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トランスモダンで「校則(KOUSOKU)」を〈考える〉【前編】

坊主頭の接写 「鍛地頭-tanjito-」の教育論
ボーズ頭(提供 photoAC)
この記事は約14分で読めます。

 0 エピソード

つい先日のことでした。

久し振りにいつもの居酒屋にふらっと立ち寄ったときのお話です。

私には,モノを考えることに煮詰まったとき,こうしてふらっと居酒屋に立ち寄る癖があります。カウンター席の一番端っこに座り,一杯やりながら物思いに耽るのです。

さて,「人気(ひとけ)は少ないに違いない〔大将,ごめん〕。」と高を括り,暖簾を潜りました。突如,「ナイス!!」という聞き慣れた甲高い大声が耳を劈(つんざ)きました。同時に,半ば出来上がった他の酔っ払い客の笑い声が雑踏となって耳元に届いたのです。大声はその雑踏をはるかに上回る大音声でした。

カウンター席の私の定位置には,大音声の主である常連仲間(以下,「Aさん」)が独り陣取り,まるで待ち焦がれた恋人を招き寄せるような仕草で私を迎えます。
「先生!! こっち,こっち!!」
大きな手招きに吸い寄せられるように,私はAさんの隣の空いた席に腰掛けました。

「何が「ナイス!!」なのですか? …Aさん。…何か私に良い話でも…。」
「あるある。先生,先生に訊くんじゃが,今,公教育の立場を離れて,先生は「校則」についてどのように思ようる? 素直に教えてくれん? 「校則」がなければ,集団の規律が守れないし,「校則」の中には生徒を締め付けるものがあるように思うし,…先生の中にも「校則」に反対している人がおるんじゃろう?」

[「あるある」って,Aさんに「あるある」じゃないの? …しかし,それにしても,唐突と言えば,いや,言う間もないほどに「唐突」だなあ…まあ,別に良いんだけど…そう言えば,Aさんは○○高等学校(公立)のPTA会長をしていると言っていたよなあ…何か「校則」に纏わってあったんだろう。…よく喋るな(笑) Aさんは,さっきからずっと捲(まく)し立てているけど,…ああ,やっぱり「校則」の問題で考えることがあるんだなあ…ただ「立て板に水」って感じで話し続けているけど…わしはまだ何も注文してないぞ…さっきからずっとおしぼりで手を拭っているだけだ…注文を取りに来たバイトのイケメンも,わしの傍に立ち尽くしたまま,もじもじしている…こんがりと炭火で仕上がった焼き鳥のニオイがたまらんなあ…なんだ,今夜はやたらに人(お客)が多いなあ…静かにモノを考えるという雰囲気ではないし,Aさんと語れば,いつも楽しいし,…「先生の中にも「校則」に反対している人がおるんじゃろう?」なんて,辛辣でええじゃん…よ~し,「校則」談義でもするか~]

という訳で,私はAさんに「校則」についての持論を語り始めたのです。
その結果,眼前に置かれた焼き鳥に私が着手できたのは,それから45分後のことでした。

網の上で猛火に焼かれる鳥串
焼き鳥(提供 photoAC/文章中の「焼き鳥」とは一切関係がありません。)

 1 プロローグ

生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」の塾長 小桝雅典 です。

今回は「教師視点から考える「保護者等―教師(学校)」間の関係性について」シリーズの第3弾として,「校則」に関する持論を述べさせていただきます。 半ば永続的な教育(学校教育制度の)問題と化している「校則」。昨今でも訴訟の対象となっていることについては,周知のとおりです。正直に申し上げて,なかなか悩ましい問題です。

しかし,私が思うに,―私が思うほど,そう簡単な問題ではないのですが,―「悩ましさ」を醸成しているのには,それなりの要因があるはずなのです。それがないところで「悩ましさ」が生起することはないのですから。したがって,ここではその「悩ましさ」の要因(の一端)を考究することも一つの目的となります。また,「校則」は児童・生徒,保護者,学校(教職員)及び教育行政(教育委員会)の一部の人だけが考えていれば良いといった問題ではなく,広く読者の皆様と共に考えていく問題であることを提起することも目的となりますし,これから披瀝する「鍛地頭-tanjito-」の考え方を基底に当塾の相談業務(「校則」がご相談のテーマの場合,特に,「学校生活に関するお悩み・トラブル解決コース」)が成り立っていることを,コマーシャルの意味を込めて(笑),お知らせすることもまた目的の一つであると言えるのです。

そこで,今回は「校則」(の扱い)の問題をコンプライアンス(法令遵守)の側面と学校現場における実質的運用の側面とに分け,それらを本前編に引き続き,中編と後編として記述してみようと思います。

なお,これ以降に展開する「校則」(の扱い)に関する考え方は,飽くまでも,「鍛地頭-tanjito-」の考え方に過ぎないことを改めてお断り申し上げておきます。また,持論を展開するに当たって,私の脳裡には小学校の(「校則」とはあまり言いませんが,)所謂「校則」も視野に入れながら,主に中・高等学校(公立)の「校則」があることについても重ねてお断り申し上げておきます。

【関連】

「塾長の述懐 第6回(2019.4.21(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.23)

チェック項目を記した用紙の前に据え置かれたマルとバツ
マルとバツ(提供 photoAC)

 2 ポストモダンの終焉期に存する「校則」

私はAさんの質問に対して,「モダン/ポストモダン/(一元論的)トランスモダン」の考え方から語り始めることにしました。その方が「「校則」をどのように扱うか」―正確には「「校則」そのものをどのように考えるか」ではない―といった命題について考えやすいと思ったからです。本章では,その概略のみを記述します。

まずは,「トランスモダン」の語義からです。

近世から現代にいたる思想,習慣,表現手法などを包括するモダニズムを総合的に反省し,その負の要素を排除し,さらにきたるべき新しい時代の人間,社会に関する新しいモダニズムを構築する方法,運動。「トランス」とは,越えて,横切ってなどの意味。したがってトランスモダンとは,現代にいたる 200年にわたって蓄積してきたところの多方面のモダンを横並びにして,それを横切り,かつ徹底的に分析,批判し,それを統合することによって過去のモダニズムをこえ,未来のあるべきモダニズムを構築することとなる。


コトバンク,トランスモダン(英語表記)transmodern,トランスモダン transmodern,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 

モダン(近代)に敵対するのでも味方するのでもなく,モダンの内部を横断して,新しい可能性を求める思想的態度。

コトバンク,トランスモダン(英語表記)transmodern,トランスモダン【transmodern】,大辞林 第三版の解説,出典 三省堂

一元論的トランスモダン論は,スペインの哲学者であるマグダ (Magda,R.M.R.)が本来の提唱者であると言われています。1989年のことでした。ここで,「一元論的」と冠しているのは,マグダ論の底流にはヘーゲル弁証法があるからなのです。 ※1

ヘーゲル弁証法については,次の引用が分かりやすいと思います。

 矛盾(対立)する二つの考え(命題)AとBがあったとして,それを一つにまとめられればよりよい考えCが生まれるでしょう。このとき,出発点となる命題Aを正=「テーゼ」,それを否定する命題Bを反=「アンチテーゼ」,よりよい考えCを合=「ジンテーゼ 独 Synthese」といいます。「止揚」は,〈より大きな視点に立つことで,二つの考えの矛盾を解消して,一つにまとめること〉です。

大前誠司(平成25年10月):『新入試評論文読解のキーワード300 改訂版』,明治書院,p.241)―注:本参考書は批判的に解説を読むことを条件にすれば,哲学用語等の概念整理及び文章作成の際に有益です。

大前(H25.10)の「止揚(aufheben)」の解説には,「二つの考えの矛盾を解消して」とあります。しかし,私は現代の状況を鑑(かんが)みるに,「解消」は不可能であると考えています。したがって,「矛盾」は〈矛盾〉として抱えたまま「一つにまとめる(=単に二項対立(=「二つの考え(筆者注:価値観)」)を加算するのではなく,「低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を,いっそう高次の段階に高めて,新しい調和と秩序のもとに統一すること」(コトバンク,止揚(読み)しよう(英語表記)Aufheben,し‐よう ‥ヤウ【止揚】,精選版 日本国語大辞典の解説,出典 精選版 日本国語大辞典)」と考えるべきだと思っています。なぜならば,ヘーゲル弁証法の本来の概念は「事物が発展する場合,低い段階の否定によって高い段階へ進むが,高い段階のうちに低い段階の実質は保存される」(コトバンク,止揚(読み)しよう(英語表記)Aufheben,止揚【しよう】,百科事典マイペディアの解説,出典 株式会社平凡社)とされているからです。なお,この辺りの詳細については,「e 類似言説の〈相対化〉,(c) 守破離,:「「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.15)」を参考にしてください。

なぜヘーゲル弁証法に至るまでAさんに話をしなければならなかったのか。それには,現代(現在)が置かれた時代の状況があるからです。ヘーゲル弁証法のトリアーデの中にある「正(=テーゼ)」と「反(=アンチテーゼ)」との連関性は,先述したように,「矛盾(対立)」,すなわち「二項対立」の連関性にあります。こうした二元論的思考は近代哲学の父デカルトにより樹立された(デカルト二元論・物心二元論)ことは言及するに及びません。そして,現代を生きる我々は二元論の虜囚(りょしゅう)のごとく21世紀に生息しているのです。

(したがって,敢えて「私も」と記述しますが,)こうした思考性(形態)を持つがために,往々にして事物を二項対立(=二つの概念が矛盾又は対立の関係にあること)で捉えてしまいがちなのです。例えば,「自然/文化」「真/偽」「善/悪」「男/女」「魂/肉体」「パロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)」など数え上げれば際限がないほどです。しかも,それらの対をなす項のどちらかがどちらかの優位にあると考えてしまう。(中略)


こうした思考性(形態)は20世紀的な「知」,ポストモダニズムの沈殿物なのかもしれません。

「「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【後編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.14)

二項対立(二元論)の思考は,「それらの対をなす項のどちらかがどちらかの優位にあると考え」,「優位にある」項を中心に据える世界観を形成していきました。「優位にある」ことを不等号で示せば,例えば,「自然<文化」「真>偽」「男>女」などです。こうした思考性はさらに「優位にある」ことを恒常的に「優位にある」ように操作するため,「優位にある」ことを普遍化するとともに,自我中心主義を生み出してきたのです。いつしか「人間(文化)」は「自然」より「優位にある」ことになり,「自己(私(の精神))」は「他者(あなた・彼・彼女(の身体)」よりも「優位にある」ことになりました。なぜならば,物心二元論は「物体(他者としての自然・身体)」よりも「精神(私の心)」を「優位にある」と考えたからです。その結果,例えば,「人間」により「自然」は顧みられることなく「環境破壊(問題)」が生起しました。「自己」は「他者」の尊厳(dignity)を踏みにじり,「自己」となった「他者」は「他者」となった「自己」の尊厳(dignity)を踏みにじり,「自己―他者」間の踏みにじりは,やがてお互いのアイデンティティーの喪失を生みました。それが,現代の〈実相〉なのです。

現代は,分かりやすく述べれば,「近代」以降の時代,すなわち「ポスト(「後の」の意)」+「モダン(「近代」の意)」=「ポストモダン」の時代と言えます。絶対的権威性(絶対的価値観)を有する「神」の時代が「近代(モダン)」であるならば,「神」の絶対的権威性を疑い,「神」よりも「人間」が主役となった合理主義,ヒューマニズムの時代が「ポストモダン」であるわけです。その「ポストモダン」も,上述したように,例えば,「環境破壊(問題)」や「人間」同志による「お互いのアイデンティティーの喪失」などが「〈鄙陋〉の残滓の大衆化」を招き,まさに時代の終焉を宣言する事態を巻き起こしています。ポストモダンの時代は幕を降ろそうとしていると言って過言ではないのです。

だから,今こそ,新しい時代が模索されなければなりません。新たな価値観(思想性)を持った時代を創造する必要に駆られているのです。その時に臨み,マグダの「一元論的トランスモダン論」は最も有効な〈知〉を我々に授けていると,私は考えるのです。

二項対立の構図となる「テーゼ」としての「モダン」と「アンチテーゼ」としての「ポストモダン」とは「ジンテーゼ」としての「トランス(「超越する」の意)モダン」へと「止揚(aufheben)」していく。

私はこの「一元論的トランスモダン論」をポストモダンの時代の「〈鄙陋〉の残滓」を除く「小さな価値観」群にも当て嵌めて考えたいのです。辛うじて生き残った「小さな価値観」群の間に生じる「矛盾(対立)」を〈矛盾(対立)〉として内包したまま,「小さな価値観」群を超越する〈高次の価値観〉を創造するべきではないのかと。

そして,そうした思考性を「校則」の問題にも援用すべきであると。

例えば,「校則」の問題の代表と言える「髪型」の規制についても然りで,―児童・生徒の基本的人権は守らなければならないが―極論すれば,「規制する側/規制される側」,つまり「学校(校長)/児童・生徒(保護者等)」を「敵/味方」と等価的に看做す二項対立の思考のフレーム(枠組み)から超越した思考のフレーム(枠組み)で捉え,〈傾聴〉を基盤とする〈対話〉により,両者の価値観を止揚(aufheben)し,高次の 〈新たな校則(KOUSOKU)〉を創造する必要があると考えるのです。

このように述べてくると,「そんなこと,綺麗事だ。」「夢のようなことを言うな。」「実現できるわけがない。」などの声が聞こえてきそうです。確かに,「一元論的トランスモダン論」は早くから理想主義との誹謗中傷を受けてきました。しかし,二項対立の構図の中だけで思考し,お互いが啀(いが)み合い,憎しみ合い,相手を潰すことだけを考える思考性に発展的・進歩的展開は皆無であり,建設的な〈対話〉を営めるわけがありません。無論,人道上,「いけないことはいけない」とお互いに指摘し合わなければなりません。そこまで眼を瞑るわけにはいきません。ただ,一方で,現に眼を瞑る必要はあるのです。それは「他者(=二項対立の相手)」の〈こころの声〉を〈傾聴〉するために,「自己」の眼を瞑って〈こころの眼(心眼)〉を見開くためにです。また,「他者(=二項対立の相手)」を取り囲む多声性(ポリフォニー)を有する言説の権威性を〈相対化〉するために〈こころの眼(心眼)〉は見開かれなければならないのです。

デッサン風に描いた「identity 」(アイデンティティ)の英字
identity アイデンティティ(提供 photoAC)

 3 エピローグ

本日のテーマは「頭髪・服装指導」についてです。 今回から児童・生徒の問題行動に係る種別の指導を考えてみたいと思います。 その第1回が「頭髪・服装」の指導です。

歴史的にも有名な所謂丸刈り訴訟 (熊本地裁,昭和60年11月13日判決)などの裁判事例があるように, 生徒指導の中でも難しい指導の一つと言える指導です。したがって,本メルマガで,他種の指導よりも先に採り上げた次第です。

難しい指導ということは,大切な指導ということでもあります。(易しい指導はないのかもしれませんが。) したがって,今回を含めた2部構成でお届けしようと考えています。今回の第1部では,「生徒心得(校則)」との連関性に着目しながら,コンプライアンスの側面から,この指導にアプローチを試みます。また,第2部では,学校現場で現実に生起している「保護者等―学校」間のトラブルを念頭に据えながら,高次の段階で,そうした問題を解決する方途について提案してみたいと思います。この提案は「頭髪・服装指導」に限らず,生徒指導を含める学校教育を超越したフィールド(領域)にも反映できる考え方を示唆するものと考えています。

「頭髪・服装指導」をめぐって,「生徒及び保護者(地域社会)等―学校」間で,なぜ裁判沙汰などの一大事が生起してしまうのか?  それは,私が教員だったから学校の立場を擁護するわけではなく,学校だけの責任ではありません。一言で言ってしまうならば,ポストモダンの終焉期にある頽廃的な考え方が,児童・生徒・保護者・教職員・地域住民(社会)等 ,我々をそうならしめているということです。

「その考え方を〈相対化〉することを教えない学校教育が悪い。」ということになれば,「学校(国)の責任」ということになるのかもしれませんが,それも正しくありません。なぜならば,そう考えること自体が既に「ポストモダンの終焉期にある頽廃的な考え方」だからです。

「頭髪・服装指導」を単なる生徒指導上の指導と考えているだけでは,「頭髪・服装指導」を起因とする「生徒及び保護者(地域社会)等―学校」間のトラブルは,いつまで経っても解決することはないのです。

当塾のメルマガ(教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」,メールマガジン 第6号 (生徒指導編),改行位置は本ブログのため再構成してあります。)から一部を引用しました。引用文中にもあるとおり,また,プロローグでも述べたように,次回以降,コンプライアンスの側面及び学校現場における実質的運用の側面から「頭髪(髪型)・服装指導」を中心に「校則」が抱える問題にアプローチしてみようと思います。

 〔追記〕

「頭髪(髪型)・服装指導」に関する次の質問に対して,読者の皆様はどのようにお考えになりますか?

Q1
学校で教職員が児童生徒の頭髪を切ったり,染髪スプレーで頭髪を染めたりすることに問題はありませんか?

Q2
髪型や染髪による規制違反をしてきた児童生徒に対して,当該児童生徒を無理矢理押さえ付けて頭髪を切ったり,スプレーで黒染めをしたりしたところ,当該の児童生徒が反抗しなくなった。理由を訊いたところ,当該の児童生徒は,頭髪を切ったり,黒染めをしたりした教員の情熱的な指導が心に染みて嬉しかったからと述べた。児童生徒に熱意をもって指導を施したのであるから,頭髪を切ったり,スプレーで黒染めをしたりしても,コンプライアンスを遵守しなかったことにはならない。

Q3
頭髪・服装違反の児童生徒を一旦家に帰らせ,直させてから登校させることは可能ですか? また,それらの違反のある児童生徒を教室(ホームルーム)から離れた別室(空き教室など)で指導することは可能ですか?

Q4
頭髪・服装違反のある児童生徒を卒業式などに出席させないことは可能ですか?

〔出典〕
Q1,3,4
→広島県教育委員会(平成22年3月):『生徒指導のてびき 改訂版』,pp.12-13

Q2
→嶋﨑政男(2009年12月):『法規+教育で考える 生徒指導ケース100』,ぎょうせい,pp.20-21

※ Q1~4について,表現は一部筆者が改めました。

【参考文献】

※1 大橋昭一(2014.9):「ポストモダンからトランスモダンへ ― 現在社会のとらえ方の転換点―」,和歌山大学観光学部 研究紀要)

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


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