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ポストモダン終焉期の実相〔12-1〕

大学キャンパスで校舎を挟む学問の道に聳え立つ緑の木々 塾長の述懐
キャンパス(提供 photoAC)
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「研究のできるオンライン言語(運用)能力育成私塾「鍛地頭-tanjito-」」とは
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6 ポストモダン終焉期の大学入試

(1) スケールの大きい人間であれ

皆さん,こんにちは。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。

先日のことです。本シリーズを綴っていて,ふと思い起こしたことがありました。

娘が高校3年生の時のことです。娘は一人の大学受験生でした。娘の目標校は娘が本当に学びたいことを学ぶことのできる大学でした。それは我が家の,というか,私の指導方針でした。勿論,娘はその指導方針に納得していました。なぜならば,親父が怖いからではなく,また親父に威厳があったからでもなく,在籍していた高校の「総合的な学習の時間」で探究的な学習※1を行ったことが契機となり,その探究の続き,つまり,進学したら,同じテーマで本格的に研究したいとの思いを確と胸中に秘めていたからでした。

「((娘の)研究テーマは)学問の領域的には結構複合的だから,目標校を定めるのに苦労したけど,〇〇大学□□学部ならば,その思いが叶いそう。」

これが娘の志望理由だったのです。この言葉を耳にした私は内心とても喜びました。

[よっしゃ!! それでええ。志望理由が,偏差値が高い,低いなど,(偏差値が)どうのこうのではないからな。]

その娘が,ある日,私の仕事部屋にひょっこりと顔を覗けて,こう言ったのです。

「父さん,今日,同じ学年の理系の男子(生徒)たちが話をしているのが耳に入ってきたんよ。その子たちは「(自分の)言語能力がないから,数学の問題文を正確に読み取れない(読み取るのに時間が掛かる)。常日頃から,国語をしっかりと勉強しておけば良かった。」と口惜しそうに言っていたわ~。その話を聞いて,[(かつて高校の国語教師だった)父さんが日頃言っていることだなあ~]と思ったんよ。父さんの言うことも,偶(たま)には当たるんだなあ~って!(笑)」

「五月蠅い(うるさい)!! 「偶に」とは何事じゃ!! わしは常にホンマのことしか言わんわい!!(笑)」

「きゃはっ!!(笑)」

「同じ学年の理系の男子(生徒)たち」はいずれも東大志望だったそうです。娘の周囲には東大や京大を志望する生徒たちが大勢いました。

[(ある意味,)この「男子(生徒)たち」は優秀だなあ。「言語能力」の重要さを実感しているのだから。]と私は思いました。

そう思いながら,同時に私は次の一節を想起していました。

 情報を伝達するうえで,読む,書く,話す,聞くが最重要なのは論を俟たない。これが確立されずして,他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと,私が専門とする数学のような分野でも,文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから,一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは,数学の文章題である。読む,書く,話す,聞くが全教科の中心ということについては,自明なのでこれ以上触れない。

藤原正彦(2016.4):『祖国とは国語』[キンドル版],国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com,下線は筆者が施しました(以下,同様)。…a

当たり前のことと言ってしまえばそれまでですが,藤原氏のような偉大な数学者がこのように語っておられるところが興味深いのです。巷間で言う「(教科としての)国語ができれば,他の教科(科目)はできるようになる。」というやつです。

前回の本シリーズで,私は「地頭」を定義しました。その上で,それを「鍛える」ということは各人の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を〈鍛える〉ことであり,それが最重要であると述べました。また,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えれば,「感性・情緒」も豊かになるという旨の指摘を行っています。※2

 これら情緒の役割は,頼りない論理を補完したり,学問をするうえで重要というばかりでない。これにより人間としてのスケールが大きくなる。
 地球上の人間のほとんどは,利害得失ばかりを考えている。これは生存をかけた生物としての本能でもあり,仕方ないことである。人間としてのスケールは,この本能からどれほど離れられるかでほぼ決まる。脳の九割を利害得失で占められるのは止むを得ないとして,残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害得失では救われない。
 ここを美しい情緒で埋めるのである。

前掲書a:国語教育絶対論,(四)国語は情緒を培う,検索元 amazon.com

娘との「対話」の中で,私の脳裡のスクリーンには,この引用と大学入試の現況とが二重写しとなり,

  • 「「利・得」=「進学の目的が偏差値の高い大学への合格,「頭がいい」と言われている大学への合格」
  • 「偏差値の高い(「頭がいい」と言われている)大学への合格=国の行政庁や大手企業等への就職=将来の安定した富裕な生活」

が描き出されるとともに,来たる一元論的トランスモダンの時代では,

  • 「利・得」≠ 「進学の目的が偏差値の高い大学への合格,「頭がいい」と言われている大学への合格」
  • 「 偏差値の高い(「頭がいい」と言われている) 大学への合格≠国の行政庁や大手企業等への就職≠将来の安定した富裕な生活」

とする相対概念がくっきりと映し出されていたのです。そして,娘の無邪気な笑顔を見つめながら,[〇〇(=娘の名前)には,スケールの大きい人間になって欲しい。]と無言で語り返したのでした。

宇宙に浮かぶ地球の輪郭線から昇る太陽
地球の目覚め(提供 photoAC)

(2) 〈地頭力〉を測る〈大学入試〉の必要性

先日〔2019.5.29(水)〕,文部科学省は第1回「大学入学共通テスト」の実施大綱案を発表しました。それによると,

  • 実施日は2021年1月16日(土),17日(日)である。
  • 科目は「大学入試センター試験」と同様(「英語」を除く)である。
  • 「英語」は大学入試センターが認定した民間試験の2回までの受験結果(2020年4~12月分)を使用する。
  • 本年6月上旬に正式な大綱を定める予定である。
  • 同年6月中旬に問題作成の方針や配点を公表する予定である。

ということですが,就中重要なことは,

(評価の対象=測る能力として,)「知識・技能」だけではなく,「思考力・判断力・表現力」を重視する

ということです。

因みに,6月7日(金)には「令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト出題教科・科目の出題方法等及び大学入学共通テスト問題作成方針について」(独立行政法人 大学入試センター)が公表されました。それによると,次のとおりです。

第1 問題作成の基本的な考え方 

○  ⾼等学校教育の成果として⾝に付けた,⼤学教育の基礎⼒となる知識・技能や思考⼒,判断⼒,表現⼒を問う問題作成
 平成 21 年告⽰⾼等学校学習指導要領(以下「⾼等学校学習指導要領」という。)において育成することを⽬指す資質・能⼒を踏まえ,知識の理解の質を問う問題や,思考⼒,判断⼒,表現⼒を発揮して解くことが求められる問題を重視する
 また,問題作成のねらいとして問いたい⼒が,⾼等学校教育の指導のねら いとする⼒や⼤学教育の⼊⼝段階で共通に求められる⼒を踏まえたものとなるよう,出題教科・科⽬において問いたい思考⼒,判断⼒,表現⼒を明確にした上で問題を作成する。  

 ○  「どのように学ぶか」を踏まえた問題の場⾯設定
 ⾼等学校における「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善のメッセージ性も考慮し,授業において⽣徒が学習する場⾯や,社会⽣活や⽇常⽣活の中から課題を発⾒し解決⽅法を構想する場⾯,資料やデータ等を基に考察する場⾯など,学習の過程を意識した問題の場⾯設定を重視する。 

令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト問題作成方針 ,pp.1-2[1]令和4(2022)年12月5日現在,出典元不明

出題教科・科⽬の問題作成の⽅針

(1)国語
○ ⾔語を⼿掛かりとしながら,⽂章から得られた情報を多⾯的・多⾓的な視点から解釈したり,⽬的や場⾯等に応じて⽂章を書いたりすることなどを求める。近代以降の⽂章(論理的な⽂章,⽂学的な⽂章,実⽤的な⽂章),古典(古⽂,漢⽂)といった題材を対象とし,⾔語活動の過程を重視する。問題の作成に当たっては,⼤問ごとに⼀つの題材で問題を作成するだけでなく,異なる種類や分野の⽂章などを組み合わせた,複数の題材による問題を含めて検討する。

○ 記述式問題は,⼩問3問で構成される⼤問1問を作成する。実⽤的な⽂章を主たる題材とするもの,論理的な⽂章を主たる題材とするもの⼜は両⽅を組み合わせたものとする。⽂章等の内容や構造を把握し,解釈して,考えたことを端的に記述することを求める。⼩問3問の解答する字数については、<ママ>最も⻑い問題で80〜120字程度を上限として設定することとし、 <ママ>他の⼩問はそれよりも短い字数を上限として設定する。

別添,p.1

高校・大学の教育を一体となって変革する高大接続改革の柱が「大学入学共通テスト」です。その理念(特色)として「思考力・判断力・表現力」を重視することを掲げているのです。つまり,これまでの「知識・技能」に偏った入試制度――これは入試観,入試観ということは求められる人材観とも言えるわけですが,――への反省を土台にしているということです。

  • 「大学入試センター試験」を初めとする大学入試が「知識(・技能)」,延いては「受験テクニック」を測定の対象とすることにより,高校での教育もそれに対応するため,「知識(・技能)」及び「受験テクニック」偏重の教育に埋没してしまった。
  • そして,受験産業界が利益目的(教育=金)のため,そうした傾向に拍車を掛けることにより,受験生はやらされる,受け身の学習ロボットとなった(=「地頭」を「鍛」えることが軽視された)。
  • その結果,知識(量)はあっても,自らそれを活用できず,上司などの他者から指示を受けなければ,自ら行動を取ることのできない人材が世に溢れた。
  • これまではそれで良かった。上司の命令に受け身である部下は使いやすかった。
  • しかし,AIが導入されてくることにより,従前の「知識(情報)」やその処理は全てAIに任せれば良くなった。
  • 受け身一身の部下はAIに取って代わられることになった。
  • そこで必要とされるのは,AIにできない「創造( creation )」(AIに知識(情報・データ)を蓄積し,必要に応じて解析,加工させ,その結果を用いながら創造する〈新たな文化〉)であり,人間にしかできない〈対話〉による〈共創造(co-creation)〉であった。
  • そうした優れた営為を行うためには,物事を多角的・多面的・総合的に捉えることのできる多視点を有する〈思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)〉を身に付けた人材が必要となった。

要するに,(AIでは不可能な)「地頭」が「鍛」えられた人材(「地頭力」)が求められるようになったのです。そして,その「地頭力」を茂木健一郎氏は「自分で考えられる力」「探究できる力」と表現されています。

「地頭」の定義については,こちらをご参照ください。

日本のこれまでの教育は,正解があってその通りにやるのが主流でした。しかし,繰り返しますが,AIが導入される未来においては,指示待ち人間は必要ありません。自分で仕事を見つけて,クリエイティブかつ論理的(きちんと筋道を立てて考えること)になることが求められています。そこでは,自分で考えられる力や探究できる力が必要です。

茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,英語を話す人の八〇%は第二言語として話している,検索元 amazon.com…b

各論的な言い方を致しましたが,こうした事情から――これだけの事情ではありません。――現行の「大学入試センター試験」とは異なった, 「思考力・判断力・表現力」をも測定の対象とする「大学入学共通テスト」が実施される運びとなり,国語と数学に記述式問題が導入されることとなったと言って過言ではないでしょう。この新テストは飽くまでも初の試みですから,事の正否を即断することはできません。しかし,その「社会(受験)システム」としての「テスト」を受験する受験者は(可哀想にも)居るわけですし,国語と数学への部分的な記述式の導入が本当の意味で,受験者の総合的な〈思考力・判断力・表現力〉を測定できるかと言えば,間違いなく「NO!」でしょう。※3しかも,僅少な,部分的に過ぎない記述式の導入ですから,この先,当分の間,現行の「受験システム」は作動し続けます。さらに,「思考力・判断力・表現力」を問う設題に対する受験産業の「小手先テクニック試論」が横行していくのでしょう。

しかしながら,〈新しい時代(=ポストモダンの時代が終焉を告げ,一元論的トランスモダンの時代に移行しようとしている時流と「令和」とが必然的偶然によって一致した時代)〉を迎え,求められる人材が変容し,そのため「受験システム」が若干シフトし始めたことは〈事実〉であると言えるのです。

だからこそ,それこそ「小手先」ではなく,今後〈抜本的な大学入試〉の見直しが必要なのです。大学入試が変革されれば,自ずと高校入試・中学入試はその相貌を変じていくことでしょう。「大学入学共通テスト」なんぞは廃止し,各大学が各大学に必要な「地頭(≒探究力(=言語能力・言語運用能力))」を精査する〈人物(地頭)本位の入試〉を展開すべきなのです。そのためには各大学が各大学の〈オリジナリティー(=アドミッションポリシー)〉を確立しておくことが条件となります。ただし,かつての一期校・二期校時代のように,難問・奇問が受験界を闊歩するようではいけません。(参考:次節「(3) 「エリート言説」の〈相対化〉」)そうかと言って,各大学が各大学に必要な「地頭」を求めるための〈オリジナリティー(アドミッションポリシー)〉を真摯に考えるならば,生き残りを掛けた大学も満更難問・奇問ばかりとはいかないと思うのです。

朝靄にぼんやりと浮かぶ山々と雲の中に滲むように昇ってきた朝日
朝もやの風景(提供 photoAC)

(3) 「エリート言説」の〈相対化〉

前節で「大学入試センター試験」から「大学入学共通テスト」への移行の要因について,「思考力・判断力・表現力」を基軸とした考察を行いました。ただし,この移行には,その他の要因も考えられるところです。その一例をご紹介しておきます。

かつて入試時期が一期校(旧7帝大など)と二期校に分かれていた国公立大学では、学習指導要領の範囲を超えた難問・奇問の出題が横行していました。

大谷奨・筑波大学教授によると、共通一次を導入した狙いは、個別試験から難問・奇問を排し、二次試験では内申書の重視や面接なども含め多様な選抜を行うことにより、加熱していた「受験戦争」を緩和するとともに、大学間の格差もなくすことが期待されたといいます。しかし実際には、共通一次による足切り〈ママ〉が横行したり、入試時期が一本化されたことで偏差値偏重による序列化が逆に進んだりする、という事態が起こってしまいました。

そこで、1987年度には共通一次で受験機会の複数化が導入されました。さらに、国公私立を通じて各大学が自由に利用できる「アラカルト方式」の共通試験を目指したのが、センター試験でした。

(中略)

しかし、多くの私大が参加したことによる受験者層の「下方拡大」や、アラカルト方式による複雑な受験パターンの広がりなどにより、制度のほころびも見えるようになりました。そうした中、2012年度センター試験で起こった問題冊子の配布ミスなどが「制度廃止に直結する大事件」(倉元教授)となり、今回の大改革につながったといいます。

「高校生 大学入試、まだまだ将来的に変わる!?」(渡辺敦司,ベネッセ 教育情報サイト,2019.6.12,2019.6.20 最終アクセス)

長い引用を一言でまとめてしまうのも如何とは思いますが,こうした「移行」にかかわる要因分析が是であるならば,この「移行」には国の行政的な事情もあったことになり,また,それは現ポストモダン終焉期であれば〈当たり前〉のことなのかもしれません。

ただし,「共通一次試験」が昭和54年(1979)から平成元年(1989)まで実施され,平成2年(1990)より「大学入試センター試験」に移行,そして令和3(2021)年1月からは「大学入学共通テスト」の開始と,長期間にわたって施行される入試制度を俯瞰するとき,――先述したように,「大学入学共通テスト」においても,短期間にその相貌を「思考力・判断力・表現力」等を問う形式に一新できるとは思えないので,――「なぜこんなにも〈長期〉にわたるのか?」と言った疑問は拭い切れないわけなのです。

全くの壁越し推量で恐縮ではあるのですが,その根底にはホストモダンが生成してきた「エリート言説」――「脳内に蓄積した豊富な知識量を誇り,上司の命に従順にそれらの知識を引き出して見せる優秀な人言説」,それに付随して,そうした方々の内の多くが「共通一次テスト」・「大学入試センター試験」(・「大学入学共通テスト」)に代表される偏差値世界の上位層と連動していることから,「偏差値の高い大学を卒業・修了した偉い人言説」―― が蔓延(はびこ)っているとしか思えないのです。

私は「(経済力を含め,)精神性が豊かである」との意味合い/願いを込めた〈富国〉に異論を唱えようとはしていません。〈高次の文化〉を創造する〈富国〉の在り方には大いに賛成です。ですから,ポストモダンの時代に「エリート言説」が最上の権威性を保持し続けることは重々理解できますし,そうした所謂「エリート」が重宝であったことも承知いたしております。――それに似た職場にもいましたから。――

しかし,「Society 5.0」などにも見受けられるように,AI時代は,時間を要するにせよ,私たちの身近に迫ってきていることは事実です。「豊富な知識量」は人間を上回るAIが代替します。――飽くまでも「代替」と述べておきます。――大量の情報処理もAIが行います。いつの日かAIは各家庭に〈侵入〉してきます。そうした時代は「人間/AI」(=人間がAIを使いこなす。すなわち,力関係は「人間>AI」)とする二項対立的な思考性ではなく,「人間(自己)-AI―人間(他者)」,さらに具象化すれば,「人間(自己)―AI,自然,神仏等―人間(他者)」が共存・協働する一元論的な発想で捉えられなけばなりません。そうでなければ,万人が参加する〈新しい文化の創造〉を成し得ませんし,AIが人間の身近に存在するということは,――ある意味,理想的ですが,――万人にAIと協働し〈新たな文化〉を創造する権利が与えられるということでもあります。――AIの進化の方向性にも拠るでしょうが,AIとの共存が人によりけりで,大いなる〈懈怠(けたい)の心〉を生む原因ともなるでしょう。一方,〈新しい文化〉を創造する人たちもいるでしょう。その意味で,AI普及の初期に人類は,一旦〈二極分化〉するのではないでしょうか。――したがって,人によって様々な環境があるのですが,「万人による万人のための〈新文化創造〉」のためには,――概括的に述べますが,――AIや(AIを除く)他者と協働し〈新しい知〉を構築する(=〈知恵〉を出す)上において,〈思考力・判断力〉,そして,とても重要となる〈対話力(=「了解・到達不可能な自己及び自然等を含む《他者》」に近接しようと試みる営為)〉を含む〈表現力〉,〈相対化能力(≒俯瞰力)〉,延いては〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉を,時間は掛かるでしょうが,磨いていかなければならない(=「地頭」を「鍛」えなければならない)ということになるのです。そうです,「鍛地頭」が必要かつ重要なのです。――〈(自己を含む)他者〉との〈対話〉は,一面,〈鬩ぎ合い〉を有するものです。それは建設的でない,不毛の議論,さらに,それより低いレベルの言い争いのことではありません。況(いわん)や立場上の強者の御機嫌伺などではなく,絶対的な上意下達(じょういかたつ)だけのコミュニケーションを指すものでもありません。――その際,現代のSNSやブログ文化の見直しは不可欠です。このことは「SNS」や「ブログ」そのものを批判しているのではありません。それらの操り方を問題視しているのです。詳しくは,「関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ」※4をご覧ください。

 国語力の低下の原因は、本を読む機会が減ったことがすべてではありません。核家族化など家族の在り方の変容によって起こった家族から子供への言語教育力の低下。近年のLINEをはじめとするSNSの普及。これらも原因のようです。

 最近では、LINEに送信取消機能ができました。今まで以上に文章を考えず、そして読み返しもせず送ってしまうことが増えたという人も少なくないでしょう。まるで会って話しているかのようにやり取りが出来るSNS。便利ではありますが、メールや手紙に比べると文章を組み立てず、読み返すことなく安易に送ってしまいがちです。

「AI社会を生き抜くために 国語力を見直そう!」(荻野友里(早稲田大学),朝日・日経・読売3社共同プロジェクト 学生は言いたい! 学生がつくる,学生のための News Debate Project,2019年6月15日,2019.6.20 最終アクセス)…c

 これからの時代、AIはどんどん身近なものになっていくでしょう。ですが社会の全てを飲み込むわけではないはずです。「AIに仕事が奪われる」と怯えるのではなく、人間だからこそ備わっている国語力の向上に努める。できることは、理系の能力を養うことだけではないと思います。何事も偏ってしまうのはよくありません。国語力の向上にもう少し、目を向けていきたいものです。

前掲サイトc(2019.6.20 最終アクセス)

若い世代の方が,上述の引用のようなお考えをお持ちであることに,私は何故か安堵感を持つとともに,敬服すら致す次第なのです。

さて,本節の結論です。

上述したように考えてくると,AI時代(≒一元論的トランスモダンの時代)には,如何せん,ポストモダンの〈申し子〉たる所謂「エリート」及び「エリート言説」は,少なくとも知識の貯蔵と出し入れの点において,〈不要〉となってしまうということです。

ここで,一言付言しておきます。

いくら現行の大学入試や「エリート言説」を否定しようとしても,事実,社会システムとして作動している限り,それは無理ではないかと仰る方が必ずおいでになると思います。

確かに,事実を否定するわけにはいきません。しかし,「「地頭」(=〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉) を「鍛」える こと」は,日常の工夫において,どなたにもできることだと思います。例えば,受験に直結している受験生に茂木健一郎氏は,次のようなお言葉を贈っておられます。

一年間は開き直って今の受験システムをまず突破しよう。でも,公式の丸暗記とかじゃなくて,自分で発見しながら探求型を採り入れてなるべく楽しく勉強しよう。受験が終わったら,切り替えてまた楽しく探究してください。

茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,大変化の時代を生き抜ける子に育てるために,検索元 amazon.com

私も同様に考えています。――受験生に特化することなく,〈人〉は工夫一つで,日常生活の中において「地頭」を「鍛」えることができます。詳細は別の機会に譲りますが,読書,「他者」との〈対話〉,調べ物,運動,芸術鑑賞,ブログの作成等々…それぞれに適切な方法はあるにせよ,その気になれば,それは可能なのです。――「受験言説」のパラダイムシフトにはかなりの時間を要するでしょう。ですが,だからと言って,手を拱(こまぬ)いているわけにはいきません。私としても本ブログだけの言表行為で終わってしまうわけにはいきません。言表行為を採った責任上。

そこで,徐々にではありますが,「鍛地頭-tanjito-」として,まずは大学受験生を含む高校生を対象とした「〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉育成のプログラム」の準備に取り掛かったところです。今夏から試行段階に入る予定ですので,奮ってご参加いただけますと幸甚です。

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【関連サイト】
「Society 5.0」(内閣府)

  令和元年7月7日(日)

塾長 小桝 雅典 


※1 「探究的な学習」については,「「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる〔11〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.6.2)を参照のこと。

※2 ※1のブログを参照のこと。

※3 令和元年(2019)年7月4日,NHKの文部科学省への取材により「大学入学共通テスト」の採点にアルバイトの大学生を認める方針であることが分かりました。既に事の是非を問う段階にはありません。私は長い間高校の国語教師を勤めて来ましたからよく分かることがあります。それは「どんな国語教育に通じたプロが集結しても,試験の採点においてブレが生じるときには生じる。」ということです。複数での確認体制を免罪符にしようとする主催者側の私情(笑)は理解できますが,大学入試の第一関門とも言うべき〈共通性・公平性〉を欠くことのできない「大学入学共通テスト」だからこそ,問題は余計にも重大なのです。一部の「エリート」の考えることです。自我中心主義に塗れています。「大学入学共通テスト」というシステム(制度)の履行を職責上ゴリ押ししてでも成し遂げたいのです。こうした「共通テスト」が廃止にならない陰に,「ポストモダンの「エリート」」だけを育成すれば良いとする〈国体〉が存在すると考えられます。その左證が今回の「大学生アルバイト問題」と言えるでしょう。私の身近にいる大学受験生の生の言葉です。「ええ!! 不安で仕方がない。人生が決まるんよ。私たちのことは何も考えられていない。なぜこんなことを考えるん? ねえ,先生!!!」――私が怒られても…

※4 本シリーズは完結していないことから,「現代ブログ言説」の十分な〈相対化〉について,(現状では)表現されていません。したがって,今後に譲るところが多いため,あらかじめお断り申し上げます。

【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】

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