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塾長の述懐 第7回(2019.4.28(Sun.))

大きな桜の花の群れをバックにそれらを見上げる6人の小学生たち 塾長の述懐
並んだ小学生 春が来たよ(提供 photoAC)
この記事は約6分で読めます。

昨日〔2019.4.27〕,「トランスモダンで「校則(KOUSOKU)」を〈考える〉【前編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.27)を夕刻に公開しました。現在,まだ1日を経ない時刻にこのBLOG記事を認(したた)めています。

私のBLOG歴は,中途,ブランクがありますから,約1年程度です。ですが,1年ほどBLOG記事を書いていたら,公開した記事の行方(評価)が1日くらい経つと,なんとなくわかるようになりました。

前述の「校則」に関するBLOG記事は先行きが暗いですね。

何を指標にそのようなことを申し上げるかと言えば,アメブロの「いいね!」数や「シェア」数です。後は直感。こういう言い方をするととても失礼なのですが,それを承知で申し上げれば,「いいね!」数はそれほどBLOG記事の評価の当てにはなりませんよね。「いいね!」返しがあるくらいですから。当塾の場合も10,000字を超えるBLOG記事を公開して,数十秒後に「いいね!」を数多(すうた)頂くなんてことも,ちょくちょくあるわけです(笑)。―当塾との関係上,真っ先に「いいね!」を付けてくださり,それからじっくりと当塾のBLOG記事を読んでいただいているのかもしれませんが…。―ただ,そうかと言って,全く当てにならないわけでもない。特に,「シェア」数でそれとなくBLOG記事の評価を窺うことはできるのです。例えば,先程公開した「BLOG記事ランキング(当塾比)&総評〔2018.2.2~2019.4.28〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.28)の「週間アメブロランキング(当塾比)」で1位となった「時間感覚を養うスケジュール管理―軽度自閉スペクトラム症の息子の場合―」(住本小夜子,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.4)は「シェア」数が「137」。2位の「新しい時代を生きるための《読み》について考える―〈語り手〉とは?【発展編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.27)は同じく「119」。因みに,「待って!! その国語の授業!!-〈語り手〉とは何か?-【基礎編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.18)で「111」。飽くまでも当塾としては「シェア」数が多いBLOG記事たちで,これらのBLOG記事は執筆中に既に「評価を頂けるのではないのか」といった思いも,正直なところあるわけです。―ただし,当塾は評価を頂くことを目的としてBLOG記事を公開しているわけではありませんので。当塾の〈教育論〉を一つの情報として世に問いたいだけです。―そして,執筆しながら「これは手応えがあるぞ」と思ったBLOG記事は,やはり「いいね!」と「シェア」数が多いという帰結に至るわけです。まあ,それも当たり前のことで,というのも,結局は多くの読者の皆様が欲しておられる情報を有するBLOG記事はそうした評価を頂けるということに過ぎないのです。

そうした意味において,上述の「校則」に関する記事は情報としての需要を持つ記事だったはずなのです。しかしながら,直感的にこの記事の先行きは暗い。まだ断定するには時期尚早なのでしょうが,どうも先行きが暗い感じは否めない。その前提に立って,なぜ暗いのかを考えたとき,

  • 「校則」は一部の人達だけにとっての論議の的であって,実は,巷間にはそれほど問題意識があるわけではない。(「校則」に関与する発達段階にあるお子様をお持ちであれば,その折には関心があるが,一生のライフステージにおいて,「校則」と無縁のステージになれば,それは薄れる。)
  • 「一元論的トランスモダン論」を基底に据えた「校則論」など無用の長物(夢想家の夢物語=非現実的)である。

と,以上のように,「関心」と「BLOG記事の内容」とに大別して考えることができそうです。

AIイメージ画像(白文字で大書された「AI」に向き合う人工知能を備えた人間の頭部)
AIイメージ(提供 photoAC)

まあ,このBLOG記事には中編・後編がありますから,悲嘆せず頑張って綴っていくつもりではあります。

ただ,一々挙例はしませんが,当塾のBLOG記事の中にあって,抽象度及び論理性の高い記事は比較的人気度が低いことが,私としては気懸りなのです。私の筆力の無さが最たる原因なのでしょうが,便利な世の中になればなるほど,人はモノを考えなくなるのではないか? 政府の標榜する「Society 5.0」(内閣府)の思考の方向性は,世に氾濫している情報の処理はAIに任せ,その処理に掛かっていた時間を有効活用して,趣味や思考に費やし豊かな社会を築くことにあるようですが,万一,私の危惧が当たってしまえば,便利になりすぎて,人類はもっとモノを考えなくなるのではないか。そうかと言って,その一方で,AIの処理により必然的に訪れる有効な時間をフルに活用して,これまでにない〈新たな文化〉を創造する人たちも現れるのではないか。だから,私は「「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.15)の中で,次のように指摘していたのです。

時代状況を鑑(かんが)みるとき,現在はポストモダンが終焉を迎え,ポストモダンを超越(トランス)する時期にあるのではないかと考えるのです。ただ,それは希望的な観測であるのかもしれません。このポストモダンの終焉期に当たり,数多くの小さな価値観は鬩(せめ)ぎ合い,空洞化・形骸化しました。終焉期は人的な新たな価値観の創出のために必要なエネルギーを喪失した頽廃期とも言えます。結局,近未来は新たな価値観を創出するフィールドと凋落(ちょうらく)するフィールドとに,まずは二極分解(ここで,詳細は語りませんが,もう少し細かく見ると四分割)するのではないのかというのが,私の見方です。そこにAIがどのように関与してくるのか。

※ 下線は本BLOG記事のため,筆者が施しました。

引用文中の「四分割」については,後日,改めて記述するとして,「凋落(ちょうらく)するフィールド」を形成しないためにも,「一元論的トランスモダン」の考え方は有効であり,それを〈現化〉するためにも,「(「〈鄙陋(ひろう)〉の残滓(ざんし)」を除く)「小さな価値観」間で〈傾聴〉を基盤とし〈心眼を開く〉態度でもって〈対話〉を営み,「小さな価値観」群を高次のステージに止揚(aufheben)する営為こそが,〈新たな文化〉を築くことになる」と念押ししておきたいのです。

そろそろ,「ポストモダンの沈殿物(残滓)」とも言うべき普遍主義・自我中心主義にピリオドを打ちましょうよ。「自分だけ良ければ良い。」(根底には二項対立の考え方のみ)という「〈鄙陋〉の残滓」はもう懲り懲りです。

  平成31年4月28日(日)

塾長 小桝 雅典 

【過去の「塾長の述懐」シリーズ】

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