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オープンチャット教員養成私塾 vol.46 宇宙の意思,〈不二〉,そして「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」/面接対策

木の板の上に置かれたマーガレットの花束と「オープンチャット教員養成私塾」を説明した黒文字 一般ブログ教材
オープンチャット教員養成私塾
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本ブログ教材中の「2 面接選考対応ミニ講座」は塾生との初の合作です。

 1 教育小咄

長い間,教職に身を置いた。そして,「鍛地頭-tanjito-」を介してまだ学校教育にかかわろうとしている。そうした時間ときの中で,無意識裡に繰り返される他者たちの言葉が耳にこだまする。

「児童生徒等のために(教職員である私(たち)は)頑張ります。」

こうした言説に類する言葉が耳底にとどまっているのだ。こびりついている。なぜならば,「真っ赤な嘘だ。」と忌避する感情に,その都度,襲われるからだ。「児童生徒等のために…」と語るとき(外言)/心中に浮かぶ(内言)とき,それは全くもって〈自己のため〉なのだ。

そこには二項対立の連関がある。「児童生徒等/自己」の関係性のことだ。

このことは「思いやり」についても同様に言える。「他者(相手)を思いやる気持ちに溢れた言動」などと述べるとき(外言)/心中に実感するとき(内言),それは所謂パターナリズムの陥穽に陥っている。自己満足・自己欺瞞に過ぎないのだ。

「(「(先生!)助けて!!」と叫びながら,)今にも井戸に落ち込みそうになっている小児の手を思わず摑み・引き上げる。その時,摑み・引き上げる「実体」に何が起こっているのだろう。

「そんなの条件反射だろう。」「惻隠の心か?」,将又「教職員としての責任感か?」
「「条件反射」,「惻隠」,「責任感」など人が生み出した仮称でしかない。」

そうであるならば,「二項対立」自体も仮称の類だ。なぜならば,「二項対立」は認識によって現実化するから。認識のない世界に「二」は存在しない。

教員をやっていて,たった一度だけ,〈まずは,生徒ありき。〉と…,いや,何とも表現できない, 言語の世界を超えたような,《宇宙の意思》 というのか,気付くとそんなものに突き動かされていた経験をした。――二項対立の呪縛から解放されていない教職員は,これを「生徒のための行為(指導)」と言述するのだ。

そして,このように「語る」ことで,その経験は認識の世界に据え置かれ,「二」となった。

語るんじゃなかった。しかし,語ることで,また「語るんじゃなかった。」と述べることで,「語り」は〈かたり・・・〉となったこととその経験が認識の世界に呼び戻されたことを知った。かつ,そのように〈しる・・〉とともに,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」の《真実在》に思いが遡る。 《真実在》 は「二項対立」を超えたところにある。つまり,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」は認識の世界を超越した《宇宙の意思》にある。

そうなのだから,これから「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」と〈不二〉との連関をさらに追い求めてみる。それは《ホンモノの教員》 への《tao》を辿る《旅》でもある。

「お前,何を言っているんだ! そんなくだらないことを語っている・・・・・暇があるのならば,塾生を教採に合格させるために騙れ・・よ!」
「俺は受験屋じゃない! 「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」をこのように考え続け,長い間,奉職した一介の教員だ。」

ただ,嘘ではない。巷間の歪曲・隴化した固着観念から一瞥すれば,このような〈(特異な体験をした)変わり者〉の教員なのだろうが,この世の片隅にこのような教員がいたことだけは,紛れもない〈事実〉なのである。

「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」が認識の世界を超越していると語りながら,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」と言述する行為は矛盾しているし,それは《真実在》ではない騙りだとの指摘があろう。しかし,「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」と語らねばならない事実がある。それは「まずは,乳幼児・児童・生徒ありき」と語らねばならないほどに,それから掛け離れた,「自分だけがかわいいエゴイスト教職員」が余りにも多すぎる現実だ。だから,指摘なんぞ百も承知の上での〈騙り〉なのだ。そのような〈自己矛盾〉には常に懊悩煩悶が付き纏う。だが,一人でもこの懊悩煩悶を分かち合える教職員を見つけ,また生み出すことが定めであるならば,この世で真面な・・・教職の道を歩んだ者の〈宿命〉として〈騙り〉続けるしかないのだ。

[後日談]
「 一人でもこの懊悩煩悶を分かち合える教職員を見つけ 」と認めた同日,その人物との邂逅を果たすこととなった。その人物は,何と当私塾内にいた。学校現場で《宇宙の意思》とも呼ぶべき得体の知れないエネルギーに突き動かされた経験を持つ人物である。この出会いを〈運命〉と言わないで何と呼ぶのだろう。

宇宙のブラックホールから放たれる輝く数十本の電磁波とブラックホールから浮き出る「宇宙の意思」の白文字(素材提供 photoAC:宇宙をイメージした背景素材c_1)
宇宙の意思

 2 面接選考対応ミニ講座

問 「教員のゆとり」とは何ですか?

(1) 第一印象は

一瞥して「面白い,良い問いだなあ。」と思う。「教職にかかわる/かかわろうとする受験主体その者の人としての〈ゆとり〉を問うているのだろうなあ。これを問えば,為人がわかる。」とも思う。飽くまでも私見だ。

「「良い」の定義は何だ!?」などと目くじらを立てて言わないように。長くなるので,ここでは言わない。

(2) 問いのねらい

具体的に何をねらった問いなのか? 「問いを立てる力」を持っていれば,それが解る。「問題を発見する力」がなければ,問いは立てられない。

(3) 問いを分析する

ア 「ゆとり」の具象とは何か?(「What?」の問い)

「教師のゆとり」の「ゆとり」に焦点化しながら,その「ゆとり」の具象とは何かをいろいろと考えてみる。一部,挙例してみる。

A 精神的ゆとり
B 時間的ゆとり
C AとBとが醸成するワークライフバランス
など

イ なぜA~Cなどなのか?(「Why?」の問い)

「なぜA[1]前項「ア」で挙例した「A」。以下「B」,「C」も同様。なのか?」
「なぜBなのか?」
「なぜCなのか?」
など

「「なぜ(Why)?」の問い」は抽象的な思考(抽象化能力)を引き出し,またそれを必要とする。各受験主体のそれらの度合いがこの問い辺りでぼちぼち分かる。

(例) 「なぜA,B,Cなどなのか?」
a 職場での業務量が多いから。
b 気に食わない管理職(同僚)等がいるから。
c プライベートの時間がないから。趣味に勤しみたいから。
d 児童生徒とふれあいたいから。
e 自己研鑽を積みたいから。
f 教育の質的向上を図りたいから。
                         など

ウ どのようにすれば,a~fなどを課題解決/達成できるのか?(「How?」の問い)

読者各自で考えていただきたい。

(本問に係る正解を含め,)正解を待っていたとすれば,教員としての資質・能力には黄信号が灯る。正解至上主義一辺倒の教員は最早不要である。前項(「ア」と「イ」)を含め,本項までに抽象化の過程(頭の使い方)の一部をちょろっと示したのだから,それで充分である。

(4) 面接選考での「騙り(似非パフォーマンス)」を〈相対化〉する

本問を「学校の働き方改革」に関する出題と同一に捉える。強ち誤りではあるまい。そして,巷間に流布する二項対立の公式とやらを記憶する/想起する。

(○)「学校の働き方改革は児童生徒のためにある。」/「(✖)学校の働き方改革は教職員のためにある。」(言わずもがな,この二項対立自体が誤りだ。)

その公式を引っ提げて解答(敢えて「回答」と表記せず,「解答」と表記している。)を考える/選考本番で述べる。「教師の業務負担は解消すべきです。」は答申[2] … Continue readingを踏まえた解答ではないので,それは噯にも出さず,「学校の働き方改革」の目的をしっかりと踏まえて考える/解答するのだ。

「学校の働き方改革」の目的が自らの意に沿わなくてもだ。そういう場合の「かたり」を〈騙り〉と呼ぶ。自己(=考えた/解答した受験主体自身)と他者(=面接官等)を欺瞞したのだ。教員を選考する場での欺罔である。

そんな人が教員になって/教員であって良いのか? 自らの意思があるのならば,腹を括って(選考の場で)それを述べるが良い。

(5) 後日談

令和3(2021)年7月15日(木),夜,当私塾の塾生ばなな先生[3]当私塾では,塾生同志間においてニックネームで呼び合うことが原則である。とある講座で〈対話〉を持っていた。「教員のゆとり」がテーマだ。

塾長はそのテーマと関連させて「問題発見力」についても講じていた。それを凝と聴いていたばなな先生が〈対話〉の終末に,いつもと変わらない爽やかな表情とはきはきとした調子で,端的に持論を述べた。

ばなな先生
ばなな先生

塾長の話を伺っていて,「教員のゆとり」とは「無知の知」であると思いました。

「ばなな先生」の語り1
Masan
Masan

(黙して語らず。しかし,内心…)
凄い!! そのとおりだ!!

塾長の心の声
語り手
語り手

塾長,ばなな先生のこのご発言について,いつもの講座のように,ソクラテスのような(笑)問答法(産婆術)的〈対話〉を行わないのですか?

「語り手」の語り
Masan
Masan

問答の必要はありません。

塾長の応答
ばなな先生
ばなな先生

「余白」が大事ですよね。

「ばなな先生」の語り2
Masan
Masan

「余白」即ち「ゆとり」か。


人の「余白」がなければ,「無知の知」には至らない。
「無知の知」なくして「問題発見」はあり得ない。


自らの意に反する他者の考えから目を逸らし(≒知ったかぶりをし),自己にとって都合の良い考え(情報),即ち我儘だけを振り翳して,歪んだ「せいぎ」とやらで他者を誹謗中傷する/他者に責任を押し付ける者(=エゴイスト,自分だけがかわいい者)は世の問題(性)を発見し得ず,そこに問題発見からの創造(未来)はない。


ましてやそれが教職員であるならば,「問いを立てる授業」や問題発見のステージに腐心する問題解決学習なんぞ,展開できるわけがない。教育の未来もない。


〈外〉[4]「他者」のこと。また,「他者」を見境もなく誹謗中傷すること。を見る前に,まずは〈内〉[5]自己内の「他者」のこと。を見よ。〈問題〉は自己の〈内〉にある。即ち,「ゆとり」は「余白」として自己の〈内〉にあるべきものだ。

「ゆとり」とは「無知の知」の自覚である。[6]だから,〈内〉にない者もいる。特に昨今。数多く。


塾長の教え

(6) 謝辞

前節(「(5) 後日談」)には音声ファイルを貼付しました。実は,「ばなな先生」の声は「ばなな先生」ご本人が,「語り手」の声は当私塾の塾生である「さくら先生」が吹き込んでくださったものです。両先生方が当ブログ教材を,そして当私塾「鍛地頭-tanjito-」を盛り上げようとの熱き思いからご協力くださったのです。

ここに両先生に衷心よりお礼を申し上げ,〈ホンモノの教員〉 を目指される先生方の今後益々のご活躍を祈念申し上げます。

誠にありがとうございました。

塾長 小桝雅典

(7) おまけ

「(5) 後日談」の音声の吹込みの際,「さくら先生」は声優さながら,色々な声色でセリフを語ってくださいました。次に貼付した音声ファイルは,その時の「おまけバージョン」です。お聴きになられて,

「「鍛地頭-tanjito-」ってどんな私塾なの?」

と思われませんように💦

語り手
語り手

ちょっと恥ずかしいけれど,載せちゃいます!

おまけの語り

© 2021 「鍛地頭-tanjito-」


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