〈学び〉のリフレクション(reflection)
教員採用候補者選考(以下「教採」と表記)が終了すると同時に,「たいさく」とやらも終焉を迎える。 そんな教員は要らない。 教員になれたらだけど。 いや,そのような者が教員になってはならない。 しかし,なってしまう世の趨勢がある。 嘆かわしい。
学び続ける理由を解しない者は教壇に立つべきではない。
持続可能な時代の形成者にもなれるわけがない。
高次の〈文化〉的行為も営めない。
いつも述べているように,教採は〈教員道〉の通過点に過ぎない。 然れども,通過するポイントであるから,それまでの自己の〈学び〉を振り返り,今後の見通しを持つ節目にはなる。 したがって,塾生は自らの〈学び〉を振り返り,将来に向けたプロトタイプのために,出現する未来を見通さねばならない。
塾生の〈学び〉を統括する目的で,当教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」もAARを回しておこう! 以下の記述は,塾生OBと現塾生による〈学び〉のリフレクションである。
Special Team F先生の場合
F先生,当私塾の〈学び〉の特長をどのように捉えておられますか?
自己内のパラダイムシフトを促す触媒です。学びのあり方を主体として高めることができます。
なるほど。
では,当私塾で何を学ばれてきましたか?
自己内のパラダイムシフトを基盤とした教員養成を通して,〈恕〉への道は足元から前に続いていることを学びました。
脱中心化した,パターナリズムに陥っていない〈恕〉ですね。当私塾の〈学び〉を学校でどのように生かしておられますか?
教育現場を包むさまざまな枠組みと向き合いながら,子どもたちのために自分ができる最大限の教育方法を研究しています。つまり,〈恕〉です。
おっしゃるように,「教育現場を包むさまざまな枠組み」,すなわち教育言説の〈相対化〉が必要ですよね。特に,今の時代は。しかし,その〈相対化〉の産物に悲喜こもごも…そんな感じですかね?(笑)
さて,今夏の教採も終盤を迎えました。「終盤」と言うのも,当私塾関係でまだこれから受験という方もおいでになるので。そこで,お伺いします。F先生は当私塾で学んだ後,教採を受験されてどのようなご感想等を抱かれましたか? 回想してみてください。
学び舎は多くあれど,道は刹那的。「鍛地頭-tanjito-」が最も教員養成に個別最適であると考えました。
これはこれは。ありがとうございます。
最後に,今後,当私塾に求められるものは何ですか?
自分としては君子交淡若水。淡々と子どものために教員養成・教育活動を継続していきたいです。余裕があれば,出版物発行も視野にあればと考えます。
以心伝心ですなあ。当私塾の中期ビジョンとして,塾生皆様のお力を拝借して,「「鍛地頭-tanjito-」の教育論」なんぞ,電子書籍くらいにぶってみたいですなあ(笑) その折にはご協力のほどよろしくお願いいたします。
ああ,営利企業等従事制限がありますから,ボランティアでお願いしますね(笑)
「誠実」をまさに体現されているF先生。F先生は2年前に当私塾で学ばれ,合格されて尚現在に至るまで,当私塾で学び続けておられる先生です。以来,先生との定期的な学びにより当方の〈学び〉を磨いていただいている次第です。所属校及び当私塾のオピニオンリーダーとして,今後とも益々ご活躍のほど宜しくお願い申し上げます。(塾長)
塾長の述懐
教職員としての専門性を高めよ!
日々,学び続けろ!
教職員だろう!
1 教育界を挙げての質的低下
間違いなく,年々教採の質的レベルは落ちている。教育そのものの質的低下に益々拍車が掛かる。
当私塾にはかなり高レベルの小論文を書く塾生がいる。その塾生に「教採本番で論述するあなたの小論文のレベルをやや下げよ。採点官のレベルが付いていかないかもしれない。何を書いているのかわからないといった状況が起きるかもしれない[1]当私塾では「小論文は読み手を意識して解りやすく書かなければならない。」とする言説を〈相対化〉してある。。」――今夏,そのような指示を出した。塾内秘話だ。(だから,もう「塾内秘話」ではなくなった。)
受けさせる側/受ける側,こぞって質的低下を起こしている。
2 都合の良い事象だけをテクストとして切り取るな!
学校の働き方改革の目的は児童生徒へ施す教育の質的向上にある。
にもかかわらず,確かに学校は――学校だけではなく,教育行政もだが――業務過多だ。「業務過多」を学校現場の日常的なコンテクストから切り取って,一枚のテクストとして一瞥すれば,それは余りにも〈過多〉だ。これでは児童生徒への教育に係る質的低下は免れまい。
しかし,だ。それは飽くまでも 「業務過多」を学校現場の日常的なコンテクストから切り取って,一枚のテクストとして一瞥したときの話だ。
同様に,(業務に対する)教職員の資質・能力を学校現場の日常的なコンテクストから切り取って,一枚のテクストとして一瞥したらどうだ? 総じて教職員の資質・能力が低下しているから業務を熟せないと言えるだろう?
ところが,だ。管見による限り,こうしたテクストの切り取りから成る言説を耳にしたことがない。なぜだ? それは,そこにある種の権威性が働いているからだ。「権威性」が解り難ければ,「同調圧力」と置き換えれば良い。
教員免許更新制が発展的に解消する(笑)。更新制に対する時間的・精神的・経済的等負担言説の勝利だ。しかし,これだって「時間的・精神的・経済的等負担」だけを学校現場の日常的なコンテクストから切り取って,一枚のテクストとして一瞥すれば,そりゃあ,「負担」だろう。
しかし,教職員の教育力の低下にVUCAな時代も相俟って,教職員としての資質・能力を向上させていかなければ児童生徒のためにならないとする一枚のテクストを学校現場の日常的なコンテクストから切り取って一瞥すれば,それも確かな言述だろう。――因みに,巷間にはVUCAな時代をつくった人間を批判する言説があるが,老荘的一元論の世界観を物語っているつもりなのか?
抑々,研究と修養に努め,自らの専門性や資質・能力を高めることは,教育界だけではなく,仕事と名がつくどの「職場」でも当たり前の話だ。
二元論からの解放を目指せ! 今こそ,止揚(aufheben)の時代だ。トランスモダンの時代なのだ。
3 学び続ける意義
「何が言いたいのか?」――この疑問自体が二項対立の陥穽に陥っている左證だ。自己を〈相対化〉し,この陥穽から解放を試みた方が良い。少なくとも教職員ならば。
シンギュラリティが云々される時代,AI先生と協働・〈共創造(co-creation)〉し教育活動を展開する日は近い。そのような時代に資質・能力の低下した教職員は用を成さない。教職のレベルは現状の数倍のレベルアップを見,そうした教職員は淘汰され,教壇を去ることになるであろう。一方で,端から忌避し教職を選択しない者も増加する。当面,AI先生ができない業務を担うようになるからだ。教職員としてかなりの資質・能力が必要だ。[2]詳細は別稿に譲る。
日々,学び続け,自らの資質・能力を磨き,専門性を高めるしかない。〈相対化能力〉を高めよ! 抽象化能力の向上を図れ! (特に)先生だろう! 児童生徒に〈学力〉を付けることが本業なのだよ。
自らに〈学力〉を付けないで本業が務まるのか?
日々,学ばないで,いつ学ぶのだ?
ポッドキャスト
今こそ,止揚の時。
Special Team S先生の場合
1 「鍛地頭-tanjito-」との出会い
「鍛地頭-tanjito-」との出会いは運命的でした。本気で教員を目指して学ぼうと決めた日,私は「一人で頑張るぞ」と意気込んで,市販の参考書を開き,一語一句,気になる語についてインターネットを用いて調べ始めました。調べるうちに,「「児童・生徒」と『生徒指導提要』,『学習指導要領』との連関性は何か」「なぜ「児童・生徒」と「児童」,「生徒」及び「子供」と書き分けられているのか」等の疑問が湧いてきました。疑問を解決すべく夢中になって調べました。
S先生から取材したところ,その後,何とも奇奇怪怪な出来事が起きたようです。それはまさに〈運命〉としか言い様のない当私塾との出会いでした。その当時をS先生に振り返っていただきました。
あれは,インターネットで夢中になって検索をしている時でした。そして,〈宇宙の意思〉とでも言うのでしょうか(笑),あれよあれよという間に「鍛地頭-tanjito-」に入塾していたのです。その過程を次に振り返ってみます。
2 「鍛地頭-tanjito-」で学んで良かったこと
「自分自身に自信を持てるようになった」ことです。その理由は,当私塾の塾長 小桝雅典先生(以下「塾長」)による教育愛に溢れる熱心なご指導があったからです。また「鍛地頭-tanjito-」に入塾する受講生(以下「塾生」)と共に学ぶ機会があったからです。
まず,塾長との学びです。私は,勉強について弱気に考えておりました。なぜならば,「知識を暗記することだけ」が学習だと思っていたからです。「優秀な人には優秀になる勉強の型があるのだ」と考えておりました。そのため,私は「今更勉強し始めても遅い」と思っていましたから,塾長に弱気で「講座を2か月だけやってみます。」と囁いてみました。
その日から厳しい鬼の特訓が始まりました。塾長は私の特性から「これを調べると良い」「この文献はこのようにして読むと良い」と情報の取捨選択から調べ方,読み方,知識の統合の仕方,問題解決の進め方,そして〈相対化〉の方法などをご伝授くださる一方で,「思うように書いてみんしゃい」「考えていることがあったら話してみんしゃい」等,随時カウンセリングを施しながら,徹底的にご指導くださいました。このように,ありとあらゆる側面から学習をサポートしてくださったことがきっかけとなり,それが自信につながったのです。
次に,塾生との学びです。私は定期的に開催されるSpecial Team内の学びを深める講座に粘り強く参加し続けました。塾生同士の学び合いでは,レベルの高い考えを聴くことができるため,数多くの刺激を受ける一方で,その時点での自分自身のレベルに気付き,落胆することもありました。だからこそ,必死になって,日々の学習に意欲的に取り組み,自らの〈学び〉を継続できたのだと考えます。また,そのような機会を活用し粘り強く学び続けることで,メンタル面も鍛えられたと考えます。
何よりも,「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉において習得した知識を統合・活用する大切さを学んだことが大きな力になりました。「課題」として提示される問題は簡単には解けません。単に暗記することに留まらず,得た知識を読む,書く, 聴く,そして話すことを通して統合し,1つの概念にしていきます。そのためには粘り強く,根気よく課題に向き合うことになります。このような「読むこと」「書くこと」「聞くこと」,「話すこと」に関する資質・能力はOECDや学習指導要領が謳う児童・生徒にとっても重要な資質・能力です。その重要性について「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉を通して実感することができたことは,今後,児童・生徒理解や児童・生徒を指導する上で大きな糧になりました。「鍛地頭-tanjito-」の〈学び〉は多面的・総合的に私の地頭を鍛えたのだと思います。
さらに,ノマドスタイルによって学習が生活習慣の一つになりました。講座,課題全てがオンライン上でのやり取りです。だから,パソコンが1台あれば,いつでもどこでも学ぶことができます。そのため,日常生活の中で過去に取り組んだ学習や現在進行している課題についてふっと考えた時に,すぐにパソコンを開けば,〈学び〉を推し進めることができます。講座内では塾長が織り成す生徒指導を初めとした教育原理等々,それに加えて教育愛に溢れた小ネタワールドに浸ることが〈学び〉への励みになるだけでなく,次の〈学び〉の示唆としてつながります。そのような日常生活と密着した〈学び〉によって,必然的に知の統合化を図ることができるようになるため,地頭が鍛えられていると実感できる瞬間が数々あったのです。
最後に,私は結局1年ほど,継続履修しています。「鍛地頭-tanjito-」で学ぶ途中で臨んだ今夏,教員採用候補者選考(以下「教採」)を受験しました。昨年度までの自分自身と比べて,対話面で飛躍的に成長していることを実感しました。合否の結果に限らず,私は「鍛地頭-tanjito-」で学んで良かったと思っています。そして,これからも合否にかかわらず学び続けたいと考えます。
3 これからの学び
一般的な教採合格を目指した予備校や塾であれば,教採が学習の一区切りになると思います。しかし,「鍛地頭-tanjito-」は教員養成私塾ですので,これまでの〈学び〉から更に,児童・生徒の前に立っても恥ずかしくない教師としてビシバシ鍛えていただくつもりです。また,自分自身でもこれまでの〈学び〉を無駄にしないために,これからも学び続けたいと考えています。
今夏は,塾長との対話を持つ機会を多くしようと意識していましたが,どちらかというと〈学び〉の種別は関係なく,ガムシャラに勉強していたような気がします。今度は〈学び〉への見通しを立て,計画的に児童・生徒に確かな学力を付けることのできる自らの〈学力〉を向上させていきたいです。
4 「鍛地頭-tanjito-」に入塾を検討中の方へ
教採の受験をお考えの方,講師志望の方に特に申し上げたいことは,「鍛地頭-tanjito-」に入塾するならば,早い方が良いということです。教採も教員として教壇に立つ初年度もまだまだ先だと思っていると,あっという間にその時は来てしまいます。私は学習中「もっと前から「鍛地頭-tanjito-」で勉強していれば良かった。」と何度も悔やみました。その理由は学習と生活で目まぐるしく「時間」が過ぎていくからです。学習を慌てて始めるよりもゆとりを持って早めに始めて損はありません。
この記事を読まれた今がご縁であり,さらにチャンスだと考えます。一緒に学び合いましょう。塾長と塾生と共にあなたをお待ちしております。
S先生とは数奇な〈運命〉にあるのかもしれませんね(笑)もしそうであるならば,私はその〈運命〉に感謝したいと思います。それはS先生が私に〈学縁〉の大切さを教えてくださっているからです。先生の〈学び〉に向かわれる忠実な態度は学ぶ者のお手本であると思います。「〈学び〉に素直であるから伸びるのだ。」ということを改めて実感させていただいております。これからも共に学び続けて参りましょう。(塾長)
© 2021 「鍛地頭-tanjito-」
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