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塾長の述懐 第6回(2019.4.21(Sun.))

青空を背景に咲く白梅 塾長の述懐
この記事は約10分で読めます。

「「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【後編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.14)を投稿して,早いものでもう1週間が過ぎ去りました。個人的には,特に時間の経過が早かった1週間であったように思います。と申しますのも,現在,当塾は3回目となる業務の見直しを実行中で,あれこれと考えることは多いですし,それに二乗に比例するがごとく事務作業が湧出してきて,副塾長の住本とてんやわんやの忙しさを味わっているからです。

それにしても,実動して11か月程度の活動しか実績のない当塾にあって,3度目の業務改善は多いのでしょうか,少ないのでしょうか? 様々なビジネスのフィールドがあるし,それぞれの組織の態様も異なるわけですから,一概に「多いか,少ないか」と問うこと自体が愚問なのかもしれません。また,当塾の業務をビジネスフィールドで考えることは正しくないのではないかとも思います。しかし,どれだけ多忙を極めても,それでも改善に乗り出さなければならない理由があるのです。

その理由をお話する前に,まず業務改善の契機となったものがありますので,そちらを先に紹介しておくことにします。それは,当塾のBLOG記事です。当塾が1本のBLOG記事を書き上げるのに,通常7~10日程度を費やします。「読む(調べる)・聴く(傾聴する)・話す(対話する)(・考える(思考・判断する))・書く(表現する)」(こうした当たり前の)作業を繰り返すがために,日を費やすわけです。「塾長―副塾長」間の相互行為として,日々,限られた時間の中で営む行為なのです。

そうした行為を繰り返しているうちに,最近,特に痛感してきたことがあります。それは,「我々人間は時代と共に生きている」ということです。これまた極当たり前のことなのですが,紛れもなく実感し始めたことなのです。それは〈事実〉です。「令和」に改元されることも,その一つの契機となりました。

我々人間はパラダイムの呪縛の中で生を営んでいます。「パラダイム」とは,ある時代を生きる人々のものの見方や考え方のことであり,人間が生きるために拠って立たざるを得ない,思考 (物事)の根本となる 枠組みのことです。こうした間主観的拘束性(相互主観性・共同主観性)に支配される思考(物事)のフレームを〈相対化〉して生きていく人たちとそうでない人たちがいるのでしょうが,私が思うに,後者の人たちの方が多いのではないか。そして,時代のパラダイムに気づかずに日々を過ごしてしまうがゆえに,ある意味幸せであって,だからこそ,却って,知らぬうちに個々の「生」を息苦しいものとしているのではないか。

ひょんなことから,副塾長の住本に「「鍛地頭-tanjito-」の令和考」をBLOG記事にするよう命令を受けた(笑)私は,それを契機に,今後の時空間の象徴となる「令和」を哲学,文学,歴史などの側面からアプローチし,その象徴性を解読しようとして,哲学も文学も歴史も,結局,突き詰め,行きつく果ては「人間は時代と共に生きている」(=帰着点)ではないだろうかと,今更,気づかされたというわけなのです。

現代は,ポストモダンの終焉期です。これまでのBLOG記事にも綴ってきたように,二元論的な思考は普遍主義,自我中心主義を生みました。人間が「賢い動物」であるならば,個々人がこうしたパラダイムを〈相対化〉して,多様な「小さな価値観」を止揚・統合し,出現する高次の未来(文化)を創造すべきだと思います。

オンラインで面接練習を行うヘッドフォン姿の塾長 小桝雅典
オンライン中の塾長 小桝雅典

そうであるならば,現在の私たち「鍛地頭-tanjito-」に何ができるのか?

上述した時代観を持ち,「止揚・統合」と口先で表現するだけでは単なる屁理屈屋となってしまう。(→こうした思考性も二元論的ですけど。でも,巷はそう捉える向きが強い。しかし,巷の二元論を超越することを目的とするのではなく,「令和」以降の日本の未来を背負う乳幼児・児童・生徒に時代を生き抜く力を付けるお手伝いをすることを目的にしたい。だから,そうした力を付けることのできる〈ホンモノの教員〉を育成/サポートするお手伝いもしたい。)

このように,我々「鍛地頭-tanjito-」は,〈教育〉のフィールドで二元論的思考・行動様式等を超越した活動を紡いでいかなければならないと考え続けてきました。その思考はブログ行為として形象化されています。その結果,我々自身が,完全ではないけれども,その二元論的な思考に呪縛されていたことに改めて気づかされたわけなのです。要するに,これまでの当塾の相談業務は「教育学」(ガイダンス)と「心理学」(カウンセリング)との両者の枠組みを事実上超えられていなかったということです。我々の無意識裡の思考性に「クライアント―カウンセラー」間の二項対立の構造だけに基づく「カウンセリング」と「ガイダンス」があったのだと(理論的には,そのように考えてはいませんでしたが)。薄々そのことに気づいてはいたのですが,そのことに気づいてから,「住本が担当するカウンセリングを主体とした「育児・家庭療育コース」(新名称)に小桝が担当する「学校生活に関するお悩み・トラブル解決コース」(新名称)のガイダンス性をもっと統合すれば良いのではないか」,一方,「小桝の担当するガイダンスを主体とした「学校生活に関するお悩み・トラブル解決コース」に住本が担当する「育児・家庭療育コース」のカウンセリング性をさらに統合すれば良いのではないか」,「その統合の〈度合〉はクライアント様や取り扱う事象ごとに,〈(二項対立の枠組みを超越した)柔軟性〉で調整すれば良いのではないか」,と考えるようになったのです。また,「教員採用試験合格道場―オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」」の塾生に対しても同様の考え方で臨もうと決意したのです。

ただ,そのように考えると,保育所(園)・幼稚園・学校にあって,ガイダンス性とカウンセリング性を併せ持った存在とは,つまり,「保育士」や「教職員」であるはずなのです。結論だけを述べれば,どちらかの属性に偏った場合,(本来は)「保育士」や「教職員」など務まりはしません。なぜならば,そうした職員に対して,乳幼児・児童・生徒等が本当の意味で心を開くことはないからです。

ところが,現実は,残念なことに,「(乳幼児・)児童・生徒,保護者(,地域社会)―(保育士・)教職員(幼稚園・学校)」間のトラブルが絶えません。だから,当塾が「育児・家庭療育コース」と「学校生活に関するお悩み・トラブル解決コース」を開設しているわけです。要するに,「教育学」(ガイダンス)と「心理学」(カウンセリング)とを統合(止揚)し,生起した,また生起しそうになっている個別の具体事案一つひとつに対して,「クライアント―カウンセラー」の二項間だけの連関性を超越し,それらを取り巻く〈他者性〉を一層加味した〈ガイダンス〉と〈カウンセリング〉との均衡を調節しながら,問題解決を図る必要があると考えているのです。

このように述べてくると,「「ガイダンス」と「カウンセリング」の調節(≒所謂ガイダンスカウンセリング)など,疾(とう)の昔にやっとるわい!!」と仰る教育機関や団体がおありだろうと拝察します。

ですが,その営みは二元論的なポストモダニズムをトランス(超越)しようとする発想の上での話なのでしょうか? 例えば,「乳幼児・児童・生徒(保護者,地域社会)-(保育士・)教職員(幼稚園・学校)」間のトラブルやそれに起因する不登校,問題行動など(及び保護者の不安感の増大など)は,二元論(二項対立の構図)を台座とする思考性で考えている限り,本当の意味での解決・解消は難しいと言えます。

当塾は二元論を超越しようと発想するからこそ,所謂ガイダンスカウンセリング的な営みの対象を「こども(乳幼児・児童・生徒)」に限定せず,―便宜上,発達段階を意識して,「育児・家庭療育コース」と「学校生活に関するお悩み・トラブル解決コース」とに区分けしてはおりますが,―保護者も,教職員も,そして,広く教育に関心を持っておられる一般の方々をも対象とするわけです。その意味においても,当塾の〈ガイダンス〉は従来の「ガイダンス」の意味性を超越しています。「学校教育で,生徒自身が自己を理解してその能力を十分に発揮できるように援助する活動。」(コトバンク,「ガイダンス(英語表記)guidance」:精選版 日本国語大辞典の解説 ガイダンス)との意味性を持つ「ガイダンス」―因みに,この概念が第二次世界大戦直後に米国から半ば日本に強制的に導入され,訳出に困った日本側が捻出した訳語,それが「生徒(活)指導」でした―のフィールド((保育所(園)・幼稚園・)学校教育),対象((乳幼児・)児童・生徒),方法及び思想性を超え,敢えて表現するならば,「カウンセリングマインドとそれに基づくカウンセリング技法を携えた,一元論的トランスモダニズムに立脚する〈指導(・助言)〉」くらいの意味性で「ガイダンス」を用いているのです。―ここで,改めてお断りしておきますが,飽くまでも,当塾の守備範囲は〈教育〉のフィールドです。―

○ なぜ二元論を超越し,一元論的に物事を考えれば,トラブルや心的不安などが解決・解消の方向に向かうのか?
○ なぜクライアント様の対象範囲が広いのか?

これらの詳細については,当塾が投稿してきた,また,今後投稿するBLOG記事をご覧くだされば,お分かりになると思いますので,そちらに譲らせていただくことにします。

実は,このように,BLOG記事を綴る作業を通して,私や住本は二元論を超越する一元論的トランスモダニズムを追求/追究(体現)しようと,当塾の3度目の業務改善に取り組む決意をしたのです。有言実行というわけです。


白河関跡 芭蕉と曾良の像
白河関跡 芭蕉と曾良の像

昨今の学習指導要領の改訂により,教育界は教育方針のコペルニクス的な転回期(ある意味,エポックメイキング)と言わんばかりの雰囲気を醸し出しているように思えます。しかし,果たして,本当にそうなのでしょうか?

松尾芭蕉が説いた俳諧の理念である「不易流行」。
この理念は「不易」と「流行」を二項対立として捉えるより,むしろ「ある種の生命」を恒常的に求めて変化を重ねていく流行性にこそ,「不易」の本質が存すると捉えるべきものであると考えるのです。

つまり,「不易」は「ある種の生命」に付与された「永続的な価値」を意味し,「流行」はその「永続的な価値」を追究・実践するがための「継続的な変貌の諸相」であると言えるのです。

私は現役の教員時代からよく述べていました。
「教育にも不易流行がある。」と。

要するに,(教育界には術語が独り歩きする風潮があるため,私としては無責任に口走りたくない,しかも文部科学省も大々的に使用しなくなった)「アクティブラーニング」(この術語に措定される根幹的な教育方法は,既に昭和20年代の学習指導要領に見受けられる。)に表象化されてしまった一つの相が,教育界の「流行」の一例であると言えるわけです。

そうであるならば,「「ある種の生命に込められた「永続的な価値」」とは何を意味するのか?

それは,疑う余地はなく,「流行」を実践できる資質・能力を有した〈ホンモノの教員〉の存在であり,その心に常時宿っている乳幼児・児童・生徒への計り知れぬ〈愛〉であって,現代の教員の多くが喪失している〈教員としての本質〉なのです。

「教員採用試験合格道場―オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」」(小桝雅典,オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」,2018.10.1,2019.4.18加筆)

いきなりの引用をご海容ください。

これは,当塾の一部門「教員採用試験合格道場―オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」」の公式サイトから引用してきたものです。ただ,「不易流行」の解釈を示したいだけで長々と引用してしまいました。(笑) 

と申しますのも,「令和」の典拠となった「梅花の歌三十二首并せて序」(『萬葉集』巻五)の「序」を読んでいて,真っ先に私の脳裡に浮かんだ言葉が「不易流行」だったのです。時代が移り行く中で「美」の表象は「流行」していきます/見えます。しかし,どの時代をも,どの地域・国(境)をも超越して存在する〈美(の本質)〉がある。それが〈梅花(の美)〉だったわけです。「不易」と「流行」とを二項対立の構図に当て嵌め,二元論的に解釈していたのでは導くことのできない〈美〉だったのです。

以上,上述したようなことをくどくどと思いめぐらせながら,「「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【後編】」を脱稿したのでした。

[追記]

久し振りに,少し気合を入れて綴ったBLOG記事 「「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【後編】」ですので,ご一読を賜れば幸甚です。

  平成31年4月21日(日)

塾長 小桝 雅典 

【過去の「塾長の述懐」シリーズ】

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


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