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西日本豪雨災害から1年-それぞれの想いを乗せて

尊い命に捧げる白い花 副塾長のつぶやき
お悔み(提供 photoAC)
この記事は約17分で読めます。

まずはじめに,平成30年7月の西日本豪雨災害に際し,お亡くなりになられた皆様に謹んでお悔やみ申し上げます。
また,被災された皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。

あの豪雨災害から一年。被災状況が掲載されているネット情報※1を拝見すると,それぞれの地区で亡くなられた方,怪我をされた方及び床上・床下浸水の発生数と共に,当時の画像が大きく掲載されていました。その画像を一枚一枚,目に焼き付けるように拝見しながら,私の脳裏には当時の私の身に起きた出来事が次々と呼び起こされていきました。

……あの日……,……あの時……,……あの場所で……,……あの人が……。

被害に遭われた方それぞれが何を想われ,どのようにこの一年を過ごされてきたのか。

一被災家族の現状をお伝えできればと思います。

1 〈失う痛み〉

「母ちゃん,避難するん?!」

そう言って不安そうな表情を浮かべる息子と娘。被災して以来,私の携帯電話に届く気象情報や災害情報の通知音を耳にすると,こどもたちが反射的に訊ねるようになりました。前もって豪雨が予報されている時は,「これとこれと,あれも持って行く。」と避難時に持ち出すものを確認しているこどもたちの姿があります。

平成30年7月6日(金)20時10分頃
アパートの脇にある道路が冠水していることに気づき,逸る気持ちを抑えながら私は避難準備をしていました。そんな私に息子が近づき,「母ちゃん,僕と○○(←娘の名前)は何を持って行ったらいい?」と訊ねてきたのです。私は咄嗟に「自分が大事にしているもの! 失いたくないもの!」と捲し立てるように返答したのです。

息子は,学校の教科書や筆箱などの学用品を詰めたランドセルと学校の制服,お気に入りの本や日記帳を手提げ袋に詰め込みました。娘は,小さなぬいぐるみ二つをぎゅっと抱えてポツンと立っていたのです。

避難から一夜明け,旧自宅アパートが床上浸水している事実を,携帯電話で撮ったばかりの画像を見せながらこどもたちに伝えました。その翌日には,現状をしっかりと理解させるために,泥まみれになった自宅アパートに敢えて二人のこどもを連れて行きました。

「あっ!! これ……。」

お気に入りのおもちゃや本が泥水に浸っているのを発見した息子。

「………。母ちゃん……。」

無意識につないだ手に力が入る娘。

そっとこどもたちに目を向けると,二人は言葉にできない気持ちをグッと堪えているようでした。見る見るうちにその小さな瞳は涙で溢れ返っていきました。

被災した自宅アパートの片づけを塾長に手伝っていただきました。処分するもので足の踏み場もない中,「こどもたちのおもちゃだけは何とか残そう。」と処分を免れそうな代物を塾長は懸命に見つけ出してくださいました。そして, 一つ一つ丁寧に消毒・洗浄し, 天日に干した「ブロック」「トミカ」「プラレール」,それに「ままごとセット」は再び使用できる状態になったのです。

しかし,それ以外のものはすべて処分しなければなりませんでした。こどもたちの成長とともに,一緒に楽しい時を創り上げてきた思い出の品の数々を一斉に処分しなければならないという現実に心が折れました。道路を挟んだ空き地に数々の「思い出」は〈思い出〉となって高く積み上げられていったのです。泥まみれの自宅に最後まで残されていたものはおもちゃでした。「明日,使えなくなったおもちゃを捨てるからね…。」とこどもたちに話すと,「パズルは?」「お人形のベビーカーは?」「おえかきは?」と落ち着かぬ様子で口々に問いただしてきます。「残せたものは4つ(種)だけ」と伝えた途端,こどもたちはガクッと膝から崩れ落ちました。

誰が悪いわけでもない。けれど,失わなければならない。ほんの数日前まで,ずっと大切にしていたものを捨てなければならない。大きな声で泣きわめくでもなく,「嫌だ」と駄々をこねるわけでもなく。ひたすら「おもちゃ」を凝視するこどもたちが握りしめていたものは,小刻みに震える自らのこぶしだったのです。

この日を契機に,〈失う痛み〉を知った息子と娘は,〈ものを大切に扱うこと〉を学びました。

「被災した現実」を,息子と娘はどのように認識したのか…。小さな小さな心の内に,大きく深く刻まれた傷跡が残ったことだけは間違いのない〈事実〉なのです。

2 いろんな「かたち」で残る爪痕

西日本豪雨で甚大な被害を受けた広島県ですが,まだまだ復興というには程遠い現状があります。現在,私が通っている広島国際大学も裏山の大規模な土砂崩れを受け,未だにその爪痕が生々しく残っています。その他,本県には,復旧に着手する優先順位があるため,全く手が付けられていない箇所も多々存在します。

毎朝, 出勤のために通る幹線道路では,今尚,災害復旧活動のため,荷台に大量の土砂を積んだトラックと何台もすれ違います。災害発生から1年経った今も,なかなか思うように復旧作業は進んでいないのです。あれから1年。ずっと不安を抱えたまま,日々の生活を送っておられる多くの方々がいらっしゃるということです。

西日本豪雨災害から1年後
草に覆われてしまっている二次災害の危険を知らせる印
令和元年7月6日,撮影者 住本小夜子

私は被災後,少し強い雨が降ると胸を締め付けられるようになりました。「被災はしない。大丈夫だ。」と分かっていても,どこからともなく恐怖が襲ってきます。当時,避難場所だったのは息子が通う小学校の体育館。その体育館の屋根を打ち付ける激しい雨音が今でも鮮明に記憶されており,大粒の雨が地面や家屋を打ち付けると,否が応でもあの日の記憶を蘇らせてしまうのです。

西日本豪雨災害から1年後
広島国際大学を襲った土砂崩れの一部,令和元年7月6日,撮影者 住本小夜子
西日本豪雨災害の記録
広島国際大学を中心にした,無数の土砂崩れの様子(東広島市黒瀬町)
提供 広島豪雨災害~命を守るために~,FNN PRIME,2018年8月6日

令和元年5月中旬。
車を運転中,ふと目にした光景に,私は息が詰まりました。その光景は,田植えを控え,水が張られていた田んぼでした。被災した旧自宅アパートのすぐ近くには田んぼがあったのですが,田んぼに溜まりに溜まった雨水が泥水と化し,旧自宅アパートに勢いよく流れ込んでいたのです。それが記憶の奥底に眠っていたのでしょう。田植えを控え,水を張った田んぼを見た瞬間,その記憶がフラッシュバックしたのです。頭痛と吐き気に襲われ,路肩に車を停めて落ち着くまで休むことを余儀なくされてしまいました。その後,同じ状況が数度起こったのです。

思いもよらぬことで当時を思い出すものです。忘れようと思っても忘れられることではありません。豪雨に見舞われ,翻弄された人々は,〈何か〉を抱えて生きていらっしゃるのだと思います。

西日本豪雨災害から1年
橋脚に挟まったままの流木(東広島市黒瀬町),令和元年7月6日,撮影者 住本小夜子

3 人の〈こころ〉を知る

「この経験を記録に」と残した当時の写真を見ていると,「こんなことがあった」「あんなことがあった」と多々思い出すことがありました。

避難した日(平成30年7月6日)の夜から朝にかけてはとにかく寒く,旧自宅アパートから持ち出したタオルケットだけでは凍えるような避難先の気温でした。ジャンパーも持参しましたが,こどもは「寒い!」と訴えながら寝たり起きたりを繰り返していました。私は自分が羽織っていた服をこどもに掛け,体調を崩さないようにと願うばかりでした。

避難所となった小学校には,なんとかたどり着くことができた役所関係の方が二名おられ,1時間,乃至は2時間おきに避難者の様子を伺い,声を掛けてくださいました。

男性職員さん:「何か困っていることなどありませんか?」
私:「こどもが寒いと訴えているのですが,何か暖を取れるようなものはないでしょうか?」
男性職員さん:「わかりました。探してみます。」

この時点では,まだ救援物資などありませんでしたので,学校内にあるものをお借りするしかありませんでした。しかし,結局,何も見つからず,「気休めにしかならないかもしれないけれど…。」と息子の体に,男性職員さんが着用していた服を掛けてくださったのです。その時撮影したものが下の写真です。

職員さんにもご自身の住む家があり,家族がいらっしゃる。そのような状況下で,自らの不安を押し殺し,お気遣いを頂いていたのだと思うと感謝の言葉しかありません。お陰様で,こどもたちは体調を崩すこともなく,無事に避難生活を送ることができました。


避難してすぐ,とても困ったのは避難先に外部の情報が全く入って来ないことでした。避難所となった小学校に待機してくださった役所の職員さんも,「ここにいるだけで,何も情報が入って来ないのです。」「本部(役所)からの連絡を待つことしかできない状態です。」とおっしゃっておられました。

そのような折,私の携帯電話の通知音が甲高く鳴りました。息子が生まれてから知り合った友人が連絡をくれたのです。外部の状況が全く分からないことを伝えると,逐一連絡を続けてくれました。この連絡で,初めて黒瀬地区も大きな被害を受けていることを知ったのです。

真っ先に知りたかった自宅の被災状況を知ることができたのは,少し雨が上がった翌7日の午前9時ごろだったと思います。「あのアパート付近は,現在,」160センチの浸水。」と教えてくださったのは,消防団の方でした。約100メートル先にある旧自宅アパートまでたどり着くことができず,ただただ立ち尽くしていた時のことでした。

避難先の小学校に戻り,ふと目に入ったのが校長室に設置されているテレビでした。「少し見てもいいですか?」と了解を得て,そこで初めて広島県内に甚大な被害が出ていることを知ることになります。テレビに映し出された変わり果てた光景に愕然とし,「えっ?!」「えっ?!」という声にならない声が出るだけでした…。

「これ坂(広島県安芸郡)ですか?」「えっ?! 矢野(広島市安芸区)?!」
「えっ?!」「(地名)」,この2つしか言葉として出てこない。

この頃になると,SNSで詳しい被災の状況が情報共有されるようになりました。テレビでは報道されていない地区(被災状況がひどく取材に入ることができない)の被災状況も知ることになります。以前住んでいた地区も甚大な被害を受けており,何も言葉になりませんでした。

その他にも,県外にいる親戚から連絡があり,中でも「阪神淡路大震災」を経験した叔母は「生きていれば,後は何とかなる!!」と勇気づけてくれました。

一年前に書いた記事「「被災者」となって ―人の痛みと思いやりを知る―」(住本小夜子,当塾公式ホームページ,2018.7.27)には,当時,肌身に感じた人の〈こころ〉を綴ってあります。避難当初から,たくさんの方々にお世話になり助けていただき,そこにはたくさんの方々の〈こころ〉がありました。

しかし,人の「こころ」の中には心無い言葉があったことも事実です。誰しも,被災したくてしたのではない。それまであった生活を犠牲にしてまで,被災したいと思った人がいるでしょうか?

「(被災していない)私の家にも給水してもらえんのんかね~」と大声で皮肉を言われ,相手がどのような人間かを知りました。同じような状況に置かれ,同じように皮肉を言われたら,この人はどう思うのだろうか。「支え合う・助け合う」ということを知らない。自分さえ良かったらそれで良い。その人の本心が見えた時,その人との縁は切れました。

被災したことよりも,「心無い言葉」の方が辛く苦しく悲しい。あの時,私に向けられた言葉は一生忘れることができないでしょう。皮肉を言った本人は,もうとっくに忘れているのでしょうが…。 人間が持つ「言葉」は,これほどまでに相手を追い詰め,傷つけるのです。遣い方/遣う人次第で,言葉は「狂気」※2に変わるのです。

相手を想う〈こころ〉を見失うことなく,こどもたちにも〈思いやり〉とは何かをしっかりと教え,人の〈こころ〉の大切さを持ち続けていきたいと思います。

4 復興への「光」

平成31年2月。
地域住民の方との交流が叶いました。自宅周辺を知る良い契機になるかもしれないとの思いもあって,自治会の地域清掃に参加したのです。現在の住居に引っ越して来て7か月が経っていましたが,自宅周辺を歩いたことはありませんでした。

小グループに分かれての作業だったのですが,簡単な自己紹介も交え,会話を楽しみながら清掃していました。すると,一人の女性がポツリとつぶやかれたのです。

「今年はホタルを見られるかね…。」

私はすぐさま「ホタルがいるのですか?!」と訊き返していました。女性がおっしゃるには,

「毎年,時期が来るとホタルが見られるのだけれども,今年は去年の豪雨災害の影響があるからどうなるか分からないね。」とのことでした。

西日本豪雨災害の爪痕
ホタルの住処を襲った土砂崩れの跡,令和元年7月6日
撮影者 住本小夜子

令和元年6月10日(月)。
こどもたちを連れて,先述の女性がおっしゃっていた川へ行ってみました。そこで,ぽわ~んと動く緑色の光を発見!! 思わず「おったーーー!!」と嬉しさのあまり悲鳴を上げ,テンションが頂点に達したのは,何と,私だったのです。(笑)

こどもたちは,初めて見るホタルの光を必死で追いかけていました。普段は虫が怖くて触ろうとしない息子が,自らホタルを捕まえて触れてみたり。その姿に触発された娘も,息子の両手に掬われた幻想的なホタルを恐る恐る観察したり。

こんな近くでホタルが見られるなんて。
現在の自宅から歩いてすぐのところに小川があることさえ知らなかったのです。

帰宅途中に,ご近所の方にお会いしました。

私:「ホタルを見てきたんですよ。」
ご近所の方:「毎年楽しみにしているホタルを今年も見ることができるんじゃね。もう見られないかと思っていた…。本当に良かった。」

安堵の表情を浮かべながら,その方は微笑まれたのです。

災害という自然に恐怖を覚え,ホタルという自然に感動する。自然と人間との〈共存〉とは何かを考えさせられたのです。

西日本豪雨災害からの復興
土砂災害に負けずと現れたホタル,令和元年6月10日,撮影者 住本小夜子

参考:【こどもたち、人生初のホタル】,(住本小夜子のFacebook投稿記事,2019.06.11)

5 被災し〈いのち〉を考える

西日本豪雨災害を受け,広島県を初めとする市町村において,防災に対する種々の新たな取り組みや改善がなされてきました。例えば,ハザードマップの見直しや防災セミナーなど。行政と住民との情報交換の場も設けられました。

ただ,この活動が「かたちだけ」で終わることのないようにと願います。改善すべきところはたくさんありますし,それをみんなで考え,取り組むことが大切だと思うのです。異なる立場の人たちが集い,〈こころ〉を開いて〈傾聴→対話〉する。立場間で生起する矛盾を〈矛盾〉として内包したまま,それぞれの立場から成る考え方を止揚(aufheben)し,高次の考え(方途)を構築する。このことが重要だと思うのです。また,時が経つとともに薄れていく「記憶」。だからこそ,しっかりと「記録」として残す必要があるし,伝えていかなければならないのだとも思います。

みなさんは「自然災害伝承碑」をご存知でしょうか? 西日本豪雨災害で多くの犠牲者が出た広島県安芸郡坂町には,100年以上前に起きた水害を伝える石碑があるそうです。

 我が国は、その位置、地形、地質、気象などの自然的条件から、昔から数多くの自然災害に見舞われてきました。そして被害を受けるたびに、わたしたちの先人はそのときの様子や教訓を石碑やモニュメントに刻み、後世の私たちに遺してくれました。

 その一方、2018年7月の西日本豪雨災害で多くの犠牲者を出した地区では、100年以上前に起きた水害を伝える石碑があったものの、「石碑があるのは知っていたが関心を持って碑文を読んでいなかった。水害について深く考えた事は無かった。」(平成30年8月17日付け中国新聞より引用)という住民の声が聞かれるなど、これら自然災害伝承碑に遺された過去からの貴重なメッセージが十分に活かされているとは言えません。

 これを踏まえ国土地理院では、災害教訓の伝承に関する地図・測量分野からの貢献として、これら自然災害伝承碑の情報を地形図等に掲載することにより、過去の自然災害の教訓を地域の方々に適切にお伝えするとともに、教訓を踏まえた的確な防災行動による被害の軽減を目指します。

自然災害伝承碑,国土地理院,国土交通省(2019.07.06 最終アクセス)
自然災害伝承碑
広島県坂町小屋浦地区にある自然災害伝承碑(国土地理院)

被災後の片づけをしていた時のことです。 私たちが被災した旧自宅アパートがあった地区では,20年前にも水害があったことを,近隣にお住まいの方のお話で知りました。避難所となった小学校の体育館を訪れた自治会の方からは,「あそこ(被災地区)は大雨が降ると,水に浸かる。」「引っ越す前に,古くからその場所に住んでいる人に自分から話を聞きに行って情報を得ないとダメよ。」と教えていただきました。

参考:「副塾長,西日本豪雨により被災!!  -「思い出」が〈思い出〉になってしまった-」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.7.5)

自然災害伝承碑が存在し,以前に災害を経験された方がいらっしゃるにもかかわらず,なぜ同じような被害がでてしまうのでしょうか。それは,自ら率先して話そうとする人がいないからでしょうか。それとも,自ら率先して話を聴こうとする人がいないからでしょうか。

私は思います。

この問題はそうした「話さないから/聴かないから」といった二項対立の枠組みで考える問題ではないのです。そうした微視的な視点ではなく,「自然/人間(≒自然対人間)」として,しかも「自然<人間」として考える近代の「知(思考)」の枠組み(フレーム)という巨視的な視点から考える問題だと思うのです。長い年月,人は「自然」と「人間」とを〈切り離して〉考えて来ました。その過程で人は「自然」を〈こころ(精神)〉を持たないモノと見,「こころ(精神)」を持つ「人間」が「自然」を支配できると考えてきたのです。その結果,現代に至って「環境問題」が生起したのです。だから,今になって,世界的な規模で「自然―人間」間の〈共存〉を考えようとしているのです。しかし,相も変わらず「人間」は(ややトーンダウンはしたものの,)自我中心主義を貫こうとし,「自然」は自らを〈主張〉し始めました。そこで,その両者間に生じる「矛盾」を〈矛盾〉とし,両者の主義主張を止揚(aufheben)した高次の〈共存〉関係の模索が始まっているのです。したがって,こうした思考性を持つ人々が世界的な規模で増えていけば, 「話さないから/聴かないから」 といった問題は必然的に消滅する問題と言えるのです。ただし,その際,「矛盾」を〈矛盾〉として超越するには,「他者」との〈対話〉(≒〈つながり〉)が必要になります。その成就が鍵となるのです。そういう意味からも「絆(つながり)」は大切なのです。

現在の住居に引っ越してすぐ,私は自治会に加入しました。どこに誰が住んでいらっしゃるのかを知るため,そして,私たち母子の存在をみなさんに知っていただくためです。また,同じアパート(棟)に住まわれているすべての方々と面識を持ち,会えば必ずあいさつをし,井戸端会議ができるご家族もできました。別の棟の方にも,あいさつは欠かしません。お互いがお互いの存在を認識し合うこと,そこから〈つながり〉が生まれていきます。

何も〈つながり〉は近隣の方だけのものではありません。本ブログをお読みくださるみなさまとも,私は〈つながっている〉のだと思います。そこで,その〈つながり〉の証に,1年前の被災から私が考えこと・感じたことを率直にお伝えしようと思います。何かの参考にしていただければ幸いです。

私は,被災直前にテレビや携帯電話で避難情報と河川水位を確認していました。しかし,実のところ,その情報を信じ切れずにいました。自分の目で確認しないと,納得できなかったからです。ですが,それは誤りでした。経験上はっきりと申し上げることができるのは,次の事柄です。

  • 「避難」と言われたら即座に「避難」する!!
  • 増水した河川を決して見に行ってはいけない!!
  • いざという時のために,日頃から防災グッズを備えておく!!
  • 日頃から被災時の行動を家族としっかり話し合っておく!!

一年前に避難した時は,家族みんな揃っての避難でした。しかし,万一別々の場所にいたら…。息子と娘には次のように話しています。

  • そのときにいる場所(学校,保育所,放課後等デイサービス等)の先生(大人)の指示にしっかり従うこと。
  • みんな別々になっていても,必ず会えると信じること。
  • 最終的な集合場所は,○○小学校。

そして,現在の住居から最も近い避難場所の確認も致しました。


西日本豪雨災害で亡くなられた方は,全国で219人。けが人は404人。※3
避難する際,私は自分とこどもたちのことでいっぱいいっぱいとなり,周囲の方々に声を掛けられなかったことがずっと悔やまれています。私も逃げることで必死だったとはいえ,周りの方々への配慮があれば,逃げ遅れたり,命からがらの状況に見舞われたりすることもなかったかもしれません。数人の方には避難を呼びかけましたが,本当にそれだけで良かったのかとも考え続けています。

みなさんは,いざという時に助け合える方はいらっしゃいますか?
日頃からその〈つながり〉を大切にされていますか?

この被災経験を忘れることなく,あの日から私は私に何ができるのかを日々自らに問うています。そして,〈いのち〉の有り難みをしっかりと噛みしめて,〈生きる〉ことを全うしたいと思います。

最後に,当時,たくさんの方々に助けていただいたご恩に対して改めて感謝申し上げます。
誠にありがとうございました。

西日本豪雨災害から1年後
現在の黒瀬川(広島県東広島市),令和元年7月6日 撮影者 住本小夜子

  令和元年7月7日

住本小夜子 

※1 西日本豪雨に関するトピックス,朝日新聞DIGITAL(2019.7.04 最終アクセス)
※2 「言葉という狂気」,住本小夜子のブログ,2009.04.13
※3 ※1を参照のこと。

関連記事(「鍛地頭-tanjito-」ブログ)
「副塾長,西日本豪雨により被災!!  -「思い出」が〈思い出〉になってしまった-」
「「被災者」となって ―人の痛みと思いやりを知る―」
「「平成30年7月豪雨」による「被災」を振り返って―防災教育と療育の視点を交えて―(その1)」

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


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