0 プロローグ
生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」の塾長 小桝雅典です。
今回のテーマは,「言説「賢い子を育てる」を〈相対化〉する」です。
巷間でよく用いられている言表に「賢い子を育てる」があります。
語用論的にこの言表を照射すれば,コンテクストに応じて,多様な意味が派生するのだと思います(コンテクスト主義)。ただし,人口に膾炙した用いられ方(以降,「所謂「賢い子を育てる」」と表記)に,「鍛地頭-tanjito-」は不快感を伴う不安を感じてなりません。
現役の先生方(教育関係者及び各種協会・団体の所謂「先生」と呼ばれている方を含む)や教員を目指される皆様方が,この言説の持つ権威性に服従されませんように願ってやみません。なぜならば,この言説に回収された有様は,〈ホンモノの教員〉の姿ではないからです。勿論,そのようなことはないと信じておりますが。
今回及び次回のBLOGでは,所謂「賢い子を育てる」の問題点と「地頭(じあたま)を鍛える」(=当塾名「鍛地頭(たんじとう)」の由来)ことの現代的な意義について,教師教育の視点から,「鍛地頭-tanjito-」独自の考え方を披瀝させていただきます。
Ⅰ 「賢い子を育てる」と述べることは,「賢い子ではなくなる」ということ
昨今,数多くのBLOGや書籍を拝読する機会が増えています。当塾の業務テリトリーの関係から,家庭療育,子育てを含む教育関連系がその中心です。したがって,拝読する中で多くの知見を頂いております。誠に有り難く,感謝いたしております。
ただ,有益な読書の過程で,どうしても気に懸かって仕方のない言表(フレーズ)が散見されることに気づいてきました。
それは,「賢い子を育てる」です。
テクストとしてのこの言表は,社会的なコンテクストの中で多様な意味を生起することから,テクストとして扱われる(=テクストの判断主体である「私」が想像の世界にいる)限り,別段,そこまで問題性を感じないのです。
問題性(恐怖・不安・嫌悪・憤り)を認知するのは,この言表が,例えば,次のような言表と連結するときなのです。
「東大・京大に合格する」
連結の結果,「賢い子は東大・京大に合格する」,あるいは「東大・京大に合格する子は,(地)頭の良い子」などと表記されたり,読解できたりするとき,「「鍛地頭-tanjito-」の世界にはない,人世を席捲する発想」,「「鍛地頭-tanjito-」が最も警戒している思考」と条件反射してしまうのです。
なぜそこまで強い嫌悪感に苛まれるのか。問題性を認知するのか。
先に結論を述べてしまいます。
「東大・京大に合格する」と表象化する言表と連結した「賢い子を育てる」は,「賢い子」が東大・京大に合格する受験上の方略的知的レベルにある「子」を表象化している(=〈ホンモノの賢さ〉の有無が確認されていない,抑々,〈ホンモノの賢さ〉自体の定義付けがなされていない)にもかかわらず,その「子」に〈ホンモノの賢さ〉を無意識的,あるいは恣意的に付与してしまっている点において,「賢い子を育てる」の言説が,その内部にパラドックスを内包してしまい,論理的な破綻をきたしてしまったその事実に,「賢い子を育てる」と言表した発話主体そのものが気づいていないから問題性を認知するのです。
つまり,発話主体そのものが,「東大・京大に合格する」に連結した「賢い子を育てる」が生成する通俗的な言説の権威性に呪縛されてしまっているから,「鍛地頭-tanjito-」の世界にはない発想であるし,そうした態様に「鍛地頭-tanjito-」は警戒心を抱くということなのです。
是非とも,「東大・京大に合格する」に連結した「賢い子を育てる」が生成する通俗的な言説から自己を解放(〈相対化〉≒メタ認知)していただきたい。そのためには,まず(その発話主体なりの)「賢い(さ)」の定義付けが必要になると思うのです。
Ⅱ 〈賢さ〉とは
1 「賢さ」の種類と〈相対化能力〉
ぶっちゃけ,「賢さ」には種類があるということです。
(いきなり口調が変わってしまいました(笑))
勿論,その種々の「賢さ」の中から,各判断主体が各判断主体の自動化した内的物語に沿って選択した「賢さ」を,その判断主体自身が自己の「賢さ」と定義付け(公言す)る行為そのものに異論を差し挟もうとは思っていません。
しかし,誤った判断に対しては,29年間教職に奉仕した身として,「鍛地頭-tanjito-」の名の下,意見を申し上げたいということなのです。(その行為自体も主観の為せる業だろうとの誹りはあることでしょうが。意見を申し上げることが,世の乳幼児・児童・生徒を救うことだと確信していますから。)
要するに,各判断主体が「東大・京大に合格する」という事実をどのように捉えるかということなのでしょうね。捉え方によって「賢さ」の定義が変わってしまうわけです。誤った定義付けも含めて。
そこで,「鍛地頭-tanjito-」は次のように捉えるのです。
「東大・京大に合格することが(地)頭が良い」とする言表には,現状の受験世界が巧妙に醸成した(否,無意識裡かも?)言説の権威性があります。「所謂偏差値が高いと言われる大学に入学すること=(地)頭が良い」とする権威性です。社会構造の責任にしてしまえばそれまででしょうが,その権威性に数多くの人たちが暗黙裡に服従しているため(中には,半ば気づきながら服従している人もいるのでしょうが,それを含め,この有様に危険性を感じてならないのです),上述の言表は市民権を得てしまい,他を圧倒する価値観として君臨してしまったのです。
日本の教育史を紐解くとき,私は昭和20年代から繰り広げられてきた系統学習と問題解決学習との大論争にどうしても注視してしまうのです。その後,時代的に鑑みれば,平成14年度辺りから学校現場に総合的な学習の時間の導入が図られ,ヘーゲルの弁証法を拝借すれば,現代は系統学習と問題解決学習とがアウフヘーベン(止揚・揚棄)する時代と考えられるのです。(アウフヘーベンがうまく進行するか否かは別として。)
個人的なことを申し上げると,平成14年度に,私は県教育委員会の総合的な学習の時間を担当する指導主事として,相方の指導主事(今,文科省におられるのかなあ)と総合的な学習の時間を広島県へ導入することに躍起になっていたことを思い起こします。
なぜ躍起にならなければならなかったか。
一つには,私が全国的な総合的な学習の時間の学校への導入期に,上述した系統学習と問題解決学習とのアウフヘーベンの必要性を信念として語っていたからなのです。広島大学で教育課程論・教育方法論を担当する非常勤講師をしていたときのテーマもそうでした。
また,一つには,学校現場が総合的な学習の時間の趣旨をなかなか理解してくださらなかったからです。内心,無理からぬこととは思いながら,「活動あって力なし」と問題解決学習を抑圧した系統学習の延長線上に位置する,主に知識量を問う大学入試の在り方を呪ったものです。無論,系統学習も大切なのです。問題解決学習も大切なのです。ですが,それらのバランス(均衡)(≒アウフヘーベン)がもっと大切なのです。しかしながら,そのことが(未だに)理解されないもどかしさに,毎日のように焦燥感すら感じていた日々だったのです。
今思えば,その焦燥感は,アウフヘーベンに辿り着くことなく,知識偏重・偏差値重視型大学入試を見事にクリアした人を「賢い」と思ってしまう者の態様(知識偏重・偏差値言説に回収されてしまい,その言説の権威性から自己を解放できない人世の相)への危機感をはらんだ不安感だったのだと思います。
当然のことですが,現状の大学入試を見事にクリアした方々を否定しているのではありません。ましてや,その方々を「賢くない」と言っているわけでもありません。決して誤解のありませんように。
ところが,ご存知のように,2020年度から大学入試が変わりますね。
「ああ,(まだ安心はできないけれど,)これで少しは世の教育も変わってくるだろうな。」というのが本音です。自虐的ですが(笑),〈相対化能力〉が仮に乏しくても,人世が〈ホンモノの学力(≒〈相対化能力〉を含めた学力の3要素)〉言説に巻き込まれていく時代がやってくるかもしれないのですから。
端的に申し上げれば,「知識・技能」に大きなウェイトを置いた評価から,「知識・技能」だけではなく,それらを基盤に「自ら思考・判断し,表現する力」に評価のウェイトを置いた入試に変わるのです。
引用:「学校教育コーナー Q&A【大学入試改革と塾通い】」(「鍛地頭-tanjito-」のホームページより)
グルーバル化の進展,産業構造や就業構造の転換,生産年齢人口の急減,労働生産性の低迷など,社会は確実に変化しています。当然のこと,求められる資質・能力も変わってくるわけです。すなわち,自ら問題を発見し,情報収集・分析・活用などしながら問題解決ができる能力が求められているのです。(中略)
求められる資質・能力が変わってくる。正確には,これらの資質・能力は従来求められていたものなのですが,社会の要請に伴って,これらの資質・能力の育成に一層軸足を移すようになってくれば,学校教育も大学入試も変わってくるということです。
具体的には,新学習指導要領への移行に伴い,学校では授業の在り方が変わってくるはずです。全ての授業がとまでは言えないでしょうが,知識注入型のレクチャー(先生が一方的に講義する授業)だけではなく,先程述べたような問題解決型の授業が模索されてくることでしょう。「どのような資質・能力を身に付けるのか」「何ができるようになるのか」まで踏み込んだ「主体的・対話的で深い学び」の教育へとパラダイムシフトしていくのです。
一方,大学入試では,センター試験が「大学入学共通テスト」に変更となり,国語・数学でマークシートの解答方式に加え,記述式問題が導入されることになります。また,英語は「聞く・読むの2技能評価」から「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能評価へと変更され,民間資格・検定試験を活用するようになります。さらに,個別の大学における入試では,受験者を多角的・総合的に評価するようになります。小論文試験や面接試験が一層重要度を増し,これまで以上に調査書(学校での活動)が重視されるようになります。つまり,「総合的な人間力」を評価しようというわけです。
要するに,簡単に述べれば,知識を詰め込むばかりで,それを現実の生活(実の場)に活用できない人材ではなく,インプットした知識を具体的な問題場面に活用し,問題解決ができ,社会に役立つ人材が望まれているということなのです。そのために,大学入試も知識量だけを評価する考え方から,「思考力・判断力・表現力」を評価する考え方にシフトしていくのです。
ヒトの習性なのではないかと思います。
ヒトは間主観的に拘束され,人世を席捲する言説の権威性に回収されてしまいがちです。「欲しがりません勝つまでは」を美徳とし,世界大戦を歩んだ在りし日の数多くの日本(人)は,その象徴と言えるのかもしれません。
否,これまでの教育が結果として生産できなかった〈相対化能力〉を考えれば,これまでの教育の責任なのかもしれません。そうであるならば,29年間奉職してきた私にもその責任の一端があることになります。
現代を生き抜く上で必要かつ重要な力は,自己,自己を取り巻く環境,時代,歴史,事実,現象などを〈相対化〉(所謂メタ認知及びそのメタ認知(の結果)をさらにメタ認知し,認知の結果を実践)する能力であり,その力量が各人に形成されていれば,人世を席捲する諸言説の権威性から自己を解放することができるわけです。
「鍛地頭-tanjito-」はそうした〈相対化能力〉を身に付けた,又は,身に付けようとしている態様を〈賢さ〉の一つの相として捉えているのです。そうして,この能力や能力を身に付けようとする態度及び能力を発揮しようとする態度は,教育の不易の在り方であり,それを身に付けさせることが〈教育〉の最大の責務であると考えているのです。
ですから,〈相対化能力〉は万人が身に付けるべき能力であるとともに,殊に学校の教職員や各種協会のリーダー等,所謂「先生」と呼ばれる職種に就く方々には(その〈賢さ〉がなければ,「先生」に該当しないと考えるくらい)必須の能力であると考えているのです。
そういう理由で,「鍛地頭-tanjito-」は〈相対化能力〉の優れた人材(教員)を輩出したいと考えているのです。〔オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」開塾〕
そう言えば,新学習指導要領解説の中に「相対化」が散見されますね。「鍛地頭-tanjito-」が主張する〈相対化〉の概念を矮小化したニュアンスではありますが。
多面的・多角的な視点から自分の考えを見直すとは,説明しようとしている対象に関して観察したり,立場を変えて考えたりすることによって自分の考えを相対化し,様々な可能性について検討することである。例えば,ある施策の利点だけでなく問題点にも目を向けたり,経済性のほかに安全性の観点からも考えたりするなど,一つの事柄を多面的に見たり多角的に考えたりして,相対的に適切な判断を下せるようになることである。
引用:『高等学校学習指導要領解説 国語編』(第2章 国語科の各科目 第3節 論理国語 3 内容 文部科学省,平成30年7月,p.160)1
共同で作品制作に取り組むことは,集団の中に自らを置き,自分の個性を共同作業の中でどのように生かしていくかを考えるという,自己相対化の視点として必要な活動である。こうした活動が,自分のものの見方,感じ方,考え方を客観的,分析的に捉える契機となる。
引用:上掲書1 p.195 (第2章 国語科の各科目 第4節 文学国語 3 内容)
文学的な文章を読み,登場人物の考え方や生き方に共感したり,疑問を抱いたりして思索を深めることが,人間,社会,自然など人生の諸事についての自らのものの見方,感じ方,考え方を深める出発点となる。小説などの文学的な文章における様々な個性を持つ人物との出会いによって人事の深みを知ったり,また韻文などから,社会や自然に対する書き手独自の見方を捉えたりすることによって,自分の既有の知識や経験が相対化され,それまでとは異なる価値を持つものとして,新たに意味付けられることがある。
引用:上掲書1 p.200 (第2章 国語科の各科目 第4節 文学国語 3 内容)
作品を読むことを通して新たに形成した自分の考えを,それまでの自分の考えや他の読み手の考えと比較しながら,その共通点と相違点を整理し,広げたり深めたりすることによって,人間,社会,自然などに対するものの見方,感じ方,考え方を深めることができるようになる。
(前略)これまでの研究の成果として確立している文学理論や,特定の作家について研究している研究者による文章を読むことで,生徒は自分の読みを相対化することができ,自分はどうして最初にこのような読みをしたのか,どうしてこのような読みができるのかといった疑問を持つことで新たな視点を獲得することができる。
引用:上掲書1 p.203 (第2章 国語科の各科目 第4節 文学国語 3 内容)
論述したり討論したりする際には,必ず具体的な相手が存在し,その相手に向かって言語活動を行うことになる。その際には,相手の立場や状況なども把握して,自分の考えを分かりやすく伝えることができるよう工夫することが必要である。
「多面的・多角的な視点」の獲得は〈相対化能力〉を身に付ける上で,非常に重要な鍵を握ります。
視点取得(perspective-taking)とは,他者の視点に立つことです。そのためには,自分自身のものの見方を絶対視せず,相対化・対象化することが必要になります。この視点取得は,とりわけ他者とのやりとりにおいて必要なメタ認知です。(中略)
引用:『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める 認知心理学が解き明かす効果的学習法』(三宮真智子,北大路書房,p.30)2
認知発達に個人差があるように,メタ認知の発達にもかなり大きな個人差があります。しかしながら,認知能力もメタ認知能力も発達のプロセスの中で徐々に高まっていくという点は共通しています。
因みに,〈相対化能力〉及び「視点取得」にかかわり,当塾には次のようなBLOG記事があります。
○ 「「システム思考」と「主体性」―いじめ問題と教師教育の視点に新学習指導要領を絡めて―」:2018.7.6
○ 「教師教育 他者をみる〈チカラ〉―その重要性について―」:2018.2.4
○ 「「予断」と「偏見」」:2018.2.17
さらに,中央教育審議会は2040年の大学教育を模索するに及んで,次のような案を示しています。
予測困難な時代の到来を見据えた場合,専攻分野についての専門性を有するだけではなく,思考力,判断力,俯瞰力,表現力の基盤の上に,幅広い教養を身に付け,高い公共性・倫理性を保持しつつ,時代の変化に合わせて積極的に社会を支え,論理的思考力を持って社会を改善していく資質を有する人材,すなわち「21世紀型市民(「我が国の高等教育の将来像(平成17年1月28日 中央教育審議会答申)以下「将来像答申」という。)」が多く誕生し,変化を受容し,ジレンマを克服しつつ,さらに新しい価値を創造しながら,様々な分野で多様性を持って活躍していることが必要である。
引用:「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン(答申(案))」(中央教育審議会,平成30年○○月○○日,p.5)3
ここで述べる「俯瞰力」とは,すなわち認知心理学で述べる「メタ認知(能力)」のことであり,「鍛地頭-tanjito-」が述べる〈相対化能力〉に似通った概念です。
加えて,上述の引用の脚注として,日本私立大学連盟の「未来を先導する私立大学の将来像」(平成30年4月)の一節が付されているので,それを紹介します。
(前略)
引用:前掲案3 脚注4(p.5)
大学が育成すべき能力は,第一に,人間としてのあり方を常に問う主体的で洞察力に富んだ思考力であり,第二に,AIによる代替が不可能な分野で新たな職能を深めることのできる柔軟性であり,第三に過去と現在,変わるものと変わらぬものを知った上で,今日と未来の変化を理解し適切かつ主体的に判断する能力である。そして第四に,さらなる流動化に備えて,地域(世界における日本,日本における各地域)を熟知し,日本及び地域が持っている資源を活用し,その独自性を表現する能力である。
殊に,「第三」の「過去と現在,変わるものと変わらぬもの」とは,それを教育の世界に当て嵌めるとき,それは当塾の基本理念の礎となり,当塾が巷間においてよくご説明申し上げている「教育の不易流行」に他ならないのです。
〔参考〕「教育の不易流行」については,こちらをご覧ください。
➡「オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」」
教育関係者の方々であれば,学校教育法第30条第2項のことはよくご存知だと思います。「学力」が法に規定された嚆矢として「画期的である」と言われている法律ですから。
2 前項の場合においては,生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに,特に意を用いなければならない。
学校教育法 第30条 第2項
新学習指導要領に規定される「学力の3要素」は,上記の法律に謳われています。①「基礎的な知識及び技能の習得」,②「思考力・判断力・表現力の育成」,そして,学習の態度を「学力」の範疇に込めた(その意味においても画期的な)③「主体的に学習に取り組む態度の育成」がそれらです。
ここで,注目していただきたいものが②の「思考力・判断力・表現力の育成」です。このどこに注目していただきたいのかというと,上掲した中教審答申案(3)との比較において,中教審答申案は「思考力,判断力,俯瞰力,表現力」の育成を謳い,ここに「俯瞰力」を加えているという点です。
つまり,簡潔に申し上げれば,大学教育の目指す姿として,高校教育までの「思考力,判断力,表現力」に「俯瞰力」を加味しており,恣意的に解釈すれば,各学び手が身に付けた,又は身に付けつつある「思考力,判断力,表現力」を俯瞰する能力も大学教育では求めているということになるのです。すなわち,極論し大局的に述べれば,学び手が学び手自らの「学力」をメタ認知(≒〈相対化〉)することによって,一層「思考力,判断力,表現力」の向上を図ることが重要であると述べているということなのです。
このように考えてくれば,〈相対化能力〉(≒メタ認知能力)は,学校教育での学習のみならず,予測不可能なこれからの社会を生き抜くために最も必要な力と言えるのではないでしょうか。
〈相対化能力〉は〈賢い(さ)〉の主要素と言えるのです。
そこで,再度,話題を先ほどの「賢い子を育てる」言説に戻すと,非常に厳しい言い方になりますが,「東大・京大に合格する」に連結した「賢い子を育てる」の言説を〈相対化〉しないで,この言表を口走る(想起する)ことは,「鍛地頭-tanjito-」の論理で述べる限り,その発話主体は「賢い子ではなくなる」ということになってしまうのです。
因みに,付言すれば,上掲書2にあるように,―プロの教員や教育関連のコンサルタント等であるならば,どなたもご存知のように―認知発達にはかなり大きな個人差が存在します。したがって,○○力やある種の感情等が,例えば「小学校○年で」とか,「○歳で」とかを付して発達段階を限定し,「○○な状態(=認知発達)になる」などと断言できないものであることは言を俟ちません。
さて,多くの育児書では月齢や年齢別に特定のステップを踏むタイプの育脳が主流のようですが,私からすると,子どもの可能性が伸び悩むのであまりおすすめできません。
引用:『5歳までにやっておきたい 本当にかしこい脳の育て方(電子書籍版)』(茂木健一郎,株式会社日本実業出版社,Ver1 2017年10月1日,http://a.co/5HDC0uB)
たとえば,「何歳で○○はまだできなくて当然」といった認識で子育てをしたとしましょう。すると,本当はそれができるかもしれないという子どもの可能性を遮ることになってしまいますよね? あるいは,「何歳までに○○ができて当然」という考え方に立った子育てでは,どうしても親に焦りが出てしまうものです。
子どもは同じ月齢・年齢であっても,みんなが横並びで同じ成長曲線を描くということはありません。個人差はあって当然なのです。だからこそ,育児書のステップに惑わされるのではなく,目の前のお子さんを見つめて,必要な手助けをすることの大切さを,私は脳科学者として声を大にして皆さんにお伝えしたいのです。
私は,「育児書のステップ」について,次のように考えます。
「育児のステップを標榜しておられる限りにおいては,(その提唱者等が)必ずやその背後に学問的な根拠を有しておられる。ただし,中には,その根拠を明示・公表されていないところがあるから,その(発達の)ステップに誤解を招いてしまうのだろう。(発達の)ステップ説も学問領域のものであるならば,「鍛地頭-tanjito-」としては相容れない考えではあるが,尊重しなければならない。問題は,当該のステップ説を解釈する側にある。如何にステップ説を〈相対化〉(≒メタ認知)するか(=鵜呑みにしないか)。―上記の引用(茂木(2017))には,〈相対化〉できない場合を親に生じる焦りとして挙例してある。―その上で,ステップ説を信奉するか,抛棄するかは,(誤りをも含めて)その判断主体の判断なのである。ただし,仮にその判断が誤りであるのならば,それは他者との〈対話〉によって正されなければならない。特に,茂木の主張と「鍛地頭-tanjito-」のそれとが一致する点は「育児書のステップに惑わされるのではなく,目の前のお子さんを見つめて,必要な手助けをすることの大切さ」なのである。これに限る。こどもは一人ひとりの個性(特性)を持っており,一人ひとり異なっているのである。(保護者だって同様だ。)したがって,一人ひとりのこどもの発達・成長をしっかりと見極め,そのこどもにとっての発達課題を保護者など周囲の大人たちと共にクリアさせていくことが,保護者を初めとする大人たちの責務だと言えるのである。」
このように述べると,「では,「鍛地頭-tanjito-」の考えについての根拠を示せ。」ということになるのでしょうね。
そこで,この件に関しては,1回のBLOGでは紙幅の関係上,到底,記述することは不可能ですから,追々,BLOGやメルマガ[1]発刊を終了しております。等でお示ししたいと思います。ただし,私のアプローチは国語教育の分野から行っています。なぜならば,私の大学院時代の研究テーマは,簡単に述べれば,国語の(「語りの構造読み」の)授業を通して児童・生徒に〈相対化能力〉を育成することだったからです。
余談になりますが,現役の教員であっても,無論,認知発達の個人差は存在するわけですから,そこを見極め,組織を形成・経営していくのが,〈賢い〉(=一般に,能力の高い)学校管理職の一条件と言えるのでしょう。
[追記]
本BLOGは,東大・京大,東大・京大の関係者及び東大・京大を目指して日々受験勉強に励んでおられる皆様を揶揄・否定するものではございません。「鍛地頭-tanjito-」は,所謂「受験学力」も〈学力〉の一つの相と捉えておりますし,〈相対化〉を受ける「力」であるとも考えております。要するに,各個人にとって〈相対化能力〉の有無が問題であるわけです。その点につきまして,繰り返し,お断り申し上げます。
関連BLOG
「えっ!? 「賢い子を育てる」って!?」(アメーバブログ,2018.11.1)
(次回につづく)
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