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「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【後編】

大宰府を背景に咲く白梅 塾長のつぶやき
宮梅
この記事は約23分で読めます。
太宰府天満宮本殿(正面)
太宰府天満宮本殿

0 プロローグ

生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。

新元号「令和」が公表され,はや2週間が過ぎました。
「平成」の発表時は,このような「喧噪の巷」が展開されましたでしょうか? どうも私の記憶ではそのようではなかったように思うのですが…。「令和」の「政治利用」を危ぶむ声もあるようですね。

ただ,私の関心は「喧噪の巷」「政治利用を危ぶむ声」などの社会的な心理状況及びそうした心理を醸成する要因等にもないことはないのですが,最大の関心事は「平成/令和」(「/」は背反を示します,「vs」と言っても良いでしょうか)と無意識裡に脳裏でイメージしている私の思考性(形態)にあるのです。-こうした思考性(形態)は「私」だけではないのかもしれません。現代を生きる読者の多くの皆様もそうではありませんか? また,ひょっとすると,上述の「心理状況」もそうした思考性(形態)に起因するのかもしれません。-(したがって,敢えて「私も」と記述しますが,)こうした思考性(形態)を持つがために,往々にして事物を二項対立(=二つの概念が矛盾又は対立の関係にあること)で捉えてしまいがちなのです。例えば,「自然/文化」「真/偽」「善/悪」「男/女」「魂/肉体」「パロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)」など数え上げれば際限がないほどです。しかも,それらの対をなす項のどちらかがどちらかの優位にあると考えてしまう。-J.デリダの「脱構築(deconstruction)」を志向しているわけではありません。特に,私には「文学作品の解釈において確定的な意味は存在しないとする」考え方はありません。

こうした思考性(形態)は20世紀的な「知」,ポストモダニズムの沈殿物なのかもしれません。いえ,二項対立で事物を捉えてはいけないと述べているわけではなく,そこで留まってはいけないのではないか,さらに,二項対立の構造を解体し差延するフィールドだけでは相対主義的なニヒリズムに陥る危険性があるのではないのかと述べたいのです。

では,現前の事物をどのように捉えていけばよいのか?

それにはポストモダニズムを超越する-「超克する」なのかもしれません―ことしかない。
私にはそのようにしか考えることができないのです。

時代は確実に「平成」から「令和」に移行していきます。それは紛いもない偶発的必然たる〈事実〉です。時空間が移行すれば,世界観・宇宙観は変遷するはずです。史実はそれを証明しています。人為的バイアスを伴う「歴史(観)」ではなく,〈史実〉が。-いいえ,変遷させないといけない〈現実〉がこのポストモダニズムの終焉期に生起しています。その〈現実〉については,次の当塾のブログを参考にしてください。-

【関連】

したがって,「現実」を変遷させる主体は「「 〈鄙陋〉の残滓の大衆化 」から自己(各種共同体)を解放する」※1〈我々〉に他なりません。時代の文化・文明の創造主は〈我々〉のはずですから。そして,この言説が前回のブログ「「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【前編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.6)の「エピローグ」で問題提起した「「和たらしむ」主体は誰か(何か)?」の正解になるわけです。解は,当然のことながら,「政府(内閣)」ではないのです。「令和」を耳にし,「(政府に)命令されているようで不快だ!!」とする思考性(形態)は「権力/反権力」の思考構造を有するポストモダニズムの虜囚を体現するとともに,まさに「「令和」の政治利用」言説に回収された態様を表象しているのです。

ポストモダニズムは死を迎えます。
そして,このような思考性(形態)を超越するメルクマール(指標・標識)として,何者かの見えざる手-執拗ですが,「政府(内閣)」ではありません―により「令和」言説が創造されるのです。

さて,今回のブログでは,先述した思考性(形態)を新たな時代のエピステーメー(思考の台座)と仮に見立てて,前回,提示した問題について,「鍛地頭-tanjito-」の見解を少々文学的に記述していきたいと思います。

【前回提示した問題】

  • 「和たらしむ」主体は誰か(何か)? → 解決済み(上述)
  • 〈(斯斯然然の)共創造(co-creation)〉の「斯斯然然」とは何か?
  • そして(だから),「令和」が象徴するものは何か?
紅白の梅の枝と梅の花を浮かべた枡
枡と梅の花

1 大伴旅人と大宰府

周知のように,「令和」の典拠『萬葉集』には,大宰府の長官であった大伴旅人が「梅花(観梅)の宴」を開いたことを語る「梅花の歌三十二首并せて序」(巻第五)とその際に詠まれた歌32首が収録されています。以下に「序」のみを引用します。

梅花の歌三十二首并せて序

天平二年正月十三日に,帥老の宅に萃まりて,宴会を申ぶ。
時に,初春の令月にして,気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き,蘭は珮後の香を薫らす。加以,曙の嶺に雲移り,松は羅を掛けて蓋を傾く,夕の岫に霧結び,鳥は縠に封ぢられて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ,空に故雁帰る。
ここに,天を蓋にし地を坐にし,膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ,衿を煙霞の外に開く。淡然に自ら放し,快然に自ら足りぬ。
もし翰苑にあらずは,何を以てか情を攄べむ。詩に落梅の篇を紀す,古と今と夫れ何か異ならむ。宜しく園梅を賦して,聊かに短詠を成すべし。

『萬葉集 二』(小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳,小学館 日本古典文学全集,昭和47年5月,pp.67-68)…a

まずは,この大伴旅人なる人物にクローズアップしてみます。

大伴旅人
没年:天平3.7.25(731.8.31)
生年:天智4(665)
奈良時代の貴族。『万葉集』の歌人。壬申の乱(672)のときの功臣大伴安麻呂の第1子で,家持,書持の父。母は,弟の田主と同じく巨勢郎女か。安麻呂が,平城京遷都後,佐保に居宅を構え,「佐保大納言卿」などと呼ばれたことをもって,旅人,家持へと続くこの家を,佐保大納言家と称する。奈良時代,大伴氏のなかで,最も有力な家柄であった。和銅3(710)年正五位上左将軍として,『続日本紀』に初めてみえる。中務卿を経て,養老2(718)年中納言となり,神亀1(724)年聖武天皇即位の際に,正三位に昇叙。「暮春の月芳野離宮に幸す時に中納言大伴卿勅を奉りて作る歌」(『万葉集』巻3)は,その直後の行幸に供奉しての作らしい。旅人の作品と判明しているもののうちの初出となるが,長歌は当面の1首のみで,他の推定作を含む七十余首は,すべて短歌であり,しかも中納言兼大宰帥として赴任したのちの4年間に偏ることが注意される。その大宰帥任官は,神亀5年ごろか。天平2(730)年大納言に昇進して帰京。翌年従二位に進んだが,秋に薨じた。『懐風藻』に「初春宴に侍す」と題する詩が録され,年67とある。 ① 老齢で不本意な大宰帥として西下し,着任早々に妻の大伴郎女を失ったこと,また,筑前国守山上憶良との文学的な交流が,晩年の多作の契機となっている。② 旅人を中心に,憶良,沙弥満誓(笠麻呂),ひいては大宰府官人らを加えて,旺盛な作歌活動が展開されるに至り,近時これを「筑紫歌壇」と呼ぶ。晩年の自身の生活感情をしみじみと表出する性格が際立ち,③ 『万葉集』において,短歌が新たな抒情性を獲得してゆく過程を,この歌人にみて取ることができる。漢詩文の表現を意欲的に摂取し,唐初の伝奇小説『遊仙窟』に倣った「松浦河に遊ぶ」序と歌群(巻5)を合作するなど,④ 歌における風雅の世界を創造していることも見落とせない。また,⑤ 長歌の衰退期にあって,「讃酒歌十三首」(巻3)をはじめ,短歌による本格的な連作を編み出した歌人としても記憶されるべきである。<参考文献>五味智英『万葉集の作家と作品』,伊藤博『万葉集の歌人と作品』下
(芳賀紀雄)

コトバンク「大伴旅人」:出典 朝日日本歴史人物事典,(株)朝日新聞出版,下線は筆者による。(以下,同様)

大伴旅人
おおとものたびと
(665―731)
『万葉集』中期の代表歌人,官人。父は安麻呂(やすまろ),母は巨勢郎女(こせのいらつめ)か(石川内命婦(ないみょうぶ)とする一説もある)。同じく万葉歌人の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は妹で,家持(やかもち)は嫡子である。710年(和銅3)左将軍正五位上となり,718年(養老2)中納言(ちゅうなごん),720年征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ,隼人を鎮圧した。727年(神亀4)ごろ大宰帥(だざいのそち)として九州に下り,730年(天平2)12月大納言(だいなごん)となって帰京。翌年従(じゅ)二位となり、その年7月に没した。年67歳。長歌1,短歌76首(異説もある),ほかに若干の書簡や散文があり,『懐風藻』に詩1首をとどめる。⑥ 歌は,長歌1首とその反歌1首のほかは,すべて大宰府へ下ってからの作で,晩年に集中する。⑦ 下向直後の愛妻の死去,筑前守(ちくぜんのかみ)在任中の山上憶良(やまのうえのおくら)との交遊,藤原氏の政治的圧迫に対する憂愁,老齢の地方生活による寂寥(せきりょう)などが作歌へ駆り立てた背景にあろう。⑧ みずみずしい哀切の情をすなおに吐露した亡妻挽歌(ばんか),偽らざる人間の嘆きを託した望郷歌,一読洒脱(しゃだつ)ななかに人生の憂悶(ゆうもん)を歌った酒をたたえる歌などのほか,神仙思想や老荘思想に基づく虚構的作品もある。一級の知識人で,名門大伴氏の長らしく,のびやかで気品ある詠風が特色である。[橋本達雄]
 世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
『高木市之助著『日本詩人選4 大伴旅人・山上憶良』(1972・筑摩書房) ▽村山出著『日本の作家2 大伴旅人・山上憶良』(1983・新典社)』

コトバンク「大伴旅人」:出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

私にとっては,なかなか魅力的な人物です。
次に,上述の引用を中心に,その魅力についてのポイントを整理してみます。

A 心底に「哀切の情(憂愁)」「寂寥」が凝着している。(①,⑦,⑧)
B 旺盛な作歌活動を展開し,山上憶良らと共に歌壇を形成している。(②,⑥,⑦)
C 歌に「風雅」の世界(新たな歌風)を創造している。(③,④,⑤,⑧)
注 丸数字は上記引用中の丸数字を表す。

愛妻であった大伴郎女を亡くしたことによる「哀切の情(憂愁)」は偽りのない旅人の真情でしょう。しかし,「大宰帥として西下し」たことについては,「藤原氏の政治的圧迫」による権力闘争に敗北したことを背景とする説や(現)九州地方鎮圧のため,その統治的手腕を評価されたことに起因するとする説などがあり,定かであるとは言い難いところがあるようです。ですが,愛妻を喪ったことは事実のようですから,「哀切の情(憂愁)」は旅人の胸の内を支配し,心底に凝着したものと考えられます。それに加え,名家大伴氏であるが故の「老齢の地方生活」が旅人を「寂寥」感に駆り立てたことは容易に想像できることです。(A)

旅人は,生来,歌才に長けた人だったのでしょう。そうでなければ,山上憶良らと共に歌壇を形成し旺盛な作歌活動を展開することなど困難でしょうし,歌の世界のエポックメーキングとなる「風雅」の確立など,到底不可能に違いありません。(B)(C)

しかしながら,そうした偉業を「歌才」だけに封じ込めてしまうことは,旅人を見失うことを意味します。旅人を作歌へと駆り立てたものは下線⑦に指摘があるとおり,「下向直後の愛妻の死去」「筑前守(ちくぜんのかみ)在任中の山上憶良(やまのうえのおくら)との交遊」「藤原氏の政治的圧迫に対する憂愁」「老齢の地方生活による寂寥(せきりょう)」などがあったものと思われます。

ただし,それらだけでもなかった。看過してならない肝心なことは,作歌活動の舞台が「大宰府」であったということなのです。当時の「大宰府」の有する左遷 (貴人配流) 言説に加え,〈外〉の文化・文明(=ここでは主に大陸文化・文明)に対する〈内〉の文化・文明(=日本文化・文明)との接点として「大宰府」という地が果たした役割に注目しておかなければならないと考えるのです。

奈良,平安時代に対外防備および九州を総管するために筑前国筑紫郡 (現在の福岡県太宰府市) におかれた役所。古くから大陸との交通の要地を占め,白村江で唐,新羅の水軍に敗れた大和朝廷が大陸に対する防衛基地として創設したもの。

コトバンク「大宰府」:出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

もちろん,大宰府は以上のように政治や軍事の中心であったばかりでなく,文化的にも西海道の拠点であった。仏教では戒壇(かいだん)が設けられた観世音寺(かんぜおんじ)が,学問では学業院(がくぎょういん)が,その地位を占めていた。博士(はかせ)のほか音博士(おんはかせ)もおり,五経とともに『史記』『漢書(かんじょ)』『後漢書(ごかんじょ)』『三国志』『晋書(しんじょ)』など賜下されて,国学生(くにがくしょう)たちを教授していた。
[井上辰雄]
『鏡山猛著『大宰府都城の研究』(1977・風間書房) ▽倉住靖彦著『大宰府』(1979・教育社)』

コトバンク「大宰府」:出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

上記の引用からすれば,「大宰府」は九州を総管するための役所として政治や軍事の中心となったばかりではなく,「古くから大陸との交通の要地を占め」,「文化的にも西海道の拠点であった」ことが分かります。つまり,先述したように,旅人が生きた時代にあって,「大宰府」は日本の中で最も早く大陸(中国)文化・文明が伝播した地であり,大陸文化・文明の多大な影響下にある日本文化・文明と本家大陸文化・文明とが化学変化を起こしていた地であったと考えられるのです。

要するに,旅人の作歌活動の根源には,当時の「大宰府」だからこそ必然的に可能となった大陸文化・文明と日本文化・文明との化学変化を背景とする「公」的環境と「個」に依拠する旅人の歌才及び「哀切の情(憂愁)」や寂寥感との統合(止揚)があったということなのです。換言すれば,そうした「公/個」の統合(止揚)が旅人の新たな歌風を創出したと言って過言ではないでしょう。

坂本教授は「万葉集は,近畿地方の人々の歌が中心になっているが,32首が詠まれたのは,九州で万葉集の歌の歴史でも当時では比較的新しい局面を切り開いた地域。ここでは大伴旅人や山上憶良らが歌の世界をリードしていたが,当時,大宰府は外交関係の出先機関で渡来の文化・文明にたっぷり触れながら新しい歌の世界を創っていったので,この32首は万葉集の中でも特徴のある部分だ」と話しています。

梅花の歌32首とは:「「令和」の典拠 万葉集 梅花の歌 中西進さんはこう訳した」(NHK NEWS WEB,2019年4月2日 15時27分,現在,リンクソースが存在しません。)

そうして,その統合(止揚)を実働させた主体は旅人(ら筑紫歌壇)であったわけですが,その内発的な実働に誘ったあるモノが存在していたのです。それが,大陸から渡来した(と考えられる)「梅(花)」でした。

2 大宰府の梅花

2018年4月 
 
(前略)

 「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(王仁『古今和歌集仮名序』)

 飛鳥時代の木簡にも記された有名なこの歌に出てくる「花」は梅の花とされます(桜という説もあります)。『万葉集』には「梅」の字が入った歌が119首みられ,この数は桜の47首を凌ぎます。奈良時代にすでに梅花鑑賞の習慣があったことは,天平2年(730)正月13日に大宰帥大伴旅人の邸宅で梅花の宴が催されたとき,列席者たちが「梅花歌32首」を読んだことからもうかがえます。実際に,平城宮跡東院庭園や左京三条二坊の宮跡庭園の池からウメの種(正確には核)が出土していて,梅の木の存在をうかがわせます。(中略)

 もともとウメは,中国南方原産の植物です。(中略)
 
日本の遺跡では,国立歴史民俗博物館のデータベースによると,ウメの種は,縄文時代終わりごろの遺跡から出土しはじめ,弥生時代や古墳時代には全国的に広がります。(後略)

梅のはなし:なんぶんけんブログ,奈良文化財研究所,2018年4月18日 09:00

この漢詩風の一文は,梅花の歌三十二首の前につけられた序で,書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。
その内容によると,天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。
当時,大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。

万葉集入門,(解説:黒路よしひろ)[1]令和2(2020)年1月26日現在,リンク元が不明です。

万葉の時代には白梅のみで,紅梅が伝わるのはもう少し後。
萩に次いで多く詠まれています。集中122首。
大伴一族の歌と,大伴旅人邸での「梅花の宴」で詠まれた歌を数えあげれば,万葉集に詠まれた梅の歌の大部分が,大伴旅人と関係があるとされます。
なぜでしょうか。
梅は中国の漢詩文に古くから詠まれていて,その影響を受けた旅人をはじめとする奈良時代の文人に珍重されたからです。

万葉の植物 梅 を詠んだ歌:里山の暮らし,2011.3.5 

万葉集に梅歌が多いのは簡単に言ってしまうなら,貴族階級・知識階級の人々が梅を詠む機会というものが多かったのだということになろう。そして機会を多くした要因として,梅の生態上の特徴や中国文化の影響・貴族たちの享楽的精神などがあるのである。

「万葉集における梅の歌考」:重留妙子 (二十八回生),熊本県立大学学術リポジトリ

「大宰府」だからこそ,真っ先に渡来したと考えられる梅は,当時の日本文化にとっては「非常に珍しい植物」であり,古く中国の漢詩文に詠み込まれた文学(芸術)的モチーフ(motif)であったことから,大陸文化の影響を多大に受けた貴族・知識階級に「珍重された」と言えるのでしょう。付言すれば,大陸においても日本においても,梅花は文学(芸術)的「美」の象徴であったと言えるのではないでしょうか?

このように考えてくれば,「梅花」が歌才の豊かな旅人に,彼に凝着する「哀切の情(憂愁)」や寂寥感そのものを超克・超越させるとともに,そうした陰鬱な負(個)の心性(mentality)と絢爛な「大陸文化・文明と日本文化・文明との化学変化を背景とする「公」的環境」との統合・止揚(aufheben)を促す文学的衝動を醸成したと言えるのです。

因みに,旅人の時代,なぜ「梅」が珍重され,「桜」ではなかったのかと思われる読者もおいでのことでしょう。それは,私の管見による限り,当時の貴族・知識人には「梅は観賞の対象として庭に植えるモノ(都)/桜は自生するモノ(鄙)」とする認識があったからです。ただ,これも20世紀的な思考のフレームを通しての見解なのかもしれませんが…。

白梅
梅(接写)
河津桜のクローズアップ
河津桜・クローズアップ

3 古と今と夫れ何か異ならむ

執拗ですが,「令和」の典拠に立ち返ります。その序文の中で看過してはならない言表(群)があります。

「古と今と夫れ何か異ならむ」

発話の主体は広く捉えるならば,「筑紫歌壇」のメンバーということになるのでしょう。一方,個に着眼すれば,(位階,宴会の集合場所及び歌才などから歌壇のリーダーと目される)「旅人」と考えても良いと思います。

また,言表「古」は旅人の時代から見て(も)古き大陸の時代を表象し,「(白)梅」に「象徴美」を観る大陸の文芸(漢詩文,文化・文明)を意味すると考えられます。したがって,「今」は旅人が住まう時代であるとともに,「(白)梅」に「象徴美」を希求しようとする日本の文芸(和歌,文化・文明)ということになります。

「夫れ」は感動詞ですし,「何か異ならむ」は「夫れ」と相俟って,強い反語を意味しています。「(どうして)何の違いなんぞがあろうか,いや決して違いなどない!!」くらいに強調された言表群だと解釈できます。

では,

  • この言表群が一体何を意味しているのか?
  • そうして,なぜこのように強く感情を発露するような言い回しとなっているのか?

これらを明らかにしない限り,「令和」の典拠となった「序」を〈読んだ〉ことにはならないし,「令和」を〈捉える〉こともできないのだと思うのです。

ただし,これから述べることは,この「序」だけを分析しても抽出されない結果を述べるに過ぎません。例えば,『萬葉集』の全ての「序」と言える言表群の機能や「旅人」「(観梅の)宴」「初春」「令月」「気」「淑く」「風」「和ぐ」「梅」など,「序」に表象されている一つひとつの言表が『萬葉集』の他の箇所で〈語り手〉によってどのように語られているのか,また,『萬葉集』だけではなく,同時代の文学作品においてそれらの言表が〈語り手〉によってどのように語られているのかなどを詳細に読み取り,『萬葉集』の言語宇宙を再構築しない限り,明確な結果を得ることはできないのです。したがって,これから述べることは,私の多分なる憶測に基づく推論になることをお断りしておきます。

「序」の〈語り手〉は冒頭から滔々と観梅の舞台を自然美をもって語っていきます。そこには「からごころ」のフィルターを通した日本の自然美が詠われていると考えられます。なぜならば,そこに集う登場人物たちは旅人を代表とする貴人・知識人であり,彼らが周囲の自然に対して胸襟を開く相を〈読み取る〉ことができる〈語り手〉もまた貴人・知識人と考えられるからです。―と言うのも,彼らに大陸文化が多大な影響を及ぼしていたことについては,先述したとおりだからです。―しかも,観梅の舞台を彩る自然美の語りは,「もし翰苑にあらずは,何をもちてか情を述べむ。」との語りに連結されていきます。その連結の効果により,自然美の語りはまさに大陸の漢詩文(文芸)を象徴する〈語り〉に変貌するのです。〈語り手〉はその連結の効果を狙ったのです。かなり文芸に秀でた〈語り手〉です。さらに,その象徴化は「詩に落梅の篇を紀す」と語ることにより,大陸文化を髣髴とさせる漢詩文を厳然と,かつ,明白に「聞き手(読者)」の脳裡にイメージ化していきます。巧みな〈語り〉です。

そして,その〈語り〉の帰結ともいうべき〈語り〉が語られます。

「古と今と夫れ何か異ならむ」
「宜しく園梅を賦して,聊かに短詠を成すべし。(ここに庭の梅を題として,ともかくも短歌を作りたまえ。※2)」

「異ならない」と語るのですから,「同じ(通底している)」と読んで良いのでしょう。つまり,〈語り手〉は「「(白)梅」に「象徴美」を観る大陸の文芸(漢詩文,文化・文明)」と「「(白)梅」に「象徴美」を希求しようとする日本の文芸(和歌,文化・文明)」とは〈通底している〉と〈語っている〉のです。「梅花」の〈美〉は異文化・異文明間において〈通底している〉のです。旅人ら「筑紫歌壇」の文芸的立場は,「令和」の典拠の「典拠」となった(と考えられる)「蘭亭集序」『淮南子』『文選』などが表現した〈美〉を愛でる立場と同じだと言いたいのです。〈語り手(あるいは,作者(創り手)と「語り手」との中間に位置する「話者」(仮称)〉はそのことを「古と今と夫れ何か異ならむ」の発話主体に語らせたのです。これを〈語り手〉の欲望と呼びます。

しかし,事態は〈通底〉で終わりませんでした。旅人と目される発話主体が「古と今と夫れ何か異ならむ。宜しく園梅を賦して,聊かに短詠を成すべし。」と発した瞬間,大陸と日本との交流の接点である「大宰府」において,大陸文化・文明(文芸)〔都〕と日本文化・文明(文芸)〔鄙〕とは「梅花」を基軸にそれぞれの文化・文明を超越した高次の〈文化・文明〉を結んだのです。その結果,「梅花」は〈梅花〉となり,体現した「美」は両文化・文明を超越した〈美〉となりました。と同時に,旅人(筑紫歌壇)の歌にはそれまでにない〈新しい歌風〉が宿ったのです。―大陸文化・文明と日本の文化・文明との高次化の左證が旅人の〈新しい歌風〉であったとも言えるのです。―

坂本教授は「万葉集は,近畿地方の人々の歌が中心になっているが,32首が詠まれたのは,九州で万葉集の歌の歴史でも当時では比較的新しい局面を切り開いた地域。ここでは大伴旅人や山上憶良らが歌の世界をリードしていたが,当時,大宰府は外交関係の出先機関で渡来の文化・文明にたっぷり触れながら新しい歌の世界を創っていったので,この32首は万葉集の中でも特徴のある部分だ」と話しています。《再掲》

梅花の歌32首とは:「「令和」の典拠 万葉集 梅花の歌 中西進さんはこう訳した」(NHK NEWS WEB,2019年4月2日 15時27分,現在,リンクソースが存在しません。)
安八百梅園の白梅
安八百梅園

4 エピローグ

今一度,ヘーゲルの弁証法を想起し,これまでの旅人の歌を考えてきた記述をそのトリアーデに当て嵌めると,「テーゼ(正)=大陸文化・文明(古の文芸)/アンチテーゼ=日本文化・文明(旅人に代表される萬葉当時の文芸)/ジンテーゼ=旅人の新しい歌風」となり,その媒介に〈梅花〉が存在したということになります。

このように考えてくると,「令和」の典拠には上述したような(文学的)世界観が表現されていることから,「令和」を単なる元号の変遷と捉えるだけでは事足りません。つまり,「令和」は時空間に存在する諸現象が止揚(aufheben)する時流にあると言えるわけです。概括すれば,現代の文化・文明は〈新たなステージ〉を創造しなければなりません。したがって,「令和」はその象徴でもあり,メルクマール(指標・標識)でもあるわけです。換言すれば,「令和」は「ポストモダンの時代」の終焉を宣言し,(「〈鄙陋〉の残滓」を除く)多様な価値観を止揚する「一元論的トランスモダンの時代」の幕開けを告げているのです。

文化・文明を高次のステージ(フィールド)に向かって「止揚→創造」していくのは,紛れもない現代を生きる我々です。その過程には〈共創造(co-creation)〉しかないのです。各「生」の営みにおけるフィールドの中で,(自己を含む)他者の多様な価値観を,お互いが心眼を開いて聴き〈相対化〉し,〈新たなフィールド(ステージ)〉を共に創り上げる,そうした人間にしかできない営為にこそ,我々の「生」は〈生〉として根付いていくのだと思います。

しかも,こうした「文化・文明の〈共創造(co-creation)〉」は「筑紫歌壇」に既に垣間見ることができるのです。

この〔筆者注 「序」〕後つづく三十二首の歌は,座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり,各々円座で回し詠みしたものとなっています。
後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ,当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。

万葉集入門,(解説:黒路よしひろ) [2]令和2(2020)年1月26日現在,リンク元が不明です。

これで,前編で提示した問題「〈(斯斯然然の)共創造(co-creation)〉の「斯斯然然」とは何か?」「「令和」が象徴するものは何か?」についてはお話させていただいたことになります。「止揚の時代」とも言うべき「令和」が恒久平和を創造するファーストステージになることを切望し,最後に安部総理の「令和」に込めた意味を引用しておきます。

悠久の歴史と香り高き文化,四季折々の美しい自然,こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく,厳しい寒さの後に春の訪れを告げ,見事に咲き誇る梅の花のように,一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる,そうした日本でありたいとの願いを込め,令和に決定致しました。

文化を育み,自然の美しさを愛でることができる平和な日々に,心からの感謝の念を抱きながら,希望に満ち溢れた新しい時代を国民の皆様と切り開いていく。新元号の決定にあたり,その決意を新たにしております。

【安倍首相談話全文】「令和」に込めた思いは… 「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」(ハフポスト日本版,Yahoo!ニュース,4/1(月)12:37配信,現在,リンクソースが存在しません。)

この安部総理の言葉を本ブログの主旨に合わせてお読みいただければ幸甚です。

※1 「新しい時代を生きるための《読み》について考える―〈語り手〉とは?【発展編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.27)
※2 前掲書a,pp.67-68

雲竜梅の蕾に積もった雪
雲竜梅の蕾に積もった雪

【追記】

広島東洋カープの元エース黒田博樹氏の座右の銘が「雪に耐えて梅花麗し」 であることは,カープファンならばご存知のことと思います。苦労人らしい黒田氏のユニフォーム姿(投球動作)が脳裡に鮮明に蘇ります。確かに,様々な折に,「雪」と「梅花」がセットで撮影された写真や画像を目にします。この座右の銘及び映像は,〈厳しいステージ〉の後には,高次の〈新たなるステージ〉が創造されることを意味していると思います。

現在,カープは負けが込んでいます。文字どおり,冷た~い「雪」のステージの到来です。それまでの3年間とは全く異なった様相です。しかし,本「令和考」のごとく,「(3年間の)常勝」のステージ(テーゼ)と「連敗(「雪」)」のステージ(アンチテーゼ)は選手・球団や日本,否,世界中のカープファンの〈共創造(co-creation)〉によって,必ずやこれまでに見たこともない〈常勝美〉を備えた〈新たなステージ〉を迎えるのです。球団の経営も高次に止揚されることでしょう。将又(はたまた),毎試合,〈芸術的な美を奏で,勝ち続けるカープ野球〉が展開されることでしょう。1試合の中での逆転のカープは,シーズンを通しての逆転のカープとなるのです。

でも,ちょっと空しい…。

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


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