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〈ホンモノの教員〉は〈○○〉で勝負する??
1 PROLOGUE
「鍛地頭-tanjito-」を運営していて,最近,つくづくと思う。教員の〈存在〉について。
「多くのきょういんは何のために「教員」になっているんだ?」
「教員志望者は何のために「教員」を目指すんだ?」
趣味。
憧れの先生がいたから。
ひとがなれと言ったから。
なんとなく。
なるものがないから。
コロナ禍だから(安定した稼ぎのため)。
「もう,うんざりだ!!」
念のために言っておくが,当道場の塾生や受講生を想起したわけではない。
巷間でよく耳にする。
「教員は授業で勝負する!」
「授業」を「学習指導」とだけ考えているようでは素人だ。
「学習指導と生徒指導とは車のボディーとエンジン(両輪)のようなものだ。したがって,授業は学習指導と生徒指導で勝負するんだ。」と述べたとして,普通の「教員」のレベルだ。「学習指導」と「生徒指導」との一体化を言いたいのだろうが ……「一体化」?……大体「学習指導」と「生徒指導」とを二元論で考えて良いのか? それでは表層の具体しか捉えていないのではないか?
そうならば,「教員は〈○○〉[1]読者ご自身でお考えください。で勝負する!」…う~ん…普通よりは少しレベルの高い「教員」のようだ。
抑々,「勝負」なのか? 勝負する相手は誰だ? 勝負を判定する基準は何だ? 誰が判定するんだ?
……〈ホンモノの教員〉ならば,このように考えるだろう。
「鍛地頭-tanjito-」ではムチャクチャ(「鍛地頭-tanjito-」が述べる)学力論[2]学校教育法第30条第2項及び学習指導要領に措定される「学力」を勉強する。「個別最適な学び」と「協働的な学び」とを一体的に…?……うん? 「一体的」?…「一体的」ではない! 確かに「令和の日本型学校教育」(中教審答申)には「一体的」と書いてある。しかし,「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉では「一体的」ではない。では,何か? ――でも,ここでは語らない。金銭目的のために上辺をつくろい,パクる人たちがいるから。――
「一体的」ではない〈○○〉[3]読者ご自身でお考えください。「鍛地頭(≒この場合の「地頭」は「抽象化能力」や「問題解決能力」等を意味する。)」のために。の〈学び〉の中で,「問いを立てる」単元計画や学習指導案(問いを立てる授業構想・計画)の話になったり,実際につくったりする。――「鍛地頭-tanjito-」には「教採アラカルト錬成講座」の中に「学習指導案作成錬成講座」や「模擬授業錬成講座」などがある。毎日の添削指導に加え,2週間内に3回のリモートによる(塾長とマンツーマンの)対面指導が付いた至れり尽くせりの講座だ。種々の学校を指導し続けてきた塾長の理論と実践とのAufhebenが楽しめる。――
「問を立てる」と言述すれば,学校教育・教採界では直ぐ様流行・形骸化する/既にしている模造された言説の権威性を帯びるので,気はあまり進まないけれど,大切なことなので言述する。教育関係者から「どうやって「問いを立てる」授業を創れば良いか分からない。」とよく耳にするからだ。つまり,それは,まず「問いの立て方」自体が解らないのだ。仮に,このように言述するのが教員ならば,こういう教員は間違いなく問題解決型の学習を展開できない。すなわち,そのままではこれからの〈新しい時代〉の〈新しい教育〉を担えない教員だ。きっと,これから,学校現場で辛酸を嘗め続ける〈運命〉を辿ることになる。――輪を掛けて,ICTを活用するスキルや意欲さえないのならば,……[4]続きは,読者ご自身でお考えください。
そこで,まずは,この違いが解るかどうかだ。
「疑問」は「持つ」・「抱く」ものだ。
「問い」は「立てる」ものだ。
要するに,「疑問」と「問い」とは異なるものだ。う~ん,当たり前すぎて乏しい説明となってしまった。
「だから,どうやって「問い」を「立てる」の?」
その質問の前に「疑問」と「問い」との連関性(「疑問」から「問い」への変容の在り方)が理解されていなければならない。また,「具体⇄抽象」の抽象化に係る概念と抽象化のレベルを含んだその概念化,「概念化」そのもの,さらに「知識」の種別,WHATの問い/WHYの問い/HOWの問い…ああ,際限がない~…などが解っていないといけない。途中端折ったが,このようなことが理解できていないと「問い」は立てられない。……授業者自身が「問い」を立てられるのか? しかも,授業者は学習者に「問い」を立てさせる指導力が必要だ。……ましてやオーソドックスな授業展開さえ知らないようでは,問題解決型の授業などできるわけがない。ああ,学校社会に横行する似非-問題解決型の授業ではなく,真面な〈問題解決型の授業〉のことだけれど…。
「そんな大変なことを,今からどうやって勉強すれば良いんだ!?」
この言述が仮に教員採用候補者選考(以下,「教採」と表記)の受験者の口から出たものだったとしたら……。「だから,言わんこっちゃない! 小手先(正解至上主義一辺倒の合格だけすれば良い式)の勉強だけではダメだ,教員になりたいと思ったときから,長~~い時間を掛けてしっかり意味のある〈学び〉を続けなければダメだ,と心の底から言って来たじゃないか!!」と言いたい。
小手先だけの誤魔化しの「じゅぎょう」は学習者に対する冒瀆だ!
「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」
それでも,正解主義一辺倒の小手先だけのまやかしを引っ提げ,自らの合格(得)を得るだけのエゴイスト「きょういん」になりたいか!!
嗚呼,教採の変革はまだ遠い。
選考項目の「学習指導案作成」や「模擬授業」等は「といをたてるじゅぎょう」でごった返すのだろう……か。
2 創作 場面指導 着任式
(1) 出 題
今回の場面指導に係る出題も,当道場の(前回の出題者である塾生とは異なる)塾生が創作したものです。前回同様,作問としてぎこちない点についてはご海容いただき,出題者の意図をお読み取りくださることによって,ご解答願えればと思います。
出題
問
着任したばかりのあなたに校長先生がおっしゃいました。
「A先生(あなたのこと),本校は生徒指導に力を入れています。着任式でお話される時に,A先生が生徒指導で大切にされることをお話くださいませんか。ねらいは「規範意識の醸成」です。よろしくお願いします。」
あなたは,どのように話しますか?
(2) 解 説
塾長が音声と文字とで解説しています。
「ミニ解説」として本問に関する考え方を簡単にお話する前に,大切なことをお話しておきます。
これから述べる頭の使い方は学校現場において必要なものです。だから,教採の問題においてもそれは同様です。学校における指導の場面と場面指導とを二項対立で考えているようでは正解至上主義から解放されていないと思ってください。そのような考え方では学校における即戦力・実践力は養えないわけです。真面な授業などできやしません。「どこが出題される/どこは出題されない。」式の丸暗記(機械的学習)をベースとする正解至上主義一辺倒の頭の使い方では,これからの時代,教職は勤まらなくなりますよ。
既にGIGAスクール構想は実現化に向かって走り始めています。そして「どのように授業を創造していって良いかわからない。」といった困り感満載の現場の状況が耳に飛び込んできます。本格的なAIが導入されると,ますますそうなるでしょう。
これから,丸暗記の知識はAIが提供してくれます。眼前の児童生徒等の課題などの解決に適切な情報をAIから引き出し,それらを統合して生きて働く知識にするのは人間の教員です。そのためには,「鍛地頭-tanjito-」の述べる〈相対化能力〉,世に言うメタ認知力,抽象化能力,問題解決能力などは必須なのです。「どこが出題される/どこは出題されない。」式の丸暗記(機械的学習)をベースとする正解至上主義一辺倒の頭の使い方で,そうした能力が養えるわけがありません。
かつてこのようなお話をしたところ,「そんな「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉のような難しいことは先生になってから勉強すれば良い!」と言われた現役の先生がおられました。勿論,初めて教壇に立つとき,恐らくベテランの先生方との力量の差は歴然としていることでしょう。しかし,教壇に立つまでなぜ自らの能力を正しく磨けるだけ磨き,ベストパフォーマンスを形成して教壇に立とうとしないのか? 「どこが出題される/どこは出題されない。」式の丸暗記(機械的学習)をベースとする正解至上主義一辺倒の頭の使い方の教員はそうしたやり方を学習者に往々にして伝えてしまうものです。それでは学習者があまりにも可哀想です。自らが合格だけすれば良い責任のないエゴイズムです。
「あなたのような自己本位な教員を育てないために「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉はあるのです。」そのように申し上げたところ,その現役の先生は私の前を黙って去って行かれました。
塾生が作成した本問の場合,あなたはまず何を脳裡のスクリーンに映し出しますか? もしかして,脳裡のスクリーンにどのような話の内容にしようか,またはそのおぼろげな内容,それしか映っていないのではありませんか? その他に大きな思考のフレームが最低2つは映っていますか? 話の内容という大きなフレームが一つしか映っていない方は正解至上主義的な頭の使い方であると思って良いと思います。多視点からモノを視ることが苦手ではありませんか? それでは学校で真面には通用しないし,教採選考でも心許ないでしょうね。
最低でも合計3つの大きなフレームが脳裡のスクリーンに映ったところで,一つひとつのフレームに関する既存・未知の情報を統合・捨象・思考等するのです。このフェーズでは調べるという行為も必要になるでしょうね。
そして,解答を組み立ててみる。解答を組み立てるとは言うものの,解答を組み立てるためのエピステミックで手続き的な知識を持っていますか?
しかも,解答を組み立てて終わりではない。出来上がった解答を〈相対化〉するとともに,自己の規範意識を〈相対化〉してみる。本問の神髄はここにあるのです。
それにしても,この校長先生,そういう意味では,なかなかやりますね。
以 上
© 2021 「鍛地頭-tanjito-」
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