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塾長の述懐 第9回 脱現行受験社会(2019.5.19(Sun.))

辞書,参考書及びノートを広げ,今にも手にしたシャープペンシルを回転させそうな女子学生の手元 塾長の述懐
勉強する女子学生の手(提供 photoAC)
この記事は約13分で読めます。

【SUMMARY】

今回以降の「塾長の述懐シリーズ(「脱現行受験社会」など)」で申し上げたいことは,次のとおりです。主なものを挙例します。

  • 知識量の測定に偏重した現行の受験社会(システム)は終焉を迎えているし,即刻終わらなければならない。(=受験技術のみを教える偏ったスキルトレーニングは終焉を迎えるべきである。)
  • 知識量の測定に偏重した現行の受験社会(システム)を推進し,(大人を含めた)こどもの「地頭」を「鍛」えて来なかった代償と,社会(大人たち)の責任は甚大である。(=こどもたちに受験技術のみを身に付けさせてきた―そうでない場合は除く―個人塾を含む受験産業界及びそうした言説の権威性に服従してきた大衆は,今後の教育界のシフトチェンジにおいて,何事もなかったような顔をして,シフトチェンジの方向を向いて転身するのか!! また,できるのか!?)
  • (したがって,)来たる一元論的トランスモダンの時代に向け,本当の意味で,「系統学習」(≒知識詰込み型教育)と「問題解決学習」との止揚(Aufheben)を行い,こどもたちの「地頭」を「鍛」える教育―これぞ,まさに当塾名「鍛地頭-tanjito-」―が創造されなければならない。
専門書を必死に覗き込む白い子猫
研究熱心な子猫(提供 photoAC)

1 恩師である大学教官からの叱責

私が大学2年生の頃。
言語学系の講義が終了した直後の休憩時間でした。

「今回の講義の内容(方言学)は興味深いなあ。この講義のテーマに関係のある文献を読んでみたい。いろいろあるのだろうなあ。どんな文献を読めば良いのか,担当のE教官(私たち(旧)国語教育学専修所属)に訊ねてみよう。」

私は自らの学習意欲が腹の底に沸々と湧き上がるのを自覚しながら,そのE教官の許に駆け寄ったのです。E教官は講義で使用された数冊の文献を大風呂敷に収めておられるところでした。

「E先生,私は本日のご講義のテーマにとても強い関心を持ちました。そこで,様々な文献を読んでみたいと思うのですが,ご推薦の文献を紹介いただけませんか?」

私の眼(まなこ)はきっと爛々と輝いていたと思います。その時,私は[学問をしたい。]と思っていました。[推薦してもらった文献を即座に購入しよう。]とも思っていました。

ところが,E教官からの回答は予想をしていなかった恫喝だったのです。

「君は何を考えているんだ!! 文献を紹介して欲しいとは何事だ!!」

瞬間,私の頭頂部に勁烈な電気が走り,脳裡は真っ白になりました。何が起こったのかさえ理解できませんでした。休憩時間に入り,雑踏と化していた講義室は水を打ったようにしんと静まり返りました。E教官はいつもにこやかに,そして温かみのある上品な声質で,ゆっくりと丁寧に一語一語を噛み締めるように話される方でした。にもかかわらず,どの学生も耳にしたことのない怒声,いや,罵声に近い大音声が割りと広い講義室に響き渡ったのです。

「文献を探すことから研究が始まるのだ!! 私に一々訊ねるのではなく,君の足で文献を探しなさい!! 君はここ(筆者注:大学)に何をしに来たのだ!! 研究しに来たのではないのか!!」

瞋恚(しんい)に燃える鬼の形相とはこのことなのでしょう。一生忘れることのできないご尊顔でした。私は,ただ只管,未だに身体(からだ)を突き抜けることのない獰猛(どうもう)な電気をジンジンと宿したまま,そこに立ち尽くすしかありませんでした。

専門書や学術雑誌がぎっしりと立ち並ぶ書棚
書籍(提供 photoAC)

2 「研究(する)」とは―その一端―

E教官の仰ったお言葉の意味が痛いほど身に染みて解るのは,それから2週間後のことでした。私は,その間,私自身が納得できる文献を探し歩いていました。今のように,ネット注文などない時代です。文字どおり,研究室内の書庫,大学や公営の図書館,そして専門書を数多く置く古本屋や書店などに足繁く通いました。ですが,このように「私自身が納得できる文献を探し歩いてい」るということは,つまり,私自らが設定した講義内容に関するテーマ性を有する書籍になかなか出くわさなかったことを意味しています。ですから,2週間もの間,私は立ち読みを含め,貸出が許された書籍を読み漁っていました。専門書の末尾に一覧となった「参考(引用)文献・論文」を頼りに,専門書の「はしご」を重ねたのです。

お陰で,自らが設定したテーマの近辺にある数多くの文献や論文,勿論,それらの内容も脳裡に蓄積されていきました。2週間後には,そのテーマ性に関する研究(対象)について,一端(いっぱし)の蘊蓄(うんちく)を語ることができるようになっていたのです。ただ,飽くまでもそれらの研究結果の一端(いったん)ですが。

しかし,「私自身が納得できる文献」に,そうは簡単に出逢うことはできませんでした。そして,その後,仮に「自らが設定したテーマ」が私自らの研究テーマであったとしたならば,こうした―言葉は不適切ですが―「読み漁り」が「先行研究」の一側面であることを,本格的に研究を志すようになって知ることとなるのです。

私は,その時,E教官に「研究」が如何なるものか,その一端を教えていただいたのでした。

ですから,それ以降,私は講義云々にかかわることなく,自らの内に生起した「小さな疑問」に対しても,それを解決するために,「文献探しの旅」に何度も出掛けました。あの鬼の形相をいつも想起しながら。

いつしか「文献探しの旅」は習慣化していきました。そうしているうちに,私の身に奇妙なことが起こり始めました。主な2点を挙例します。

1点目:「文献探しの旅」を始めてから「私自身が納得できる文献」に出逢うまでの時間が短くなりました。

2点目:「小さな疑問」を含め,自らの脳裡に解決しなければならない問題が宿ったとき,「文献探しの旅」と決め込むことなく,何気なく書店や図書館で手にする書物に,その問題を解決する主たる内容(鍵)が記されていることが度重なるようになりました。

1点目は2点目に含有されていますが,特に,2点目のような現象が現実に生起することについては未だに「Incredible(信じられない)!!」な思いです。神懸かり的(serendipity)です。それは現在でも,時折,生起しているのです。

八王子の普賢菩薩石像
八王子 [Hachioji]-018(提供 photoAC)

3 「誠実の美徳」と「学縁」

E教官には「辞書を絶対だと思ってはなりません。辞書であっても,それは一研究者の一研究物に過ぎないわけです。(=だから,研究を志す者は,まず他者の研究成果を疑って掛かれ(鵜呑みにするな))。」と,研究に対する姿勢(の一端)をも教えていただきました。―勿論,その他にも研究にかかわって,数多くのことを教えていただいております。―


学部を巣立つ前だったと思います。研究室で文献のコピーを取っていた私の許に,E教官が同じ目的でお出でになりました。慌てて自分のコピーを終わらせようとする私に,E教官はそれを自らの手で制するようにされ,にこっと微笑みながら仰ったのです。

「小桝君,ご卒業おめでとう。私からあなたに一言贈りたい言葉があるのですが,良いですか? それは「誠実の美徳」です。私の大好きな言葉です。あなたにはお似合いの言葉ですよ。一生忘れることなく,これからも精進なさると良い。」

「それから「学縁」を大切になさい。」

私の目頭が熱くなりました。「学縁」はE教官が大切にされていた,E教官の造語でした。「学問とのご縁」「学問を志す者とのご縁」の意味でE教官は使われていました。それらに私は,先述した神懸かり的な「2点目」を重ね合わせていたのです。

学部を巣立って,10年目に私は再び学問の扉を叩きます。高等学校の国語科教員として,自らの教科指導力不足に不甲斐無ささえ覚えた私は,現職の教員のまま,古巣の大学院に籍を置いたのです。〔詳細については【関連】a参照〕

私の古巣は,殊に「学問」に対しては忠実でした。したがって,「学問」が〈厳しいもの〉であることを実感し続ける院生時代を過ごすことになりました。中でもE教官は,特に院生に対して〈厳格〉でした。何度叱られたか。 普段はとても温厚なお人柄のE教官が研究の領域に足を踏み入れられるその刹那,ご尊顔の形相は変貌しました。そして,そのご尊顔を拝する度に,私はあの学部2年生の頃に邂逅したE教官の「鬼の形相」を思い起こしていました。


運命とは摩訶不思議なものです。

無事,修士論文の口頭試問及び修了式を終え,例のコピー機で文献の複写を取る私に,E教官が近づいて来られました。

「小桝君,あなたは私たちの国語研究室で10年に1人出るか出ないかの逸材だから。はっ,はっ,はっ」

高らかで朗らかなE教官の笑い声が室内に響きました。そこには,私一人しかいませんでした。一言言い終わるや否や部屋をゆっくりとした歩調で出て行かれるE教官の背中を見つめながら,思わず,私は咄嗟に両手で両目頭を押さえ,その場にしゃがみ込んでしまいました。

大学院の学位記とそれを収める筒
学位記(提供 photoAC)

4 既に始まりつつある〈新しい時代〉の〈教育〉の創造

本ブログは全て事実に基づいて構成してありますが,決して私の自慢話が目的ではありません。本ブログを認(したた)めた私の意図(目的)は,まず「SUMMARY」にまとめてあります。それに付随して言えることは,仮に「令和」を「新しい時代」と捉えるならば,その「新しい時代」の「教育」は既にパラダイムシフトしているということなのです。詳細は,次回に譲ることにしますが,要するに,

「地頭」を「鍛」える〈教育〉

が模索され始めたということなのです。ただし,語弊を恐れずにこのように述べましたが,「「地頭」を「鍛」える〈教育〉」の模索は,何も今始まったのではなく,古く昭和20年代から始まっていることなのです。ただ,概括すれば,そうではない「教育(≒系統学習,知識の注入に偏重した教育)」にシフトし過ぎていたために,こどもたち(延いては,大人たち)の「地頭」が「鍛」えられなかっただけなのです。そして,そうした悪しき状況を推進していたのが(日本の)「入試制度」という名の社会システムだったのです。主に知識量の多さと入試問題を解く受験テクニックを評価の対象とする試験制度と言って過言ではありません。一人ひとりのこどもの身の周りに生起する日常的な問題を解決するため,インプットした/している知識(情報)を脳内でどのように引き出し・組み立て(構造化し),アウトプットするかといった能力を計る試験ではなかったのです。―抑々(そもそも),そうした能力を計る「試験」が本当に必要なのかといった問題もあります。―「東大・京大が日本で1,2位の大学ではなくなる時代が到来する。」と識者たちが予言するのは,そうした理由に由来します。〔【関連】b参照〕

こうした「入試制度(受験社会)」は複雑に絡み合うコンテクストで構造化された社会(システム)を多角的・多面的・総合的な〈視点〉から解きほぐす能力を,ポストモダンを生きた私たちから奪い去ってしまいました。つまり,極論すれば,「1+1=2」になることを知識(量)として持つ人間が優れていると判断される言説の権威性に回収されてしまい,「1+1」がなぜ「2」になるのか,「1.5」でも「3」でも良いのではないかと思考するこどもたちは低評価を受ける結果となったのです。

しかも,それは,コンビニ弁当をしゃかりきになって食べながら,身体の健康(ダイエット)を唱える社会現象と通底しています。というのは,身体の健康(ダイエット)には加工食品が最も良くない,自然から与えられた新鮮なキャベツに包丁を入れることさえ「加工」だとの説がある中,せっせと身銭を支払って,地球上で最たる加工食品(添加物いっぱい)であるコンビニ弁当を食べる,つまり,お金を払って身体に毒を盛るのと同様に,せっせと大金を支払って「地頭力」を弱める,知識偏重型の受験テクニックだけを教える予備校や進学塾等に(嫌がる)こどもを通わせているからなのです。それでいて,(多くの)大衆(大人)はそのことに気づいていない。なぜならば,そうした大人も「複雑に絡み合うコンテクストで構造化された社会(システム)を多角的・多面的・総合的な〈視点〉から解きほぐす能力」を削ぎ落す「入試制度(受験社会)」の落とし子だからです。―(多くの)教職員も然り。―そして,日本の「教育」は世界から大きく立ち遅れました。至極当然の結末です。

ですが,そうしたパラダイムは,今や移行(シフト)しつつあります。しかも,政治主導で(笑)。この辺りの事情についても,今後の本シリーズで具体化していきます。

最後に,とても重要なこと(本ブログを執筆する目的)を一つ付け加えて擱筆したいと思います。

それは,

「地頭」を「鍛」え,「地頭力」の高いこども(延いては,大人)を育てるためには,「研究ができる(ような「地頭」を有する)こども(大人)」を育てないといけない。

ということなのです。そして,それはどのこどもでも可能なことなのです。ただし,高い「地頭力」を持った指導者がいればの話ですが。

ウェディング会場でピンクのテーブルクロスの上にセットされたシャンパングラス,ワイングラス,フォーク,ナイフ,スプーンなど
wedding(提供 photoAC)

5 後日談

運命とは本当に摩訶不思議なものです。

ある日,私は従弟のウェディングに招待され,指定の席に着きました。大学院を修了して,2~3年後のことだったでしょうか。

宴が始まる直前のことです。どこかで聞き覚えのある,温かみのある上品な声質で,ゆっくりと丁寧に一語一語を噛み締めるように話される招待客がいらっしゃることに気づきました。その声の主は,どうやら私の真後ろのテーブルにいらっしゃるようです。

瞬間,私の身体は意志に反して,後ろを振り返っていました。

そこには,同じように,後ろを振り返るE教官の姿があったのです。

そうです。E教官は私の従弟の花嫁にとっては叔父に当たる人だったのです。それをE教官と私は,ウェディングのその日まで知る由もなかったのです。

初めて拝見するE教官の照れたご尊顔を拝しながら,私は「学縁」の二文字を思い出していました。

【追記】

当塾は「地頭」を次のように定義しております。したがって,本ブログ中に散見される「地頭」は,その定義を反映しているとお考えください。

  • 問題解決能力(自らの身辺に生起する問題を発見し,その解決方法を自分の頭で思考・判断し,実践〔表現〕できる能力)
  • 「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」を継続できる能力
  • 豊かな人間関係形成能力(乳幼児から大人に至るまでの「人(の存在)」を心から愛する豊かな感性)

詳しくは,当塾公式ホームページの「「地頭(じあたま)」の定義」をお読みください。

【関連】

  令和元年5月19日(日)

塾長 小桝 雅典 

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【過去の「塾長の述懐」シリーズ】

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