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新しい時代を生きるための《読み》について考える―〈語り手〉とは?【発展編】

枝に咲く一輪の沙羅双樹の花 「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論
沙羅双樹の花
この記事は約19分で読めます。
「鍛地頭-tanjito-」の2019年度業務内容改編の告知模式図
2019年度 組織改組(業務内容改編)

〔原文〕

 僧都せん方なさに,渚(なぎさ)にあがり倒(たふ)れふし,をさなき者の,めのとや母などをしたふやうに,足ずりをして,「是(これ)乗せてゆけ,具(ぐ)してゆけ」と,をめきさけべども,漕ぎ行く舟の習(ならひ)にて,跡は白浪(しらなみ)ばかりなり。いまだ遠からぬ舟なれども,涙に暮れて見えざりければ,僧都たかき所に走りあがり,沖(おき)の方をぞ,まねきける。

『平家物語①〈全二冊〉 新編 日本古典文学全集 45』(市古貞次 校注・訳,小学館,1994年6月,p.194,傍線は小桝が施した。以下,同様である。)…a

〔訳文〕

 僧都はしかたがないので,渚にあがって倒れ伏し,幼児が乳母や母などの跡を慕う時のように,足をばたばたさせて,「これ,乗せて行け。連れて行け」とわめき叫んだが,漕ぎ行く船の常で,あとには白波が残るばかりである。まだ船はそんなに遠くはないのだが,涙に目も曇ってよく見えなかったので,僧都は高い所に走り登って,手をかざして沖の方を見やった。

前掲書a,p.194

プロローグ

今回のブログは,前回投稿したブログ「待って!! その国語の授業!!-〈語り手〉とは何か?-【基礎編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.18)の「発展編」の位置付けに当たります。

まずは,前回投稿後の率直な感想から記述します。

前回のブログタイトル「待って!! その国語の授業!!」(傍線は小桝)がそうしたのでしょう,読者の皆様によるPV数がやや減少致しました。恐らく,「国語の授業は私には関係ない。」ということだったのでしょう。お気持ちはよく解ります。

そこで,今回はブログタイトル(メイン)を「新しい時代を生き抜くための《読み》について考える」と致しました。「新しい時代」は「一元論的トランスモダンの時代」を意味しています。※1「生き抜く」には,共同主観性や身体性を中心とする思考のフレームを有する人間存在を基底とした20世紀的な世界観を片方に睨みながら,それらと自他に認識されない「ありのままの《自己(他者)》(≒個人の〈オリジナリティー〉)を希求する《人生の旅路》」との連関性を意識して《生》を営むべく,「一元論的トランスモダンの時代」に個の,又は共同体の〈オリジナリティー〉を生成しながら《生きる》という意味を内包させました。※2そして,「《読み》」には「語りの構造読み」を媒介とする文章等の作品世界の再構築を通して,了解不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求する行為そのものの意味を付与しています。※3

つまり,このプロローグで申し上げたいことは,次のとおりです。

「語りの構造読み」を扱う本ブログシリーズは,単に新学習指導要領(国語)に規定された「語り手」概念の解説を目的とするだけではなく,線条性(リニア)の世界(=文字列で書かれた説明的な文章や文学的な文章等)を通して新たな作品世界を再構築する(=新たな〈読み〉を体得する)とともに,その再構築(体得)の行為は,新たな(一元論的トランスモダンの)時代を《生きる》ことを熟考する行為でもあり,したがって,読者の皆様にそうした契機を提供しご批正を頂くことも目的とするものである。

簡易に述べれば,「国語の授業の関係者だけに向けて発信したブログではなく,これからの時代を生きる全ての方々にご批正を頂こうと発信したブログですよ。」ということなのです。

そういう意味からすれば,何も解説のための作品に『平家物語』を選ぶ必要はないわけです。しかしながら,新学習指導要領(国語)の改訂に伴い,世間では「「実用的な文章」を読解することに傾注し,「文学軽視」である」との批判が沸き起こっています。ましてや古典作品(古文・漢文)の行方は如何に?

そこで,何事も「均衡(バランス)」が重要であると考える私は,解説のための作品に敢えて古文の文学作品(『平家物語』)を選定した次第なのです。(修士論文の題材が『平家物語』だったという大きな前提もありますが…(笑))「説明的な文章」も「文学的な文章」も,どちらも大切な〈文章〉です。どちらも叙述に沿って,正確に,的確に読み取る必要があり,そうした〈読みの力〉を付けなければならないのです。20世紀の「知」の構造(枠組み)は二元論から一元論へと相貌を変え,分析原理から統合原理へと移行している,※ⅰしかも,既に(さらに),時代は次のステージへとシフト(アウフヘーベン)しようとしているにもかかわらず,未だに「「説明的文章」or「文学的な文章」?」などと言っているようでは,まさにアナクロニズム(時代錯誤)の虜と化しているとしか言いようがないのではないでしょうか? そうした固定的ポストモダニズム的思考から,逸早く(自己の)思考の〈解放〉を目指すべきだと考えるのです。だから,古文の文学作品を持ってきたのです。

とは言うものの,本ブログシリーズで古文の文学作品が初お目見えするわけですから,古文そのものの分量は少なくしてあります。

それでは,『平家物語』(覚一本)の中から「巻第三 足摺」の登場人物「俊寛僧都」に視点を照射し,語りの構造と語り手の視点についてご説明申し上げたいと思います。


※1 「一元論的トランスモダンの時代」については,次のブログを参照してください。「「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.15)
※2 「ありのままの《自己(他者)》」については,次のブログを参照してください。「育児言説を〈相対化〉するーポストモダンの時代から一元論的トランスモダンの時代へー〔第1回〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.21) 「共同主観性・身体性―《人生の旅路》」との連関性及び「《生きる》」の意味合いについて,ここでは詳述致しません。「大衆の〈知〉を高次に統合し,新たな世界観(文化)を形成しようとする一元論的トランスモダンの時代における個の生き方(在り方)」程度の意味合いで捉えておいてください。
※3 この点については,本ブログシリーズの主題となるため,以後のブログの中で明確にしていきます。

喜界島の城久集落にある八幡神社
喜界島の城久集落にある八幡神社

語りの構造と語り手の視点

「文学的な文章」に限ったことではなく,「説明的な文章」においても,将又(はたまた),古典文学に限ったことではなく,近代文学においても同定できることなのですが,書かれた作品はその殆どが「語りの構造」を帯しています。これは,創作主体としての「作者」と表現主体としての〈語り手〉とを区別して認識するところから始まります。

本ブログの冒頭に掲げた『平家物語』(覚一本,巻第三 足摺,一部引用)をご覧ください。この場面は,登場人物の俊寛(僧都)が平家討滅の密議の咎を受け,流人として配流された鬼界ヶ島※1にただ一人,平清盛によって帰京を赦(ゆる)されず,迎えの舟に置き去りにされる語りで構成してあります。この語りからも明らかなように,「作者」※2と〈語り手〉とは明確に区別されなければなりません。仮に「作者」と〈語り手〉とが同一の人物であるとするならば,この人物は俊寛と共に鬼界ヶ島に存在していなければなりません。俊寛の一挙手一投足を〈外〉の客観的な視点から具(つぶさ)に語っているのですから。俊寛と共にあって,俊寛を観察し,その様子を語る人物。しかし,現実的には流罪の島※3にその人物が存在したとは考えられません。恐らく,実際の「作者」は,この一件の後,俊寛と同じく流人として配流された少将成経・康頼法師や平家方の御使いである基康,又は後に鬼界ヶ島を訪れ,主人の最期を看取った有王などから当時の俊寛の様子を直截(ちょくせつ)聴いたか,若しくはそれら四者が人々に語った俊寛に纏わる話を間接的に聞いたかして,その聞き書きを綴った(語った)と考えられるのです。

それでいながら,物語内容はまるで〈聞き手〉を意識するかのように語られています。ということは,「作者」とは異なる〈ナレーター〉が物語空間に存在していることになるのです。これが〈語り手〉です。〈語り手〉は物語空間において,多少なりとも顕在的であり―そうでない場合もあります―,物知りであり,偏在的・自意識的であり,自由な存在です。引用文中の下線部「涙に暮れて見えざりければ,」は〈語り手〉が登場人物である俊寛に(一瞬)同化したことを示しており,〈語り手〉がまさに自由自在な存在である―作品によっては自由でないもののある―左證となるでしょう。

このように考えてくると,古典文学だけではなく近代文学の多くの場合においても,現代のナラトロジー※4と日本の物語論とはほぼ同定できると言えるのではないでしょうか?※5少なくとも日本の古典文学作品は〈物語〉と呼んで良さそうです。

高峰の尾根に佇む一頭の鹿
山の鹿

それでは,その〈物語〉とは如何なるものなのでしょうか?

〈物語〉は,線条性(リニア)の形態を採る記述による,創作された虚構的現実です。一般に優れた「創り手」は,言葉による線条性(リニア)の世界に多種多様な「現実」のイメージを封じ込めます。そこには,時間軸を媒介とした虚構的現実世界の空間が奥行きを持って存在します。その〈現実〉の世界に主人公がいます。彼/彼女は行動し,言葉を話します。そして,彼/彼女を取り巻く環境があります。―人間関係があります。事件・出来事が起こります。―環境に左右されながら,主人公の言動は彼の心的変化に伴い,以前とは様相を異にします。それに並行して人間関係も異なった様相を示し始めます。自然への働きかけは,彼/彼女の予想し得なかったものに相貌を変ずるのです。※6このように〈物語〉においてこれらの物語内容は線条性(リニア)の世界の時間的経過に即し,〈語り手〉により虚構的現実世界の出来事として語られるのです。そうして,線条性(リニア)の世界が終焉を迎えるとき,〈語り手〉の語りも結末を迎え,虚構的現実世界も同時に幕を下ろすのです。

したがって,「読み手」はその線条性(リニア)の世界から「創り手」によって封じ込められた複雑に錯綜する虚構的現実世界を,言表を手掛かりに再構築※7していかなければならないのです。しかも,〈語り手〉による言説を辿れば,そこには〈語り手〉の欲望※8が窺えてくるのです。

ただし,ここで留意しておかなければならないことがあります。それは,先述した物語内容を語る〈語り手〉の言説における特性です。繰り返しますが,〈語り手〉は「創り手」とは異なる存在であり,物語内容を語る架空の人物です。したがって,〈語り手〉は現実に存在する人物と同様,性格や個性を有し,事象を認識する主体として存在するのです。つまり,〈語り手〉は間主観的拘束性※9により「自らが生きた時代や所属した共同体の精神及び認識(イデオロギー・共同主観)」(=時代及び各種共同体言説)に,固有の生活背景に起因する「個性化された認識」を加味した「語り」(=「自動化された内的物語」※10 以後,〈内的物語〉と表記します。また,所謂時代及び各種共同体の言説と〈内的物語〉の融合体は,〈語り手〉の独自の〈視点〉を形成するので,これを端的に「言説」と表記します。)でもって物語世界を語っているのです。例えば,登場人物はその登場人物を語る〈語り手〉の「言説」※11によって言動を制御され,〈語り手〉特有の〈視点〉でもって,その人物像が形象化されていくのです。

一方,〈語り手〉の「語り」に基づいて,「読み手」は作品世界を再構築しようとします。ところが,再構築を試みるそれぞれの「読み手」は,〈語り手〉同様,彼らが生存する時代や各種共同体の言説を基盤に生存している上に,それぞれの〈内的物語〉を有しています。すなわち,ここにおいて,〈語り手〉の「言説」(=〈語り手〉の〈視点〉)とそれぞれの「読み手」のそれらとの位相により,また国語科授業を想定した場合,それぞれの「読み手」間に生起する「言説」の相違により,「物語内容(虚構的現実世界)に対する認識のズレ/個別化された「読み」」が現象化してくるのです。※12

つまり,このように考えると,同種・類似の事象についても,それを異なった作品間で語る,様々に想定され得る複数の〈語り手〉の〈視点〉や〈語り〉の〈方法〉には位相が生じるはずなのです。無論,同様であることも想定されます。ましてや作品世界に没入する「読み手」の,同事象(同物語内容)に対する「視点」や「語り」の「方法」は,作品世界の〈語り手〉のそれとは異なりを示すはずなのです。(→この現象を,仮に「異化」と呼んでおきます。)勿論,同様である可能性もあるでしょう。(→この現象を,仮に「同化」と呼んでおきます。)このように,「読み手」が〈語り手〉の〈視点〉や〈語り〉の〈方法〉に「同化」したり,「異化」したりできる(→これを,「対象化・相対化」と呼んでおきます。また。意識的にこれらの行為を営む場合,これを特に〈対象化・相対化〉と呼んでおきます。)ならば,「読み手」は作品世界の〈対象化・相対化〉を通して多様な〈視点〉(=ものの見方や考え方≒価値観)を体得していくことになるでしょう。このことは,延いては,〈優れた読み手〉たる一つの条件となるものであると考えることができるのです。しかも,このような〈優れた読み手〉が虚構的現実世界を再構築し,〈語り手〉の〈視点〉や〈語り〉の〈方法〉を〈対象化・相対化〉する過程にこそ,文字列で書かれた作品を味わう一つのおもしろさ(=「〈読み〉の可能性」)が存在していると言えるのです。

したがって,ここにおいて,人の一生を通じて,各人が〈優れた読み手〉となるためには,学校教育における学習者それぞれの「言説」を〈対象化・相対化〉する授業構築が喫緊の課題となってくるわけなのです。

廿日市市を背景にした安芸の宮島の大鳥居と一等の鹿
安芸の宮島

ただ,上述した思考は,まさにポストモダニズムの枠組みから解放されない思考と言って過言ではありません。何度も繰り返すように,時代はポストモダンの時代から(一元論的)トランスモダンの時代へと移行しようとしています。勿論,上述したような〈読みの理論〉をすっ飛ばして,いきなり新時代の《読みの理論》を模索・体現しようとしても,それはいくら何でも無謀というものです。したがって,アナクロニズムに陥りながら,今後,新学習指導要領の名の下に,「語りの構造読み」が学校教育の中で扱われ,事の成否はさて置くとしても,新しい〈読みの理論〉として,その体得が目指されていくことになるのだと思います。

ですが,本来,それでは遅いのです。《読みの理論》は単なる線条性(リニア)の作品世界を再構築するだけのものではないのです。来たるトランスモダンの新時代において,各種共同体や自己の「ありのままの《自己(他者)》」(≒〈オリジナリティー〉)を《読む(=希求する)理論》でもあるわけです。〈読みの理論〉を介して〈相対化〉された共同体や自己は,実体を伴う他者としての共同体や他者と共創造(co-creation)(≒《相対化》から高次の段階への統合化)しながら,各種共同体としての,また,各個人としての「ありのままの《自己(他者)》」に近接していかなければならないのです。そして,その模索は人間が営む種々の領域で既に行われています。ビジネス界も然り,国語教育界も然り。そして,私も然り。

ですから,本ブログで紹介する「語りの構造読み」は,実は,時代遅れの〈読みの理論〉だったということになります。私の考える新たな《読みの理論》※ⅱについては,紙幅がどこかにあれば,披歴させていただきたいと思っています。


※1 薩摩国。鹿ケ谷の陰謀(1177年(治承元年))により,俊寛・平康頼・藤原成経が流罪にされた島。翌1178年(治承2年)に康頼・成経は赦免され京に帰るが,俊寛だけは赦されることなく,独り島に残され,悲嘆のうちに死んだ。
※2 『平家物語』は琵琶法師によって語られた文学である。したがって,同書の場合には,実体を伴った「語り手」と呼ぶ方が良いのかもしれない。
※3 『平家物語』には,当時の「鬼界ヶ島」を語る次の語りがある。引用する。
「彼島は都を出でてはるばると,浪路をしのいで行く所なり。おぼろけにては舟もかよはず。島にも人まれなり。おのづから人はあれども,此土の人にも似ず,色黒うして,牛の如し。身には頻りに毛おひつつ,云ふ詞も聞き知らず。男は烏帽子もせず,女は髪もさげざりけり。衣裳なければ人にも似ず。食する物もなければ,只殺生をのみ先とす。しづが山田を返さねば,米穀のるいもなく,薗の桑をとらざれば,絹帛のたぐひもなかりけり。島のなかには,たかき山あり。鎮に火もゆ。硫黄と云ふ物みちみてり。かるがゆゑに硫黄が島とも名付けたり。いかづち常になりあがり,なりくだり,麓には雨しげし。一日片時人の命たえてあるべき様もなし。」(前掲書a,p.154)
※4 「物語の構造や語りの機能を分析する文学理論。ロシアの民俗学者プロップによって創始された。狭義の文学のみならず,神話・絵画・映画・歴史叙述などへの幅広い適用が試みられる。」(コトバンク,「ナラトロジー(英語表記)narratologie」,大辞林 第三版の解説
※5 髙橋 亨(1992.4):「物語学に向けて―構造と意味の主題的な変換―」(『物語の方法 語りの意味論』,糸井通浩・高橋 亨編,世界思想社,p.4)
※6 ここに叙述した物語内容は一つのモデルに過ぎず,これをもって全ての〈物語〉が有する物語内容を語ったわけではない。
※7 〈優れた読み手〉によって再構築される虚構的現実世界はモノトーンの世界ではない。無臭の世界でもない。ましてやサイレントの世界でもない。そこには色彩があり,音があるのである。だからこそ,虚構的〈現実〉なのである。
※8 竹村信治(1996.3):「はなのはなし―説話と表現(1)―」(『国語教育研究 第39号 大槻和夫先生還暦記念特集』,広島大学教育学部光葉会,pp.23-33)に詳しい。
※9 「相互主観性」ともいう。「自我だけでなく他我をも前提にして成り立つ共同化された主観性。フッサールなど現象学派を中心に研究され、知識や科学・文化などは、これを根底に成立する。間主観性。共同主観性。 → 共同存在」(コトバンク,「相互主観性(読み ソウゴシュカンセイ)」,大辞林 第三版の解説) 「共同主観」も同概念を示す言葉である。
※10 難波博孝(1996.8):「自動化された「物語」から逃れるために―国語の授業でなにをすべきか―」(『日本文学』巻45,日本文学協会)に詳しい。
※11 〈語り手〉は時代言説からの制約を受けるばかりの存在ではない。時代言説を〈対象化・相対化〉し得た〈語り手〉は,時に時代言説と自己の〈内的物語〉との葛藤に大きく揺れ動く場合もある。また,果敢に時代言説に抗する場合もある。さらに,〈内的物語〉からの制約を受ける可能性が高い〈語り手〉も,自己の〈内的物語〉を〈対象化・相対化〉し得た場合には,時代言説の場合と同様,新たなる《内的物語》の生起によって感動・逡巡・当惑・葛藤などの体験を経験するのである。
※12 筆者は読みのアナーキズムに陥る無責任な読者論を肯定しているわけではない。すなわち,まず「読み手」は〈語り手〉の〈語り〉が有する「言説」を模索・接近し,そこに回帰していかなければならないのである。読みの過程を考えるならば,〈対象化・相対化〉はその段階において営まれることになる。つまり,「個別化された「読み」」(=「読みの多様性」)は,〈対象化・相対化〉の段階にあって,それぞれの「読み手」の「言説」が個に応じて変容する可能性を示唆している。

《※1~3の参考》 「鬼界ヶ島」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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エピローグ

さて,次回(発展編)は「〈視点〉獲得の必要性」と「〈対象化・相対化〉の(教育的)意義」について考えてみたいと思います。と,このように告知しておいて,執拗に述べますが,本ブログシリーズは国語教育の推進のためにのみあるものではありません。私は先日「「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.15)の中で,次のように語っています。

時代状況を鑑(かんが)みるとき,現在はポストモダンが終焉を迎え,ポストモダンを超越(トランス)する時期にあるのではないかと考えるのです。ただ,それは希望的な観測であるのかもしれません。このポストモダンの終焉期に当たり,数多くの小さな価値観は鬩(せめ)ぎ合い,空洞化・形骸化しました。終焉期は人的な新たな価値観の創出のために必要なエネルギーを喪失した頽廃期とも言えます。結局,近未来は新たな価値観を創出するフィールドと凋落(ちょうらく)するフィールドとに,まずは二極分解(ここで,詳細は語りませんが,もう少し細かく見ると四分割)するのではないのかというのが,私の見方です。

注:下線は本ブログの叙述のために小桝が施しました。

下線部に,特に私の本音はあるのですが,それを見事に言い当てた言表が前掲書ⅰ(p.56)にありますので,次に引用します。

近代の個人主義は,単に一人ひとりを大切にしようということにとどまらず,さらに突き詰めて言えば,他者(としての個人)はともかくとして自分(という個人)を最も大切にしようという主張にほからなない。他者よりも自我を,他人よりも自分を,というのが近代個人主義のホンネなのである。

注:傍線は小桝が施しました。

まさに引用のとおりだと思います。「近代個人主義」の大義名分(=言説の権威性)の下,当初はまだ「小さな価値観」と呼べた各個人の「言説」も,許容社会(「独我論的傾向(前掲書ⅰ,p.56))が不幸にも進行する中で「空洞化・形骸化」し,「我執のミイラ」と化してしまいました。非常に厳しい言い方ですが,「〈鄙陋(ひろう)〉の残滓(ざんし)の大衆化」と言っても良いのかもしれません。かと言って,一方では,生き残った「小さな価値観」間の矛盾を〈矛盾〉として内包したまま,それらの統合化を図り,高次の文化(ステージ)を共創造しようとしている人たちも現に存在しています。ただ,どちらにせよ,―「 〈鄙陋〉の残滓の大衆化 」から自己(各種共同体)を解放するにせよ,共創造による高次の文化創造に専心するにせよ,―〈視点〉の獲得と〈対象化・相対化〉の営為は不可欠だと断言できるのです。それらの営為は混迷を極めるポストモダンの終焉期に存立する複雑多岐な社会システムを「システム思考」で乗り切る〈方途〉をきっと授けてくれるに相違ないからです。

このように考えてくれば,本ブログシリーズの最終目的が単に国語教育の推進にのみあるだけではなく,一元論的トランスモダンの時代を見据え,高次の文化創造を目途に,20世紀的な「知」の止揚(アウフヘーベン)・統合化を図る〈在り方〉を提示し,人世からのご批正を頂こうとしていたことにあることがお分かりいただけたかと思うのです。

【参考文献】

※ⅰ 長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ―知の構築のために―』(山川出版社):本書は「20世紀的「知」の構造」を学ぶのに適しているだけではなく,巷間の小論文試験対策本とは異なる異色の所謂小論文参考書です。
※ⅱ 田中実・須貝千里・難波博孝(2018.10):『21世紀に生きる読者を育てる 第三項理論が拓く文学研究/文学教育 高等学校』(明治図書):本書は「文学研究,とりわけ近代文学研究と国語科教育の実践/研究の停滞・混迷を超え,ポスト・ポストモダンの時代を拓いていくため」(「まえがき」より)に示唆を与えてくれる点で有益であると言えます。

【参考論文等】

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


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