本ブログは2018年6月12日に当塾公式ホームページに掲載したものを当サイトに移したものです。(2019.10.9)
「鍛地頭-tanjito-」副塾長の住本小夜子です。
本日のテーマは,【ホンモノの「ありがとう」】について,私の考えを語らせていただきます。
まず初めに,「ありがとう」について国語辞典で調べてみました。
みなさんは,普段,どのような時に,「ありがとう」と言いますか? また,「ありがとう」と言われた時,どのような気持ちになりますか?
私の場合ですが,日々,特に,こどもとのやり取りで,「ありがとう」と言ったり,言われたりしています。ですが,その際に,ふと感じたことがあります。それは,私からこどもたちへ「ありがとう」を述べる場合,素直な心(気持ち)で感謝の意を伝える時と,意図的に伝える時があるということです。
特に,後者はこどもたちを褒め,認め,「自己存在感」を持たせようと企図している時が多いような気がします。
世の中には,自分を認めて欲しい気持ちが強すぎるがあまり,敢えて他者に「ありがとう」を言わせる言動を取る場合もありますよね。「ありがとう」は相手のためにある言葉なのか? はたまた,自分のためにある言葉なのか?
我が家の教育方針の一つに,「『ありがとう』と『ごめんなさい』が素直に言える思いやりを持った子になる」 があります。
この教育方針のねらいには,どんな時も「感謝」を忘れず,相手を敬うことを,幼い時からしっかり認識し,覚えてほしいという私の願いがあります。
前身の「鍛地頭-たんじとう-」時代に綴った記事(2018-2-23,リメイク版)に,【優しさと思いやりとの違い】があります。
そこには,次のように記述しています。
相手のことをしっかりと考える,また考えようとするのが「思いやり」
「優しさ」はそれを持つその人の内にあるもの
「優しさ」と「思いやり」の両者を兼ね備えて相手へ尽くすことは,行動する側も,受ける取る側も,とても心地よく,お互いが自然と笑顔になることでしょう。
「優しさ」と「思いやり」の両者を兼ね備えた「ありがとう」は,言う側も言われる側も,とても穏やかで,清々しい気持ちになることでしょう。
以下は,私自身の育児体験を回想し,かつて私が書きつけていたメモの一節です。
出産後,育児という限られた時間が,将来,こどものためにもなり,また,家族や自分の幸せにもつながると信じ,二度とないこの時を過ごしています。
育児をしていると,自分の自由な時間なんてありません。
どこに行くのも,こどもと一緒。ご飯が冷めるのも当たり前。温かいものを美味しく食べたのはいつだったでしょう。寝る時間も少なく,常に睡眠不足です。
ゆっくりしたい,自分の自由な時間がほしい。そう思ったことはいくらでもあります。
けれど,こどもと一緒に過ごせる時間は限られます。
いつかは,子離れ・親離れしていくのだから,いつまでも一緒にいることはありません。こどもは,遅かれ早かれ自立し,自律していくのです。
だからこそ,こどもが幼い時だからこそ,こどもとふれあう時間を精一杯大切にしたいのです。そして,たくさんの愛情を感じて成長してほしいのです。
すべては,こどものため。家族のため。そして,自分のため。
この考えは,これからも変わることはないでしょう。
こうした考え方であれこれと育児を行う私に,最近,息子と娘が素直な心で,「ありがとう!!」と言ってくれるようになったのです。私も素直な心で「ありがとう」と思わず返してしまいます。
息子と娘が私を認めてくれている。感謝してくれている。息子と娘は,私をしっかりと感じてくれている。
私は息子と娘の成長を認めている。息子と娘が生まれてきてくれたことに,心から感謝している。
お互い,かけがえのない,大切な存在なのです。
「ありがとう」は,こどもたちが感謝の念をもって私の存在を認め,私が感謝の念をもってこどもたちの存在を認める,私たち母子(おやこ)の紐帯(ちゅうたい)としての,大事な大事な言葉だったのです。
私たちは,常日頃,当たり前のように,「ありがとう」と言ったり言われたりする環境にあります。今こそ,他者のためにも,自己のためにも存在する,「ありがとう」という言葉の〈有り難い〉意味を見直すべきではないでしょうか?
「ありがとう」は有る(=存在する)ことが難しいくらい,優れた,もったいない言葉なのです。
「ありがとう」は〈有り難い〉自他の存在を認める〈有り難い〉言葉
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