新規塾生募集中!!
受講者募集中!!

教採受験界のパラダイムシフト!!
教員研修を基盤とする
教採対策
筆記選考と人物評価選考との
アウフヘーベン

〈ホンモノの教員〉 を
育成します

「場面指導Weekly解説ルーム」へはこちらからどうぞ。

「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)

青空に浮かぶ白い雲と雲でできた「BLOG」の文字 塾長のつぶやき
この記事は約15分で読めます。
e 類似言説の〈相対化〉
(a) 「まねぶ(学ぶ・真似る)」≠「パクる」

とても3才のお子さんの所作とは思えない動画です。
一挙手一投足をじっくりとご覧ください。

お部屋の埃取りをする娘さん


可愛らしさだけではなく,自然なのですが,計算された動きを感じるのは,私だけでしょうか?
この動画を見る度に,「よっ! しっかり者!!」と声を掛けたくなります。

生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」の塾長,小桝雅典です。

実は,この動画の中の女児は,当塾の住本副塾長の娘さん(3才)なのです。
副塾長がこの動画をフェイスブックにアップしたところ,平成31年2月19日(火)現在で,「いいね」を「342」も付けていただき,コメントのやり取りも「108」となりました。副塾長としてはその事実に驚きを隠せず,また大変喜んでもいます。頂いた心温まるコメントは,次のような主旨のものでした。

  • とても可愛い。
  • 驚くほど手際が良い。
  • 親の背中をしっかりと見ている。
  • お母さんの教育が良いのではないか。

このように,娘さんの可愛さと掃除の手際の良さ(物を避(よ)けておいて,埃取りを行うなど)をお褒めいただいたもののほか,「親の背中を見て子は育つ」というものが多かったようです。

そうなんです。娘さんは,お母さんである住本副塾長を毎日しっかりと見つめていたのです。特に,お母さんが掃除をする姿が印象的だったのか,将又(はたまた),お母さんの言動の全てを確(しか)と脳裡(のうり)に焼き付けていて,自身ができそうな掃除を見よう見まねで行ったのか。それにしても,娘さんが掃除を行う所作は,お母さんとそっくりです。私は,日頃,几帳面で手際のよい住本副塾長が掃除する姿を感心してよく観察していますから,間違いありません。お母さんの生き写しですね。ですから,普通ならば,「お母さんが娘さんに掃除の仕方を教えたのだろう。」と考えるところです。「3才のお子さんに掃除の英才教育!?」なんて。ですが,誠に個人的な話になり,恐縮なのですが,私も住本副塾長も「英才教育」には大反対ですから,その可能性は「0」なのです。脳科学の見地からも「英才教育はよくない」とする研究者もおられます。

「住本副塾長は娘さんに掃除の仕方を一切教えていない!!」

これが事実です。

正(まさ)に,「まねぶ」※1です。すぐに同源の「まなぶ(学ぶ)」が連想されますね。模範となるものを真似し,体験を経験化することによって知識や技芸を得ていくことと解(かい)されます。勿論,師匠等から直接教えを身に付ける意も,この言葉にはあります。ですが,娘さんの場合は如何(いかが)ですか? 住本副塾長は娘さんに掃除の仕方について,直接,教えた事実はないのです。繰り返しますが,この場合,知識や行動の体得に「真似」の要素しかないのです。やはり「まねぶ」です。ただし,デジタル大辞泉(小学館)によれば,「まねぶ」には,「見たこと聞いたことをそのまま人に語る。」意があります。つまり,「横流し」です。因みに,同辞書には「ぱくる」の語意は「人のものをかすめ取る。かっぱらう。」「他人の作品・アイデアを,自分のものとして発表する。盗用する。剽窃(筆者注 読み「ひょうせつ」)する。」があるとしています。そこで,読者の皆様に質問です。

娘さんの掃除に係る行為は,お母さんの行為の「横流し」,あるいは「ぱくり」だと表現して良いですか?

如何でしょうか? 言わずもがな,正解は「NO!!」ですね。飽くまでも「まねぶ」です。「学び(学習)」なのです。それも自発的な。

つまり,このように考えてくると,「まねぶ(真似る)」ことは,決して「横流し」でも「ぱくり」でもないのです。「真似ること」は「パクること」とは異なる概念なのです。〔真似ること≠パクること〕

【参考】

まね・ぶ【▽学ぶ】
[動バ四]《「まなぶ」と同語源》
1 まねをする。まねをしていう。
「鸚鵡、かねて聞きしことある大隊長のこと葉を―・びしなりけり」〈鴎外・文づかひ〉
「みどりごの絶えず―・ぶも」〈かげろふ・上〉
2 見たこと聞いたことをそのまま人に語る。
「この夢合ふまで、また人に―・ぶな」〈源・若紫〉
3 教えを受けて身につける。習得する。
「琴、はたまして、さらに―・ぶ人なくなりにたりとか」〈源・若菜下〉

コトバンク 学ぶ(読み)マナブ デジタル大辞泉(小学館)

ぱく・る
[動ラ五(四)]
1 大きく口をあけて食べる。ぱくつく。「おむすびを―・る」
2 人のものをかすめ取る。かっぱらう。「手形を―・る」
3 他人の作品・アイデアを、自分のものとして発表する。盗用する。剽窃する。
4 犯人などをつかまえる。検挙する。逮捕する。「現行犯で―・られる」
[可能]ぱくれる

コトバンク ぱくる デジタル大辞泉(小学館)


【※1関連】

「「学ぶこと」,「まねること」,「参加すること」」(住本小夜子,当塾公式ホームページ,2018.6.4)

自分の履いたシューズを洗う息子さん


娘さんの「まねぶ」の態様に似た「学び」で,私が連想するものがあります。それは中世ヨーロッパの都市,ギルドに存在し封建的労使関係が紡いだ「徒弟制度」です。(勿論,その制度を維持するためにギルド共同体が構築した身分秩序を,「身分制」として肯定するものではありません。)ここ数年来,日本でも採り入れられている「デュアルシステム」をその一方で根幹となって支える「徒弟制度」は,まず弟子が師匠の背中から学びます。何を学ぶのか? 私は思います。それは「これから学ぼうとしている知識や技芸を〈まねぶ〉ための〈気〉を学ぶ(〈感じ取る〉)」のだと。非常に抽象的で曖昧な言い方で恐縮です。分かり難い説明ですが,学問や技芸を身に付ける〈場〉には,それなりの〈場性〉があります。簡単に言えば,その〈道〉が宿す伝統的なエネルギーとも言うべき雰囲気のようなものでしょうか。それは決して口(音声言語)で伝えられるような代物ではありません。〈道〉を極めた師匠は,既にその〈気〉を感じ取っており(だから,師匠なのですが),弟子がそれを〈感じ取る〉まで凝(じっ)とその時を待つのです。そして,師匠と弟子との間でその〈気〉が一となるとき,師匠の教えと弟子の〈学び(まねぶ)〉が始まります。つまり,知識・技芸の〈伝授(教えを授けること)/伝受(教えを受けること)〉のスタートです。ですから,その始まりまで,弟子は師匠の背中を拝し続けるというわけです。背中は〈気〉を語るのです。

住本副塾長は,毎日,几帳面に手際よく,かつ,丁寧に掃除を行います。ですから,住本家はいつも奇麗ですし,掃除の〈気〉が宿っていると言って過言ではありません。そうした環境の中で,お母さんが掃除する姿をしっかりと見(真似)て,息子さん(7才)や娘さんは育っているのです。息子さんもお母さんからの教えを受けることなく,自ら自分の履くシューズ洗いを積極的に行っています。左手をシューズの中に入れて,ブラシで擦るお母さんの姿を真似て(上掲の動画を参照)。そして,娘さんは冒頭の動画のとおりです。時折,兄妹はお母さんを其方退(そっちの)けにして,二人だけの話し合いを持ち,掃除の役割分担を決めて,それぞれの役割を遂行しているそうです。掃除の〈場性〉,〈気〉を感じ取り,お母さんの姿を〈まねぶ(真似る)〉兄妹の姿がそこにはあります。

ですから,執拗ですが,どのように考えても,掃除にかかわる兄妹の行為は,お母さんのそれを「パクった」わけではないのです。〈真似た(学んだ)〉のです。そうすると,上述した「徒弟制度」においても,〈気〉を〈感じ取った〉弟子が師匠から〈まねぶ(学ぶ)〈〉ことは「パクり」ではない可能性を多分に持つことになります。〔(真似る≒学ぶ)≠パクる〕

(b) 「まねぶ(学ぶ)」の前段階-〈気〉と〈場性〉とを〈感じ取る〉-

〈場性〉とか〈気〉とか,何やら神秘的で,非現実的なお話をしているとお嘲笑(わら)いになっておられる読者がおいでかもしれません。しかし,決して御笑い種ではありません。〈気〉は宿るのです。それが〈場性〉を構築します。皆様も日常生活の様々な場面で,ご経験のことではないでしょうか?

それは教育の世界でも同様です。例えば,先生方の異動がそうです。私も何度か体験しました。広島県下の同じ校種である高等学校間を異動になる度に感じ取っていたことです。同じ後期中等教育を行う学校と言っても,公教育の世界でありながら,それまでにお世話になったA高等学校にはA高等学校の,異動先のB高等学校にはB高等学校の〈気〉(〈場性〉)があるものです。ですから,異動直後は,懸命に新しい〈気〉(〈場性〉)を感じ取ろうとしたものです。換言すれば,例えば,B高等学校が伝統的に育んできた世界観を,自らの感性のアンテナを精一杯広げて〈感じ取る〉ことから始め,それでもって,自らの教育に関する感性に揺さぶりを掛ける。その上で,新たな教育の技を身に付けようとしたのです。特に,高等学校から県教育委員会に異動になったときには大変に驚きました。全く異なる〈気〉(〈場性〉)を〈感じ取った〈〉からです。しかし,感じ取らなければ,そこでの仕事はできなかったと思います。

住本副塾長も同様の事を述べていました。彼女はその職歴において「訪問介護員2級養成研修課程修了」の資格を持ち,複数の介護福祉施設で勤務してきました。その勤務先が変わる度に,同じ介護福祉の世界であっても,異なる〈気〉(〈場性〉)を〈感じ取った〉と言います。勤務先が変われば,体得していた同じ介護技術が通用しない。したがって,異動後はまず自身と〈気〉(〈場性〉)とが一になるように努力したと。

付言します。「生徒指導の三機能」※2の一つに「共感的人間関係を育成する」があります。例えば,ある担任教師がクラスの目標(「明るく元気に挨拶をする」でも「時間を守る」でも良いのです)を一生懸命に守ろうと努力している。その姿を見た児童生徒たちが,担任の先生の姿に学び,クラス目標の大切さを感じ取った上で,「先生が頑張っておられるのだから,僕も/私も頑張って,クラス目標を達成するぞ!!」と思うようになった。そして,それを行動に移したとします。こうした態様を元来の「共感的人間関係」と言います。元々,「共感的人間関係」は「教師-児童生徒」間で成り立つ関係性を言うのです(現在,「児童生徒-児童生徒」間の関係性で使用することが多いようですが)。こうした態様は正に「師の背中を見て育つ」状況と言えます。さらに,特筆すべきことがあります。それは,こうした「共感的人間関係」が育成されたクラスには,往々にして清々しく,それでいて程よい緊張感のあるエネルギーが漲る〈気〉(〈場性〉)があるということです。経験則ではありますが,間違いありません。児童生徒と担任の教師等で作り上げた〈気〉(〈場性〉)です。その〈気〉(〈場性〉)を〈感じ取り〉ながら,「共感的人間関係」は構築されていきます。

〈気〉は二重構造です。(全くの造語ですが,)「教育道」「介護道」などが宿す〈気〉と,「教育道」「介護道」をそれぞれ体現しようとする,ここでは学校や施設が宿す〈気〉。後者の〈気〉は前者を母体として成立するものですから,多くの場合,私たちは後者の〈気〉を感じ取ろうとします。こうした体験は,読者の皆様方にもおありだと思います。だからこそ,お分かりいただけると考えるのですが,〈気〉を感じ取るためには,ある程度の時間が必要となります。これを「師匠-弟子」関係に置き換えてみると,「師匠」は「弟子」が〈気〉を〈感じ取る〉まで〈待つ〉ことを求められます。つまり,「弟子」が本格的に「師匠」から〈まねぶ(学ぶ)〉ためには,前段階として,(「師匠」の立場で述べるところの)〈待ち時間〉が必要となるということです。換言すれば,高度な知識や技芸を身に付けるためには,「〈気〉を〈感じ取る〉→〈まねぶ(学ぶ)〉」過程が,まずはセットとなって立ち現われる段階が存在するということなのです。考えてみれば,住本副塾長のところの兄妹にしても,「徒弟制度」の「弟子」にしても,例え話のクラス目標達成に努力する児童生徒たちにしても,ある程度の時間を掛けて「〈気〉を〈感じ取る〉」段階があったはずです。そして,それらの人々は,その間,「住本副塾長」「師匠」「担任の先生」の背中をそれぞれが見つめていたはずなのです。

高度な知識・技術を体得するには,「師匠」から「まねぶ(学ぶ)」前段階として,「〈気〉を〈感じ取る〉」段階があり,その達成後,本格的な〈まねぶ(学ぶ)〉段階が始まるのです。

【※2関連】

「生徒指導の三機能とメンタリングとの関係について」(住本小夜子,当塾公式ホームページ,2018.6.7)

「鍛地頭-tanjito-」のロゴやピグをあしらった包装紙に包まれたバレンタインデーのチロルチョコ群

住本副塾長から頂いたバレンタインデーのチロルチョコ
「鍛地頭-tanjito-」のロゴやピグをあしらった包み紙!!
これもオリジナリティー!?
(c) 守破離

現代のビジネス業界の一端から,罵声にも似た嘲笑が聞こえるようです。
「〈気〉を感じる段階!?」「ある程度の時間が必要!?」
「スピードが命の時代に待ってなんぞいられるものか!」「待つ時間があるくらいならば,とっとと師匠に訊いて来い!」「師匠は弟子に客を盗られたくないから,わざと待っている(弟子に教えない)んだ!」「とにかく早くパクって来い!!」など。

そうなんですかね? … スピードが必要であることは分かりますけどね … ビジネスの世界ではありませんが,私も,長い間,教育行政の世界に居ましたからね … ここもスピードが命の世界です … 「A4 1枚の文章を誰が読んでもパッと分かるようにすぐ作れ! 10分以内だ!」なんて鍛えられてきましたから … こんなブログのように,まどろっこく長々と綴っていたら,そりゃ,大変なことになりますわ … 

ところで,いきなりですが,「守破離」はビジネス界に無縁の概念なのでしょうか? そんなことはありませんよね。ちゃんと採り入れておられるところもある。業種に依るのですかね? 高等な知識や技芸を身に付けるときだけに必要な概念ですか?

  • 守…師匠の教えをまもる段階
  • 破…師匠の教えの枠組みを超え,他の(師匠等)の教えも研究し学ぶ段階
  • 離…師匠や他の(師匠等)の教えの枠組みを超え,新たな教えを創り出す段階

少し私なりの解釈を加えて,「守破離」を説明してみました。私はこれらの3段階の前に「〈気〉を〈感じ取る〉」段階を想定していますし,この段階は「段階」ではなく,それぞれの3つの段階に通底しているとも考えています。ですが,ここでは説明がややこしくなるので,「守破離」の3段階で考えることにします。「何を考えるのか?」って?

この「守破離」なる概念を目にしたとき,私の脳裡にオーバーラップした概念がありました。それは「ヘーゲルの弁証法」でした。

  • 正(テーゼ)…ある命題(主張)
  • 反(アンチテーゼ)…「正」を否定する命題(主張)
  • 合(ジンテーゼ)…「正」と「反」とを止揚(アウフヘーベン)する命題(主張)

少し難しいので,卑近な例を挙げます。

  • 正(テーゼ)…Aさん:「俺はカレーをつくりたい。」
  • 反(アンチテーゼ)…Bさん:「私はパスタをつくりたい。」
  • 合(ジンテーゼ)…AさんとBさん:「では,カレーパスタをつくろう。」

ああ,なんて卑近すぎる例を挙げてしまったのでしょうか? ヘーゲルさん,ごめんなさい。
「合」の段階に至るには,通常,〈対話〉を必要とします。この例話の場合には,AさんとBさんとの〈対話〉があったことになります。また,「合」に至るには「止揚(アウフヘーベン)」という作用が必要です。これは単に「正」と「反」とを足し算すると考えてはいけません。所謂「統合」なのでしょうが,「正」と「反」との矛盾を否定し,両者の共通点を探る作業を行うのではなく,矛盾を〈矛盾〉と丸ごと認め,それを抱えたまま,〈対話〉により一層高次な命題を紡ぎ出すことを言います。したがって,私はこの弁証法の考え方を援用し,近現代を次のように捉えています。

  • 正(テーゼ)…近代(モダン):絶対的な大きな価値観の時代
  • 反(アンチテーゼ)…現代(ポストモダン):絶対的な価値観を否定し,小さな価値観が鬩ぎ合う時代
  • 合(ジンテーゼ)…近未来(一元論的トランスモダン):「大きな価値観/小さな価値観」「小さな価値観/小さな価値観」がそれぞれ連関を持ちながら止揚(アウフヘーベン)され,新たな価値観が創出される時代

時代状況を鑑(かんが)みるとき,現在はポストモダンが終焉を迎え,ポストモダンを超越(トランス)する時期にあるのではないかと考えるのです。ただ,それは希望的な観測であるのかもしれません。このポストモダンの終焉期に当たり,数多くの小さな価値観は鬩(せめ)ぎ合い,空洞化・形骸化しました。終焉期は人的な新たな価値観の創出のために必要なエネルギーを喪失した頽廃期とも言えます。結局,近未来は新たな価値観を創出するフィールドと凋落(ちょうらく)するフィールドとに,まずは二極分解(ここで,詳細は語りませんが,もう少し細かく見ると四分割)するのではないのかというのが,私の見方です。そこにAIがどのように関与してくるのか。

仮にビジネス界全体が新たな価値観を創出するフィールドであるとしたならば,ビジネス界は「守破離」の「離」を迎える時代となるはずです。ビジネス界を席巻した小さな価値観は〈対話〉によって止揚されていきます。そのような時代に,自らの利益だけを最優先するビジネスマンたちにジンテーゼが出現するのでしょうか? 「待つ時間があるくらいならば,とっとと師匠に訊いて来い!」「師匠は弟子に客を盗られたくないから,わざと待っている(弟子に教えない)んだ!」「とにかく早くパクって来い!!」 の言説に明確に読み取れる自己利益のみを追求する在り方には,「師匠」を初めとする他者を見下す「仮想的有能感」※3がはっきりと表れているのです。そこに〈対話〉は存在しません。

こうした人たちが多いところには,〈個の尊厳〉は存在しません。みんなこうした人たちに見下されていくのですから。そして,見下された人たちが,腹いせとばかりに,「仮想的有能感」によって苛まれた自己利益だけを求めて,さらに周囲の他者を見下していく。〈見下しの連鎖〉が構築されていくのです。そして,個のアイデンティティは共同体のアイデンティティと共に喪失する。また,それは個の,共同体のオリジナリティーの喪失でもあるわけです。無論,「仮想的有能感」の虜となった人々はさらに実力をも喪失していくのです。

こうした事態が地球規模で生起したら…。

右肩上がりの棒グラフの向こうで自信に満ちた握り拳を胸元で固めるビジネスマン

「現代のブログ言説」には,そうした兆候が窺えると思うのです。


※3 「他者軽視をする行動や認知に伴って,瞬時に本人が感じる「 自分 は他人に比べてエライ,有能だ」という習慣的な感覚」(『他人を見下す若者たち』(速水敏彦,講談社現代新書 Kindle 版,2016.10,http://a.co/3X1YX0Z)

【※3関連】

「「現代ブログ言説」を〈相対化〉する―前夜祭(Eve)―」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.10)

【関連】

「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第1回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.12.29)
「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第2回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.1)
「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第3回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.6)
「育児言説を〈相対化〉するーポストモダンの時代から一元論的トランスモダンの時代へー〔第1回〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.21)

→第6回につづく

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


タイトルとURLをコピーしました