他者の悩みを我が悩みとして「同苦」し,その解決に心をくだいていくとき,「インターロイキン6」や「コルチゾール」といった,体によくない悪玉物質の分泌が抑制されることが明らかになっています。また,すでに述べたとおり,オキシトシンそれ自体にも免疫力を高めるなどの効果があるのです。
前掲書:第2章 脳科学からみた幸福な人,不幸な人,自己を拡大すれば「利他」も「利己」になる
その日から厳しい鬼の特訓が始まりました。塾長は私の特性から「これを調べると良い」「この文献はこのようにして読むと良い」と情報の取捨選択から調べ方,読み方,知識の統合の仕方,問題解決の進め方,そして〈相対化〉の方法などをご伝授くださる一方で,「思うように書いてみんしゃい」「考えていることがあったら話してみんしゃい」等,随時カウンセリングを施しながら,徹底的にご指導くださいました。このように,ありとあらゆる側面から学習をサポートしてくださったことがきっかけとなり,それが自信につながったのです。
次に,塾生との学びです。私は定期的に開催されるSpecial Team内の学びを深める講座に粘り強く参加し続けました。塾生同士の学び合いでは,レベルの高い考えを聴くことができるため,数多くの刺激を受ける一方で,その時点での自分自身のレベルに気付き,落胆することもありました。だからこそ,必死になって,日々の学習に意欲的に取り組み,自らの〈学び〉を継続できたのだと考えます。また,そのような機会を活用し粘り強く学び続けることで,メンタル面も鍛えられたと考えます。
「オープンチャット教員養成私塾 vol.47 「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉についてー塾生秘話ー」(〈学び〉のリフレクション(reflection),Special Team S先生の場合,2 「鍛地頭-tanjito-」で学んで良かったこと,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2021.9.1)
教員人生において何度修羅場を潜り抜けてきたことだろう。脳が美化を始めたようだ。今となれば,どれも良き思い出と化している。だが,そうかと言って,教員・教育行政人として幾多の修羅場を経験したことは紛れもない「事実」なのだ。
当私塾には,どういう訳か,教員としての本務者や会計年度任用職員等学校現場を経験している/した者ばかりが学んでいる。だからこそ,余計にも,塾生や受講生の気持ちが我が身に起きた出来事のように理解できるのである。「ああ~解るよ,分かるよ,その気持ち。」何度口にすることか。喜び,楽しさや悲しみ,怒りなどを懸命に語る塾生や受講生の言動を視聴し共感するのである。これもミラーニューロンが機能しているからなのか? 仏法の「同苦」に通ずるものがあるからなのか? 何はともあれ,「塾長ー塾生・受講生」・「塾生・受講生ー塾生・受講生」間の相互理解と更なる高みへの超克のために,「対話(interaction)」や「共話(metalogue)」が行為体の協働によって意味を共有する「関係核(shared shells)」を構築→〈相対化〉→解体→再構築(→〈相対化〉→解体……)することが肝心であることに相違はない。こうして塾生・受講生は児童等との「つながり」を〈相対化〉し,それをまずは概念的に再構築した上で〈ホンモノの教職員〉の道(教育道)を歩み出すのである。
これが教採の学習の理念(idee)と基盤となる方法(method)だ。
教採の学習(対策)を大学入試の延長線上に捉え,同様の観念と方法で乗り切ろうとするのは偏差値偏重教育の弊害であるとともに,教職員としての資質・能力を疑われる問題を生起する。それはその「弊害」を〈相対化〉できないからだ。対象に適合する学び方を創造する能力に欠損しているとも言える。そのような者が,例えば,児童等にどうやって学び方を学ばせるのか?
「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき。」――教採の学習はこどもたちに直截的・間接的に〈つながる〉ものであり,ダイナミックなものだ。それを教育現象の上っ面だけを撫ぜた,一片のつながりのないテクストと化したスタティックなシミ(指導者と称する者たちに半強制的に注入される「シュツダイ」と「セイカイ」)と捉えること自体,既に教職員としての資質・能力はない。生きて働かない「セイカイ」を引っ提げて教壇に立つものだから,児童等及び学校等に湧出するレアな複雑化・難化・多様化・曖昧化した諸問題に只管佇むか,逃げ出すしかないのである。それも当然だ。教職員としての資質・能力の三つの柱やそれを基盤とする学び方を創造する能力に欠損しているのだから,問題発見・解決能力や〈相対化能力〉等が育つわけがない。採用後,3年間の離職率が高いのは,それが一つの原因となっているのだろう。
以前から語られていることだが,現代ほど「(教員の)養成教育ー教採ー現職教育」が一貫性を持った〈つながる〉システムであることに注目された時代はない。ただ,教職員の質的向上を図るには,この「一貫性を持った〈つながる〉システム」が必要であることは言を俟たない。早期の構築・完成が望まれる。したがって,教採の受験主体にしても,指導者と称する者にしても,「教採対策は大学入試などの受験対策とは全く質を異にしており,教員養成の一環である」ことを肝に銘じておかなければならない。だから,「鍛地頭-tanjito-」は「教採及びその合格は教職員人生のイニシエーションであり,終着点ではなく通過点である。」と指導しているのだ。要するに,このシステムのいずれのフェーズも全て「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」に収斂されるということだ。
昨今,「場面指導」型の出題が必須化されてきた背景にもこうした事情が垣間見える。それは至極当然のことで,終局的には児童等への実践的・総体的な指導力が教職員に求められているのであり,前述の各フェーズにおいて,教職員としての発達課題をクリアしながら,そうした能力は高められなければならないのである。だからこそ,教採対策は「教員養成の一環」であり,指導場面を想定した「場面指導」は実践的・総体的な教職員としての資質・能力を見極める上で,現在のところ,重宝な出題形式と言えるのである。
このように考えてくると,「場面指導」の指導は各フェーズを経験した教職員でないとできるものではないということになる。ただし,経験したと言っても経験が浅く熟練度が低ければ,それは不可能だ。例えば,指導のための引き出しが寡少であるし,児童等を刹那に感じ取る,形容し難いセンシティブな〈直感〉が育っていないからだ。――この言語化不能の微妙な〈直感〉は長年教職員として過ごしたとして,誰にでも身に付くといった感覚ではない。――指導に必須の組織全体を見渡し,それを運営する能力に至っては無論ない。しかも,対象となる指導事象の指導を行うには,〈(教職員を指導するなどの)別の指導のための実践的な指導力〉が必要であり,さらに指導事象を場面化した「場面指導」の指導のためには,学校現場・教育行政等の多様な経験の蓄積や種々の教育理論に根差す鋭敏な〈直感〉及び練度の高い〈実践的な指導力〉などを基底に据えた《(受験主体などを指導する)別の指導力》を必要とするのだ。抑々,現存する児童等と〈つながる〉経験がなく,〈語る〉ことのできる指導などないのだ。
「学校教育界以外の他視点から「場面指導」の指導を行った方が,教育界にどっぷりと浸かった視点からよりも,児童等に入れ込まない分,「井の中の蛙」にならず良い。」――流石にこのように述べる者はいないだろう。本来,「場面指導」の対象は生きた児童等なのだ。「シュツダイ」や「セイカイ」の上のそれらではない。それでも外部視点だけから指導できると豪語したならば,それは学校教育界,延いては学校現場で労苦を積み重ねる教職員を愚弄しているのと同等である。全く野球経験のない者がプロ野球界を目指す高校生にバットの振り方やボールの投げ方を教え,医学的知識をほんの少しだけ齧った者がホンモノのメスを持って外科手術を手掛けているようなものだ。生兵法は大怪我の基。「野球経験のない者」や「医学的知識をほんの少しだけ齧った者」に相当する者(以下「「野球経験のない者」等」と表記)が指導と称して「場面指導」のシドウを行って,そのシドウに万一大きな疵瑕があれば,シドウを信じ込んだ受験主体(後の教員)によるシドウにより児童等,保護者及び地域社会に被害が及ぶ可能性が生じる。大体,例えば,公教育における生徒指導でも各地方自治体によって若干の指導方針・方法に差異を生じているものもあるのだ。それでありながら,捏造した権威性をもって「野球経験のない者」等が一律の「シュツダイ」や「セイカイ」を振り翳すこと自体に大きな問題がある。何度も繰り返すが,教採対策(教員養成の一環)は児童等に〈つながっている〉のだ。断じて「教採は受験だから,教員となること/であることとは別物だ。」ではない。
教採の学習と教員となること/であることとを二分法で考えるな!
『徒然草』(吉田兼好)の第52段の末文で語り手は「少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。」と端的に物語る。この「語り」の「先達」は「野球経験のない者」等の外部コーチ―を指すのではない。その道の「職人(専門家)」を指すのだ。教採の学習と教員道とを,仮に二項対立で捉えたとして,それでもそれらを止揚(aufheben)できるのは「先達」(=〈ホンモノの教職員〉)だけである。
何も「鍛地頭-tanjito-」は〈ホンモノの教職員〉と「野球経験のない者」等とを二項対立で捉えているのではない。元来,その図式は成立しない。「野球経験のない者」等は〈ホンモノの教職員〉のアンチテーゼにはならない。だが,これも仮に二項対立で捉えたとして,止揚(Aufheben)の地平の終着点には「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」が存在するだけである。
〈ホンモノの教職員〉は児童等一人ひとりの成長を不二の体で祈っている。