つまり,大正自由主義教育者の考える「個性」では,
- 他者と異なる性質としての「独自性」「特性」
- プラスの性質としての「独自性」「特性」
の2つの概念が用いられていた。明治30年代に生じていた概念が大正自由主義教育者の関心を集めるようになっていったのである。
ここで押さえておきたいことは,「学指道徳」では次のようにも述べられていることである。
自己を振り返って改めるところは改め,自己を高めようとする意欲や態度は,継続されなければ将来にわたっての自己実現とはならず,本当の個性にはなっていかない。
p.35
「特徴とは,他者と比較して特に自分の目立つ点と捉えている。それは,長所だけではなく短所も含むものである。自分の特徴をよい方向へ伸ばしていけばそれは長所となり,苦手なこととして改善を図らなければ短所となることもある。(P.34)」の考えを継承し,短所は改めて,長所をさらに伸ばしていくことが「自己実現」へとつながり ,「自己実現」につながる「個性」が本当の「個性」であると捉えているようである。
最後に,次のように述べられているものもある。
村井の言う「よく生きよう」とする人間観に立ち、その視点から教育を「それぞれの『よく生きよう』とする生き物としての人間を相手とする、しかもそうした相手を『よくしよう』とする働き」であるとした。そして人間を「よく生きよう」としているものとし、その立場から考える教育において、「個性」とは、その「よさ」の判断の独自性のことと再定義することができる。「個性」とは能力や特徴等ではなく、人間に備わっている「働き」や「機能」のことを指すのである。つまり教育の立場から見る、「個性」は静的なものではなく、「働き」や「機能」といった「動的」なものである。それ故、教育において「個性」を考えるというのは、単に得意分野を早く見つけて伸ばしたり、他者とは違った目立った特性を身に付けさせる効率的な方法を考えたりすることではない。「動的」な個性は、人間同士が関わり合うことによって、変化を続けていくものなのである。変わりゆく 「個性」、つまり「よさ」の判断の独自性や、デューイのいうような物事との独自な関わり方に着目し、それをさらに「よく」しようと関わり続けることこそ「動的」な「個性」に働きかけるということになるだろう。「個性」は、「よさ」の判断の独自性といっても、単に個人の内の働きのみを示しているのではない。それは、他者や社会との相互作用を前提としたものなのである。そして、その相互作用によって無限にもたらされる、変化や革新を認めてこそ、 教育において「個性」に働きかけることを重視できるのである。ビースタは、教育の知識や技術の 「資質化」、「社会化」、「主体化」という3つの機能を指摘した。このように、教育の営み自体に、「主体化」(その人がますますその人らしくなる)ことが含まれている、だからこそ、個々に着目しているようで、実際には画一性を目指している場合、「個性」という問題は度々立ち上がってくるのであろう。
『教育における個性』石塚彩,2015,pp.87-88
「個性」の定義
「間主観性」を基軸に据えることによって見出された「個性」とは,「ある特定の一面から見た『よさ』」のことである。それは短所を改め,長所を伸ばす「自己実現」を可能とする。人間同士が関わり合うことによって,絶えず変化を続けていく動的な機能が「よさ」なのである。
誰にも「個性」と呼ばれるボタンがある。「明るい」「暗い」「社交的」「内向的」「気配り上手」「自分のことしか考えない」「活動的」「穏やか」「集中力がある」「飽きっぽい」「粘り強い」「へこたれやすい」「規律正しい」「ルーズ」など。
例えば,長年Aさんは帰属する周囲の成員から「内向的ボタン」を押され続けてきた。なぜならば,周囲の大半を占める成員のAさんに対する見方(評価)が「内向的」であったからだ。周囲の成員は,各自が所属する集団・共同体などにあって,そこで通用する/そこでしか通用しない「内向的」が示す概念を共通了解しており,それを基準として各自がAさんを見る(評価する)ため,「Aさん(の個性)は「内向的」だ。」が共通了解となるのだ。
(あの人に比べて,)この人は「明るいな」
↓
だから,この人は「明るい」という個性な
んだな
↓
周りの人もこの人を「明るい」と言ってい
る
↓
やっぱりこの人は「明るい」
このように考えると,帰属する集団・共同体(小さなフレーム)などが異なれば,個性は変形する可能性を持つということになる。無論,世界・社会(大きなフレーム)などが異なってしまっても,個性は変形する可能性を持つのである。上述の例を用いれば,「内向的ボタン」を押されていたAさんは,別のボタンを押されることになるのだ。つまり,個性はフレームとの関わりの中で形成される側面を持つ。
そうすると,次のようなことが考えられる。大小を問わず,フレームは時間軸・空間軸・集団の特性に沿って大なり小なり変化すると。それは人類の長い歴史を見れば歴然としている。
このように,時間軸・空間軸・集団の特性に沿った大・小のフレームとの関係性において,押される「個性のボタン」は強化されたり,弱体化されたりするのである。そこには大・小のフレーム,すなわち,時代・世界・社会・集団・共同体などの共通了解が前提としてあり,したがって,他者視点が介在しているというわけだ。
また一方で,「個性」は実体を伴う他者の視点が介在することによって受動的に形成されるだけではなく,自己内に存在する他者(以下,「自己内他者」)による他者視点によって能動的に形成されるものでもある。人生を歩んでいく長い道程にあって,自身の個のフレームへの関わり方そのものが変化することだってあるのだ。否,それは往々にしてあることだ。すなわち,これらの変化が,それまでのボタンとは異なるボタンを押す結果となるということだ。
「どんなボタンが存在しているのか?」
「どんなボタンが弱体化し,どんなボタンが強化されているのか?」
自己内他者による他者視点を介在した自己内対話は,自己が想定する「個性のボタン」を検証軸にして,実体を伴う数多くの他者が押した,又は押さなかった「個性のボタン」をメタ認知する。その結果,繰り返される自己内対話の集積がホントウの「個性のボタン」を探し求める。そして,その探し求めた「個性のボタン」を押すか否かは,実体を伴う他者と自己内他者とのつながりの中で決定されていくのである。
以上から,私の考える「個性」とは,次のとおりである。
「個性」
他者(自己内他者を含む)や時代・社会との相互作用を前提として、”よく生きよう”という「資質化」「社会化」「主体化」という3つの機能をそなえながら、「自己実現」に向けて、絶えず変化する,その人独自の「よさ」が認められてきたもの/その人自身が「よさ」を認めてきたもの。
「個性の伸長」の定義
「個性の伸長」とは,上記の「個性」に変化や革新が認められることである。
変化や革新とは,「よく生きよう」を前提として,時間軸・空間軸・集団の特性によりその人独自の「よさ」が(を)多面的・多角的に認められ(認め),進化・深化して自己を形成し続けていくことである。
つまり,「個性の伸長」とは次のとおりである。
「個性の伸長」
(自己内他者を含む)他者や時代・社会との相互作用を前提として,”よく生きよう”という「資質化」「社会化」「主体化」という3つの機能を備えながら,将来にわたる「自己実現」に向けて,絶えず変化する,その人独自の「よさ」を進化・深化させて,自己を形成し続けていくこと。
私は,将来にわたる「自己実現」に向けて,絶えず変化するその人独自の「よさ」や自分らしい生活や生き方について考えを深める視点から,児童生徒が調和のとれた自己を形成していけるよう,自己を磨いていこうとする意欲や態度を育てていきたいと考えている。
[引用文献]
- 「遊びのフレームにおける間主観的個性の形成に関する考察―スタンステーキングの視点から―」,高梨 博子,社会言語科学会,19巻1号,2016,2022.01.31アクセス
- 「近代日本における「個性」の誕生と展開」,雲津英子,日本子ども社会学会,研究論文 子ども社会研究11号,2005
- 「教育における個性」,石塚彩,創価大学大学院紀要 37号,2015,2022.01.31アクセス
- 青空文庫作成ファイル,1999年9月17日公開,2022.01.31アクセス
[参考文献]
『現代思想の冒険』,竹田青嗣,筑摩書房,1992.6
塾長のつぶやき
現象としての「個性」
まずは(「個性」の内実ではなく,)フレームとしての「個性」の普遍性はあるのか?
本ブロンブンはこの疑問から始まる。この命題に正対するとき,「個」と「個性」とを明確に峻別して考えなければならないことが解る。えいいち先生の「「個人特有」に立ち止まって考えてみると,自己に「個人特有」のものがあるのかと問うてみて,そのようなものが見つかるのだろうかと思ってしまう。」はそうした言説を紡いでいるように思える。したがって,闇雲に学習指導要領(解説)を批判するものではない。次元を異にしている。
「自由」とは世界のフレームの中に間主観的に醸成された数多の選択肢の中から選択することを指す。したがって,フレームから逸脱する言動は混沌の源となり,(「自由」と一体化した「責任」の追及を受け,)虐げられるか処罰されるか……のはずだが,現代は履き違えた「自由」が闊歩する時代であるため,だから混沌としている。
奈何せん,我々がフレームを超越することはできない。それは我々が言語世界(言語コミュニティー)の住人だからだ。我々は言語の壁を超えることはできない。言語を離れて人間の意思は存在しないのだ。
えいいち先生はその点を指摘したいのだ。「個性」という名のフレームを問題にしたいのだ。
「あなたは明るい。」
「私は明るい。」
「明るい」は「明るい」を用いる言語コミュニティーの住人ならば,その概念を朧げに捉えることができる。なぜならば,当該言語コミュニティーの数多くの住人が歴史的な時間を要しながらそのような共通了解を形成してきたからだ。
つまり,えいいち先生が述べる「「個性」と呼ばれるボタン」とは「「明るい」「暗い」「社交的」「内向的」「気配り上手」「自分のことしか考えない」……」などの共通了解を有する「個性」というフレームの中の小さなフレームを指している。
「個性」は数々の小さなフレームから選択されたフレームが他者により他者の共通了解に基づいてその本人に与えられ,「個性」となる場合がある。それは本人が与えられた「個性」を意識的に/無意識的に受け入れた場合と考えられる。無論,拒否することもあるだろう。一方で,本人自らが「個性」という言語世界とかかわり合い,「世界」という大きなフレームとも「対話」を持ちながら,数々の小さな「個性」のフレームから自ら適合すると思われるフレームを選択/拒否する場合もある。それらが「個」を〈個〉ならしめる環境であり,それを「個性」と呼ぶのではないかとえいいち先生は述べているのである。
そうであるならば,浮遊する「個」を〈個〉として同定する「個性」化の過程は生そのものであり,人生の旅路,「自己実現」の道程とも言えるわけである。
人間は「世界」という大きなフレームとかかわり合い,自己/他者が選択した「個性」という小さなフレームともかかわり合いながら,それらを受け容れたり,却下したり(=〈選択〉)する営みを繰り返す。それを可能にする営為が〈自己内対話〉だ。〈相対化〉の機能を内包する〈自己内対話〉なくして「個性の伸長」はない。
(前略)「よく生きよう」を前提として,時間軸・空間軸・集団の特性によりその人独自の「よさ」が(を)多面的・多角的に認められ(認め),進化・深化して自己を形成し続けていくことである。
本文より
多面的・多角的な視点を持って〈自己内対話〉を繰り返す中で,自己が〈選択〉する「良さ」(≒「個性」)を求め,「進化・深化し」続ける過程こそが「個性の伸長」というわけである。
このように鑑みれば,「個性の伸長」には「自己内対話力」が必要であることが解る。この能力について,ここでは詳述しないが,「主体的・対話的で深い学び」を根底から支える能力であることは間違いない。「主体的・対話的で深い学び」を土俵とする現代の学校教育にあって,例えば「個性の伸長」が道徳教育の内容項目として,この土俵に上がってくる理由が,これで理解できるはずである。
教師ならば,まずは〈学力〉を身に付けよ!
「一教師は一研究者なり。」(by 「鍛地頭-tanjito-」)
かなり以前の話である。
えいいち先生は道徳の授業を実践しようとした。そして,(現)『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』(文部科学省,平成29年7月)の26頁(第2節 内容項目の指導の観点)に「個性の伸長」(小学校第1学年及び第2学年(19),A 主として自分自身に関すること)を見つける。
「「個性」って何だ?」
「「個」と「個性」とは異なる概念だよな。」
「その「個性」が「伸長」するとはどういうことだ?」
そう脊髄で反応する。問題を発見したかぎりにおいては考え調べ,(考えるためにも)表現し,解決せずにはいられなくなる。これが〈ホンモノの教員〉の一様相だ。
「今の学校現場でそんな悠長なことをしていられるか! 道徳の授業の準備なんて5分だ。」
「(そいつは)仕事をしていない教師だろう!」
丸反対である。人並み以上の仕事を熟している。
「こどもたちに真正な〈学力〉を身に付けさせたい。それを付けることが教員の最たる仕事だ。(だから,まずは自分(=教師)が指導に生きて働く〈学力〉を身に付けなければならない。/学び続けなければならない。)」
えいいち先生はそう思っている。だから,人並み以上の仕事を熟しながら,思索を続ける。授業実践⇄改善を日々計画的に継続する。
塾長は恒常的に講座の内外でつぶやく。
「(教師は)理論と実践との懸け橋となれ。」
「(教師は)理論だけの頭でっかちではダメだ。」
「(教師は)授業を初めとする教育実践だけを行って自己満足して終わっていてはいけない。AARサイクルをしっかりと回し授業改善を積み重ねるんだ。」
「一教師は一研究者なり。」
「世間では学習者に「確かな学力」を身に付けさせるようお題目のように言われるが,教師がその〈学力〉を身に付けてなくて,どうやって教えるんだ?」
「教師は教育研究ができなければならない。教師に探究力は必須だ。それなくして,どうやって問題解決型の学習を採り入れた教育活動ができるんだ?」
えいいち先生は「個」及び「個性」,そしてその「伸長」について自らの思索を深めるため,歩き始めたばかりである。したがって,本ブロンブンの論述にはかなりのご批正があることだろう。論文の書き方もこれから学ばなければならない。塾長を含め,「個」や「個性」を研究テーマに掲げてそれを生業とする研究者でもない。その意味ではド素人なのだ。
だが,えいいち先生は思索という行為を通して主体的に学び続けようとしていることに相違ない。現代の数多くの教師に最も欠落している資質・能力を懸命に磨こうとしている。少なくとも学習者に対しての,そして自らに対しての〈学びの責任〉は果たそうとしている。そうしたえいいち先生を支えるものは何なのか?
本ブロンブンの草稿を塾長が初めて手にしたのは昨年(令和3(2021)年)の12月12日のことだった。なぜアップロードに約1月半を要したのか?
それは,塾長との問答(〈対話〉)が続いていたからである。ただ問答(〈対話〉)は依然として続いている。その結果,本ブロンブンにおいて「個」にかかわる言述に及ぶことができなかった。
「個」を考えずに「個性」に言及するのか?
否,当然,「個」についてもえいいち先生なりの考えがある。その片鱗は本ブロンブンの言説に多少なりとも伺えたはずである。ただそれだけでは用をなさない。したがって,次回以降の「えいいち先生の教育鍛談」において,「続個性考」と題し披瀝してみたいと考えている。
「いくら思索を重ねても学習者に学力を付ける授業ができるとは限らない。頭でっかちになるだけだろう!」
「そうですか? 教師としての総合的な人間力で学習者と共に授業を創造するのだから,思索を重ねることはその一部を形作る。「はいはい,「個性の伸長」ね。」と思考停止したまま行う授業と(結論に辿り着いていなくとも,)思索を重ね続けた授業とを比較するならば,授業者が同等の教育スキルを持っていたとして,後者の授業の方が学習者に学力を付けるのではないですか? 抑々,「個」や「個性」について考えることなく,「個性の伸長」等を内容項目とする授業は成立しませんよ。」
© 2022 「鍛地頭-tanjito-」