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日常生活から学ぶ「いのちの教育」―「鍛地頭-tanjito-」の死生観―

「鍛地頭-tanjito-」の教育論
この記事は約10分で読めます。

生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」副塾長の住本小夜子です。

今回のテーマは【いのちの教育】です。
日常生活の中から,また,発達心理学等の知見を援用しながら,「生」と「死」について,教育的な視点に基づき,「鍛地頭-tanjito-」の持論を展開させていただきます。


平成30年8月6日(月)の広島は,原子爆弾投下から73年目となる「原爆の日」でした。

広島市中区にある平和記念公園では,平和記念式典が執り行われ,多くの参列者が「世界平和」を願っておられました。

広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑
広島平和記念公園 原爆死没者慰霊碑

広島県内では,この平和記念式典の模様を生中継します。(これが全国で行われていないことに,広島県民は驚くのですが・・・。) 私も自宅において,原子爆弾投下時刻である午前8時15分,こどもと共に黙とうを捧げました。

黙とうを終え,息子が3歳(年少)の頃,初めて「原爆」について問いかけてきたことを思い出しました。

「あれはなに?」「『げんばく』ってなに?」

私は,咄嗟にタブレット端末を用意し,YouTubeで原爆投下の映像を見せながら説明しました。

注:息子にとっては衝撃的な映像でしたでしょうが,あえて見せました。息子は軽度の自閉症スペクトラム。言葉だけの説明では,息子の脳裏のスクリーンに イメージは浮かびません。言語を脳裏でイメージ化(イメージも言語ですが)し難いのです。ですから,視覚化することが必要なのです。

当時の息子と同じ年齢になった娘にも,今回,原爆について話をしました。

「爆弾が落とされて,たくさんたくさん人が死んだんよ。」
「命があること,生きていることは,当たり前ではないんよ。」

娘は少し怯えた様子でしたが,その後も,息子と一緒にテレビに映し出される式典を食い入るように見ていました

平和記念公園で執り行われる平和記念式典の様子
平和記念式典の様子

原爆の話を聞いた娘は,「死ぬってどういうことなのだろう?」という表情をしていました。

2年前,私の父が亡くなった時,娘はまだ幼く,その記憶が無いに等しいのです。その反面,息子はしっかりと覚えています。

当時,息子は4歳(年少)で娘は生後9か月でした。
おじいちゃん(私の父)の「死」は,息子にとって,初めて経験する(身内の)死だったのです。

息子は,父が息を引き取ってすぐの姿を凝視しました。それから,納棺,葬儀,火葬,骨上げまで,息子は,一人の人間が天に還っていくすべての過程を私の近くで見ていました。

出棺までの間,息子は冷たくなったおじいちゃんの肌を何度も何度も優しく撫でて,「生前のおじいちゃんとは〈違っている〉」ことを,自らの温かい肌で感じていました。

骨上げの際は,息子を立ち合わせるべきか否か,正直に言って,私は悩みました。衝撃が強すぎるのではないかと・・・。ですが,(私の)妹と話し合い,私は立ち会わせる決心をしたのです。

人は亡くなるとどうなるのかということと,これも〈おじいちゃん〉なのだということを,息子の目にしっかりと焼き付け,一生涯の記憶として残しておいてほしいと願ったからです。

父の葬儀で,こどもたちが折り紙で作った手紙
父の葬儀で,こどもたちが送ったメッセージ

骨上げの後,私は息子に次のように話しました。

「おじいちゃん,いなくなった(見えなくなった)ね。でも,全部が無くなった(いなくなった)わけじゃない。おじいちゃんの骨が残ったね。(息子の胸に私の手を当て)ここ(心)にも残っている。」
「おじいちゃんが,○○(息子の名前)の心からいなくなった時,その時にね,本当におじいちゃんは死んでしまうんよ。だから,ずっとずっと,おじいちゃんのことを覚えておいてね。」

友人の父が亡くなった折,気が抜けた体で「白骨の章」に目を通していた私に,近所のおばあさんが教えてくださったことを,この時,息子にもしっかりと伝えました。

「白骨の章」とは,浄土真宗の葬儀で最もよく読まれる蓮如上人の御文章の一通。

息子の心の中には,今でも,しっかりとおじいちゃんが生きています。


「娘は,まだ身近な死を経験(認識)したことがないなあ・・・。」そう思った矢先,娘の通う保育所で飼育していた一匹の金魚を思い出したのです。

事務室に水槽が置かれており,お腹を上にして泳ぐ(転覆病の)金魚が一匹だけいました。ある日,娘のお迎えに行った際,事務室からその水槽が無くなっていました。「あれ?! きんぎょがいない!!」と驚く娘。その場にいた先生が,「死んでしまったんよ。」と悲しそうに娘に伝えられたのです。

伺ってみれば,「何年も,お腹を上にした状態だったんです。よくここまで生きていたと思います。」とのこと。金魚も長い闘病生活を送っていたのだと知りました。まるで私の父と同じように。

金魚を可愛がっていた娘は,とても淋しく,辛かったようです。長い間,メソメソしていました。そんな娘に,私は次のように話しました。

「金魚はね,ずっと病気と闘っていたんだって。でも,頑張って泳いでいたね。 可愛かったね。いなくなって淋しいけれど,金魚はありがとうって言っていると思うよ。」
「みんなに,たくさん可愛がってもらったからね。いつでも,お空から見てくれているから,いつもの笑顔でいようね。その方が,金魚も嬉しいと思うよ。」

「死とはこういうものなのかなあ…」といった感じでしたが,娘が初めて「死」を身近に感じた瞬間でした。

娘の中には,今でも,しっかりと金魚が生きています。


私たちは生きているのか,はたまた,生かされているのか。

(前略)この自分は誰かに選ばれたわけでもなく,また自分で選んだわけでもなく,たまたま偶然にこうして生まれ,生きているのです。(中略)
選んだわけではない宿命のもとに「この自分」として生まれ生きているのです。その一人ひとりが,誰にも成り代わることのない存在なのです。

(参考 『生活心理学講座4 過去・現在・未来の自分探し』,U-CAN 生涯学習局,p69)

この宿命ともいえる人生を全うするためには,アイデンティティの確立が重要だと考えています。(アイデンティティとは,発達心理学者であり,精神分析家であるエリクソンが提唱した概念です。簡単に言えば,「自分が自分であること」を意味します。)

エリクソンは著書「自我同一性 ―アイデンティティとライフ・サイクル」の中で,アイデンティティを次のように説明しています。

アイデンティティは,人間の今ここにあるはかない存在を,錨(いかり)のように定着させるものとして必要なのだ。実際,人間存在という社会的ジャングルにおいては,アイデンティティの感覚をもっていなければ,自分は生きているのだと感じることすらできない。

生きているという実感を得るためには,「自分が自分である」という納得感(アイデンティティの確立)が必要であり,自分は価値ある存在なのだという自尊感情(自分に対する自己評価)を育むことが必要なのです。

自尊感情は,「基本的自尊感情」と「社会的自尊感情」の2つの領域に分類することができます。それぞれの領域の自尊感情をバランスよく高めることが大切となります。

【基本的自尊感情】
・他者との比較や自らの欲求との関係抜きに,自分自身をあるがままに受け入れる感情
・幼少期における養育者の受容や承認によって形成される自尊感情の基礎的部分
【社会的自尊感情】
他者との比較や優劣に影響される感情で,肯定的な評価を受けたり,勝負に勝ったりすることで高まっていく感情。

(参考 「自己肯定感を育てる授業づくり」 静岡県総合教育センター)

自尊感情を高めるためには,学校生活や家庭生活,地域での様々な体験を通して,他者とかかわること(体験の経験化)が大切です。そうすることで,「社会性の基礎」が育まれます。また,自然とふれあうといった「体験活動」も必要です。

「社会性」が育つということは,その人が社会の中での役割を確立していくということであり,「先天的な気質+キャラクター(性格)+社会的性格+性格役割」を有した〈社会的な存在〉としての形成につながると言えます。

息子がおじいちゃんを忘れることがないのは,〈社会的な存在〉としてのおじいちゃんの「存在」が,現実の「生」の世界に確立していたからなのです。生物の一個体としての「存在」を喪失しても,〈社会的な存在〉として,息子の心に,おじいちゃんは,今も尚,生き続けているのです。そして,息子(や私)の心の中から,〈社会的な存在〉としてのおじいちゃんが消滅するとき,おじいちゃんは〈真の死〉を迎えるのです。

心の中から消えるなんて,あり得ないことですが。


また,「死」があるからこそ「生」を,確実に認識できるようになります。では,こどもは,「死」をどのように認識しているのでしょうか。

こどもの死生観についてまとめた表
参考 「子どもの死生観と教育」,こころの散歩道,表は住本が作成しました。

このように,こどもの発達段階に応じて,「死/生」の理解(教育)は異なるのです。

死をみつめることによって生きることの意味を深く考えられます。いつかは死ぬということは,今生きている時間が限られているからこそ尊いのだと気付く。
人間の死を考えることは,人間としての生き方,在り方の根本を論じることであり,心の教育そのものである。死を見つめてこそ生は限りなく輝き,価値あるものとして大切にされる。

(参考 「子どもの生と死の認識といのちの教育」(2023.06.10 リンク元不明)),津野博美・石橋尚子,子ども社会研究 8号,p.23)

人として生まれることは,とても奇跡的なことなのです。

1400兆分の1

この数字は,生まれてきた奇跡の確率です。

あくまで概算ですが,父親が生涯子供を作れる期間に生産する精子の数と,母親が子供を作れる期間の卵子の数からあなたが生まれた(受精した)確率を計算したもの。

(参考 「あなたが生まれている当たり前のような奇跡の確率」,確率思考の転換)

しかし,無事に受精できたとしても,必ず確実に生まれてくるとは限りません。私も経験をした流産は,妊婦の15%と言われており,死産は,赤ちゃんの50人に1人という割合なのだそうです。

「私」という人間が生まれてくるためには,父と母の存在が必要です。その父と母もまた,奇跡の確率で生まれたのです。「私」という人間が生まれてくるためには,先祖代々,数えきれない人がかかわっており,対象となる人と人とのタイミングが少しでもずれていたら,今の私は,決してここに存在していないことになるのです。


西日本豪雨災害から2か月になります。

平成30年7月6日の夜,避難しないまま自宅にいたとしたら,間違いなく,息子と娘は寝室で眠っていました。もし,浸水に気づかずにいたら…,
今,ここにある命は当たり前ではなく,奇跡的でとても有り難いことなのだと,親子で話しています。

「命あって生まれたものは,生まれたその瞬間に死を約束される」「生と死は,切っても切れない関係なのだ」と,高校時代に生物の授業で教わりました。誰しも,いつか必ず「死」が訪れます。それがどういうかたちであるかも分かりません。年老いてなのか,若くしてなのか,病気なのか,事故なのか。いつどこでどうなるのかなど,誰にも分からないのです。

私は,自分が死を迎えたときに後悔だけはしたくない。どんな状況にあったとしても,「幸せな人生だった」と感じながら最期を迎えたいと思っています。毎晩,布団に入って,「今日も良い1日だった」と思い,それを積み重ねることができたら,最期は安心して逝けるのだろうなと考えます。

だからこそ,今こうして生きている時間はとても貴重です。幸せな1日をつくりあげることは,一刹那,一刹那をどのように生き抜くかに掛かっています。

参考
〇 東京都,明福寺「白骨の御文」[1]2022.3.26時点,リンク元不明
〇 生徒指導リーフ18 「「自尊感情」? それとも,「自己有用感」?」文部科学省 国立教育政策研究所 生徒指導・進路指導研究センター
〇 「子どもの社会性が育つ「異年齢の交流活動」」 文部科学省 国立教育政策研究所,生徒指導研究センター,平成23年6月)
〇 「性格・人格」の形成と「社会」の関係 ,心理学・社会学で見る社会と人格
〇 「平成 29 年(2017) 人口動態統計月報年計(概数)の概況」,厚生労働省
〇 【「被災者」となって ―人の痛みと思いやりを知る― 】(平成30年7月27日の記事)

© 2018 「鍛地頭-tanjito-」


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