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「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【前編】

青空を背景にした白梅 塾長のつぶやき
白梅
この記事は約15分で読めます。
我が家の庭に咲くムスカリ
我が家の庭のムスカリ

いつの間にか,花を付けた我が家のムスカリ。花言葉は「通じ合う心」「明るい未来」。まさに「令和」を象徴しているようです。「鍛地頭-tanjito-」が予言した「一元論的トランスモダンの時代」がひたひたと近づいているのです。自我中心主義は早く終焉を迎えなければならない。個の価値観が他者との間で矛盾を〈矛盾〉として内包したまま,高次の世界へと止揚(アウフヘーベン)・統合する時代。新たな文化を創造する一員になりたいと,粉骨砕身,努力する所存です。

小桝雅典Instagram(tanjito.masanori),2019.4.2より引用
我が家の庭の芝桜
我が家の庭の芝桜

我が家の芝桜。
健気に生きている。
花言葉は「私を拒否しないで」「合意」。
これも,「令和」の象徴?

同上

0 プロローグ

生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」の塾長 小桝雅典 です。

今回のテーマは,「令和」について考える,です。

新元号「令和」に委ねられた暗号(笑)を「鍛地頭-tanjito-」ならば,どのように解読するのか?
「令」,「和」の字義を求め,典拠である「梅花の歌三十二首并せて序」(『萬葉集』巻第五)を文学的に〈読む〉(ただし,走り)ことからアプローチを試みてみようと思うのです。

それにしても,実のところ,今回のブログは当塾の作成計画の中には入っていなかったものなのです。にもかかわらず,執筆の運びとなったことについては,深くて浅い(笑)理由が2つあるのです。

〔理由1〕安部首相による新元号についての記者会見と我が家の庭のムスカリ・芝桜との〈運命〉的連関

けったいな(私は生粋の広島人です。(笑))理由に思われることでしょう。安部首相の記者会見の言葉をライブで耳にした瞬間,私の脳味噌には激甚なる電気ショックが走りました。勿論,政治(家)が大嫌いな私のことですから,安部首相の言葉そのものに感動したわけでも,反駁の念を抱いたわけでもありません。

人々が美しく心を寄せ合う中で,文化が生まれ育つという意味が込められている

「中國新聞」(2019年(平成31年)4月2日):安倍首相の記者会見での言葉から一部引用

梅が厳しい寒さの後に咲き誇ることに触れ「一人一人の日本人が明日への希望とともに,それぞれの花を大きく咲かせることができる,そうした日本でありたいとの願いを込めた

同上

引用文中の「厳しい寒さ」を「アベノミクス」と捉える向きがあるようですね。それではいくら何でも安倍首相が可哀想というものでしょう(笑) 恣意的過ぎて〈読み〉が外れています。かと言って,そういう私の〈読み〉も〈恣意的〉なのかもしれませんが…(笑) ただ,私にとっては,そんなこと,どうでもいいことなのです。

大切なことは「人々が美しく心を寄せ合う」「文化が生まれ育つ」「それぞれの花を大きく咲かせる」「そうした日本でありたい」が統合された先に出現する〈時代(観)〉なのです。安倍首相(内閣)がそう思ったかどうかは別問題です。先述したように,この〈時代(観)〉を当塾「鍛地頭-tanjito-」が斯斯然然と〈読んだ〉ことがポイントであるわけで,だから,電流が私の頭頂を貫いたのです。したがって,この「斯斯然然」を本ブログでお話することになるのです。

そこで,先行して,プロローグの前に私のInstagramを引用しておきました。「斯斯然然」を要約すると,私の所信表明も含めて(笑),「ムスカリ(の花)」や「芝桜(の花)」の写真に付したコメントのようになるのです。

実は,4月2日の夕刻,私は我が家の猫の額よりも小さな小さな庭にムスカリが咲いていることに,初めて,気がつきました。あまりにも目に明るく,可憐に映えて見えたので,思わず写真に収めてしまったのです。その後,「インスタにでも上げるか…コメントくらい付けておかないとな…」くらいの軽い気持ちで,「花言葉」を調べてみて,「こりゃ,また,おったまげた!!」,通算2度目の激烈なる電気ショックを脳味噌にブチ(広島弁,「とても」の意)喰らうこととなったのです。

ムスカリの花言葉は「通じ合う心」「明るい未来」です。

私の脳裡には,あの安倍首相の言葉が甦りました。

「人々が美しく心を寄せ合う」
「文化が生まれ育つ」
「それぞれの花を大きく咲かせる」
「そうした日本でありたい」

「偶然」はまだ続きました。「偶然」が続けば,それは「偶然」ではなく,〈必然〉と言って過言ではないでしょう。

夕刻に来客があったのです。ムスカリの花言葉を調べて後のことでした。その客人の帰りを外で見送った後,我が家に入ろうとして,私はふと庭の片隅に芝桜が咲いていることに気がつきました。健気に咲く姿に心を打たれた私は,例によって,写メに収め,相も変わらず,花言葉を調べます。

「な,な,なんと,こりゃ~あ,ブチブチ,ぶったまげだで~!!」

通算3度目の稲妻が頭頂から全身を貫き,足の爪先から階下の床へと抜けて行きました。(私の仕事部屋は,我が家の2階にあります。)

芝桜の花言葉は 「私を拒否しないで」「合意」 でした。

これを「偶然」と呼ばないで,何と呼ぶのでしょう。ムスカリと芝桜を発見することは,私に託された〈運命〉だったのです。「〈運命〉は絶対に変えられない」のです。―「鍛地頭-tanjito-」の「〈運命〉論」は,後日,本BLOG「鍛地頭-tanjito-」で披歴いたします。―「逆らえない〈運命〉」にあるからこそ,私はムスカリと芝桜に〈出会った〉のです。そして,確信するのです。

「当塾の〈時代(観)〉に誤りはない。」

誤解しないでください。安倍首相が発した言葉だから「誤りはない」と述べているわけではありません。私が誘(いざな)われた「偶然性」,―でも,それは〈必然〉であった―が「確信」の左證であると述べているのです。

その〈時代(観)〉は,昨今,当塾がブログに綴り続けてきたものです。このようにブログに綴り続けていた近未来の時代像と「安部首相の言葉―ムスカリ―芝桜」が織り成す〈時代(観)〉はほぼ同一のものであり,「安部首相の言葉―ムスカリ―芝桜」の連関性を予言するかのように,当塾は近未来の時代像を既にブログに描き続けていたのでした。

要するに,来たる「一元論的トランスモダンの時代」について,更にまた,触れさせていただこうというのが,本ブログを綴る一つの理由となるのです。

〔理由2〕副塾長 住本小夜子の無茶振りという名の謀略

この理由については,くどくどとご説明申し上げる必要はないと思います。次の引用をお読みくだされば,一目瞭然です。

広島県呉市倉橋町松原 萬葉集史蹟 長門島之碑
広島県呉市倉橋町松原 萬葉集史蹟 長門島之碑

【出典は萬葉集の「梅花の歌三十二首 并せて序」】
 
新元号が発表されましたね。
元号について,皆さんそれぞれの思いがある中で,私が注目したのは出典が「萬葉集」という点です。
 
私の出身地である広島県呉市倉橋町(倉橋島)は,萬葉歌で「長門の島」「長門の浦」と詠まれています。
 
「我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる」
(長門(ながと)の島の小松原(こまつばら)は、幾代も過ぎてますます神々しさを増してゆくのでしょう。)
 
また,私が卒業した倉橋高校(2006年3月に閉校)の校歌にも「長門の島」という歌詞が使われていました。
 
「万葉の里 倉橋」で生まれ育ったので,「萬葉集」に親しみがあるのです。
 
 
「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぐ。梅は鏡前の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の薫らす。」(『日本古典文学全集 萬葉集 二』小島憲之,木下正俊,佐竹昭広 校注・訳,小学館,昭和47年5月,p.67)
 
塾長の小桝は,大学院で古文文学教育を専門としていました。ですので,日本古典文学全集が職場にあります。
仕事を放棄して(笑),一緒に「梅花の歌」を調べてみました。
 
これに関しては,後日,専門性の高い塾長に記事を書いてもらおうと思います。(笑)
 
 
「梅花の歌三十二首 并せて序」に典拠を求めたことについて,安倍首相の会見を聞いて率直に感じたこと。
 
それは,「鍛地頭-tanjito-」が予測している(それは当塾のブログに既述してある)「一元論的トランスモダンの時代」を想定した,諸事を「止揚(アウフヘーベン)」する時代が到来したのだということです。
 
自我中心主義の「ポストモダンの時代」は終わる。
更なる高みを目指して,「それぞれ連関を持ちながら止揚(アウフヘーベン)」し,新たな価値観が創出される「一元論的トランスモダンの時代」が「令和」なのだと感じました。
 
抑々,日本の古典に由来する元号は初めてだそうですね。これを機に,日本の古典に興味を持つ方が増えたらいいなと思います。

住本小夜子Facebook,4月1日 16:59,下線は小桝が施しました。
広島県呉市倉橋町「長門の造船歴史館」の遣唐使船(復元)
広島県呉市倉橋町「長門の造船歴史館」の遣唐使船(復元)

引用文中の嫌味たっぷりな下線部により,私は「読者やフォロワーの皆様に嘘を吐いてはならない。」と生真面目に考え,本ブログを綴ることにしたのです。これが2つ目の理由となります。因みに,住本は悪戯好きなこどもの澄んだ眼差しで私を睨みながら,「ヒッヒッヒッ」とちびまる子ちゃんの野口さんのように悪魔のほ微笑みを満面に浮かべていました。(笑)

「鍛地頭-tanjito-」の令和考の前編。
宜しければ,お付き合いのほど,よろしくお願い申し上げます。

1 字形について

新元号の「令和」を目にし,私の脳裡にはある種の疑念が過(よぎ)りました。それは字形です。「和」はこれまでの元号に20回も使用されてきた経緯から,まあ良しとして,「令」に疑念を感じたのです。高校の国語教師として長い年月を過ごしてきた私の経験から湧出して来た疑念なのです。

「先生,「れい」は「令」(と表記するの)が正しいのですか?」

漢字の書き取りテストや漢文で使役形を教えたとき,しばしば生徒から質問がありました。

「「ひとやね(ひとがしら)」の下に点を打って,「マ」のような形を書いてはいけないのですか?」

確かに,生徒が使用する参考書や書き取りの練習帳などには,「「ひとやね(ひとがしら)」の下に点を打って,「マ」のような形」ではなく,「令」と印字されているのです。

文化庁国語課は,字形によって意味や由来に違いはなく「全く同じ漢字で,一般的にどれを使っても問題はない」としている。

「中國新聞」:2019年(平成31年)4月2日付け

文化庁によると,印刷物などでは「令」の字形が一般で,新聞でも使われる。一方,手書きでは,漢字の構成のうち一番上の部首「ひとやね」の下に点を打ち,その下に「マ」のような形を書く人も多い。小学校の国語教科書や授業でも後者の書き方で習う。

同上

2016年2月にまとめた指針の中で「令」の字に関し「印刷文字と手書きの習慣による違いで,問題にする必要はない」

同上:文化審議会の国語分科会漢字小委員会の見解

このような主旨で,生徒には説明してきたのです。

まあ,極論すれば,どちらでも良いわけであって,したがって,「令」の文字を目にした時,瞬間的に私は「(当初,世に)混乱が生じるぞ。」と思ったのです。「確か,内閣府の「昭和54年10月23日閣議報告」,この閣議で元号選定のガイドラインが示されたはずだが…そこには一つのガイドラインとして「書きやすさ」があった…確かに「書きやすさ」だから,「薔薇」「躑躅」「麒麟」「鸕鷀」「傀儡」「憂鬱」などに比べれば書きやすい(当たり前か,こんなに書きにくい元号であるならば,一揆が起きるわい。人心を惑わしてはならぬ)。ただ,「書きやすさ」とは異なる概念ではあるけれど,「令」の字形と「「ひとやね(ひとがしら)」の下に点を打って,「マ」のような形」と,「どちらを書いたら良いの?」と国民に思わせることは,既に国民の人心を惑わしている。「「レイ」で本当に良いの? すぐに馴致するのだろうけど…」

そう思ったのです。

令和の毛筆書体
令和(PSD)

2 字義について

(1) 「令」の字義

元来,「令」は「集める」の意と「人が跪(ひざまず)く」の意とから成り,要するに,「人を集めて従わせる」,「いいつける」意を表わしています。そこから,つぎのような意味が派生しています。

【参考】
『角川 新字源 改訂版』(小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編,角川書店,2004.2,p.47)…a

① いいつける。命じる。つげる(告) ② いいつけ(いひつけ)「命令」 ③ おしえ。いましめ。 ④ のり。おきて。法律。「法令」 ⑤ おさ(をさ)。長官。「県令」 ⑦ 他人の親族に対する敬称。「令兄」

前掲書a,p.47

「⑥」の意味を特筆するのは,その意味が「よい(善)」だからです。「令」と聞けば(見れば),上記引用中の①~④辺りを想起するのが世の常なのかもしれません。「令和」の公式発表があった直後,「元号に「令」などと,「命令」されるようで不愉快だ!!」といった視聴者のコメントを採り上げたマスコミの報道に出くわしました。様々な思いはあるのでしょうが,まさに固定観念の象徴です。一呼吸置いて,多面的・多角的・総合的に物事を捉える姿勢が必要ですね。「令顔」「令人」「令愛」「令嬢」など,そして,典拠の「令月」(よい月・陰暦二月の別名)があるではないですか。―「令」を「命令」の意と解した方を非難しているのではなく,日常的に「多視点を持つ・働かせる・総合的に判断する・(そして,)表現する」大切さを語っているのです。―

漢字に詳しい京都大の阿辻哲次名誉教授は「万葉集によると,『令月』とあるのは『素晴らしい月』という意味。まさに天皇の代替わりに伴う季節感と,平和を謳歌しているというイメージを受ける」と指摘。「令」には,「令嬢」「令息」といった言葉に使われるように「よい」という意味がある。

「新元号「令和」を読み解く 二文字が持つ意味は?」:日本經濟新聞,2019.4.1 12:36

もう1点,注目しておかなければならない字義(職能)があります。大学受験生ならば,ピンと来ておかしくない字義(職能)ですね。

A 使(令・教・遣) B C D
 A BヲシテDヲ(ニ)C〔セ〕しム
 AはBに(を)Dを(に)Cさせる。

【参考】
『必携 新明説漢文~句法と語彙を一緒に学ぶ~』(全国高等学校国語教育研究連合,尚文出版,2007.11,p.86)

訓点(送りがな・返り点・句読点)がなく,横書きですから,とても違和感がありますが,漢文の使役形という句法に「令」が使われています。「~させる」を意味する助動詞(助字)です。よく目にする例文には,「令」ではありませんが,「天帝使我長百獣。」があります。「天帝我をして百獣に長たらしむ。」と訓読し,「天帝(天地,万物を支配する神)は私を多くの獣の頭(かしら)にさせた。」と口語訳します。「使」は「Bを使ってCさせる」,「令」は「Bに命令してCさせる」といったニュアンスの異なりがあります。

「乃令騎皆下馬歩行」(そこで,騎兵たちに(命令して)皆馬から下ろして歩行させた。)

このように記述すると,「やはり新元号の「令」は「命令」でしかない!」とも考えられるわけですが,そうとも言い切れないわけです。なぜならば,「令和」をどういった(社会的)コンテクスト(文脈)で使用するかが「令和」を捉える大きなポイントになるからです。つまり,簡単に述べれば,「「令和」を考える」は,「令和」を用いるときの(社会的)コンテクストにおける主語が何かという問題に置換できる命題だということです。

因みに,「辞典オンライン 漢字辞典ONLINE.」によれば,「令」は,

漢字検定 7級
学年 小学校4年生
種別 教育漢字 常用漢字

とあります。

確かに,新学習指導要領でも「令」はこれまでと同様に,「小学校4年生」で学習する漢字となっています(「学年別漢字配当表」)。

(2) 「和」の字義

「和」の字義が有する文化コードや言説について,ここで詳述する必要はないと思います。元来,「和」は「口」と「音符♬」から成り,「人の声に合わせ応じる」,延いては「心を合わせて「やわらぐ」」の意を表わします。

【参考】
前掲書a,p.178

語意は次のとおりです。

一 ① やわらぐ(やはらぐ) ア 調和する イ なごむ。おとなしくする。「温和」 ウ たいらぐ。しずまる。「平和」 エ 仲よくする。力を合わせる。 ② なごやか。 ③ ほどよい。「中和」
二 ① こたえる。調子を合わせる。「唱和」 ② 韻を合わせる。③ まぜあわせる。調合する。 ④ 加え算。加えた数。「総和」

前掲書a,p.178

ここで,着目しておきたい語意は「力を合わせる」です。

因みに,

漢字検定 8級
学年 小学校3年生
種別 教育漢字 常用漢字

「辞典オンライン 漢字辞典ONLINE.」:「和」

ということです。「学年別漢字配当表」では,確かに小学校3年生で学習する漢字にありました。

(3) 「令」「和」の両字義から

こうして「令」と「和」それぞれの字義を見てくると,それらが熟語として合わさったとき,一見すると,一種のアポリアとして,相反する意味合いを持つ元号(熟語)に思えて来ます。

つまり,「令」=「善」として形容詞的に「和」を修飾すると考えると,「良い(素晴らしい)和の状態」と読めます。(「和」の語意については,上述の引用を参考にしてください。:前掲書a,p.178)「善(よ)く和す(る)」わけです。

一方,漢文調で訓読してみれば,「和たらしむ」((命令して)「和」の状態にさせる。)とも訓(よ)めるのです。

一体,誰が(何が)命令するのか?

新元号「令和」のイメージ(白い梅花と「令和」の文字)
新元号「令和」のイメージ

3 エピローグ

実は,「「鍛地頭-tanjito-」の令和考」と題して綴ってきたことに,不甲斐なさ・心疚(やま)しさ・口惜しさを孕んだ〈運命〉の神聖性(holiness)のようなものを感じ,妙な気分でいます。抑々,タイトルに「「鍛地頭-tanjito-」の」を冠するべきではないのです。これを冠した時点で,私自らは二元論的ポストモダンの思考のフレームに呪縛されたのですから。「一元論的トランスモダンの時代の到来」を声高に述べながら…。しかしながら,「「鍛地頭-tanjito-」の」と飾らなければならない〈現実〉があることは〈事実〉で,だからこそ,私自身,激しい焦燥感に捕らわれていることも事実なのです。時代の(思考の)フレームから自らを解放し,また解放されることは本当に難しいことであると痛感しています。

現在の私には,その〈解放〉に〈(斯斯然然の)共創造(co-creation)〉しか思い付かない現況があります。この〈共創造(co-creation)〉は米国ミシガン大学ビジネススクールのC.K. プラハラード(C. K. Prahalad)とベンカト ラマスワミ(Venkat Ramaswam)が唱える「Co-Creation」(『The Future of Competition: Co-creating Unique Value with Customers』,2004.10/邦訳本:『価値共創の未来へ―顧客と企業のCo‐Creation (Harvard business school press) 』,武田ランダムハウスジャパン,2004.10)とは発想において通底し,フィールドを異にしています。

次回,後編は愈々(いよいよ)本題に迫ります。

「和たらしむ」主体は誰か(何か)?
〈(斯斯然然の)共創造(co-creation)〉の「斯斯然然」とは何か?
そして(だから),「令和」が象徴するものは何か?

それらを「異文化を超越する〈美〉」をテーマに,少し文学的に眺めてみます。

我が家の庭のムスカリ(接写)
我が家の庭のムスカリ(接写)
我が家の庭の芝桜(接写)
我が家の庭の芝桜

〔追記〕
本ブログは「元号/西暦」に関するイデオロギーを超え,新時代を模索することに執筆の意図があります。

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


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