【エピソード】「今日の授業はこれで終わりです!!」
これは実話です。
私が14条適用者として,県教委の同意を得,現職の高校教師のまま,大学院で研究の緒に就いたばかりのことでした。
私が所属する国語教室は学問に対してとても厳しいところでした。忠実であると換言して良いのかもしれません。それは私の所属先のことだけではないのでしょう。きっと学問を志す者にとっては当たり前の在り方(姿勢)なのです。
ある演習と講義を伴う授業中のことでした。『枕草子』を〈読んで〉いました。その授業は,毎回,大学院生が輪番で,『枕草子』に対する自らの分析方法及び分析結果を説明し,他の大学院生と授業担当の教官から批評を受ける形式の授業だったのです。
「その分析のアプローチは,前回,小桝さんが行った分析手法・結果と一緒ではないですか!! 今日の授業はこれで終わりです!!」
授業開始後,30分も経っていなかったと思います。教官の怒声が静かな研究室に響き,同時に重い書籍を机上に「ドン!!」と叩き付ける激しい音が耳を貫きました。大学院生の全員が緊張で表情を強張らせ,顔面蒼白となった瞬間でした。付け加えておきますが,教官は,普段は気さくな,大学院生にとっては兄貴のような存在の方でした。
研究室を勢いよく退出される教官の後を全員で追い,全員で謝罪したことを,今でも鮮明に記憶しています。
このエピソードは,私の分析方法・結果が優れていたことをお伝えするものではありません。実際,大したものではなかった。
「研究(学問)には,オリジナリティーが重要だ!!」
私が尊敬申し上げる教官のお一人が後輩に当たる大学院生に対して,〈愛〉を持って教えてくださった学問に対する在り方(姿勢)だったのです。
私には,こうした研究(学問)に対する在り方(姿勢)が学問領域の範疇に留まるものではないとの思いが強いのです。
ただ,そのことをお伝えしたかっただけなのです。
1 プロローグ
「生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」」の塾長 小桝雅典です。
多様な価値観の〈相対化〉を《相対化》する時代。《相対化》の結果,見えてくるのは,もしかすると〈画一性〉ではないのでしょうか? 〈画一性〉が人間の〈生命〉を支えているのならば,それを無視することはできません。しかし,それが人間の「虚栄(心)」の裏返しであるとしたら…。
今回のブログは,〈個の実在〉の台座,〈オリジナリティー〉を求めてつぶやいた戯言(たわごと)エッセイです。
戯言ですから,本ブログにいつ終焉がやってくるかわかりません。
読者の皆様には誠に申し訳なく存じます。
幾つかの回に分けてつぶやかせていただければ幸甚です。
(したがって,「目次」も千切れています。ご海容ください。)
2 教師に求められるオリジナリティーの精神
(1) 教師志願者に告ぐ―「一教師一研究者たれ!!」
ア 一人の教師は一人の研究者である
一般に,(後期中等教育段階までの)教師くらい知ったかぶりの多い生き物はいないのではないのでしょうか? かつての私がそうだったから,そのように思うだけなのでしょうか? そうでない先生方も大勢おいでになるのでしょうから,失礼がありましたらお詫び申し上げます。
「Society5.0」※1の世界では,公教育の公平・均等性の基盤となる検定教科書の在り方さえ議論の対象となるのでしょうね。
※1 定義については,内閣府のホームページ(科学技術政策)「Society5.0」に,次のようにあります。
「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」
この後に,さらに,次の文言が続きます。
「狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)に続く、新たな社会を指すもので、第5期科学技術基本計画において我が国が目指すべき未来社会の姿として初めて提唱されました。」
また,政府が目指す「Society5.0」の社会における変貌するであろう教育の在り方に関して,次のような考察があります。参考にしてください。
「(新しい潮流にチャレンジ) 近未来の教育の胎動と課題」(教育創造研究センター所長 髙階玲治,教育新聞,2018年12月20日)[1]2024.2.25現在、発信元不明
さらに,逸早く,当塾「教員採用試験合格道場―オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」」では,教員採用試験の小論文試験対策として,「Society5.0」を採り上げ,数種の資料を読み合わせながら,「日本政府が打ち出している「Society5.0」(の社会)にあって,教育が果たさなければならない役割について,あなたの考えを論述してください。(1,200字)」の課題を設定する教材を作成しています。
第6章 オリジナル教材見本
第4節 オリジナル教材見本〔小論文試験対策(学習指導)〕
髙階氏は前掲の新聞記事の中で,「つまり、教科書が役に立たなくなるのである。教科書は明治以降の近代教育の重要な発明であった。教科書があることで、全国共通レベルで同一学年の子供は学力を身に付けることができた。それが通用しなくなる。」と指摘しておられます。なぜならば,同氏曰く,「(「Society5.0」の社会の教育において,「学びの生産性」を上げることが重要であり,そのためにも教育イノベーションが必要であって,)その基本は「学習の個別最適化」である」からなのです。高階氏の考察どおりであるのならば,確実に教員の在り方は変わり,教え方も変貌するに相違ありません。
教科書を読み,教科書用指導書(資料)をそのまま教えていた教師にとって,「Society5.0」の教育界は悪夢としか言い様がありません。
多少の指導法に相違はあったとしても,ほぼ画一化した指導法で通用した(全国の)教育界にペリーを乗せた黒船が来航するのです。「「教育の情報化」の次元を超えて、「学び方」そのものを変えるはず」(同氏,同記事より引用)の教育界。現状として,教師のITスキルの一面を鑑みるだけでも,教師にとって末恐ろしい世が間近に,ひたひたと迫っているのです。
私は一斉指導の方法を否定しているのではありません。
「学習の個別最適化」を求める際にどのような指導方法が必要となるのか?
少なくとも言えることは,これまで以上に,一教師が多様な(全体・個別を含めた)指導方法を理論的に理解し,実践・体得しておかなければ(いかなければ)ならないということなのです。
私にはこのような経験があります。
高等学校の国語科の教師をしていた頃。
多忙を極める中,授業の予習すらろくにできず,本番の授業3分前に,文学史上のあるエピソードを丸暗記して臨んだ授業。そのエピソードを知ったかぶりをして悠々と語ったのです。50分間のうちのたった数分間。
授業後,
「小桝先生,さっきの話(エピソード),にわか仕立て? いつもの先生の生きた言葉じゃなかったけん。(注 広島弁)」
と1年生の女子生徒に言われたのです。
ぶったまげました!!
「にわか仕立て」「生きた言葉」など,高校1年生が普段使用しないような言葉に遭遇したのにもぶったまげたのですが,その「にわか仕立て」を見抜かれていたことに,もっとぶったまげたのです!!
(注 すみません。いきなり汚い言葉遣いになりました。それくらいぶったまげたのです。)
私は素直に謝りました。
私は自らの専門性の浅薄さに意気消沈しました。
その後,自らの指導方法の形骸化に自分自身が嫌になりました。
「これでは,余りにも私に教えられる生徒が可哀想だ!!!」
正直,そのように思いました。
そして,理論にも実践にも精通していない自分が「教師」を名乗って良いのかとも思いました。
学校現場には,例えば,現場経験のない大学の先生方(特に,教育学)に対して,「実際に教室(学校)で教えたこともない者が偉そうに理論だけを振りかざすな!」という言説があるように思います。否,現実,あります。一方で,もしかして,その逆の立場もあるのかと…。
しかし,私は思います。
「理論のないところに実践はない。実践のないところに理論はない。理論は屁理屈ではない。」
注:「理論」を「実践」より先に書いていますが,それは「理論」の「実践」に対する優位性を示すものではありません。
また,別段,ドラッカーを意識しているわけではありません。表現も異なりますから。
自らの素直な思いを吐露しただけです。〈教育〉に係る思いです。
この言表が独り歩きすると,様々なご批判があるのでしょう。ですが,簡単に述べれば,
教師には,理論も実践も,実践も理論も必要なのです。
29年間,教師生活を営んできての私の結論です。現役時代から常にこのように思い続けて来ました。
そこで,私は現職の高校教師のまま,まずは教科指導の専門性を身に付けようと,出身大学の大学院に籍を置く決意をしたのです。教師生活10年目,節目の年でした。
「これまでの自らの実践を理論として体系化してみよう。そして,生徒にとって,自分にとって必要な理論を新たに構築しよう。学校現場に帰って,それを実践するんだ。」
大学院時代,私の心の奥底にあった思いです。
それから,厳しい研究生活が続きます。
そして,私はある思いに行き当たります。
その思いは,学校現場に復帰した後も続き,やがて一つの信念となりました。
一人の教師は一人の研究者である。(理論と実践とを兼ね備えた教師であれ。)
注:この言葉の示す範疇は,教科指導だけに留まりません。
学校や教育行政で管理職となった時,
よく部下に対して口にしていた私の言葉に,
実践過多な(実践重視=理論軽視である)学校現場の風潮に対して,
「一つ一つの何気なく思われる教育活動にも,
法的裏付けと理論が必ずあるのだ。」があります。
例えば,生徒指導にも,部活動の指導などにも。
このことは,次のことを意味します。研究者には「オリジナリティー」が必要なのですから。
一人ひとりの教師にはオリジナリティーが必要である。
何もこのことは,「人世にあって,常にアゲインスト(アウトサイダー)であれ。」を意味しないことは言を俟ちません。組織経営を観点に据えた「協働性」は「学び続ける教師集団(組織)」を発展させるためには不可欠なことですから。
ただ,難しい問題が残ります。
「教師にとってのオリジナリティーとは何か?」
私の飽くなき追究が始まったのです。
今回はここまでです。
第1回目の戯言にお付き合いいただきありがとうございました。
宜しければ,第2回にもお付き合いください。(笑)
私の考える〈ホンモノの教員〉について,小説風に,しかも,かなりどぎついタッチで綴っています。
よろしくお願いいたします。
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