「場面指導Weekly解説ルーム基礎講座」
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令和4(2022)年9月13日(火)から令和4(2022)年9月26日(月)まで
【本講座の特長】
- 本ブログ教材に認めた教員に必要な資質・能力の基礎を磨きます。
- 講座コンテンツを一瞥すると,特定の領域に限定した〈学び〉に特化した講座のように見えますが,一つのテーマを広く,深く扱いますから,主に学力論・教職教養全般に関する知識を豊富に蓄えることができます。
- 教育現象のコンテクストの中で「知識」と「知識」とを統合するある種のアルゴリズムを身に付けることができるため,学校現場で〈生きて働く〉内容知・方法知等を習得できます。
- 教採の対策について,自らの〈学び〉に適した方法を身に付けることができます。
- 現職の先生方も是非受講を検討してください。
1 「場面指導」は「バメンシドウ」であってはならない。
現代を生きる教員に求められる最たる資質・能力とは
「各所に散見される書籍のレビュー,特に★一つから二つは何のためにあるのか? 全てとは言わないが,(書籍の内容等に対する)反対のための「ハンタイ」を感情的に言い散らしている。それは,仮想的有能感の下,著者を罵詈讒謗することによって,相対的に自らの存在を辛うじて確かめようとする必死の足掻きであり藻掻きである。」[1] … Continue reading…A
「中には「きょういん」風情の者もいるが,そのような者を「先生」と呼ばなければならない乳幼児・児童・生徒を想像すると,気の毒で堪らない。」
「と,このように述べると,「この言述こそが反対のための「ハンタイ」を感情的に言述し,仮想的有能感の下,レビュワーを罵詈讒謗することによって,相対的に自らの存在を確かめようとする必死の足掻きであり藻掻きである。」と瞬時に難癖を付けられるのであろう。」
「A」を瞬間的に「自らのレビューと等価的である。」と位置付けるのだ。そこには多少とも労苦を伴う〈相対化〉のための〈(頭脳)労働〉はない。
仮に,その発話主体が特に「きょういん」であるとしたならば…。その者には,〈対話〉[2]「自己内対話」を含む。を介して「〈相対化〉→止揚(Aufheben)」し,建設的で高次の教育・文化を構築しようとする資質・能力は皆無である。「教員」がそのような態様を示せば,世も末だ。
なぜならば,そうした資質・能力が現代を生きる教員に求められている最たるものだからだ。根拠は「令和の日本型学校教育(答申)」[3] … Continue readingにある。
――「きょういん」の中には,「文部科学省が作成する答申などが根拠になるか!」と罵倒する者も多々いるに違いない。自ら教育公務員の道を選択した責任を打っ遣って。それとも,「教育公務員」なるフレームを選択し――これを「自由」と呼ぶ。だから,選択した限りにおいて「責任」を伴う。――,内側からそのフレームを変革するとでも言うのだろうか。二項対立の呪縛から自己を解放する「〈相対化〉→止揚(Aufheben)」なくして。これを生産性のない「反対のための「ハンタイ」と呼ぶのである。――
教採で「場面指導」が課される理由
このような他愛もない,いつもの思考を繰り返しながら,手に取っていた書籍は,★一つから二つのレビューで唾罵されている内田樹氏の『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』(講談社,2013.4)だった。
なぜか,その書物を読みながら,自らの思考は「学ばない教員・教採受験者たち」と教採に採用されている所謂「場面指導」(以下「場面指導」と表記)に向かっていた。
ここで断っておくが,教員や教採の受験主体の全てが「学ばない」と言っているわけではない。飽くまでも学ばない/学ぼうとしない教員や教採の受験主体を捉えて,そのように述べているのである。
また,教採受験の指導者と称する者たちが無時間的に差し出す所謂正解(以下「セイカイ」と表記)を只管丸暗記し,〈教員〉としてのアイデンティティが形成されないまま教員になろうとする正解主義的な態様や面接選考対策と銘打って,指導者と称する者たちにより成る同一・定式化した台本に踊らされ,ニセモノの自己(傀儡・悲しき化身)を形象化すべく,似非-パフォーマンスの練習を積まされる在り方をも「学ばない/学ぼうとしない」と述べている。
なぜならば,そこには時間を伴う〈労苦〉がほぼないからだ。他者から差し出される「セイカイ」と呼ばれるものを受け取るだけの行為に,然程,時間を要することはない。通常の〈学び〉は「正解」に辿り着くまでにかなりの時間を要するものだ。辿り着かないものも多々存在する。仮に「正解」に辿り着いたとして,それを完全に内化するまでには,また莫大な時間を必要とするものだ。そのことは,これまで学習という行為を行ってきた者ならば,誰もが経験していることである。
〈学び〉とは,本来,時間と〈労苦〉を伴うものであり,決して瞬時に完結する「ラク」なものではない。「ラク」ではないから,時間を掛ける分,成就感・達成感を伴いつつ,〈学び〉は「楽しくなる」のである。
ところが,だ。
現在,「場面指導」が教採において幅を利かせている。今後,益々拍車が掛かることだろう。
それは,なぜか?
学校で生起する教育現象がVUCAの様相を呈していることと相俟って,学ばない/学ぼうとしない受験主体が数多いからだ。
「1+1=2」式の受験キーワード丸暗記型の受験主体では,仮に「きょういん」となっても,学び方を習得する能力を身に付けていないのだから学び続けない教員として君臨する可能性が大である。また,教職に関する「知識」とそれらを統合する〈知識〉,さらにそれによって統合・止揚(Aufheben)された《知識》をもって,〈教育愛〉の名の下,学校でのVUCAな教育現象に立ち向かうことはできない。
だからこそ,「1+1=2」式の受験キーワード丸暗記型の出題形式から内容知・方法知,〈相対化能力〉,総合的な人間性及び〈教育愛〉など,教員としての総合力を問う(に都合の良い)「場面指導」に出題の比重がシフトしてきたのである。
「場面指導」の「場面」に託された〈場面〉という意味
一つの教育現象は時間軸・空間軸を携えた,複雑な要素から成る有機的・多面的な統合体である。そこには時間的・空間的転移がある。
これが「場面指導」の「場面」に託された〈場面〉の意味である。
ところが,教採で「場面指導」と言えば,例えば,生徒指導上の問題行動が生起した当該のシーンを扱うとして,そのシーンだけをテクストとして切り取った出題,そうした印象があるのではないだろうか。
特に,「1+1=2」式の受験キーワード丸暗記型の受験主体にあっては,そのような印象を持つ者が多いのではないかと推察される。その左證に「場面指導」の出題に対して,テクストとして切り取られたワン・ピースにだけ解答(回答)を試みている/試みようとしていることを挙げることができる。[4]当私塾において入塾直後の塾生に見受けられる傾向である。抑々,生徒指導上の問題行動には必ず事前・事後の経緯があるのに,そのように解答(回答)する/解答(回答)しようとするのだ。そして,その解答(回答)は非常に無機質であり,そこに〈教育愛〉を求めることは難しい。
それは,なぜか?
それは,本来,時間的・空間的で有機的な教育現象を紙に付けられたインクのシミと化した線条性の〈シュツダイ〉として二次元的に無機化して捉えることに端を発する。その上で,無機化した数多の〈シュツダイ〉をビジネスライクに類型化・パターン化した「セイカイ」を「1+1=2」式の受験キーワード丸暗記型の受験主体などが手にしてしまうからだ。
「セイカイ」は,生きた乳幼児・児童・生徒が存在しない異空間の〈物騙り〉である。このことが解答(回答)を無機化してしまう。さらに,〈教育愛〉の欠如が一層無機化を促進する。
Xの鍵穴(=〈シュツダイ〉)にはX´の鍵(=「セイカイ」),Yの鍵穴(=〈シュツダイ〉)にはY´の鍵(=「セイカイ」)と,「1+1=2」式の受験キーワード丸暗記型の受験主体の脳裡では,凡そ受動的に手にした「セイカイ」に洗脳されるが如く,まるで絵合わせ・文字合わせが行われている。
そこには,「バメンシドウ」が展開している。
生きた教育現象の上っ面を撫でただけの「セイカイ」が仮に〈正解〉であるならば,現場の教職員は誰一人として時間を要する苦労をしていないはずである。現場の教職員がこれほどまでに時間を掛け苦労していることが,教育現象が「絵合わせ・文字合わせ」ではない何よりの證左なのだ。
「場面指導」の対策は「バメンシドウ」のタイサクであってはならない。
「バメンシドウ」のタイサクで〈ホンモノの教員〉は育たない。
2 なぜ無意識に「バメンシドウ」と捉えるのか
「ラク」と「セイカイ」至上主義
では,なぜ無意識に「バメンシドウ」と捉えるのか。
前掲書を読んでいて,その内容を教採界に敷衍し,なるほどと思う。受験主体だけではなく,現代の数多くの教員は等価交換[5]価値や価格の等しいものを相互に交換すること。を行う消費主体として育ってきたからだ。労働主体(ここでは,「学びの主体」とも重ね合わせている。)として育ってきた者が寡少なのではないか。主体[6]他者とのつながり(〈学び〉)を介して,自己と自己内他者との鬩ぎ合いの帰結として屹立してくる《自己》の意として用いている。としての〈学び〉が希薄なのだろう。
「セイカイ」を提供する主体⇄受験主体は「セイカイ」と金銭とを等価交換するシステムの中にある。受験主体は「バメン」を類型化・パターン化し,〈シュツダイ〉としての教育現象の表層をなぞらえた,方途に関する「チシキ」の足し算的な一種の「あるごりずむ」[7] … Continue readingを丸暗記する[8]丸暗記しない受験主体は自ら等価システムを逸脱したことになり,その時点で,その場に放置される。。
偏差値偏重社会の弊害が浮き彫りとなる。正解至上主義の受験主体が喉から手が出るくらいに欲するものは「セイカイ」だ。労働の労苦をそれほど体験せず,幼少期から消費する主体として育ってきたからには,「ラク」をして(=できるだけ労働(ここでは〈学び〉)せずして)一刻も早く(=無時間的に)「セイカイ」を購入したいのである。そこに,時間を掛け,労苦する「主体的・対話的で深い学び」はない。にもかかわらず,教員は「主体的・対話的で深い学び」を推進しなければならない。どうやって?
時間性を排除したところに「学び」が成立するはずがないからです。
前掲書:第三章 労働からの逃走 時間と学び,講談社,[キンドル版],検索元 amazon.com
学校現場で生起する教育現象への対応の結果として「正解」と断言できるものはほぼない。何年・何十年と時を重ねても断言できないものはできないのである。それが教育というものだ。瞬時に断言できるのならば,こんなに多忙な学校教育界の日常は継続していない。なぜならば,教育現象は乳幼児・児童・生徒,一人ひとり異なった生身の人間がかかわる現象だからだ。
専ら等価交換に走る消費主体に,この感覚が分かるのだろうか? 一部切り取られた表象の世界の「セイカイ」に乳幼児・児童・生徒との〈生きたつながり〉はない。そうした消費主体としての受験主体が持つつながりは等価交換のシステムを維持・存続させる「セイカイ」を提供する主体⇄受験主体だけである。だから,「セイカイ」を激しく希求する受験主体は余計にもビジネスライクに陥り,「まずは,我ありき」の方途を口走りながら,一層エゴイスティックに成長するのである。
だから,挙句の果てには,一要因としての他者視点(乳幼児・児童・生徒+保護者+地域等)の乏しさから,学校現場でトラブルを起こす者も出現するのである。VUCAの時代を迎え,我々の身の回りに生起する諸問題は益々複雑化,難化,多様化,曖昧化している。乳幼児・児童・生徒が抱える問題もそうだ。そのような時代にあって,消費主体を地で行く「きょういん」に学校現場を安心して任せることなどできやしないはずである。
「場面指導」で求められる資質・能力とは
現代は,教育現象に限らず,身の回りに生起する現象全体をありのままに捉える資質・能力が求められている(システム思考)。つまり,〈つながり〉をもって現象全体をメタ認知できることが重要なのだ。
これこそが,「場面指導」で求められている資質・能力の一つなのである。このような資質・能力を身に付けるためには,教育現象に多角的・多面的・総合的にアプローチできる多(他)視点の形成が必要となる。
多(他)視点の形成には,例えば,学校教育に関する種々の知識が必要になる。また,それらの「知識」を統合する〈知識〉を獲得しておかなければならない。その上で,「知識」を統合することを覚え,その結果生産された《知識》を蓄えておくことも重要だ。
さらに,それらの「知識」や《知識》を活用して,時間的・空間的な各教育現象をコンテクストとして読み取る能力や〈知識〉を統合するための協働性及び豊かな人間性なども必要になる。
就中,(他者及び教育現象を三次元的に構造化する諸要素との)「つながり」を〈相対化(≒メタ認知)〉する能力は重要だ。
そして,それらは乳幼児・児童・生徒に注がれる熱き〈教育愛〉に支えられていなければならない。
……実は,「場面指導」で求められる資質・能力を拾い上げようとすれば,各地方自治体(教育委員会)が教採の実施要項等で提示する面接の観点などにある項目を含め,それは枚挙に遑がないのである。
しかし,矛盾するようだが,端的に言い切ってしまえば,次のようになるであろう。
- 教職に対する強い情熱
- 教育の専門家としての確かな力量
- 総合的な人間力
[参考]「1.教員の資質能力の向上に関する基本的な考え方等」(文部科学省)
つまり,これで克明にお解りになるであろう,「セイカイ」を丸覚えしても,ほぼ役に立たないのである。
だから,教採において「場面指導」に比重が掛かっているのである。――「場面指導」は「セイカイ」至上主義で「1+1=2」式の受験キーワード丸暗記型の消費主体としての受験主体を振るい落とすことが,その目的の一つとなっていると言えるのではなかろうか。
そうであるならば,どのように学ぶべきなのか。
教員としての資質・能力を持ち合わせている/現在鍛えている賢明な受験主体には,もうお解りのはずである。
学びは市場原理によっては基礎づけることができない。
前掲書:第一章 学びからの逃走 学びと時間,講談社,[キンドル版],検索元 amazon.com
(例)「場面指導」の出題で,「授業中,急に児童生徒が教室を飛び出しました。あなたはどのように対応しますか?」と問われた際,「当該の児童生徒を追いかけます。」や「他の教職員の協力を得ます。」とか解答したとして,確かにそれら一つひとつは「正解」だが,それらを羅列して答えても,「セイカイ」にしかならないし,「それだけでは学校現場でやっていけないよ。」ということ。肝心な視点や考え方が多々脱落しているのである。「忘れ物の多い児童生徒にどのように指導しますか。」と問われて,「家庭と連携する」とか,「持ち物リストを作成させる」とか解答するのも,同様のこと。
3 「ラク」は「苦」の始まり
「苦」のない人生/人世などない。人は「苦」と隣り合わせで生きている。それが人生であり,人世である。
自らの「ラク」や「トク」を追い求めるが余り,他者との「つながり」を断ち切る者たちが目に余る。自らの「ラク」や「トク」を求める言行で他者がどれだけ被害を蒙ろうとも,それでも自らの「ラク」や「トク」だけを追い求め,他者を傷つけ,他者との関係を蔑ろにする。そればかりか,他者を傷つけ,他者との関係を自ら破砕したことに気づかぬ者さえ後を絶たない。
教員が自らの「ラク」や「トク」の追求のみに走れば,乳幼児・児童・生徒との「つながり」は断ち切られてしまう。そのような〈教員道〉に悖る者を「教員」とは決して呼ばない。
〈教育愛〉は乳幼児・児童・生徒に向けるものではない。向けてしまう/向けてしまっている/向けてしまっていたものである。(by 「鍛地頭-tanjito-」)
教採受験期から乳幼児・児童・生徒の存在を蔑ろにし,ビジネスライクに「ラク」に合格を手にしようと足掻く者は,学校現場で並々ならぬ労苦を経験するものだ。なぜならば,まず,「ラク」に走ること自体,〈ホンモノの教員〉の資質・能力に乏しいわけで,況してや指導力・実践力などの基礎力はほぼ身に付いていない。無時間的な等価交換で〈学び〉の労苦なく「セイカイ」を手にすることに終始するのだから。複雑化・難化・多様化・曖昧化する教育現象に対応する情報活用能力,問題解決能力及び言語(運用)能力などは怪しいものである。しかも,人間関係を断ち切ることに長けた者に乳幼児・児童・生徒,保護者,周囲の教職員及び地域住民等は心を開かない。行きつく先(学校現場)は苦渋に満ちた地獄となる[9]そのような「きょういん」に指導を受ける乳幼児・児童・生徒にとっては「生き地獄」だ。。
「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」(by 「鍛地頭-tanjito-」)
「地獄」は自己の「ラク」や「トク」だけを追い求める者自らが作り上げた〈ジゴク〉なのである。
楽は苦の種苦は楽の種[10] … Continue reading
他者との「つながり」を欠いて生きていける人生/人世ではない。だからこそ,(「ラク」や「トク」ではなく,)「楽」や「徳」を求める必要がある。苦海の人生/人世であるがゆえに,「楽」や「徳」を求めるべきなのだ。
他者[11]実体を伴う他者のみならず,自己内他者,書物,自然及び神仏などを含む。との「つながり」を常に意識した言行ならば,「楽」や「徳」は元来の「楽しみ」と化すものだ。ただし,それは労苦を伴った時間を要する営みである。だから,余計にも「楽しい」のだ。
人生/人世は苦海である。「ラク」や「トク」を求めず「楽」や「徳」を求めよ。それが他者を,そして自らを救う唯一の道である。
徳不孤,必有隣。
(「論語‐里仁」の「子曰、徳不レ孤必有レ隣」による) 徳ある人またはその行為は、孤立することなく、その感化を受けて追慕する人または追従する人の行為を生み出すことになる。道義を行なうものには、必ず理解者と助力者が集まるの意。徳の隣。
(コトバンク:精選版 日本国語大辞典「徳は孤ならず必ず隣あり」の解説)
「楽しみ」を求め,誰に師事するかが肝要だ。
ⓒ 2022 「鍛地頭-tanjito-」
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