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育児言説を〈相対化〉するーポストモダンの時代から一元論的トランスモダンの時代へー〔第1回〕

赤ちゃんの足を両手で掬い取るように支える母親の手 「鍛地頭-tanjito-」の教育論
この記事は約23分で読めます。

警告!!

本ブログには「鍛地頭-
tanjito-」による教育論等が展開されております。
したがって,無断で当塾の教育論等を使用・援用・引用等されることを固く禁じます。
このような警告文を発すること自体が本意ではなく,誠に遺憾ですが,再三に及ぶお願いにもかかわらず,(営利目的等を含め,)無断で当塾の考え方や実践を盗用されている団体の存在が分かっています。以降,法的手段を視野に対処させていただきますので,そのようなお互いにとって不幸な事態が生じませんように,予め,重ねて御忠告申し上げます。

「鍛地頭-tanjito-」塾長 小桝雅典

[Masan]が紹介する本日テーマ「現代育児言説を〈相対化〉するーポストモダンの時代からトランスモダンの時代へー」
[Masan]が紹介した今回のブログのテーマと主旨を補足する[Sayosan]

0 プロローグ

「育児・療育・教育の世界は,依然としてポストモダニズムのままなのか? いや,そんなことはない。」と,一人ヤキモキしながら,日々,思索を巡らせています。

生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」の塾長,小桝雅典です。

(1) ブログ作成の目的

今回のブログを作成するに及んで,三つの目的がありました。
一つは,前回,副塾長の住本小夜子が綴った「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」? ―信じるという脅迫―」の内容を相互補完(補足)することです。
残りの二つは,現代の育児言説を〈相対化〉することにより,「こどもが〈不在〉でありながら,「育児」を騙(かた)る行為」に警鐘を鳴らすこととまだ試行錯誤(思考錯誤かも?)中の「「鍛地頭-tanjito-」教育論」を世に問うことです。

二つ目の目的の「「鍛地頭-tanjito-」教育論」に至っては,世に問うに時期尚早の感は否めません。しかし,性急な解決を要する問題がポストモダンの終焉を迎えた現代の地平に歴然と顕在しています。義憤も相俟って,私は〈解決〉に乗り出さなければならないとする衝動的な〈正義感〉に駆られたのです。ただ,正直なところ,「性急な解決を要する問題」が私個人の幻想であって欲しいと願う気持ちも多少なりともあったことは事実です。しかも,〈解決〉に乗り出す姿勢こそがポストモダニズムの体現なのではないのかと考える内的パラドックスにも苛まれていました。それでも,鬱積した瞋恚(しんい)が勝りました。

(2) 「手抜き育児」の地平

「性急な解決を要する問題」とは,本ブログの場合,現代を席巻する(ように思える)「こども〈不在〉の手抜き育児言説」を指します。端的に述べれば,育児は保護者のためにだけあるとする言説です。平易に換言するならば,「こどものためではなく,保護者(この言説が対象とするのはほぼ母親)のためだけを滔々と騙(かた)る育児言説があまりにも権威性を持って跋扈(ばっこ)しているのではないのか? 」ということです。

塾長の難しい論述をわかりやすく説明しようとする[Sayosan]

私の焦燥感を伴う憤怒は,次の思いに起因しています。

「こうした育児言説に回収され続ける限り,その育児言説に回収された保護者によって育てられたこどもは,近未来を含めた将来,ぐちゃぐちゃになってしまう!!」(因みに,これとは別に,「脳科学においても,まずは3~4才までが大事な発達段階であると言うのに!!」との思いもあります。)

なぜこのように断言できるのか?

それは,高等学校の現場だけでも約9,000人※1の生徒にふれあってきた元教師の実践,経験と29年間掛かって培ってきた独自の理論があるからです。教育行政(生徒指導担当時)にいた折には,小学校や中学校にも指導に入り,数多くのこどもたちや先生方とふれあってきているのです。主観的な思いを吐露するようですが,通常,論理的に物事を捉えようと努力をしている私自身が,こうした思いをブログに〈ありのまま〉にぶつけなければならないほどに,育児の現場は危機的状況にあるのです。

【「手抜き育児」の例】

  • 「こどもの〈ありのまま〉」についての捉え方を完璧にはき違えた育児
  • こどもの〈在り方〉を一個人の大人の価値観(主観)だけで決めつけて行う育児
  • 生徒指導(しつけ)上,(発達段階に合わせ,人道的にも)必ず厳しい指導をしなければならないこどもの言動を,没個性にするとか,伸び伸びと育てるためとか言って放任する育児
  • 最近,特に散見される「自己肯定感」の解釈を誤ったまま,その概念を探究することなく,自らの思い込みでしつけ(?)する育児
  • 保護者の自己保身から,早期に療育を必要とするこどもを放置した育児
  • こどもへの声掛けなどにおいて,ことばの持つ〈職能(働き)〉や重みを理解していない育児
  • 理論と実践とが矛盾・乖離した育児(の教え)
  • 保護者だけの「楽」/営利目的のため,「手抜き育児」を賞賛し,それに権威性を与えようとする育児(の教え)(≒育児言説)

など

就学前の発達段階で,上述した「手抜き育児」により育てられ,集団化したこどもを保育・指導する保育士さん,幼稚園・小学校の先生方(延いては,中学校・高等学校・特別支援学校・大学等の先生方)の苦労は如何ばかりのものか!! これらの教育空間には明確に〈公的な責任(学校教育)/私的な無責任(手抜き育児)〉の二項対立の図式が成立(社会構造化しようと)しているのです。

似非子育て(論)に憤然とする[Masan]

(3) 「手抜き育児」への警鐘

ア 〈庇護〉されたいこどもたち

このように綴ってくると,「何を偉そうに述べているのだ!!」という声が聞こえてきそうです。しかし,私の指摘(警鐘)は本当に誤っているのでしょうか? 私は決してそうは思いません。

私は仕事柄,保護者(親)からの児童虐待を受けたこどもや少年鑑別所・少年院・少女苑・少年刑務所(以下,「少年鑑別所等」)に入所したこどもたちともふれあってきました。

そして,そうしたこどもたちとの〈対話〉を進める度,漸次,強まってきた思いがあり,今ではそれは一つの信念と化しました。ただし,お断りしておきますが,私がふれあってきた上述の少年・少女は5~6年前までのこどもたちであったし,飽くまでも私がふれあってきたこどもたちなのです。

○「親の愛が欲しかった。」
○「(保護者(親)は,自分が)悪いことをしても叱るような親(保護者)ではなかった。」
○「(自分が悪いことをした時,保護者(親)に)真剣に叱って欲しかった。」
○「見捨てられたと思った(思っている)。」
○「(保護者以外の)他人(教師を含む)でも愛情を持って本気で叱ってくれる人とそうでない人は,すぐに分かる。」
○「人(教師)を信じられない。だから,淋しかった。だから,悪いことを繰り返した。だから,いつしか,自分の周りには,そんな淋しい思いをしている友達が集まっていた。」

など。

私がふれあってきた,このようなこどもたちの殆どが,それでも保護者(親)を庇(かば)うのです。私にはその言葉が信じられませんでした。「(保護者(親)によって,)こんなに辛い目に遭わされているのに…。」

○「でも,先生(私のこと),(保護者(親)は,)悪い人ではないんよ。家の中でもいろいろなことがあったけんね…(保護者(親)も)大変じゃったんよ。」
○「(保護者(親)も)人じゃけん。」
○「お母さんも大変じゃったんよ。お父さんからのDVがあったけん。」

など。

勿論,中には保護者(親)のことを「大嫌いだ!! 顔を見たくない!!」というこどももいました(その〈真意〉はさて置き)。しかし,私が〈対話〉を持った多くのそうしたこどもたちは,

「(保護者(親)のことを)好きよ。」

と呟いたのです。保護者(親)に対して,「〈好き〉と思える状態でいて欲しい。」「そうした状態になって欲しい。」,また,保護者(親)を「〈好き〉でいたい。」という儚く切ない期待と願望を込めて。

こうした心情は,何も児童虐待を受けたこどもや少年鑑別所等を経験したこども特有のものではありません。偶々,児童虐待や少年鑑別所等の更生の空間が,彼ら/彼女らの飾り気のない言葉を切り取って(私に)見せただけで,全てのこどもに共通の〈真情〉なのです。

ここまで述べただけでもお解かりのように,上述したこどもに共通の〈真情〉を,大人の都合(価値観,エゴイズム,損得勘定等)だけで無視することなどできはしないのです。(しかも,そうした「大人の都合」を自らの営利目的で煽ってもいけないのです。)それは保護者(親)としてと述べるよりも,〈人〉として。また,敢えて,歯に衣着せぬ直截的な物言いをすれば,〈こどもを設けた保護者(親)の責任〉として。

確かに,人間として存在する価値(尊厳)は,こどもと大人と等価的であることには相違ありません。教えるという行為を一つ採っても,こどもが大人に教えることだってあるでしょう。しかしながら,大人が先に生まれ,こどもへと〈命の絆〉をつないだ分,大人がこどもに教え,〈守る〉ことが多いのも事実です。

先述した「庇(う)」という漢字を想起してください。この漢字は元来「おおう(=蔽)」の意を有します。そこから派生した意味は「おおいまもる,たよる」であり,「かげ・おかげ・たすけ」などの意味もあります。〔参考:『角川 新字源 改訂版』(小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編,角川書店,2004.1,p.327〕「庇護」などの熟語もありますよね。

挙例した「庇う」を再見すると,この場合,児童虐待や少年鑑別所等を経験したこどもたちが保護者(親)を〈庇っている(=おおいまもっている)〉のです。理屈抜きで,真面(まとも)な状態と言えますか? とても皮肉なことに,このような庇護にも値しない保護者(親)を〈庇う〉こどもの〈真情〉は,私には〈自然のこと〉と思えてしまうのです。

こどもというものは,元来,保護者(親)に〈庇護〉されたい(=〈おおいまもられたい〉)存在なのです。それがこどもの〈真情〉です。こどもは,保護者(親)がどの程度,どのようにして自らを〈庇護〉してくれるのかを心の眼差しでもって凝(じっ)と〈見つめている〉のです。

児童虐待や少年鑑別所等を経験したこどもたちが庇護にも値しない保護者(親)を〈庇う〉のは,こどもとしての〈真情〉の,ある意味,反動形成と考えられるのです。保護者(親)に〈庇護〉されたいのに,保護者(親)は庇護してくれない。だから,こども自らが保護者(親)を〈庇護〉してしまっているのです。

「手抜き育児」,すなわち,「こどもが〈不在〉でありながら,「育児」を騙る行為(=こどものこうした〈真情〉を捉えず/捉えようとせず,保護者(親)だけが快楽に浸り,プラス(利)を貪る,保護者(親)だけが良ければそれで良いとする育児の名に値しない行為)」が,一体,「児(=こども)」の何を「育」むのでしょうか? 理屈(熟語)から考えても,「育児」の「児」のない「育(み)」は,既に「育児」ではないのです。

イ 「楽な育児」の二面性

昨今,巷間の育児書・ブログ等で散見されるようになったステレオタイプのフレーズ(一例)です。

「(育児において,)お母さんが楽にならないといけないのです。」…a

「楽な育児」の言表は相反する二面性を持った言説を構築しています。

その意味において,上述の(a)は,一面,得心のいく言表と言えます。しかし,反面,上述した「手抜き育児」(=「こども〈不在〉でありながら,「育児」と騙る行為」)言説を醸成する言表でもあり,得心するわけにはいきません。アリストテレス風に言えば,一種のアポリアです。

得心のいく場合については,副塾長の住本が認(したた)めた前回のブログに,理解しやすい事例が挙例してありますので,その箇所を引用しておきます。

例えば,家事の負担を減らすために圧力鍋を使った調理をしたのならば,調理時間の短縮ができます。家事に追われる時間が少し減ったことに満足して終わることなく,時間短縮で得た心の余裕を,こどもと接する時間に活用していただきたいと思うのです。

「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?―信じるという脅迫―」(住本小夜子,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.10)


このように,「〈こどものため〉に,保護者が心に余裕を持ち,晴れやかな心で〈こども〉と接する」(住本前掲ブログ)のが「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)の一面であって,「大人が楽(らく)になったらそこで完結し」(同上)てしまう「育児」を騙る行為を〈育児〉とは呼ばないのです。これは当塾「鍛地頭-tanjito-」が考える定義でもあります。「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)には,厳然と〈こども〉が〈存在〉しているのです。したがって,「保護者が心に余裕を持」つために講じる具体的な手立ては,この場合,〈こども〉の〈存在〉を尊重する保護者(親)主体に任されることになります。

このように考えてくると,得心のいかない場合は,「楽(らく)な育児」(アポリアの後者)に〈こども〉が〈存在〉していないということになります。上記に引用したブログの中で,住本が指摘していますが,「〈こども〉の存在があるからこそ,育児(小桝注:「育」+「児(=こども)」)は成り立つのであって,大人を対象とする育児など存在し」ない(小桝注:「育」+「大人」とは言わない)のです。つまり,繰り返すように,「こどもが〈不在〉でありながら,「育児」を騙る行為」は「大人が楽(らく)になったらそこで完結し」てしまう行為を指し,延いては,これはこどもに〈愛情〉の〈手〉を差し伸べることのない「〈手〉抜きの育児」と言えるのです。

さらに,事態は深刻です。

先述したステレオタイプ式の言表(a)を再見してみましょう。

「(育児において,)お母さんが楽にならないといけないのです。」…a

実践家・指導者の中には,こうした言表を用い,〈こども〉の〈存在〉を念頭に置いて,〈こどものため〉に,保護者(親)が「楽(らく)な育児」をすべきだと説かれている方もおいでのことでしょう。それは,当ブログではアポリアの前者に当たる「〈こどものため〉に,保護者が心に余裕を持ち,晴れやかな心で〈こども〉と接する楽(らく)な育児」に相当するのだろうと考えますから,表面上,何も問題がないように見えます。

しかし,そこに陥穽(かんせい)があるのです。

この(a)と似た種類の数多くの言表がテクストとして独り歩きするとき,すなわち,「こどものために」という言表を伴わないで,例えば,「お母さんが楽にならないといけないのです」だけの言表が長い時間軸の中で,数多くの人に多用され続けると,巷間にどのような状況が展開するのか?

漸次,これらの言表は「お母さん=楽/こども」に収斂する言説を生成してしまうのです。つまり,「(育児において,)お母さんは手抜きをするようにならないといけないのです。」→「(育児において,)お母さんは,お母さんの自己欲求を満たすようにならないといけないのです。」→「(育児において,)お母さんが自己欲求を満たすのは当たり前です。」→「(育児において,)お母さんだけが自己欲求を満たしてい良いのです。」→「お母さん本位の育児で良いのです。(=お母さんの欲求を満たせば良いのです。こどもではないのです。)」と。

そして,やがて〈こども〉の姿は隴化し,消滅していきます。
これが,〈愛情〉の〈手〉が届かなくなった〈手抜き育児〉言説の正体です。

私は,こうした保護者(親)が蔓延した世界を想像したくはありません。
さらに,万一,この類の言表が生成する〈手抜き育児〉言説に気づきながら,自らの営利目的のために,それらを多用している実践家・指導者がおられるとするならば,それは非人道的な大罪であるとしか言い様がありません。なぜならば,〈こども〉や〈保護者(親)〉は商売のためのツールではないからです。

ウ 「楽(たの)しい育児」の「楽しさ」とは

「楽(たの)しい育児」は決して「愉(たの)しい育児」であってはなりません。その理由を字義から確認してみます。確認の典拠は前掲の漢和辞典です。

「楽」には,「よろこばしい。やすらか。豊か。愛する。」などの意味があります(p.513)。一方,「愉」には,「心が和らぐ。おだやかな顔色。なまける。おろそかにする。」などの意味があります(p.383)。

先に,後者の「愉」に注目すると,そこには〈手抜き育児〉の典型が表象されていることに気づきます。保護者(親)の「心が和らぐ育児」・「おだやかな顔色になる育児」(ここまでは良いのですが)は,時が経つにつれ,「なまける育児」・「おろそかにする育児」に変貌していくのです。何を「なまけ」,「おろそかにする」のか? それは,既に言わずもがな,保護者(親)が〈愛情〉を〈こども〉に届ける行為なのです。「〈こども〉への〈愛情〉をなまける育児」,「〈こども〉への〈愛情〉をおろそかにする育児」。これは,まさに〈手抜き育児〉に他なりません。

したがって,前述したこども〈不在〉(保護者(親)のためだけ)の「楽(らく)な育児」(アポリアの後者)は「愉(たの)しい育児」に収斂していきます。

一方,「楽(たの)しい育児」(アポリアの前者)は,「〈こども〉を愛し,育児そのものを愛する育児」が「よろこばしい育児」,「(心)やすらかな育児」,「〈こども〉も,保護者も,そして家族も〈愛情〉豊かな育児」に帰結していくことを暗示しているように読めるのです。

ただし,注意しておかなければならないことがあります。

例えば,療育の一環として,保護者(親)が製作した「スケジュール表」(参考:「自閉症スペクトラムの息子のやる気を引き出すスケジュール管理」(住本小夜子,「鍛地頭-tanjito-」,2018.9.17))をこどもが嬉しそうに使っている光景を見て,その保護者(親)が「こどもが楽しい(よろこばしい)と思ってくれている。だから,私も楽しい(よろこばしい)。」と感じても,それはここで述べる「楽(たの)しい育児」(アポリアの前者)ではないということです。

保護者(親)が捉えるこどもの嬉しそうな表情(様子)は,飽くまでもその保護者(親)のフィルター(=ものの見方や考え方)を通して捉えた〈こどもの嬉しそうな表情(様子)〉であって,《こどもそのものの嬉しそうな表情(様子)》ではないのです。つまり,少し一面的な例ですが,換言すれば,保護者(親)が「こどもが嬉しがっている」と捉えただけで,〈こども〉は〈本当はそのように思っていない〉ことだってあるのです。

では,なぜその保護者(親)は「こどもが嬉しがっている」と捉えるのか?

「鍛地頭-tanjito-」(住本と私)は,保護者(親)がこどものためにと思い,スケジュール表を製作したその行為に,〈こどもからの見返り〉を期待しているからだと考えるのです。〈こどもからの見返り〉への期待が〈こどもそのものの嬉しそうな表情(様子)〉に見誤らせたということです。

これでは,保護者(親)から〈こども〉への一方的な愛情のお仕着せであり,「(〈こども〉も,保護者も,(そして家族も)〈愛情〉豊かな育児」という双方向的な〈愛情〉の関係は成立しません。すなわち,そのことは「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)ではないことを意味します。

そうであるならば,双方向的な〈愛情〉関係を構築するには,どのようにすべきであると考えるのか?

その解答は明確です。保護者(親)が〈こどもからの見返り〉を期待しないことです。その上で,「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)を目指すのです。「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」です。それはそうです。同じ「楽」の文字が遣ってあるのですから。「楽(らく)な育児」を目指すことは,「楽(たの)しい育児」を目指すことです。要するに,〈こども〉にとっても,〈保護者(親)〉にとっても「楽で楽しい育児」でなければならないということなのです。

このことを《相対化》してみます。
すると,そこには,こどもと大人とを二項対立の図式で見る見方ではない見方があることに気づくはずです。「こども中心の育児でないといけない!」とか,「保護者(親,特に母親)中心の育児でないといけない!」とか,つまり,どちらが育児(敷衍すれば,療育・教育)の中心となるべきなのかに決着を付けようとする見方(態度)ではないのです。

小さな物語※2が群雄割拠するポストモダンは終焉を迎えました。その終焉期にあって,シニカルに表現するならば,〈庇う〉対象は大人(保護者(親))なのかもしれません。しかし,これまで述べてきたことからもお解りのように,育児の《中心》は《こども》でもあるし,《保護者(親)》でもあるわけです。だからこそ,私は現代の「育児言説」を,将又,ポストモダンを《相対化》する一元論的トランスモダンの育児(・療育・教育)を主張するわけなのです。

一元論的トランスモダンの育児において,《中心》は《こども》であり,《保護者(親)》なのです。

この辺りのもう少し詳しい説明は,次回のブログに譲ることにします。


※1 直接ふれあってきた生徒だけではなく,私の講話を何度も聴いた生徒や廊下でのすれ違いにあいさつ程度だけを交わした生徒などをも含みます。ただし,部活動(サッカー部の顧問でした)でふれあった他校の生徒等を含めれば,もっと数は跳ね上がります。(廊下ですれ違っただけでも,私はその生徒を〈見て〉いたのです。)

※2 フランスの哲学者,リオタールの言葉。「コトバンク」の「リオタール」の項より,一部を引用し,説明に代えます。

リオタール(Jean-François Lyotard)
りおたーる
Jean-Franois Lyotard
(1924―1998)

『リビドー経済』(1974)では、さらにこの考えを推し進め、現実のすべてを「リビドー身体」としてとらえ、世界を考察する。この書は、ポスト構造主義的思考への転回点を示し、ドルーズの「ノマドロジー」(遊牧論)を誘導する。リオタールは、現代は「大きな物語」grand recitが消え、歴史の終焉(しゅうえん)に入ったと考える。普遍性が破壊されたこの状況下では、「小さな無数のイストワール(物語=歴史)が、日常生活の織物を織り上げ」(『ポスト・モダン通信』)、言説は多様化する。
 こうした「言説の多様性」の主張は、『ポスト・モダンの条件』(1979)で、「言語ゲーム」という、リオタールのキーワードとなって表れる。ウィットゲンシュタインの「ゲームの理論」に由来するこの主張によれば、多様化した言説は、テクノロジーの発達により、コンピュータを通して「情報ゲーム」となるだろうと予測している。


リオタール(読み)りおたーる(英語表記)Jean-François Lyotard
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
※ 下線は小桝が施しました。

4本の直方体それぞれの一面に一文字ずつ書かれた「LOVE」の文字
次章の役割について補足説明を行う[Sayosan]

1 〔解説〕ブログ「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?」の主旨について

当塾のブログは,ある理念※3に基づき,副塾長の住本小夜子と私とで,採り上げるテーマについて何度かの議論を行い,5~7日,長ければ14日間ほど費やして作成されます。

塾長:
このことをお聞きになり,
「それにしては,お寒い内容だなあ。」と
お嘲笑(わら)いになられる方がおありのことと拝察いたします。
それは全て私どもの至らなさの極み。
今後,鋭意研究を重ね,精進して参りたいと思います。

そこで,上述したような経緯から,本章では副塾長の住本が認(したた)めた前回のブログ「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?  ― 信じるという脅迫―」の第4章「信じるという脅迫」(後半部=赤字のブロック)について,私が解説を付けてみようと思うのです。

その理由は3点あります。

  • 第4章の後半部(赤字のブロック)には難解な表現がある一方,当該箇所は当該ブログの主旨でもある。
  • その主旨は,当塾「鍛地頭-tanjito-」において,教育観の根本を担っている。
  • したがって,後半部(赤字のブロック)の内容に解説を付けることが,本ブログのテーマ「(育児・療育・教育に視座を据えた)ポストモダンの時代から一元論的トランスモダンの時代へ」についての読者の理解を促進することになる。
[Masan]による解説の前説

それでは,早速,最初のブロックからです。まずは,引用です。

自己のフィルターを通して捉えた他者は〈自己が形象化した他者〉であり,一般に,これを「他者理解」と呼ぶのですが,それは《他者そのもの》を〈理解〉するのではありません。《他者そのもの》は自己にも,他者本人にも了解できないものだと思いますから。

「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?  ― 信じるという脅迫―」(住本小夜子,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.10)


人は誰しも自己のものの見方や考え方を持っています。それらは,その人の生きてきた環境(成育歴,家庭環境,友人関係及び広い意味での学力など)に気質も相俟って,つくりあげられたものです。ですから,その人固有のものと言って過言ではありません。したがって,いくら客観的に相手を観察したと述べても,所詮,それは相手を観察したその人固有のものの見方や考え方で〈観察〉したに過ぎないわけです。言い換えれば,〈観察した人が作り上げた相手〉でしかないということです。

余談になりますが,だからこそ,例えば,保育所・幼稚園・学校等には複数の保育士や教師等がいるというわけです。どういうことかと言うと,一人の乳幼児・児童・生徒(以下,「乳幼児等」)は様々な特性を併せ持つ多面的総合体ですから,たった一人の保育士・教師だけが,一人の乳幼児等を理解するには限界があるわけです。なぜならば,たった一人の保育士・教師では,その教師が持つ固有のものの見方や考え方を通して,当該の乳幼児等を理解することになり,当然,そこには〈偏った理解〉が生まれることになるからです。ですから,複数の保育士・教師の多角的な多視点から乳幼児等を〈理解〉することが必要となります。

ですが,複数の保育士・教師が〈観察〉したとしても,《一人の乳幼児等そのもの》を《理解》することはできません。その理由をジョハリの窓を例に考えてみましょう。ここで,ジョハリの窓を援用することに確からしさがあるのかと言えば,疑問の余地はあるのですが,分かりやすさを優先して,引き合いに出すことにします。

ジョハリの窓の模式図

つまり,上述した一個人又は複数による〈観察〉は,「開かれた窓」と「気づかない窓」を見取ることに成功するでしょう。しかしながら,「隠された窓」と「未知の窓」を見取ることは難しい。ただし,「隠された窓」については,〈観察〉の対象となった当人は「知っている」わけですから,通常の日常的な「対話」を通して,〈観察者〉もそれを知ることができるのです。普段,「他者理解」と言われているのは,この範疇ではないでしょうか? ところが,「未知の窓」については,〈観察者〉はもとより,〈当人〉ですら「知らない」,まさに《了解不能の領域》なのですから,ましてや〈観察〉は難しいことになります。

だからと言って,〈自己が形象化した他者〉による「他者理解」で終わってしまえば,《他者そのもの》に,つまりは,ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》することはできません。

同上


「鍛地頭-tanjito-」は,「未知の窓」=《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)と考えています。したがって,〈「開かれた窓」+「気づかない窓」+「隠された窓」〉を〈理解〉する(=所謂「他者理解」)だけでは,《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)を《理解》するまでには及ばないことになります。ただし,ここで強調して述べておかなければならないことがあります。それは,《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)は,相手にも当人にも《了解不能》であることです。しかも,それは〈各個人〉を突き動かす《総体的なエネルギー》を持つ了解不能の《他者》なのです。

ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》しようと,ありのままの《他者》との《対話》を続けることこそが《思いやり》であるとともに,これからの育児でもあるし,教育でもあるのです。

こどもも見えない自己内の了解不能の領域に,これまた同様に,それを見ることができない保護者が問いかけ続ける。

同上


これまで(=ポストモダンの時代)は,例えば,〈「開かれた窓」+「気づかない窓」+「隠された窓」〉を〈理解〉(=所謂「他者理解」)する〈教育〉でした。しかし,ポスト・ポストモダンの時代の《教育》は,《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)に《働きかける教育》が模索されるべきだと考えるのです。その《働きかけ》により,乳幼児・児童・生徒が自己内のありのままの《他者》に《対話》を継続し行おうとする。巷間ではよく「自分探しの旅」と言いますが,このありのままの《他者》に《自己内対話》を継続して行う《旅》こそが, ポスト・ポストモダンの時代の《自分探しの旅》ではないのかと思うのです。その意味において,ありのままの《他者》と《対話》を続ける自己外の主体(例えば,保護者(親)や教師など)の《働きかけ》は,了解不能の《他者》を《理解しよう/(《働きかけ》の対象に)理解させよう》とする,まさに《思い》を《やる(=送る・届ける)》,《思いやり》に他ならないのです。

「鍛地頭-tanjito-」の基本理念は〈恕〉です。「恕」(「如(~のように)」+「心(他者の心)」=〈他者の心のように〉)そのものが《相対化》された地平には,ありのままの《(自己内の他者を含む)他者》と《対話》を続ける《主体》が屹立してくるのではないでしょうか? この相(すがた)こそ,ポスト・ポストモダンの時代を生きる我々の《生の営み》であり,そうした《対話》を形成し,仕掛けることが《教育の営み》だと考えられるのです。

こうした育児・教育に〈こども〉が不在であることなどあり得ないことなのです。

こどものためではなく,保護者のための育児・教育など,初めから存在しないのです。

同上


このように考えてくると,広く《教育の営み》はこどもだけではなく,大人自身の《営み》とも言えるわけです。殊に育児・療育・(学校)教育に絞り込んで,〈自己内対話〉を考えるならば,《モノローグ》による《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)との《対話》だけでは,到底,《了解不能の他者そのもの》(=ありのままの《他者》)に《寄り添う》ことは困難であることが分かります。なぜならば,大人ですらそうした《モノローグ》は難しいわけですから。その《時点》で,大人(保護者,保育士・教師等)の《存在意義》が明確になるとともに,《教育》の《中心》が《こども》であり,《 大人(保護者,保育士・教師等) 》であることも判然とするのです。

以上が,前回のブログ「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?―信じるという脅迫―」の補足となります。ただし,誠に申し訳のないことですが,完全な補足とはしていません。なぜならば,「 《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)との《対話》 」の位置付けが,なぜポスト・ポストモダニズムと言えるのかについて,敢えて言及していないからです。

この点については,今回のブログだけではかなりの長文となり,用をなさないと思われますので(現時点で13,362語),次回に譲りたいと思います。
愈々,《一元論的トランスモダンの教育》との連関性が明らかになります。


※3 ここでは,紙幅の関係で詳述を控えます。詳しい内容については,本ブログと並行して投稿しております「The パクるな!!」のシリーズ(第3回)でお話させていただく予定です。
☞ 「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第1回)」
  「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第2回)」
  「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第3回)」(予定)

【参考文献】

  • 「語りの構造を踏まえた読みの授業に関する研究―古文の授業構築を中心に―」(小桝雅典,1998年(平成10)年度 広島大学大学院教育学研究科 教科教育科学専攻 国語教育学 修士論文)
  • 『21世紀に生きる読者を育てる 第三項理論が拓く文学研究/文学教育 高等学校』(田中実・須貝千里・難波博孝 編著,明治図書,2018.10)

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