憎み合う意識を超克していきます。その上で,お子様/乳幼児・児童・生徒を良くするために,お互いで只管丁寧に粘り強く〈対話〉を営むのです。「どうしたら良くなるのか? どこを目指して指導していくのか?」と。家庭の指導方針・指導方法と学校のそれらとを突き合わせるのです。すんなりといかないことの方が多いでしょう。それでも高次の指導の在り方を目指して〈対話〉を繰り返すのです。お子様/乳幼児・児童・生徒の悪いところばかりを見ないで。その思考が既に「良(善)/悪」の二項対立の図式なのですから[7]二項対立の思考は,どちらか一方の項が必ずどちらか一方の項の優位にあると捉える。。「良(善)/悪」両面を持ち合わせるのが「人」というものです。この二項対立を止揚(aufheben)・超越したお子様像/乳幼児・児童・生徒像をイメージ・具現化するためにも。
因みに,「武」には「一歩を踏み出す」の意味もあります。「保護者―教員(学校等)」間の人間関係(リレーション)[8]心と心とのつながりのこと。の構築を目指して「一歩を踏み出す」ためには,「武」,つまり「刀」を決して抜いてはならないのです。
さらに余談です。「敵・仇」には「配偶者」の意味があります。これって…
3 自我中心主義を払拭せよ!! あなたたちに〈教育愛〉はないのか!!
(1) 「保護者―教員(学校等)」関係等小話
ア 「私たちの苦労は保護者対応なんです。お母さん。」
つい,先日のことです。ある保護者から,このようなお話を伺いました。生徒指導上の問題行動にかかわる被害的立場にあるお子様のことで,学校へ相談に行かれた時のことです。いきなり校長室に通された当該の保護者は,人払いをした校長から次のような言葉を投げ掛けられたのです。「私共も一生懸命に指導に取り組んでおります。でも,そう簡単に結果は出るものではありませんからね。私共も苦労をしているのです。特に,苦労するのは保護者対応なんです。お母さん。」
ウ 「誠意がない家庭訪問ならば,もう二度とうちの敷居を跨ぐな!!」
「先生(筆者のこと),今頃の教員はどうなっちょるんな! 上(管理職のこと)が「行け~」と指示しちょるんか? 不登校のわしの娘を心配して家庭訪問に来ちょるんじゃないで。全て自分(当該教員のこと)のためよのう。何回も家に(当該教員が)来るが,いっこも(一つも)誠意がない。仕事じゃけん来ちゃりょうるっちゅう感じで,却って不信感が湧く。わっしゃ~のう~「誠意がない家庭訪問ならば,もう二度とうちの敷居を跨ぐな!!」ゆ~てゆ~ちゃったんよ。そうしたら,それっきり,家に来んようになったわい。〔註:因みに,この話に登場する教員は,「小話イ」の教員ではありません。〕
エ 「それは困る!! 為になるお話を聞かせてくださいよ!!」
若手の教員(A)とお話した時のことです。A:「教員の世界はいくら一生懸命にやったって報われる世界ではない。時間単価の仕事をしておけば良いんですよ。勤務時間を超えて,生徒と熱心に話し込んでいる先生方が信じられない。そういう働き方で良いのかと。」 私:「そうですか。わかりました。あっ,もうこんな時間だ。あなたとお話をする予定の時間はとっくに終わっていますよ。あなたのお考えを尊重すれば,私の勤務時間はとっくに終わっているのだから,私はこの辺で失礼します。」A:「ええっ!! それは困る!! もっといろいろ為になるお話を聞かせてくださいよ!!」
(2) 「あなたたちに〈教育愛〉はないのか!!」
自我中心主義(「自己/(>)他者(乳幼児・児童・生徒・保護者等)」)を超克せよ!!
〈教育愛〉があれば,いずれ「保護者―教員(学校等)」間の人間関係(リレーション)は構築できる。
前記「保護者―教員(学校等)」関係等小話(3-(1))を綴っていたら,無性に腹が立ってきたので,この節は至って簡潔に締め括ります。その前に筆者の体験談を小話にまとめます。(プライバシーには留意してあります。)
オ 「あんたらにゃあ,負けたよ。上がってくれ!!」
その男子生徒は学校に来たかったのです。しかし,家族が登校を反対していました。理由はプライバシーの関係上,お話できません。
筆者は当時副担任をしてくださっていた先輩の先生と,毎日,家庭訪問を繰り返しました。
とにかく登校して欲しかったのです。友達と一緒に学び・遊んで欲しかったのです。当該生徒の願いを叶えたかったのです。
「家に近づくな!」
当該生徒の祖父の声です。家族の中でも最も登校に反対でした。それでも,庭先の道路から家中に居るだろう生徒に声を掛けました。そうした日々の繰り返しでした。[11]生徒及び生徒宅のプライバシー及び法律は遵守しました。当たり前ですが。
いつしか,その声掛けは玄関前からになりました。
「道路からでかい声で声を掛けられたら,えらい近所迷惑じゃ。玄関の中には入れんど!」
いつしか,上り框の前で当該生徒と語り合っていました。
「まあ,入れ。じゃが,家の中には上がらさんど!」
いつしか,生徒宅の居間で生徒と祖父と談笑していました。
「あんたらにゃあ,負けたよ。上がってくれ!!」
苦笑い/照れ笑いをした強面の祖父は,そう優しく語り掛けてくれました。
「因みに,先生ら。わしゃ~,あんたらみたいな先生を見たことがなあ(ない)。なんで,そんなにわしの孫のために必死になるんな。わしや親以上に必死よのう。なんでなんな?」
「わしらにとってもかわいいけんね。」
「よ~わかった。よ~わかったで。これからは好きに出入りしてくれ。わしでえかったら,学校のこと(行事等)にも協力さしてくれえのう。」
「ありがとうございます。おじいちゃん。」
また,次の引用文を併せてお読みください。諸富祥彦(H25.9):『教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか?』,朝日新聞出版,[キンドル版],検索元 amazon.com からの引用です。大量の引用となることをご海容ください。なお,引用中の下線は筆者が施しました。
子どもたちの前に本気で立ちはだかって,子どもの人生に影響を与える覚悟ができていない人は,教師になるべきではない,と私は思います。
教師という仕事は,魂を注ぎ込む仕事です。
一言で言えば,「日々の生活,丸ごと教師」なのです。
「自分の生活すべてをかけて教師という仕事に投入している」――そんな優秀な教師はたくさんいます。彼らは,教師という仕事のために人生のエネルギーのすべてを注いでいるのです。
熱心な先生方はよく「給与明細をちゃんと見たことがない」と言います。給与のために仕事をしている,という自覚がないのです。あるいは,自分は給与の何倍かの仕事をしているという自負があります。給与明細を気にし始めたら,とても教師という仕事はやっていられない,そう思うぐらいのエネルギーと情熱を注いでいる教師が,本当に優秀な教師なのかもしれません。
教師として生きていくうえで最も重要なことは,「教師にだけ与えられた固有の使命感」を持つことです。
教師という仕事は,「子どもたちの心や人生に,大きな影響を与える」という,大変責任の大きい仕事です。それを引き受けようという決意と覚悟がない人は,教師という仕事につくべきではないでしょう。
教師は当然のことながら,教員採用試験を受けて教師になります。しかし,中には残念ながら,あまり使命感らしきものを持たず,子どもたちの人生に大きな影響を与えるのだという自覚も覚悟もなく,なんとなく教師になっている人もいます。
ダメな教師に共通しているものは,能力の有無以前に使命感が欠如していることです。
使命感(ミッション)と情熱(パッション)こそ,教師の精神性の柱になるべきものです。
20世紀の「知」のフレームがそうだからと言って,「使命感(ミッション)」も「情熱(パッション)」も微塵もなく,方法論ばかりに走る一部の教員がいます。「物(現象,結果)/(>)精神(心)」なのでしょうから。また,「自己/(>)他者(乳幼児・児童・生徒・保護者)」なのだから,堂々とエゴイズム(egoism)で教育活動(?)を行っていながら,そうであるが故に「自己/(>)他者」に気づかない幸せな(?)一部の教員もいます。そうした一部の教員に物を申します。
あなたたちに〈教育愛〉はないのか!!
ないからそうなんでしょう。
ただし,「〈教育愛〉がある=良い教員(X)/〈教育愛〉がない=ダメな教員(Y)」とだけの思考は物心二元論的な思考です。この場合,「X」と「Y」それぞれの教員群は実際の学校現場に存在するわけで,ヘーゲル弁証法で述べるトリアーデの2項であるから,残りの1項のジンテーゼを目指す必要があることになります。このように考えてみると,やはり「X」と「Y」とを止揚(aufheben)する契機は,現在のところ,眼前の一人ひとりの乳幼児・児童・生徒の良さをまずは見極め,「さらに良くするために,我々教員に何ができるのか。」について,丁寧に粘り強く〈対話〉し続けるしかないのだと思うのです。
本格的なAI時代は目前に迫っています。本格的なAI時代が到来すれば,先述の「トリアーデの2項」に自然淘汰[12]「2 … Continue readingが掛かる可能性が大きいと考えます。詳しいことは別稿に譲りますが,本格的なAI時代にはホントウに優秀な教員(〈ホンモノの教員〉)しか生き残れません。それは知的レベルや教授スキル・テクニックについて述べているのではありません。到底,人間の教員のそれらはAIに劣るでしょうから。AIロボットに人間と同等の「感情」を持たせるか否かといった喫緊の課題を含めたシンギュラリティ(singularity)の問題が,今後,どのように展開するか,現段階では判然としません。ただ,明言できることは,「AI時代に必要となる教員の資質・能力は,乳幼児・児童・生徒(人類)のため,AIを含めた他者と共存できる人間関係形成能力と〈新しい教育〉を構築できる〈創造力〉であるとともに,それらを可能にする〈教育愛〉である。」ということです。
4 クレーマーは学校の応援団
俗称クレーマーはどこか傷付いている。何に,どのように傷付いているのかを理解せよ。そして,乳幼児・児童・生徒を起点に据えて話し合え。俗称クレーマーはきっと学校の応援団になってくれる。
「先生[13]筆者のこと,僕はあの保護者,好きではないんです。学校の指導方針や指導方法について,事あるごとに反対してくる。「反対のための反対」が生き甲斐なんですよ。それでも,毅然とした態度で,丁寧に粘り強く話し合いを持つのですか?」
「そう。世の中の保護者で,クレーマーと言われている人たちの大半は,何かがあって,どこか傷付いている。学校との関係が多いようだけどね。不安なんだよ。何かを焦っている。しかも,自己の考え(願望・欲望)を上手に表現できない人が多い。しかし,自分のこどものことは人一倍可愛い。自分のこどもには良くなって欲しいと思う人が多いんだよ。先生[14]保護者を嫌っている会話の対象となっている教員だって,あの生徒に良くなって欲しいと願っているだろう。そこは一緒なんだよ。折り合える〈場〉はそこだ。不安や焦燥感をしっかりと傾聴しなきゃ。そこに現状を突破する鍵は隠れている。不安や焦燥感の根っこをしっかりと探るんだ。そこに,生徒の良さが絡んでいるはずだ。その良さをさらに伸ばす方向を模索する。その際,学校の指導方針を忘れるなよ。ただ,必ず合致するはずだ。私にもたくさんの経験がある。生徒を基底に据えて,腹を割った話をするんだ。毅然とした態度で,丁寧に粘り強く。そうすれば,分かり合える。人と人じゃないか。大抵,そういう保護者は,その後,学校に協力をしてくれたよ。私は「クレーマー」と呼ぶのは嫌いだが,俗称クレーマーに学校の応援団になってもらうんだ。……ああ,保護者の中には確かに「反対のための反対」だけを行い,自己存在感・自己満足感,こどもに対して見せ付ける誤った保護者の威厳を得ようとする人もいる。でも,この保護者は大丈夫だよ。」
「じゃあ,(その保護者に)電話します。」
「電話じゃだめだ! こんな大切な話を! フェイストゥフェイス(face-to-face)[15] … Continue reading。(当該生徒の)家に行っておいで。副担任の先生と。」
「はい。わかりました。」
5 こどものためだ。自分のためではない。怯むな!!
教員や学校を前にして伝えたいことを伝えられない。なぜか? その根底には自我中心主義(エゴイズム(egoism))があるから。自己を囲わず,怯まず,こどものため,二項対立の思考を超克して相談しやすい教員に相談すべし。
現代はポストモダンの終焉期です。それまでに存在した「小さな価値観」は消滅し,その代わりにカントが「根源的悪」としたエゴイズム( egoism・利己主義)が蔓延り,大衆は我執に塗れた「〈鄙陋〉の残滓」と化しています。
このように述べると,「何を生意気に!」と仰る方がきっとおいででしょう。ですが,以上のような言述行為を筆者は「厳しい言い回しですが…」などと諂い断るつもりはありません。なぜならば,現実にそうだからです。「二項対立の天秤」は殆どの場合,自己側に傾きます。自己の「ラク」や「トク」になる方向に。これがポストモダン終焉期の実相なのです。
教員についてもそうです。こうした二項対立の思考で教員を捉えれば,大枠は「良い教員/ダメな教員」となります。中間に位置する教員もいるのですが,「大枠」はそうです。ただし,何を基準に「/」を考えるかでこの図式の含有する意味性が変わります。あるいは図式ごと変わってしまいます。ただ,「教育」である以上,何を対象とする「教育」であるかを考えれば,自ずと「基準」の最たる要素は「乳幼児・児童・生徒」になります。遠回しな言い方は止めて,直截的に申し上げると,「/」には「乳幼児・児童・生徒に対する〈教育愛〉」を措定せざるを得ないのです。「ダメな教員」をよく見てください。〈教育愛〉に乏しいから,教育活動に係る言動が「ダメ」でしょう。「ダメな教員」は自分が可愛いのです。乳幼児・児童・生徒よりも。それでいて,自らが真っ当な教育活動を行わない理屈だけは仕立てています。だから,騙されてはいけません。如何にも乳幼児・児童・生徒を思っているかのような〈騙り〉に。
ですから,〈ホンモノの教員〉か否かを見極める鍵はここにあるわけです。
「自己のことを後回しにしてでも,乳幼児・児童・生徒を優先的に考えて教育活動に全身全霊を捧げているか。(これって当たり前ですけど。)/結局は自己の「ラク」や「(ソン)トク」だけを考えているか。」
一方,保護者にも自我中心主義の方が多いですね。教員や学校に不満があるのに,その不満をぶつけられない。
「だって,恥ずかしいし,格好悪いし,怖いし…。」
「それって,在り来たりの言述行為を営めば,「自分が可愛い」のですよね。」
「そんなことを言っても,どうやって先生や学校に伝えたら良いか分からないし。」
「方法を考えておられるその心理の背後に自我中心主義があると申し上げているのです。」
「一心不乱に先生や学校に直訴して,却って人質に取られているこどもが被害に遭ったらどうするのですか? 「ダメな教員」が多いでしょう!」
「(自分が可愛いために)怯んではいけません。」
「すぐに「鍛地頭-tanjito-」に相談してください。」と言いたいところですが,まずは話しやすい教員に相談されてみてはいかがですか? あっ,「自己の「ラク」や「ソントク」だけを考えている教員」はダメですよ。いくら話しやすくても。なぜかはもうおわかりでしょう。ここが肝心です。「この先生は熱き〈教育愛〉の持ち主だ。この先生ならばこども(保護者)を全力で守ってくれる」と自ずと実感できる,そのような教員を選ぶのです。
相談の在り方としては,後に事が大きくなった時に証拠になりますから,まず 教員や学校におっしゃりたいことをきちんと文章にして,事前にアポイントを取り,親権者が相談に行くのです。学校等というところは,親権者の代理人弁護士等は別として,原則,親権者と話し合わなければならないのですから。そして,足繁く通うのです。というか,お子様のことを想えば,そうなるでしょう。
その上に,二項対立の思考を排除することです。「敵/味方」の思考は話し合いをトラブルに変ずるだけです。お子様/乳幼児・児童・生徒が被害を被り,迷惑します。 お子様/乳幼児・児童・生徒を中心に据えて,「どうしたらお子様/乳幼児・児童・生徒が今以上に良くなるのか」といった視点を持って,毅然とした態度で,丁寧に粘り強く〈対話〉するのです。敢えて方法論を述べれば,それしかありません。
ただし,保護者の皆さん,「自分のこどもだけ良くなればそれで良い。」とする思考も超克してくださいね。それって,単なるエゴイズム(egoism)です。「〈鄙陋〉の残滓」になってはいけません。
「塾長の述懐」シリーズの第12弾です。今回はポストモダン終焉期の実相として,現行の大学入試を採り上げながら,〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉の低下がもたらす弊害について,視点論的な見方から,温情主義(パターナリズム)及び「思いやり」にまで言及してみました。一元論的トランスモダンの時代に求められる人材の前段階を語ります。
6 教員の落とし穴
「保護者―教員」間の信頼関係を逆手に取る保護者の出現。これをホントウの「教員の受難」と呼ぶ。
昨年のことでしたか? 記憶が定かではないので,誤りがあったら申し訳ありません。
朝鮮日報の記事であったことに間違いありません。ある日,目に留まった記事に教壇を追われた大韓民国の女性教師の話がありました。女性教師の生徒に対する指導上の行為を体罰だとして難癖を付け,非道なやり方で金銭を要求し続けた保護者。事の結末は女性教師の自主的な退職だったと記憶しています。余りの衝撃的な話に事件の詳細な顛末を失念しましたが,大韓民国ではこういった保護者が増えているとか。
〈教育愛〉に満ち溢れた教員がこういった事態に巻き込まれたとしたら,それを唯一「教員の受難(教員受難の時代)」と呼ぶのだと思います。
巷間には「「プロの教師」ならば,こうした事態に巻き込まれない。」と仮想的有能感[16] … Continue readingを丸出しで仰る方がいらっしゃることでしょう。しかし,それは違います。〈教育愛〉が如何なるものかをご存知でないから言えることです。高みの見物をされているのです。他人事です。
「保護者―教員」間の信頼関係を逆手に取る保護者が,今後,日本に現れ,増殖することのないよう切に祈る次第です。
しかし,それでも,〈教育愛〉を捨てきれない教員を〈ホンモノのプロの教員(〈ホンモノの教員〉)〉と呼ぶのです。
© 2019 「鍛地頭-tanjito-」
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