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〈ホンモノの教職員〉の「祈り」ー脳科学の知見からー vol.61

「鍛地頭-tanjito-」のブログ教材のアイキャッチ画像:〈ホンモノの教職員〉の「祈り」ー脳科学の知見からー vol.61 一般ブログ教材
〈ホンモノの教職員〉の「祈り」ー脳科学の知見からー vol.61
この記事は約23分で読めます。

「科学」を妄信する時代は既に終焉を迎えている。なぜならば,もうじき一元論の時代が到来するからだ。

にもかかわらず,〈科学的〉でない者に限って無意識裡に「科学」言説を語りたがるものだ。持論のバック[1]「根拠」の意。として「(持論は)科学が証明している。」とか,「(持論は)科学的だ。」とか言述する。そう言述することが森羅万象に通ずる権威性を帯びた證左だと思い違いをしているのだ。「科学」は万能ではない。[2]抑々,霊界・霊の存在については,現在のところ,科学的に・・・・解明されていない。世界はダイナミックに刻一刻と変化している。しかし,「科学」は動的な世界を瞬間という点の連続としてスタティックにしか素描できない。現代の学校教育が希求する〈相対化能力[3] … Continue reading〉の欠如を自ら暴露していることに,残念ながら,「科学」万能言説信奉者は気づいていない。「科学」言説の有する権威性を〈相対化〉できず,無防備にその権威性に回収されてしまっているのである。万が一,これが教育現場に立つ教職員であるならば,乳幼児・児童・生徒(以下「児童等」と表記)に真正(authentic)な〈学力〉は身に付くまい。

何も「科学」そのものを闇雲に否定するつもりはない。科学技術の発展が文化・文明を高次化した事実は否めない。問題は「科学」言説の権威性を無暗に構築・維持・拡大する/寄らば大樹の陰・虎の威を借りる狐と化した主体の〈相対化能力〉の欠如にある。

本ブログ教材では「科学」言説信奉主義の陥穽に陥らないように脳科学[4]当私塾は,万事が脳によって決定されるとは考えていない。や仏教等のフィルターを潜らせた地点から,「鍛地頭-tanjito-」の思想を〈相対化〉することによって,〈ホンモノの教職員〉,教職員にとっての真正な〈学び〉・資質・能力及び教採の〈ホンモノの学習観・学習方法〉などを再確認してみたいと思う。

[参考・引用文献]
『脳科学からみた「祈り」』(中野信子,潮出版社,[キンドル版],検索元 amazon.com,2014.12)[5] … Continue reading

雪のような光の粒が降り注ぐ綺麗な茜色の空
綺麗な茜色の空(素材提供 photoAC)

精神論を嘲謔する者は〈精神論〉に泣く。(「鍛地頭-tanjito-」)

「精神論」と思い込んでいたある現象が,実は「精神論」ではなかった。
「逆境はあったほうがよい」

「逆境の多い人生は,むしろ最高に幸せな人生になり得る」[6]前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,エピローグ――逆境こそが脳を鍛える
脳科学はそう語ったのです。
そうならば,「ラク」を求める教採対策は……。
そう,語るまでもないのです。

利他行動と〈宇宙の意思〉

興味深いことに,この宗教的境地[7] … Continue readingについて,被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚」であることを実際に報告しています。具体的には「自分が孤立したものではなく,万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し,無限がひらけてくるような感じ」という表現で,その感覚の説明を試みています。

前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,祈りがもたらす鮮烈な幸福感

「乳幼児・児童・生徒に〈つながる〉〈ホンモノの教員〉は「教育愛」を乳幼児・児童・生徒に向けることはない。向けることはないが,向けてしまう・向けてしまっている・向けてしまっていた,のである。それを〈教育愛〉と呼ぶ。」(「鍛地頭-tanjito-」)



本来,児童等と教職員とは〈つながる〉関係にある。その際,児童等と意識的に「つながる」教職員を〈ホンモノの教職員〉とは呼ばない。教職員と児童等の(人としての)境界がなくなるような感覚[8] … Continue reading,「万物と分かちがたく結ばれている直感」,「時間を超越し,無限がひらけてくるような感じ」,それは〈宇宙の意思〉とも呼べば良いのか,敢えて述べるとするならば,譬えようのない〈気〉に後押しされるような〈直感〉である。それでも上手く表現できない。〈直感〉は言語化できず,言語化されるときには必ず〈直感〉が為し得た行為後に後付けとして言述されるものである。

教職員の〈教育愛〉から成る児童等への〈利他行動〉は,「自己」に〈つながる〉ものであって[9] … Continue reading,本来,「自己犠牲による利他行動」などは存在しないのである。〈ホンモノの教職員〉はそのことを〈直感〉している。だからこそ,そうした自利利他の行動は得たことのない,譬えようのない幸福感を得ようとせず,得るのだ。[10] … Continue reading


【補説】

「鍛地頭-tanjito-」の基本理念の一つに「まずは・・・,乳幼児・児童・生徒ありき」がある。これは教職員の意識に作用する言述であり,教職員の身体と不二ではない。だから,そこに〈宇宙の意思〉は現出していない。なぜならば,それは当然の話で,市井の数多くの教職員には〈宇宙の意思〉とも呼ぶべき〈気〉に後押しされた経験がないと推察されるからだ。したがって,「まずは・・・」〈教育愛〉を児童等に向ける・・・ことから始めなければならない。そのように〈直感〉しての言述である。

また,「まずは・・・」には他の異なった意味合いもある。抑々,万物の〈つながり〉を鑑みると,児童等への「自己犠牲による利他行動」など人の世には存在しない。だが,それくらい児童等に自らの人生を賭す・・・・・・・・・・・〈教育愛〉を有した上で,教職員には自利[11]自己(教職員)が幸せになること。利他[12]他者(児童等)を幸せにすることであって欲しいと「祈る」のである。自利がすなわち利他になり,利他が輒ち自利になる。(前段の内容と併せて)そうした思いを「まずは・・・」に込めている。

他者としての受験主体との〈つながり〉

藤井教授の研究で,「利己的な傾向を持つ人々の方が,そうでない人々よりも,主観的しゅかんてきな幸福感が低い」ということが明らかになりました。利己的な人ほど,自分は幸福ではないと思ったり,周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い,という結果が示されたのです。

前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,運のよい人,悪い人――より多くの人に配慮できるか

逆に,配慮範囲の広い利他的な志向を持つ人は,よい人間関係を持続的に築けるため,自分の周囲に盤石ばんじゃくなネットワークをつくることができます。言いかえれば,周囲のみんながこぞってその人を助けてくれるわけです。

同上

人生/人世は苦海である。「ラク」や「トク」を求めず「楽」や「徳」を求めよ。それが他者を,そして自らを救う唯一の道である。

「徳不孤,必有隣。(「論語‐里仁」の「子曰、徳不レ孤必有レ隣」による) 徳ある人またはその行為は、孤立することなく、その感化を受けて追慕する人または追従する人の行為を生み出すことになる。道義を行なうものには、必ず理解者と助力者が集まるの意。徳の隣。」(コトバンク:精選版 日本国語大辞典「徳は孤ならず必ず隣あり」の解説)

[出典]
「「バメンシドウ」ー等価交換が染み付いた消費主体としての受験主体ー vol.60」(「鍛地頭-tanjito-」,2022.9.13)より



受験社会・偏差値偏重教育の弊害は教員採用候補者選考(以下「教採」と表記)にも,その影を落とす。受験主体は他の受験主体を「ライバルと思え!」,「ライバルを蹴落とせ!」と洗脳される。現行の学習指導要領(解説)には〈(他者[13]実体を伴う他人だけではなく,自己内他者,書籍,絵画,音楽,自然,神仏などを含む。との)つながり〉がその中心概念として措定されているにもかかわらず。〈つながり〉を自ら断ち切るように脳をコントロールされた受験主体が,まさか教壇に立つ/立っているのか! そうであるならば,至極当然,児童等との〈つながり〉は端から絶縁している。だからこそ,「まずは・・・,乳幼児・児童・生徒ありき!」なのだ。

「鍛地頭-tanjito-」の塾生への教えは,こうだ。

「兎にも角にも,(受験主体それぞれの)〈(指導力・実践力・豊かな人間性等を含む)学力〉を向上させよ。各受験主体の〈学力〉の止揚・統合化は教採界を,延いては学校教育界の〈学力〉を底上げしていき,必ずや児童等に還元される。」

学問の楽しみを味わい,人徳を磨くこと(=教採対策)は自ずと「自分の周囲に盤石ばんじゃくなネットワークをつくる」のだ。そのネットワーク(=〈他者とのつながり〉)内には他者としての受験主体も,勿論,含まれる。「友有り,遠方より来たる,亦た楽しからずや。」(『論語』,学而)だ。まさに,それが当私塾「鍛地頭-tanjito-」イズムだ。この〈学び〉と〈学び〉のネットワークこそが,「鍛地頭-tanjito-」が大切にする〈学縁〉なのである。

他者としての受験主体をライバル(敵)視することによって,何も好き好んで利己的になるよう自らの脳を洗脳する必要などない。[14] … Continue reading一つの研究成果ではあるが,「自分は幸福ではないと思ったり,周囲の人々に比べて不幸だと思う」のがオチだ。こうした負のオーラを発散する教職員に児童等,保護者及び地域住民などの誰が心を開こうか。開きはしない。まずは・・・〈つながり〉を求めない者にホンキで・・・〈つながろう〉とする者はいない。

「非力な人間が唯一,他の動物種と比べて発達しているのが脳です。つまり,互いに助け合う「利他の行動」で快感を覚える脳,率先そっせんして「利他の行動」を取らせる脳。これが,人類が種として生き延びてくるための,唯一の武器だったのです。」[15]前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,運のよい人,悪い人――より多くの人に配慮できるか

「人類が種として生き延びてくるための,唯一の武器」であると言える「互いに助け合う「利他の行動」」,即ち〈他者とのつながり〉に欠落する人間が教職員となって,学校を初めとする巷間で「生き延びて」いけるのか? このように鑑みると,他者としての受験主体をライバル(敵)視する受験主体に「唯一の武器」は育たない。「利他行動」による〈他者とのつながり〉を自ら実践し児童等を教え導く教職員としての資質・能力も無論育たないと言わざるを得ないのである。

「ライバルを蹴落とせ!」は教員としての赤信号(「鍛地頭-tanjito-」)

労苦を重ね学び続ける教職員

学びつづけ,成長しつづけ,達成を繰り返すことの中にこそ,脳が感じる幸福はあります。脳にとっての幸福とは静的・固定的なものではなく,変化のダイナミズムの中にあるのです。

前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,学びつづけ,成長しつづける幸福
教師はそもそも学び続ける存在であることが強く期待されている

「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」(教育基本法第9条)
「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」(教育公務員特例法第 21 条)

「「令和の日本型学校教育」を担う教師の学び (新たな姿の構想)」:教員免許更新制小委員会(R3.5.24)資料2,参考資料2,原文での下線の色は黒色である。)

「教員(志願者)たる者,教員にとって必要な「学問(身)」を〈自己(心)〉と内化・統合するように日常的に・・・・鍛えておくことで,初めて真面な・・・教育活動が叶うのであり,またそれが責務でもある。これが〈学び続ける教員〉の一義だ。

「「バメンシドウ」ー等価交換が染み付いた消費主体としての受験主体ー vol.60」(「鍛地頭-tanjito-」,2022.9.13)



「鍛地頭-tanjito-」は常に〈学び続ける〉ことの意味を問う。

学び続けなければならない者は本務者だけではない。本務者を目指す者もそうだ。無論,児童等もそうだ。では,なぜ〈学び続ける〉必要があるのか? その理由については,上掲のブログ教材を参考にしていただきたい。

今,その理由に新たな知見が加わった。「「もう学ばなくてもいい。成長しなくてもいい」と現状に満足してしまったら,脳はそこで成長を止めてしまうどころか,おとろえ始めてしまう」[16]前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,学びつづけ,成長しつづける幸福のだそうだ。なぜならば,知的欲求を持ち,達成感を味わいたいのが脳の本能だからだ。[17]同上ということになると,「学ばない・・・・学ぼうとしない・・・・・・・教員や「教採受験の指導者と称する者たちが無時間的に差し出す所謂正解(以下「セイカイ」と表記)を只管丸暗記し,〈教員〉としてのアイデンティティが形成されないまま教員になろうとする正解主義的な態様」[18]「バメンシドウ」ー等価交換が染み付いた消費主体としての受験主体ー vol.60」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2022.9.13)を呈するとともに,「面接選考対策と銘打って,指導者と称する者たちにより成る同一・定式化した台本に踊らされ,ニセモノの自己(傀儡・悲しき化身)を形象化すべく,似非-パフォーマンスの練習を積まされる「1+1=2」式の受験キーワード丸暗記型の教採受験主体」[19]同上は,「脳の本能に反する生き方」[20]前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,学びつづけ,成長しつづける幸福を選んでいることになる。

「鍛地頭-tanjito-」が「「ラク」(な受験対策)を求めるな!」と主張する所以がそこにある。ただし,万一,「「ラク」な受験対策は対策としての合理化・能率化などを図るものであり,学び続けていることに変わりはない。」と反論するならば,活眼をもって刮目し自己の精神性を〈相対化〉してみるが良い。そうすれば,その言述そのものが〈騙り(=似非-パフォーマンス)〉であることを悟るであろう。

日常生活において労苦を重ね〈学び続ける〉中で幸福感が満たされていくのである。

「逆境はあったほうがよい」

(前略)もう一つの新たな幸福感が,「逆境はあったほうがよい」「逆境の多い人生は,むしろ最高に幸せな人生になり得る」ということです。それはたんなる精神論ではなく,脳の仕組みをきちんとふまえたうえでの結論です。

前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,エピローグ――逆境こそが脳を鍛える,「前略」は小桝による。

他者との「つながり」を欠いて生きていける人生/人世ではない。だからこそ,(「ラク」や「トク」ではなく,)「楽」や「徳」を求める必要がある。苦海の人生/人世であるがゆえに,「楽」や「徳」を求めるべきなのだ。

他者[11]との「つながり」を常に意識した言行ならば,「楽」や「徳」は元来の「楽しみ」と化すものだ。ただし,それは労苦を伴った時間を要する営みである。だから,余計にも「楽しい」のだ。

「「バメンシドウ」ー等価交換が染み付いた消費主体としての受験主体ー vol.60」(「鍛地頭-tanjito-」,2022.9.13,註11:実体を伴う他者のみならず,自己内他者,書物,自然及び神仏などを含む。)



教採は「受験ゲーム」ではない。常日頃,「鍛地頭-tanjito-」(=塾長)が力説していることだ。児童等は「ゲーム」の駒ではない。学校で,教育行政で,そして大学で労苦を重ねてきたからこそ,力説できるのだ。一般的に,学び続け,まさに「変化のダイナミズム」を経験した教職員が教採を「ゲーム」として捉えることはないのだ。したがって,そうした〈ホンモノの教職員〉は最大の幸福を感じている。

「逆境に直面し,力を限界まで発揮して乗り越えようとする――そのことで,ゲームのような作りごとの中での脳トレとは比較にならないほど,格段に脳は鍛えられるのです。」[21]前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,エピローグ――逆境こそが脳を鍛える

「ラク」を追求し,教採を「ゲーム」として捉える者とそのようには捉えない者との間には,既に「脳力」において格段の差異が生じているのである。――だから,当私塾は「鍛地頭」なのだ。――

逆境に直面した際,「ああ,もうダメだ。」と直ぐ様「ラク」な道を選ぼうとする者に「鍛地頭-tanjito-」は「逃げることなく,逆境に正対せよ。」と指導している。脳科学の知見を俟つまでもない。「ラク」な道を選ぼうとする在り方で心身(=頭)共に鍛えられるわけがない。――〈精神論〉が大切なのだ。――だから,そうした悪癖が付いた教職員(や教採受験主体,後の教職員)は,管見による限り,困難な課題を抱える児童等から往々にしてニゲル傾向にある。つながらない/つながろうとしないのだ。

逆境に直面して「よし! 必ず乗り越えてみせる」と心のファイティングポーズを取れたなら,その瞬間に脳も闘う態勢たいせいを取ります。闘うための神経伝達物質が脳と体内にけめぐり,脳細胞が発火し,シナプスやニューロンが伸びてつながっていくのです。しかし逆に,逆境に直面して「ああ,もうダメだ」とあきらめてしまったなら,その瞬間に脳も”逃げの方向”に変わってしまいます。[22]同上

「逆境で強く鍛えられる人もいる一方で,それに負けてスポイルされてしまう人もいます。両者を分かつものは,逆境に直面した時の心のありよう」[23]同上なのだ。――これでお解りになったはずである。常日頃,「鍛地頭-tanjito-」は巷間で口にする手垢の付いた「精神論」をぶっているのではないのだ。〈精神論〉を語っているのだ。

精神論を嘲謔する者は〈精神論〉に泣く。(「鍛地頭-tanjito-」)

教採の学習と教員となる/であることとを二分法で考えるな!

他者の悩みを我が悩みとして「同苦」し,その解決に心をくだいていくとき,「インターロイキン6」や「コルチゾール」といった,体によくない悪玉物質の分泌が抑制よくせいされることが明らかになっています。また,すでに述べたとおり,オキシトシンそれ自体にも免疫力を高めるなどの効果があるのです。

前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,自己を拡大すれば「利他」も「利己」になる

その日から厳しい鬼の特訓が始まりました。塾長は私の特性から「これを調べると良い」「この文献はこのようにして読むと良い」と情報の取捨選択から調べ方,読み方,知識の統合の仕方,問題解決の進め方,そして〈相対化〉の方法などをご伝授くださる一方で,「思うように書いてみんしゃい」「考えていることがあったら話してみんしゃい」等,随時カウンセリングを施しながら,徹底的にご指導くださいました。このように,ありとあらゆる側面から学習をサポートしてくださったことがきっかけとなり,それが自信につながったのです。

次に,塾生との学びです。私は定期的に開催されるSpecial Team内の学びを深める講座に粘り強く参加し続けました。塾生同士の学び合いでは,レベルの高い考えを聴くことができるため,数多くの刺激を受ける一方で,その時点での自分自身のレベルに気付き,落胆することもありました。だからこそ,必死になって,日々の学習に意欲的に取り組み,自らの〈学び〉を継続できたのだと考えます。また,そのような機会を活用し粘り強く学び続けることで,メンタル面も鍛えられたと考えます。

「オープンチャット教員養成私塾 vol.47 「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉についてー塾生秘話ー」(〈学び〉のリフレクション(reflection),Special Team S先生の場合,2 「鍛地頭-tanjito-」で学んで良かったこと,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2021.9.1)


オープンチャット教員養成私塾 vol.47 「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉についてー塾生秘話ー
今回は「〈学び〉のリフレクション(reflection)」と題して,これまでの当私塾の〈学び〉を塾生たちと共に振り返ります。今回登場してくれるメンバーは現職教員のF先生と塾生のS先生です。両先生が語る〈学び〉の内実が読者の〈学び〉をメタ化します。
オープンチャット教員養成私塾 vol.48 「個別最適な学び」と「協働的な学び」
教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」のBLOG教材です。今回は「令和の日本型学校教育」(答申)を踏まえ,塾長が「個別最適な学び」と「協働的な学び」との一体化に懐疑のメスを入れます。塾生による「当私塾の〈学び〉について」の第二弾も掲載しています。
言語(運用)能力の育成(vol.50)
教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」のBLOG教材です。今回の主テーマは「言語(運用)能力の育成」です。今夏東京都の採用試験で課された論文問題のテーマを当てた塾長が主テーマについてミニ解説しています。新設講座紹介やかわいいボイスも聴かれます。
自己肯定感の育成(vol.51)
教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」のブログ教材です。[コンテンツ]:「カスタム道場」と教育実習/〈学び〉のリフレクション/塾生と綴るブログ教材/「論作文・小論文」選考・問題を〈相対化〉する―自己肯定感の育成―/ポッドキャスト(塾長の述懐)

教員人生において何度修羅場を潜り抜けてきたことだろう。脳が美化を始めたようだ。今となれば,どれも良き思い出と化している。だが,そうかと言って,教員・教育行政人として幾多の修羅場を経験したことは紛れもない「事実」なのだ。

当私塾には,どういう訳か,教員としての本務者や会計年度任用職員等学校現場を経験している/した者ばかりが学んでいる。だからこそ,余計にも,塾生や受講生の気持ちが我が身に起きた出来事のように理解できるのである。「ああ~解るよ,分かるよ,その気持ち。」何度口にすることか。喜び,楽しさや悲しみ,怒りなどを懸命に語る塾生や受講生の言動を視聴し共感するのである。これもミラーニューロンが機能しているからなのか? 仏法の「同苦」に通ずるものがあるからなのか? 何はともあれ,「塾長ー塾生・受講生」・「塾生・受講生ー塾生・受講生」間の相互理解と更なる高みへの超克のために,「対話(interaction)」や「共話(metalogue)」が行為体エイジェンシーの協働によって意味を共有する「関係核(shared shells)」を構築→〈相対化〉→解体→再構築(→〈相対化〉→解体……)することが肝心であることに相違はない。こうして塾生・受講生は児童等との「つながり」を〈相対化〉し,それをまずは概念的に再構築した上で〈ホンモノの教職員〉の道(教育道)を歩み出すのである。

これが教採の学習の理念(idee)と基盤となる方法(method)だ。

教採の学習(対策)を大学入試の延長線上に捉え,同様の観念と方法で乗り切ろうとするのは偏差値偏重教育の弊害であるとともに,教職員としての資質・能力を疑われる問題を生起する。それはその「弊害」を〈相対化〉できないからだ。対象に適合する学び方を創造する能力に欠損しているとも言える。そのような者が,例えば,児童等にどうやって学び方を学ばせるのか?

まずは・・・,乳幼児・児童・生徒ありき。」――教採の学習はこどもたちに直截的・間接的に〈つながる〉ものであり,ダイナミックなものだ。それを教育現象の上っ面だけを撫ぜた,一片のつながりのないテクストと化したスタティックなシミ(指導者と称する者たちに半強制的に注入される「シュツダイ」と「セイカイ」)と捉えること自体,既に教職員としての資質・能力はない。生きて働かない・・・・・・・「セイカイ」を引っ提げて教壇に立つものだから,児童等及び学校等に湧出するレアな複雑化・難化・多様化・曖昧化した諸問題に只管佇むか,逃げ出すしかないのである。それも当然だ。教職員としての資質・能力の三つの柱やそれを基盤とする学び方を創造する能力に欠損しているのだから,問題発見・解決能力や〈相対化能力〉等が育つわけがない。採用後,3年間の離職率が高いのは,それが一つの原因となっているのだろう。

以前から語られていることだが,現代ほど「(教員の)養成教育ー教採ー現職教育」が一貫性を持った〈つながる〉システムであることに注目された時代はない。[24] … Continue readingただ,教職員の質的向上を図るには,この「一貫性を持った〈つながる〉システム」が必要であることは言を俟たない。早期の構築・完成が望まれる。したがって,教採の受験主体にしても,指導者と称する者にしても,「教採対策は大学入試などの受験対策とは全く質を異にしており,教員養成の一環・・・・・・・である」ことを肝に銘じておかなければならない。だから,「鍛地頭-tanjito-」は「教採及びその合格は教職員人生のイニシエーションであり,終着点ではなく通過点である。」と指導しているのだ。要するに,このシステムのいずれのフェーズも全て「まずは・・・,乳幼児・児童・生徒ありき」に収斂されるということだ。

昨今,「場面指導」型の出題が必須化されてきた背景にもこうした事情が垣間見える。それは至極当然のことで,終局的には児童等への実践的・総体的な指導力が教職員に求められているのであり,前述の各フェーズにおいて,教職員としての発達課題をクリアしながら,そうした能力は高められなければならないのである。だからこそ,教採対策は「教員養成の一環」であり,指導場面を想定した「場面指導」は実践的・総体的な教職員としての資質・能力を見極める上で,現在のところ,重宝な出題形式と言えるのである。

このように考えてくると,「場面指導」の指導は各フェーズを経験した教職員でないとできるものではないということになる。ただし,経験したと言っても経験が浅く熟練度が低ければ,それは不可能だ。例えば,指導のための引き出しが寡少であるし,児童等を刹那に感じ取る,形容し難いセンシティブな〈直感〉が育っていないからだ。――この言語化不能の微妙な〈直感〉は長年教職員として過ごしたとして,誰にでも身に付くといった感覚ではない。――指導に必須の組織全体を見渡し,それを運営する能力に至っては無論ない。しかも,対象となる指導事象の指導を行うには,〈(教職員を指導するなどの)別の指導のための実践的な指導力〉が必要であり,さらに指導事象を場面化した「場面指導」の指導のためには,学校現場・教育行政等の多様な経験の蓄積や種々の教育理論に根差す鋭敏な〈直感〉及び練度の高い〈実践的な指導力〉などを基底に据えた《(受験主体などを指導する)別の指導力》を必要とするのだ。抑々,現存する児童等と〈つながる〉経験がなく,〈語る〉ことのできる指導などないのだ。

「学校教育界以外の他視点から「場面指導」の指導を行った方が,教育界にどっぷりと浸かった視点からよりも,児童等に入れ込まない分,「井の中の蛙」にならず良い。」――流石にこのように述べる者はいないだろう。本来,「場面指導」の対象は生きた・・・児童等なのだ。「シュツダイ」や「セイカイ」の上のそれらではない。それでも外部視点だけから指導できると豪語したならば,それは学校教育界,延いては学校現場で労苦を積み重ねる教職員を愚弄しているのと同等である。全く野球経験のない者がプロ野球界を目指す高校生にバットの振り方やボールの投げ方を教え,医学的知識をほんの少しだけ齧った者がホンモノのメスを持って外科手術を手掛けているようなものだ。生兵法は大怪我の基。「野球経験のない者」や「医学的知識をほんの少しだけ齧った者」に相当する者(以下「「野球経験のない者」等」と表記)が指導と称して「場面指導」のシドウを行って,そのシドウに万一大きな疵瑕があれば,シドウを信じ込んだ受験主体(後の教員)によるシドウにより児童等,保護者及び地域社会に被害が及ぶ可能性が生じる。大体,例えば,公教育における生徒指導でも各地方自治体によって若干の指導方針・方法に差異を生じているものもあるのだ。それでありながら,捏造した権威性をもって「野球経験のない者」等が一律の「シュツダイ」や「セイカイ」を振り翳すこと自体に大きな問題がある。何度も繰り返すが,教採対策(教員養成の一環)は児童等に〈つながっている・・・・・・・〉のだ。断じて「教採は受験だから,教員となること/であることとは別物だ。」ではない。

教採の学習と教員となること/であることとを二分法で考えるな!

『徒然草』(吉田兼好)の第52段の末文で語り手は「少しのことにも,先達せんだち[25]その道の達人のこと。はあらまほしき事なり。」と端的に物語る。この「語り」の「先達」は「野球経験のない者」等の外部コーチ―を指すのではない。その道の「職人・・(専門家)」を指すのだ。教採の学習と教員道とを,仮に二項対立で捉えたとして,それでもそれらを止揚(aufheben)できるのは「先達」(=〈ホンモノの教職員〉)だけである。

何も「鍛地頭-tanjito-」は〈ホンモノの教職員〉と「野球経験のない者」等とを二項対立で捉えているのではない。元来,その図式は成立しない。「野球経験のない者」等は〈ホンモノの教職員〉のアンチテーゼにはならない。だが,これも仮に二項対立で捉えたとして,止揚(Aufheben)の地平の終着点には「まずは・・・,乳幼児・児童・生徒ありき」が存在するだけである。

〈ホンモノの教職員〉は児童等一人ひとりの成長を不二の体で祈っている。

ⓒ 2022 「鍛地頭-tanjito-」


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