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「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる〔11〕

研究論文の草稿の上に置かれたスケルトンの地球儀 塾長の述懐
研究(提供 photoAC)
この記事は約24分で読めます。

2 「通常の授業/補習授業」

「通常の授業は徹底して考える授業をするぞ。でも,始業前や放課後の補習授業は1点を無駄にしない(=1点の獲得に喰らい付く,受験テクニックを体得する)授業をするけんのう。」(筆者注:国語科教師が方言丸出し。)

高等学校の国語科教師として,毎年,どの学年も,どの科目も,最初の授業に私は学習者(生徒)に対してこのように明言してきました。それは初任者の時代(昭和63年・平成元年)から,県教委の職員や学校で主任・管理職となって国語の授業ができなくなるまで続きました。

「(国語の授業で,)50分間(1コマ)の授業において,その三分の一以上を教師の言葉で語ったら,その授業は失敗だと思いなさい。」

私が出身大学の教育学部(旧)国語教育学専修で叩き込まれた国語科授業観の一つです。ですから,授業者である国語科教師がダラダラと喋り捲る,所謂レクチャー型の授業を行うのではなく,――無論,授業の目的(ねらい)に合わせて,そうした授業があっても良いのですが,――簡潔に述べれば,私は学習者に〈考えさせる授業〉を行うことが信念でした。授業は真剣勝負です。1コマの授業の中で,必要な知識(情報)は注入し,――授業者の語り一辺倒に頼ることなく,授業のコンテクストの中で学習者の脳裡に必要な知識(情報)をインプットしていき,――学習者の既知の知識(情報)と併せて「地頭」をどれだけ活性化させ,鍛えることができるか。その点に全身全霊を打ち込んだものでした。毎日,毎時間の授業が終了すれば,内省によって授業の課題を抽出し,その〈内省〉を生かしながら,翌日の3~4種類の授業を組み立てました。私はカード(法)を使って授業を行っていました。――表には板書計画,裏には確認の質問からサブ→メインの発問計画を記述したA6判のカードを作成し,授業に携帯していたのです。殊に,メインの発問では様々な学習方法・形態を駆使しながら,しっかりと学習者に思考・判断・表現させたのです。最終的にカードは約500枚ほどになりました。――

ですから,1単元を終えるのに他の先生方より時間が掛かりました。それは必然でした。当時,私が国語科教師として職歴を積んだ学校には「シラバス」(単年度の授業計画や評価基準等を掲載した冊子)は存在せず,授業の進度は,随時,国語科の先生方との話し合いで決まっていたのです。

「小桝っさん,あんたのせいで,今回も(定期)考査の試験範囲が短くなったじゃないか! 何をトロトロやりょうるんなぁ! そんな授業をされたら堪らんわい! 受験に太刀打ちできなくなるじゃないか!! 〈考えさせる授業〉だって!? そんなもん理想よ!!」

先輩の先生方によく言われました。

事の是非は扨(さて)措いて(笑),常に私は自身が(教員として)初任者の折にも,そうした忠告(助言? 叱責? 詰(なじ)り?)に猛反発しました。先輩であろうが,容赦しませんでした。大喧嘩になったことも,事実,ありました。

「授業進度の速さだけが受験学力,延いては国語力に直結するのか!?」

「指導書(先生用ガイドブック)の文言を教科書教材の行間に蟻が這ったような文字で書き込み,それを滑滑(つらつら)と授業で読んで学習者に聞かせ(る授業をして),(学習者に)国語力が付くわけがない!!」

「〈考えさせる授業〉をして,「地頭」をしっかりと「鍛」えれば,受験なんぞ屁でもない!!」(筆者注:下品な表現で申し訳ございません。)

その代わり,補習授業で私は豹変しました。最初のクラス編成で,私の通常の授業を受けていない学習者も混じっていましたが,それでも意識的に豹変しました。そうしないと,自らが壊れてしまいそうに思えたからです。なぜならば,信念を曲げるのですから。「受験が社会システムである以上,私がそのシステムに住まわされ,神仏でない以上,信念を曲げないと「(受験)テクニック」だけは教えられない。」と当時の私は考え,困惑・困窮していたのです。

「(ならば,)1点を無駄にしない解き方を教えてやる!!」

例えば,センター試験の漢文などは,2週間あれば,得点を上げることができます。実際,ある年,模擬試験では全国平均点より十数点以下という学年を,センター試験直前の補習授業(期間 2週間)で,私のクラスだけは本番の試験で全国平均点を上回る成果を上げたことがあります。――ただし,私のクラスだけではダメなのです。少なくとも国語科の教員集団が組織性をもって,当該学年を対象とした成果を出さなければ。飽くまでも受験社会では。だから,いつしか私の補習授業には,他のクラスの学習者がこっそりと混ざる帰結に至ります。全く宜しくない。――しかし,これらセンター試験の漢文で成果を上げた学習者が,その程度のレベルの学力で漢文学を読めるかと言えば,回答は「(ほぼ)NO!」であるわけです。

一体,センター試験の「漢文」,延いては「国語」は何(の力)を測る試験なのか!? しかも,受験制度は社会システムだから(仕方がない)と(〈ホンモノ〉ではない)諦観の境地に仮寓するなら未(ま)だしも,(〈ホンモノ〉の)「社会システム」が存在することすら気づいていない大衆社会の実相があるのではないか!?

「時間を掛けて,受験テクニックに自ら辿り着き,活用する(=自分のものにする)「地頭」をつくれば,何も「困惑・困窮」することはない。」――現在の私はこう思うのです。

漢文,漢詩,中国語背景
漢文、漢詩、中国語背景(提供 photoAC)

3 「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる

皆さん,こんにちは。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。

「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる。

これが私の信念であり,〈真実〉であると思います。受験テクニックも,そのテクニックを発見し,活用できる「地頭」があれば習得できるわけで,要するに「地頭」を「鍛」えること(=「鍛地頭」)がポイントなのです。――「鍛地頭」がポイントになる理由及びその具体的な方法については,追々,明らかにしていきます。ただし,ここでは,正しい鍛え方や鍛えるための考え方が存在すること,「鍛」えるためには,こどもたちの発達段階に即して長時間が必要であることを付言しておきたいと思います。――受験に対応できる学力(=仮に「受験脳」)は「地頭(力)」の一部を構成していることは事実であると思いますが,それだけのことです。なぜならば,「地頭(力)」の極一部でしかない受験脳だけでは,日常生活を真面(まとも)に送ることができないのが,何よりの左證だからです。そして,このことは万人が認めることでもあります。

受験テクニックだけで,地頭のできていないバランスを欠いた勉強ばかりしていると,たとえ希望の大学に入れたとしても,入学後は伸び悩んでしまいます。「大学までの人」と「大学からの人」と昔からよくいいますが,「大学までの人」にならないための一番の方法は,じつは探究学習にあります。探究学習を通じて,地頭力を鍛えることが絶対に必要なのです。「大学からの人」になれば,大学に行かなくても大丈夫,とさえいえます。

茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,超進学校ほど,受験テクニックは教えない,検索元 amazon.com…a

探究学習によって学習を効率化する脳の回路が働き,結果的には短期間で受験科目を伸ばすことができるのです。

前掲書a:第2章,探究学習が基礎となり,受験に受かる学力がつく,検索元 amazon.com

探究学習は,来るべきAI時代に備えるために必要な勉強法であるだけでなく,いわゆる旧来のエリート校といわれる大学の入試を突破するためにも,有効な勉強法である,ということです。

前掲書a:第2章,探究学習が基礎となり,受験に受かる学力がつく,検索元 amazon.com

一年間は開き直って今の受験システムをまず突破しよう。でも,公式の丸暗記とかじゃなくて,自分で発見しながら探求型を採り入れてなるべく楽しく勉強しよう。受験が終わったら,切り替えてまた楽しく探究してください。

前掲書a:第2章,大変化の時代を生き抜ける子に育てるために,検索元 amazon.com

茂木健一郎氏の前掲書aだけから四つもの引用を一挙に行うことは,研究に正対する態度からすれば,「なっとらん!!」わけです。なぜならば,私の立論に都合の良い文献(箇所)だけを引用しているので,アンフェアだからです。換言すれば,茂木説に反論する引用も含めるべきだということです。そのことを承知で引用を試みた次第です。私の考えと全くもって通底していることから,私自身が嬉しくて興奮したので。――申し訳ございません。言い訳です(笑)。――

茂木氏は「探究学習」と紐付けて 「地頭(力)を鍛える」必要性を「絶対に」を付加して論じておられます。――「探究学習」とは,日常的に自らの周辺に生起する問題を自ら発見し,それを解決するため,情報を収集・分析・活用し,他者と〈対話〉を持ち,協働し,問題解決を行う(アウトプットする)――結果・成果が出なくてもO.K,探究の過程を重要視する――学習方法※ⅰのことです。今次改訂となった新学習指導要領でも「総合的な探究の時間」を初めとして,各教科において重要視されています。――「探究学習」は「研究」の基礎づくりを担う学習方法ですから, 「地頭(力)を鍛える」 ことは,つまり「研究脳」をつくることとも言えるわけです。

このように,上記の引用文からも「地頭力(研究・探究学習)⊃受験学力(受験テクニック)」であることが読み取れるのです。

調子に乗って,前掲書aから多くの引用を行った序に,もう一つ。

僕(筆者注:茂木氏)の実感からいくと,日本で一番「頭がいい」と思われているであろう東大生でも,「本当の思考力」を身につけられている学生は,一割くらいです。

前掲書a:はじめに,東大生の一割しか,本当の思考力を身につけられていない,検索元 amazon.com

流石,茂木氏。東大出身の茂木氏が,「本当の思考力」を身に付けておられるからこそ(東大生の内実を含めて)言える言表です。というのも,「本当の思考力」とはまさに「地頭力」のことであり,それを「鍛」える必要性を唱えるとともに,「頭がいい」との評価言を疑うことなく口にする「東大(・京大)言説」に回収された大衆の相(すがた)を暴いていると読み取れるからです。これらの点について,私は既に次のブログで指摘していました。

【参考】

真剣な表情でパソコンとスマホを睨めっこする机に付いた男の子
真剣な顔でスマホとノートパソコンを使う男の子(提供 photoAC)

4 「地頭」を定義する

ところで,ここで再確認しておきたいことがあります。それは当塾が使用する「地頭」の定義です。一例として,辞書的には,次のような記述を見出すことができます。

じ‐あたま〔ヂ‐〕【地頭】の意味
1大学などでの教育で与えられたのでない,その人本来の頭のよさ。一般に知識の多寡でなく,論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう。「地頭がいい」「地頭を鍛える」

goo辞書 出典:デジタル大辞泉(小学館),「2」の意味については省略しました。なお,下線は筆者が施しました(以下,同様です)。

しかし,当塾は「その人本来の頭のよさ」という概念を採りません。なぜならば,このように表現すると,生来の「頭のよさ」を連想し,「鍛」える必要性が認められないからです。――しかし,引用文中の下線部には,十分に「鍛」える必要性を読み取ることができます。――

では,当塾の「地頭」の定義とは?

豊富な知識量を基盤とした,

〇 問題解決能力(自らの身辺に生起する問題を発見し,その解決方法を自分の頭で思考・判断し,実践〔表現〕できる能力)
 
◎ 問題状況を多視点から捉え,分析できる能力
  ◎(社会的)コンテクストに応じた情報を収集し,知識化した情報を活用(論理的思考)・表現(コミュニケーション)できる能力(インプットからアウトプットできる能力)
  ◎豊かな発想力・想像力


〇 「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」を継続できる能力

〇 豊かな人間関係形成能力(乳幼児から大人に至るまでの「人(の存在)」を心から愛する豊かな感性)
 
◎他者を多視点から捉える能力

〇 他者と新しい文化を〈共創造(co-creation)〉できる能力

「「地頭(じあたま)」の定義」(当塾公式ホームページ)

つまり,一言で述べるならば,

総合的な人間力

ということになります。

当塾は,巷間に「地頭」を「12歳頃までに成熟する先天的な知能」と捉え,「地頭」そのものを鍛えられないものと考える向きがあることを重々承知いたしております。しかしながら,現代の脳科学者が「地頭力」という概念(言表)を使用するご時世なのです。

確かに当塾の「定義」は「豊かな感性」(情緒)までも含むものであり,一見,支離滅裂の誹りを免れないものだろうと拝察します。しかし,意識が言語に先立つのではなく,言語が意識に先立つと考えれば,――感性も言語世界の住人であり,脳内の言語作用に依拠するものならば,――「地頭(力)」に「感性」(情緒)が含有されていても少しもおかしくはないと言えるのです。

(前略)話し手の意思(意識)も聞き手の意思(意識)も,言語世界(言語共同体)の内部に存在しているということである。すなわち,言語を離れては人間の意思(意識)は存在しないということである。つまり,人間の意識なるものは言語と無関係に独立しているのではなく,つねにすでに言語的なものとして,言語に規定されて存在しているにすぎないということである。

長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ――知の構築のために――』,山川出版社,p.107,下線部の原文は朱書きされています。

それ(筆者注:読む,書く,話す,聞くが全教科の中心ということ)以上に重大なのは,国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。

藤原正彦(2016.4):『祖国とは国語』[キンドル版],国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com…b

人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすことはない,といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。

前掲書b:国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com

高次の情緒とは何か。それは生得的にある情緒ではなく,教育により育まれ磨かれる情緒と言ってもよい。たとえば自らの悲しみを悲しむのは原初的であるが,他人の悲しみを悲しむ,というのは高次の情緒である。

前掲書b:国語教育絶対論,(四)国語は情緒を培う,検索元 amazon.com

5 「鍛地頭(「地頭」を「鍛」える)」とは

我々は「間主観的拘束性※6により「自らが生きた時代や所属した共同体の精神及び認識(イデオロギー・共同主観)」(=時代及び各種共同体言説)に,固有の生活背景に起因する「個性化された認識」を加味した「語り」」※ⅱを語る存在です。その「語り」の基盤となる時代の推移は言語の位相を生じ,各種共同体は固有の言説を醸成します。つまり,「時代」及び「各種共同体」という枠組み,すなわち「構造」は我々人間の意識(やものの見方・考え方)を構造化します。その「構造」こそ「文化・文明」であり,それは「言語」に他なりません。このように考えれば,我々人間は「言語(世界)」の枠組みの中で,「言語に規定され」ながらものを考え,感じているのです。要するに,「意識」「感性」「情緒」は「言語」を離れて存在しているのではなく,「 すでに言語的なもの(大胆に表現するならば,「言語≒意識・感性・情緒」)として 」存在していると考えることができるのです。

だからこそ,(高次の)「豊かな感性」を磨くためには,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えることが最重要であるということになります。

このことは,「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」の育成においても同様に述べることができるわけです。――「思考すること」「判断すること」「表現すること」(「俯瞰すること」)は全て「言語」に依拠している(大胆に表現するならば,「言語≒「思考すること・判断すること・表現すること(・俯瞰すること)」)のですから。――

中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チームは,「言語―思考・感性・情緒等」関係を「資質・能力の育成―言語能力」関係の中で捉えており,「整理メモ」の体裁でインターネット上にアップしていますので,是非参考にしていただきたいと思います。かなり長い引用となりますが,肝心な事柄ですので,次にその一部を引用しておきます。

2.資質・能力の育成と言語能力との関係について

・子供は,乳幼児期から身近な人との関わりや生活の中で言語を獲得していき,発達段階に応じた適切な環境の中で,言語を通じて新たな情報を得たり,思考・判断・表現をしたり,他者と関わったりする力を獲得していく。このように,言語は,子供たちの学習や生涯にわたる生活の中で,極めて重要な役割を果たしている
・言語能力は,国語科や外国語科のみならず,全ての教科等における学習の基盤となるものである。例えば,「論点整理」が提示した資質・能力の三つの柱に照らせば,以下のように考えることができる。

1 個別の知識・技能
・学習内容は,多くが言語を用いて表現されており,新たな知識の獲得は基本的に言語を通じてなされている。
言語を通じて,知識と知識の間のつながりを捉えて構造化することが,生涯にわたって活用できる概念の理解につながる。
・具体的な体験が必要となる技能についても,その熟達のために必要な要点等は,言語を用いて伝えられ理解されることも多い。

2 思考力・判断力・表現力等
・教科等の本質に根ざしたものの見方や考え方の獲得は,各教科固有の学びのプロセスを通じて行われる。このプロセスにおいては,情報を読み取って吟味したり,既存の知識と関連付けながら自分の考えを構築したり,目的に応じて表現したりすることになるが,いずれにおいても言語を通じて行われる。

3 学びに向かう力,人間性等
・子供自身が,自分の心理を意識し統制していく力や,自らの思考のプロセスを客観的に捉える力(いわゆる「メタ認知」)の獲得は,心理や思考のプロセスの言語化を通じて行われる。
言語を通じて他者とコミュニケーションをとり,相互の関係を築いていくことにより,思いやりや協調性などを育むことができる。
言語は,全ての教科等における資質・能力の育成や学習の基盤として重要な役割を果たしており,言語能力の向上は,学校における学びの質や,教育課程全体における資質・能力の育成の在り方を左右する,重要な課題として受けとめる必要がある。

中央教育審議会 > 初等中等教育分科会 > 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チーム > 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チーム(第3回) 配付資料 > 資料5 言語能力について(整理メモ)平成28年1月13日(水曜日)10時00分~12時00分 …c

因みに,引用文中の「いわゆる「メタ認知」」は当塾の基本的な実践項目である「〈相対化〉」の一側面を意味しており,この営為も「言語を通じて」行われるものであることが分かります。また,当塾の基本理念である〈恕(=思いやり)〉も「言語を通じ」た「他者とのコミュニケーション」により育まれるものであることを確認しておかなければなりません。

コルク性の台の上の巻紙に大書された「言葉の力」
言葉の力(提供 photoAC)

ところで,かつて私は「青天の霹靂 ― 一人ひとりが輝く育児 ― 〔第1回〕」(小桝雅典,当塾公式ホームページ,2018.5.14)で,次のように指摘したことがあります。

教育のみならず,
人の営為はすべて〈言葉〉で紡がれています。
誰しも,脳裏でものを考えるときには,
〈言葉〉で考えているわけです。

他者の「言葉」を聴き,自らの脳裏のスクリーンに描かれるイメージも,
〈言葉〉によって再構築されているわけです。

だから,脳裏に蓄積される〈言葉〉の数が多いほど,
深く・幅広くものを考えることができるのです。
極端な例ですが,3つの〈言葉〉しか持たない脳よりも,
100個の〈言葉〉を持つ脳の方が,考えが深く・広いはずなのです。
勿論,知としての〈言葉〉を活用・運用できての話ですが。

育児も〈言葉〉で織りなす尊い営為だと思います。
育児にかかわる,特に保護者が〈言葉〉豊かに,優しく,
乳幼児(こども)に表情豊かに語りかける。

乳幼児(こども)は,その保護者の〈言葉〉表情を感知する。

万一,保護者の〈言葉〉がいわゆるボキャ貧だったら……
仮に,表現(パフォーマンス)力に不足していたら……

これは「ボキャ貧」の「保護者」を揶揄する目的の文章ではありません。要するに,私はこの文章によって,〈言語能力・言語運用能力を鍛錬する重要性〉を指摘しようとしたのです。自己に係る〈言語能力・言語運用能力の鍛錬〉は自己存在の枠組みで収まることなく,自らのこどもを含める他者の〈言語能力・言語運用能力〉に影響を及ぼします。

まだ研究途上の「ミラーニューロン」。

人の場合,新生児から生後12か月頃までに発達すると考えられているようですね。

・他人の動作を見て,自分のことのように共感する。
・他人の意図を理解して,次の行動を予測する。
・言語を獲得する。


などの機能があるとか。

仮に,こうした研究の結果が〈真〉であるならば,
乳児の教育は重要な意味を持ってくると考えられますよね。

「朝,しんどくても,保護者が笑顔でいる効果とは? ―「礼」? 「ミラーニューロン」?―」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.5.23)

ミラー‐ニューロン(mirror neuron)
他者のある動作を見たとき,自分もその動作をしているかのように反応する神経細胞。霊長類のマカク属で発見され,ヒトにおいても同様の脳神経活動が見られる。他者の模倣を通じ,他者の意図の理解や言語の獲得に役立ち,共感などと深い関わりがあると考えられている。

コトバンク:ミラーニューロン(英語表記)mirror neuron,デジタル大辞泉の解説

一人ひとりの人間の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉が鍛えられれば,それぞれが帰属する各種共同体の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉は高まり,延いては,それはその時代に住まう各種共同体の「問題解決能力」,「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」及びそれらを「継続する能力」並びに「豊かな感性(人間関係形成能力)」を高め,高次の文化・文明を紡ぐことにつながっていくのです。

事は重大です。

そこで,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の定義を確認しておきましょう。

まず,〈言語能力〉について,当塾の「地頭」の定義と通底する概念が,先程ご紹介した中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チームによる「整理メモ」にまとめられており(平成28年1月13日),――確定稿ではないことを念押ししておきます。――また,『大辞林 第三版』の解説と読み合わせると,より良く理解できるのではないかと思いますので,それらを引用しておきます。

1.言語能力について

言語の果たす役割は,これまでの各種会議等の議論の成果を踏まえ,以下の三つの側面から捉えることができる。
1 創造的思考(とそれを支える論理的思考)の側面
2 感性・情緒の側面
3 他者とのコミュニケーションの側面

前掲資料c

げんごのうりょく【言語能力】
ある言語の話し手が母語についてもっている言語構成能力や知識。「言語運用」と対比される。チョムスキーの用語。

コトバンク:言語能力(読み)げんごのうりょく 出典 三省堂

一瞥すると,「創造的思考(とそれを支える論理的思考)」と「他者とのコミュニケーション」は当塾の「地頭」の定義における「問題解決能力」の領域に整理されており,「感性・情緒」は「豊かな人間関係形成能力」に整理されていることが分かります。また,「言語能力」として「感性・情緒」を採り上げていることは,先程来,指摘してきているように,「言語―意識(感性・情緒)」関係を「意識が言語に先立つのではなく,言語が意識に先立つ」とする同一の思考の台座で思考していると言って過言ではないでしょう。――ソシュールやウィトゲンシュタインが提唱した言語観が構成した20世紀的な「知」の枠組みから考えれば,当たり前のことですが。――さらに,引用文には「言語には,具体的な発声や文字による言語活動である一般的な言語(外言語)の機能のほか,音声や文字を伴わない,思考や概念,それらの体系の獲得・操作を行う内なる言語(内言語)の機能があり,三つの側面のいずれにおいても,これらの機能が働いていることに留意する必要がある。」との脚注が付されており,〈言語運用〉との比較の側面からも特筆すべき内容であることを指摘しておきたいと思います。

続いて,〈言語運用能力〉の定義です。『大辞林 第三版』の解説(コトバンク:言語運用(読み)げんごうんよう 出典 三省堂)の一部を拝借すれば,「ある言語の話し手が母語の知識(言語能力)を時間軸に沿って用いる能力」,「実際の言語行動を可能とする能力」ということができます。

これで,「言語能力」と「言語運用能力」との連関が明らかになるはずです。語弊を恐れず,端折って,端折って,平易に述べれば,言語構成能力や知識(言語能力)を用いる能力が「言語運用能力」ということです。また,「言語運用能力」には,「言語」を「運用」する「意欲・関心・態度」を含めて考えるべきだとも思います。

ただ,ここで新たな疑問として,「言語運用能力」と「コミュニケーション能力」との相違が浮上してくると思いますので,分かりやすい解説をご紹介しておきます。

言語運用能力とコミュニケーション能力との違いは,前者は文字通り言語の運用に焦点を当てたもの,後者はそれに加えて,ジェスチャーや顔の表情,アイコンタクトといった非言語的要素(非言語的要素による意思疎通を非言語コミュニケーション,あるいはノンバーバルコミュニケーションといいます。)やコミュニケーション前後の文脈に対する理解や配慮などまで含まれている,という点に違いがあります。
言語運用能力は,さらに語彙レベル,文レベル,談話レベルの運用能力に分けることができます。

篠﨑大司(SHINOZAKI DAISHI):キーワード解説「け」 言語運用能力(げんごうんようのうりょく),日本語教師篠崎大司研究室[1]2020.6.13現在,リンク元が不明です。

このように考えて来ますと,当塾が定義する「地頭」を「鍛」えるには,(乳)幼児期からの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の鍛錬が重要であり,こどもたちにかかわる保護者を含めた周囲の大人たちの存在は,換言すれば,周囲の大人たちの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉はこどもたちの成長に多大な影響を与えるという結論に至るのです。したがって,繰り返しますが,事は重大なのです。――事の重大さの詳細については,別の機会に述べることにしますが,だから,私には現代の「ブログ言説」が気になって仕方がないのです。そこで,当塾のシリーズ物ブログ「The パクるな!!」の中で,「ブログ言説」の〈相対化〉を試みようとしているのです。(頁末の「関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ」をご覧ください。)――

要するに,「地頭」を「鍛」える(=「鍛地頭」)とは,乳幼児から大人までの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えることなのです。また,それは「創造的思考(とそれを支える論理的思考)力」,「感性・情緒」及び「他者とのコミュニケーション能力(〈対話力〉)」を育てることでもあるのです。

それが当塾を「鍛地頭-tanjito-」と命名した所以なのです。

  令和元年6月1日(土)

塾長 小桝 雅典 

【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】


※ⅰ 文部科学省は「探究的な学習」として,この学習過程を次のように整理している。
 ①【課題の設定】 体験活動などを通して,課題を設定し課題意識をもつ
 ②【情報の収集】 必要な情報を取り出したり収集したりする
 ③【整理・分析】 収集した情報を,整理したり分析したりして思考する
 ④【まとめ・表現】気付きや発見,自分の考えなどをまとめ,判断し,表現する
 
[参考]
  〇 文部科学省(平成30年7月):『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 総合的な探究の時間編』
  〇 文部科学省(平成25年7月):『今、求められる力を高める総合的な学習の時間の展開(高等学校編) 総合的な学習の時間を核とした課題発見・解決能力,論理的思考力,コミュニケーション能力等向上に関する指導資料』

※ⅱ 「語りの構造を踏まえた読みの授業に関する研究―古文の授業構築を中心に―」(小桝雅典,1998(平成10)年度 広島大学大学院教育学研究科 教科教育科学専攻 国語教育学 修士論文,※6 「相互主観性」とも言う。「フッサールの用語。複数の主観の間で共通に成り立つこと。事物などの客観性を基礎づけるものとされる。」(『大辞泉』 松村明監修 小学館 一九九五) 「共同主観」も同概念を示すことばである。)

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