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教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」vol.23 「特別の教科 道徳」/「学力向上」

夕暮れのまだ青味の残る空を背景に浮き上がる金色のトロントの街 一般ブログ教材
カナダのトロントの夜景(提供 photoAC)
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〈対話〉(《対話》)の重要性を理解せよ!!

 1 合格体験記

合格,誠におめでとうございます!!
先日,お寄せいただいた塾生K様からの合格体験記です。(今夏選考分)

第3期塾生 合格体験記

合格,誠におめでとうございます。ホントウによく精進されたと思います。「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」の発想でいつも課題に正対されておられました。豊富な課題に対しても一つひとつ全力で臨まれ,とことん調べ,とことん考え,端的に整理して表現されていたことが当方の脳裏に焼き付いております。直接お話もしましたが,当方が出会ったことのない高い修正能力をお持ちで,そうしたことも印象的でした。しかも,バイタリティーに溢れておられました。常に児童生徒を中心に据えて考えておられるK先生に出逢える児童生徒は幸せだと思います。先生の包容力は抜群です。どうぞお身体には気を付けられて,ご活躍なさってください。

また,今後も当道場に〈学びの場〉を求めてくださり,嬉しくてなりません。この熱き〈学縁〉を賜りましたことに衷心より感謝申し上げます。共に乳幼児・児童・生徒のためになることをホンキで研究し続けて参りましょう。

これからもどうぞ末永くよろしくお願い申し上げます。

塾長 小桝雅典 

 2 プロローグ

面接選考は〈かたり〉の〈場〉である。「かたり」の「場」ではない。

(by 「鍛地頭-tanjito-」)

(1) 〈語り〉の〈場〉

当道場を始める以前から気に懸かっていた。

「教員採用候補者選考(以下,「教採」と表記)の面接選考を「騙り」の「場」だと勘違いしている受験主体が数多いのではないか? また,そのように思っている受験主体も数多いのではないか?」

それは明らかに誤りだ。

教採の面接選考は〈語り〉の〈場〉だ。

(2) 面接選考という〈場〉

当塾は,了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求し,日頃,喜んだり,怒ったり,悲しんだり,笑ったり,泣いたりしてきた〈自己〉を曝け出す場」が「面接試験」という〈場〉であると考えています。

よくあるご質問(当道場 面接試験対策講座),Ⅰ 「プロローグ」に関するFAQ,Q8 A-(1):A

「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」」については,当道場の「面接試験対策講座」に関する「よくあるご質問」(Ⅱ 「解説」に関するFAQ,1 「面接についての考え方」について,Q9 A-(1) 「ありのままの《自己》」とは何ですか? また,「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」」とは,どのような連関性にあるのですか?)をご参照いただきたい。

面接選考の中で自己アピールの「場」が設けられる場合もあるので,オーディションと錯覚するのかもしれない。しかし,教採の面接選考で身体を媒介とする芸術表現,所謂「パフォーマンス」は必要ない。ましてや配役を演じる必要はない。「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求」してきた・している「自己」を表現すれば良いのだ。

非日常的なコンテクストである面接選考で,それを如何にして日常のコンテクストに取り戻す・・・・かが重要なのだ。

(3) 「ぱふぉーまんす」を演じる「じこ」

確かに,特に面接選考に初めて臨む受験主体にとって,その場は非日常的な空間だろう。それはある種の「通過儀礼(イニシエーション)」[1]「教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」vol.21 「多面的・客観的・総合的な児童生徒理解」」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2020.10.08)である。

〈学び続ける主体〉にとっての「通過点」である「教採」は,本来の意味を持つ「通過儀礼(イニシエーション)」として〈伝統〉が醸成したメタメッセージを新たに認知する聖なる空間であることを忘れてはならないのである。

「教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」vol.21 「多面的・客観的・総合的な児童生徒理解」」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2020.10.08)

上記引用中の「聖なる」は「清浄で穢れがないこと」が辞書的な意味だが,ここでは「邪な心の状態ではない」ことを意味している。そうした心的状況を当道場は,「自己」が「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求」してきた・している状況だと捉える。したがって,「邪な心の状態」とは「自己」ではない「じこ(自己外の他者)」を演じる有様を示す。つまり,そこには「(邪な)ぱふぉーまんす」を演じようとする「じこ」が存在しているのだ。教採で合格のためにニセの「自己」を演じる・演じようとする「じこ」の存在だ。

(4) 嘘偽りのない「自己」

教採の面接選考は「通過儀礼(イニシエーション)」と雖も,そこに神が降臨するわけではない。禁忌(タブー)から解放される場でもない。日常の文脈に宿る非日常的な〈場〉なのだ。

自らの心の目を開き,他者の言説(価値観)を傾聴することから始まる〈対話〉は,あらゆる立場性(「小さな価値観」)の壁を越え,高次の価値(文化)の共創造(cocreation)に向かいます。それは恰も一個人において「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求する《旅》」に酷似しています。了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求するには,「自己」が〈自己〉と〈対話〉を持たなければなりません(モノローグ)。さらに,「自己」は「他者」と〈対話〉する過程を大切にしなければなりません。そのために,「自己」は心の目を確と見開かなければならず,「他者」の言説(価値観(ものの見方や考え方))を〈相対化〉しなければなりません。その後,「自己」は再び〈自己〉と《対話》を持ち,〈相対化〉した〈他者〉の言説を媒介にして了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」と《対話》する《旅》に出かけようとします(〈自己〉の《相対化》)。しかし,「ありのままの《自己(他者)》」は了解・到達不能ですから,〈自己〉は迷界を彷徨い続けることになります。そこには激烈な〈苦しさ〉が伴います。それが,人間が成長するということなのです。

前掲A,Ⅱ 「解説」に関するFAQ,1 「面接についての考え方」について,Q9 A-(3) 「他者との《対話》」とは,どのような「対話」で,どのように行うのですか?

「「ありのままの《自己(他者)》」は了解・到達不能ですから,〈自己〉は迷界を彷徨い続けることになります。そこには激烈な〈苦しさ〉が伴います。」に象徴される上記引用は「人間が成長する」姿を物語っている。それとともに,こうした人間としての在り方を「人生」というのだと思う。そして,こうした在り方は日常のコンテクストに他ならない。そこには嘘偽りのない「自己」が存在するのだ。

(5) 「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求してきた〈姿〉

巷間の面接選考対策で「あなたのオリジナリティーを大切にしなさい。」などと言う。それは「「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求してきたあなたの〈姿〉をありのまま・・・・・表出しなさい。」でなければならない。なぜならば,「「ありのままの《自己(他者)》」を希求してきた〈姿〉」が〈オリジナリティー〉だからだ。

了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求することは,すなわち〈オリジナリティー〉を生成することに他なりません。その〈場性〉を取り違えるから,模範解答を覚えようとしてしまうのです。このように,模範解答の暗記(=〈場性〉の取り違え)は〈オリジナリティー〉の喪失を意味しているのです。面接試験に臨むためには,自己の〈オリジナリティー〉が必要なのです。

前掲A,Ⅰ 「プロローグ」に関するFAQ,Q8 A-(1)

「自己の〈オリジナリティー〉が必要」であるとは,「日々,「ありのままの《自己(他者)》」を希求して懸命に〈生きる〉ことが必要」であるということだ。なぜならば,〈オリジナリティー〉を紡ぐ《旅》そのものが「人生」だからだ。

つまり,例えば,模範解答の丸暗記は「じこ」を演じる「ぱふぉーまんす」であり,身体性の喪失,――〈オリジナリティー(アイデンティティ)〉の喪失を示す。「人生」を放棄してはならない。

そう考えるならば,非日常的な「通過儀礼(イニシエーション)」である教採の面接選考のコンテクストは,(教員を志す者の)日常のコンテクストの上に宿るものであり,両コンテクストを二項対立の図式で捉える必要はなく,得てして非日常的なコンテクストの波に飲まれやすい(例えば,模範解答を丸覚えしがちな)受験主体にとっては,そのコンテクストを如何に日常のコンテクストに取り戻す・・・・かが重要となってくる。

そのためには,自己を含む「他者」と〈対話〉・《対話》するしかない。

(6) 「ぱふぉーまんす」と〈騙り〉と〈語り〉

「面接選考に臨むにはパフォーマンスが必要である。」―この巷間に流布する言説は「ぱふぉーまんす」の必要性を構築している。つまり,〈オリジナリティー(アイデンティティ)〉を喪失した「じこ」が演じる演技が必要だと宣っているのだ。明らかに誤りだ。〈オリジナリティー(アイデンティティ)〉を喪失した「じこ」を有する「きょういん」が選考を突破し教壇に立てばよいと言うのか? 乳幼児・児童・生徒に対する冒瀆である。したがって,「面接選考に臨むにはぱふぉーまんすは必要でない。」に帰結する。

了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求し続ける営為は,自ら〈オリジナリティー〉を生成する過程に他なりません。敢えて「パフォーマンス」することを目的にする必要は全くないのです。〈オリジナリティー〉はその人の〈全身〉を介して滲み出てくるものなのです。いくら「パフォーマンス」をしたところで,〈オリジナリティー〉は滲み出て来ません。巷間の面接試験対策で述べる「パフォーマンス」は「偽りの自己主張(pretending)」に過ぎないのです

前掲A,Ⅰ 「プロローグ」に関するFAQ,Q8 A-(2)

「偽りの自己主張」とは,つまり〈かたり〉のことだ。「騙る」とは「だます」ことだ。

「誰を「騙す」のか? 面接官か?」
「いや,面接官ではない。乳幼児・児童・生徒をだ。そして,「自己」をだ。」

面接選考では「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求してきたあなたの〈姿〉をありのまま・・・・〈語る〉のだ。決して〈騙る〉のではない。

(7) 面接官を侮る勿れ!

詳述は避ける。巷間には教採の面接官を侮る言説が瀰漫している。

「面接官も人の子だ。」
「(受験主体の「騙り」を)見抜けやしない。」
「面接官の気に入りそうなことを言えばよいのだ。」
(抑々,こうした姿勢で教員になるのか!)

当道場の教えは「面接官を侮る勿れ。」だ。理由について言及する必要はない。解り切ったことだ。面接選考での緊張を解すための言述かもしれないが,「面接官を侮る勿れ。」だ。

当道場のある塾生が「面接試験対策講座」で語っていたことを思い出す。

塾長:「面接官を侮ってはならないぞ!」
塾生:「よく解っています。」
塾長:「(侮ってなどいると)痛い目を見るぞ!」
塾生:「よく解っています。」
   「既に何度も痛い目を見ましたから💦」

「了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求し,日頃,喜んだり,怒ったり,悲しんだり,笑ったり,泣いたりしてきた〈自己〉を曝け出す場」が「面接試験」という〈場〉」だ。了解・到達不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求する《旅》の中途に教採はある。まずは,教採を受験する前にしっかりと「鍛地頭[2]当道場では「地頭」を「総合的な人間力」の意として定義している。したがって,「鍛地頭」とは「総合的な人間力」を「鍛」えることの意。スル」のだ。そうした「自己」のありのままの〈姿〉を面接官に見てもらえばよい。それで不合格ならば,まだ修業が足りないのだ。

 3 教採アラカルト(特別の教科 道徳)

出 題

問 あなたは,「特別の教科 道徳」でどのような授業を実践しますか? 授業構想を一例挙げ,簡潔に述べなさい。

塾長の述懐

道徳教育・・・・」は義務教育段階のことだから…と思っている方は,間違いなく校種の枠組みを超えて学習指導要領及び解説をお読みになっていません。

所謂教採対策であろうが,学校現場であろうが,「授業構想」という言述に引かれて,まず授業のフレームからつくろうとする(意識を持つ)と必ず失敗します。と言うか,抑々「(授業)構想」できません。

当道場の場合,本問に対しては,例えば,次の確認(学習?)から始まります。

確認事項の例
  • 「道徳性」とは何ですか? …a
  • 「道徳的価値」とは何ですか? …b
  • 「道徳的価値の自覚」とは何ですか?  …c
  • 「道徳的判断力」とは何ですか? …d
  • 「道徳的心情」とは何ですか? …e
  • 「道徳的実践意欲と態度」とは何ですか? …f
  • a~fはどのような連関性にありますか?
  • 道徳科の教材をどのように活用すれば良いですか?
  • 道徳科の特質を生かした学習指導(過程)とはどのようなものですか?
  • 「考え,議論する道徳」とは何ですか?
  • 「考え,議論する道徳」が求められる理由・背景について説明しなさい。
  • 「考え,議論する道徳」の教育効果について説明しなさい。
  • 「考え,議論する道徳」と「道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を多面的・多角的に考え,自己の生き方についての考えを深める学習」[3]『小学校学習指導要領 平成29年3月告示』(文部科学省,第3章 特別の教科 道徳,第1 目標,p.165)との連関性について「対話」を用いて説明しなさい。

具体的な学習者を想定した「授業構想」は,これらがしっかりと語られるようになってから始まります。道徳科の特質を生かした授業展開のフレームを検討することからスタートです。

その際のキーワードは「関わり」,「考え,議論する」(=〈対話〉(《対話》)する)です。「特別な教科 道徳」だけではなく,このキーワードを外して,授業(教育活動)は成立しません。

ところで,まさか,教採選考を前にして学習指導案を書けないということはありませんよね?

👇 「学習指導案を書けない!」という方はこちら。

 4 場面指導等

出 題

問 あなたは,児童生徒の学力を高めるために,どのようにすれば良いと考えていますか? 具体的な授業の一場面を示してお話ください。

ミニ解説・塾長の述懐・資料

教育の世界にも「不易流行」があると言われます。しかし,「不易」と「流行」とを二項対立で捉えるべきではありません。つまり,「不易」と言われる〈本質〉が過去から未来へと時間軸に沿って脈々と流れ,例えば,その時代時代に表象化されたものが「流行」であると考えるべきです。

そうした前提に立つとき,教育の「不易」とは児童生徒に「学力」を付けることだと言えます。勿論,この学力は受験学力に特殊化した「がくりょく」だけを述べるのではなく,例を挙げるとすれば,学校教育法第30条第2項で謳う「学力」と,一応・・,考えておくと良いと思います。

児童生徒に「学力」を付けることが教育の「不易」であり,〈本質〉です。

本問は現「オープンチャット教員採用試験対策講座」で令和元(2019)年11月16日(土)に扱ったものですが,上述したように教育の〈本質〉にかかわる重要な設題ですから,「場面指導Weekly解説ルーム」で扱うために再掲した次第です。

教採対策という視野から見れば,概括すると,本問のねらいは受験主体の学力観と授業(構想)力とを見定める設問と言えます。

教育公務員としての選考が台座にあるわけですから,この場合の学力観は学習指導要領に措定されるそれになります。したがって,学習指導要領に措定される学力観が語れないとなれば,選考としては「アウト!」です。(面接官にとって)何か解ったようでわからないような学力観を述べたとしても―その時点で「アウト」だと思いますが―授業構想を聴けば,「解っていない」ことが明確に〈解る〉ものと推察されます。

また,真面な学力観を語ったようでも授業構想にそれが微塵も伺えなければ,「ホントウは(学力観について)解っていない。」と(面接官に)思われても当然です。生きて働く「知識」・・・・・・・・・になっていないのです。したがって,当道場の場合,塾生や受講者から提示された授業構想について塾長が追加質問を継続的に行うことにより,「(学力観の)どこが解って,どこが解っていなかったか」が〈解る〉ようになります。つまり,塾生や受講者が提示する授業構想(場面)が場面指導の題材となるという仕掛けです。

本問に真面に・・・答えるためには,まずは「「学力」とは何か?」から調べ,考えることが必要です。

一般的な学習(対策)について挙例します。

そこから導き出される・関連する「学力の三要素」,「生きる力」及び「学力向上の公式」について考究する。因みに,「学力向上の公式」については調べても見つけ出し難いので「場面指導Weekly解説ルーム」でお話します。

上述した「一般的な学習(対策)」を行っても,恐らく生きて働かない・・・・・・・知識の習得になると思います。

当道場ではここからが〈ホントウの学習〉の段階となります。その〈学び〉の一部を挙例します。

「学力の三要素」に関する〈学び〉の一様相(例)
  • 【知識・技能】
    「生きて働く「知識・技能」」については「何を理解しているか,何ができるか」にかかわる。その「生きて働く」とはどういうことか?
  • 【思考力・判断力・表現力等】
    • 重要「思考力・判断力・表現力等」を支えるものは何か?
    • 重要「対話」ではなく,なぜ〈対話〉(《対話》)が必要なのか?
  • 【学びに向かう力・人間性等】
    • 「主体性」と簡単に言うが,「主体」とは何か?―結論が出せる問題ではない。―
    • 〈相対化〉(≒メタ認知)とは何か? また,その教育的効果は何か?
    • 「思いやり」とは何か?―ノーマライゼーション/パターナリズムについて―
    • 「協働」,〈共創造(co-creation)〉とは何か? また,それらの現代的意義は何か?

例えば,上述したような〈学び〉に基づいて,漸く授業の構想ができるのです。

「高が教採の一問題と侮る勿れ。」

出題に対するご質問,ご意見,正解及び解説等に係る照会については受け付けておりません。予めご諒解ください。

© 2020 「鍛地頭-tanjito-」


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