0 プロローグ
皆さん,こんばんは!
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
今回の「塾長の述懐シリーズ」第15弾は,第14弾に引き続き,「「鍛地頭-tanjito-」のトークルーム」から「朝のご挨拶」を引用して参ります。今回の目的は,私にとっては驚天動地の大事件!!,とてもショッキングなお話を皆さんにお伝えすることにあります。
私は日課として,朝,目覚めると,直ぐに,
「O.K,Google!」
「おはようございます!」
と,スマホに呼び掛けることにしています。なぜならば,リマインダーで主にお好みのニュースプログラムを聴くためなのです。
思い起こせば,前職から教育関連のニュース(教育時事情報)には自然と聴覚が反応していました。しかし,当たり前のことなのですが,教育以外のニュースを聴かないと教育関連のニュース(教育時事情報)を深く理解できないことが,現職を退いた今頃になって,漸く分かってきたのです。お恥ずかしい話です。勿論,激変する時代を敏感に感じ取るためにも,最新の情報は必要ですよね。しかも,睡眠を取ることによって,その日1日の情報が脳内で整理されるからでしょうね,朝一番に聴くニュース(情報)は,すんなりと,かつ,整然と脳内に飛び込んでくる気がするのです。
ニュースを聴き終わったら/聴きながら,歯磨きを(並行して)行って,それらの(私にとって,大概新しい)ニュース(情報)を脳内で一つひとつ振り返りながら,既知の教育関連情報と結び付けてみる。この作業が楽しいのです。連結がうまく行ったときなど,既知の教育関連情報の〈真意〉,〈真実〉が見えた気分になり,その〈既知の教育関連情報〉が脳内で輝いているように思えるのです。眼前がパーッと眩しく拓けていく気分に浸れます。
ところがです! ところがなのです!!
朝の爽やかな気分を一瞬にして突き崩す聞き捨てならないニュースが耳に飛び込んできたのです。思わず,歯ブラシで喉の奥を思い切り突き上げてしまいました。
「ゲボッ,ゴボッ!」(下品ですみません。)
忽ち,脳内のニューロンがその電気ショック張りの衝撃に緊張し,一斉に逆立ちました。と思いきや,瞬間,一斉に弛緩し,ニュ~ロン~と伸び切ってしまいました。
これが,そのニュースです。
慌てふためきながら,私は急いで「朝のご挨拶」の筆を執りました(キーボードを乱打しました)。
1 「朝のご挨拶」(2019.11.26)—「酒は百薬の長」?—
「比叡山延暦寺!!」
「ヒエ~~~ザン,エンリャクジ!!」[1]私が驚いた時に発するお決まりの言葉。と読みます。
皆さん,おはようございます。
私,朝から壊れてしまいました💦
なぜならば,ヤング日経で次のニュースを見聞したからです。
(ニュース記事は上掲済みのため,省略)
何を隠そう,私は大の飲酒愛好家。
それでも,最近,年齢を考えて,控え目にしていたのですが,控え目どころか,「ゼロがいい」と来たもんだ。
今日は火曜なのに,動揺(土曜)が隠せないのですが,ちょっと待ってよ。
「ある論文は」と書いてあるではあ~りませんか。
「国語辞典はある研究者の研究物に過ぎない。疑って掛かりなさい。国語辞典の記述をそのまま信じ込んではならない。そこから研究は始まるのです。」
私が院生時代に学問に厳しい恩師から授かった教えを思い出したのです。
「さすが~,教官~💓」(ウルウル😢)
「ゼロがいい」との結論は,ある一研究者の一研究結果に過ぎないのです。
まあ,だからと言って,「暴飲しよう!!」とは思いませんね。
その一研究結果が〈真理〉・〈真実〉かもしれませんし,やはり,健康が第一ですから。
ただし,「真理・真実だと思いこんでいる/思い込まされているモノを疑うところから,学問(研究)は始まる」ということは,確かに〈真理〉・〈真実〉だと思います。
「常識を疑え!」とよく言うではないですか。
ここ数年,私は特に思います。
「常識くらい非常識なものはない。」(ちょっとだけ言い過ぎ🙇)
テレビの中の無責任なコメンテーターの言葉を鵜呑みにする人たちが多いでしょう。
勿論,そうでない人もいますけど。
かつて
「地球は平たい板のような形だ。」と思われていたのですよ。
そういう人が,権威者を初め,多かったから。
俗っぽく言えば,
「噂を信じてはいけません。」
噂を鵜呑みにする人たちやマスコミによって,意図的に切り剥がされ(加工された)断片的情報をもって,それが複雑な構造体である物事の〈事実〉,〈真理〉,〈真実〉だと思いこむほど,不幸なことはありません。
皆さんだって,自己の一面だけで〈皆さん〉を概括的に評価されたとしたら,それは面白くないでしょう? と言いながら,私はその「面白なさ」を通り越して達観していますけど。
だからこそ,〈真理〉・〈真実〉に近づこうとする(大人を含めた)こどもを育てるべきだと思います。
巷間では「教員の常識(は),非常識(だ。)」とよく言いますが,現代の〈真理〉・〈真実〉に近づこうとする姿を忘れかけた巷間を思うと,「(その)逆が真」だったりして……,なんて思いますが,やはり,それもないと思います。
このトークルームに集う私たちは,〈真理〉・〈真実〉に近づく態度を養うために,持ち越しになっているトークテーマに勤しみましょう。
「学級(ホームルーム)の中にLDやADHDなどを持つ児童生徒がいます。あなたは担任としてどのように指導しますか?」
本日のトークのメインは,具体的な指導の在り方になりそうですね。
それにしても,「酒は百薬の長」ですよね?
註:下線は引用時に筆者が施した。
2 塾長の述懐
(1) 「固定観念の呪縛からの解放」と〈均衡・塩梅〉
「酒は百薬の長」だと信じ込んでいました。「酒というものは,ほどよく飲めば,どのような薬よりも健康に良い」と。まあ,私の場合,この金言を免罪符にしているようなところがありますが。
それにしても,上掲のニュースが私の固定観念に揺さぶりを掛けたことは事実です。問題となっている金言そのものが有する「言説の権威性」に自らが囚われていたと気づかされました(=〈相対化〉)。はっとしました。しかし,それ以上に揺さぶられ,驚かされたことは,普段,私がよく口にする「固定観念の呪縛からの解放」そのものを《相対化》できたことです。つまり,私が「固定観念の呪縛からの解放」を口にする際に生成される言説は,その言述行為を繰り返すうちに,いつの間にか自己内/外に所謂「権威性」を醸成してしまい,「固定観念の呪縛からの解放」自体が〈固定観念〉化していて,漸くそのことに気づいたということです。……遅まきながら💦
さらに,気づいたことがありました。「固定観念(=テーゼ)/非-固定観念(=アンチテーゼ)」が〈相対化〉を受け,止揚(aufheben)される過程において,〈均衡・塩梅〉が作用するステージが介在するのではないかということです。止揚(aufheben)の過程では,「テーゼーアンチテーゼ」間で一つの要素はお互いを否定するものの,完全に相殺され,捨て去られることはなく,保存された状態で高次元の全体へと組み込まれていきます。その保存時に「テーゼーアンチテーゼ」間の矛盾を〈矛盾〉として抱える初期のステージにあって,〈均衡・塩梅〉,すなわち,〈匙加減〉が機能するのではないのかと考えるのです。機能させる主体は止揚(aufheben)を行う行為主体でしょうが,それは,私たち人間が支配を受ける《宇宙の意思》である場合があるのかもしれませんね。
(2) 「酒は百薬の長」!!
「酒というものは,ほどよく飲めば,どのような薬よりも健康に良い。」
私としては,この年になっても,「ほどよく」呑む「匙加減」が難しい🙇 だからこそ,この「ほどよく」は「浴びるほど呑む/全く呑まない(「ゼロ」)」の中を取って,そう述べるのではないと思うのです。私にとって,「ほどよさ」は量的な問題ではないということです。私にとっての「ほどよい」境地は,私心のない無心な無我の境地を指して言います。—「酒を呑むこと自体が「私心」ではないか!」と罵倒する巷間の声が聞こえて来る…💦―決して酩酊の境地ではありません。世俗を離脱した高次元の境地です。要するに,高次元のステージに至るには,まずは〈ほどよさ〉(=〈均衡・塩梅〉)が不可欠なのです。そして,この〈ほどよさ〉が「適当」「適切」でないことの説明に多言を要しないと思います。それとも,これはほろ酔いの体で,本ブログを綴っている筆者のドクサ(臆見)なのでしょうか…。「ドクサ」だけにドサクサに紛れての放言かと…。
「酒は百薬の長」!!
これから,もう1杯呑んで,高次の無我の境地へと参ります。
「匙加減」,「匙加減」……おやすみなさい。💤
© 2019 「鍛地頭-tanjito-」
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