TANJITO/ 2月 10, 2019/ 塾長のつぶやき, 塾長のつぶやき/ 0 comments

d 〈相対化〉の前夜祭

呑兵衛の悪友の中でも最高の悪友Mr.Xと差しで呑むことにした。
ここは,行きつけのお好み焼屋※1ではない。いつもの焼き肉屋※2である。
かなり杯を重ねた。
店の大将は気さくな「変わり者」だ。それを上回る「変わり者」がMr.Xだ。
わしは自分のことを差し置いておく。

大将:先生,野菜の盛り合わせじゃ,ほら。
わし:頼んじょらんよ。
大将:わしが喰えよ~るんよ。さっきから肉ばっかり食びょうる。野菜も食べんにゃあ。店の奢りじゃ。それにナムル。二人とも好きじゃろうが。
わし:ありがとう。
X :生ビールも奢りか? グヒ。
大将:それは驕りか?

わし:なあ,「驕り」で思い出したわい。
X :なんな~?
わし:お前,「仮想的有能感」※3という言葉を知っちょるか?
X :名大の速水敏彦か?
わし:そう。
X :お前は,県教委の時,生徒指導が専門の一つじゃったけん,よ~(よく)「自己有用感」が大切じゃゆ~てよ~たのう。今度は「仮想的有能感」か。ハハハ…グヒ…
わし:おい,ここで吐くなよ!
X :吐くか!! もったいない!!
X :じゃけんのう,「仮想的有能感」ちゅうんはの,人っちゅうもんは,他人のホンモノの実力,グヒ,要は実績とか経験とか,それらを確と見極めることをせず,確証のないまま,勝手に想像の域で,自分より能力が低い,つまり,自分の方が能力が高いと思~て,ええきになるということじゃろうが。別に,若者世代の問題だけじゃあないのう。人間全てに普遍化できる話じゃのう。
わし:そうじゃ。じゃけん「仮想的」なんよのう。ホンモノの「有能感」じゃない。で,なんで,そうなると思う?
X :一般的には,「自分に自信がないけん」と考えるんじゃろうが,そが~に浅いもんじゃないと思うのう。抑々(そもそも),人には自分の方が他人より能力が上じゃ~という思いがあるゆ~て,速水はよ~る。
わし:「自分はそんなに生意気じゃ~ない,人より上じゃゆ~て思わん。」と思~ちょる人間がいっぱおると思う。
X :そういう人間に限って,自分が上じゃと思ーちょるんよ。気づいてないだけよ。いや,気づこうとしちょらんもん(者)もおるで。お前も用心せい。
わし:お前もな。
わし:現代の人間の多くは不安なんかのう? わしはよ~(よく)「システム思考」※4っちゅうてゆ~んじゃけど,現代は社会システムが複雑すぎて,システム自体が見えにくくなっちょる。その分,そのシステムの中で自己の位置を見失って,人は不安になっちょるんかのう? それと,元来の人間の特性,う~ん,ここまでゆ~てええんかどうか,人より上じゃと思いたい衝動とが相俟って,「仮想的有能感」が生まれるということかのう? わし自身を省察(Reflection)しても回答が見つからんけん,わしもそうなんかのう?
X :お前,だんだんよ~る(言っている)ことが難しゅうなりょうる。酔うたか? グヒ…
わし:お前にゆわれとうない。
X :お前,それ「衝動」っちゅってゆ~てええんか?…どうかわからんが,…「心性」か?…ただ,自分より低い位置にある人を見て,自己高揚感ゆ~んかのう,それが生じるのは社会的比較理論が立証しちょるらしい。
わし:速水氏の本にはそうあるのう。
X :グヒ。
わし:しゃっくりで返事すなや!
X :で,どしたんな~それが?
わし:怖いじゃろうが。それは人が人を差別化することにつながるんど。
わし:しかもよ,お前はわしらの塾のブログをよ~読んでくれちょるよのう。
X :ゲップ…
わし:きちゃない(汚い)のう!! ゲップで返事すなや!!
わし:わしは,最近,ぶち(非常に)気になることがあるんじゃ。
X :なんな~?
わし:「現代のブログ言説」よ。
X :お前の頭はどうなっちょるんな? そんなことばっかり考えよ~るんか~?
わし:いや。怖いと思わんか? もしのう,日本中,いや,世界中の人がのう,強度の「仮想的有能感」を持ってみい~。あののう,身の回りの他者ゆ~のは,見たり聞いたり,聞くだけは怖いがのう,ある程度,実績や経験を目の当たりにしちょったり,知っちょったりする。じゃけどのう,一般の「大衆」となれば,それは全くわからん。速水氏の理論は,人はその実績や経験を知らない他者としての「大衆」に対しては,余計に「仮想的有能感」を持つということになるじゃろうが。この関係をブログの「書き手―読み手」関係に置き換えてみい~。「読み手」の殆どは「大衆」ど~。まあ,逆の関係も考えられるけど,そうなると,余計に怖い。
X :わしとお前らの塾との関係は違うけどのう。しかも,わしは時々お前らのブログにアドバイスをしちゃる。わしも編集者の一人じゃ。ははは。
わし:口だけで,何もせんくせに! でな,もし,世界中の「書き手」であるブロガーたちの多くが「読み手」である「大衆」に対して強度の「仮想的有能感」を持ったとしたら…。
X :おおうぅっ,ゲップ,お前,おもろいことを考えるのう。
わし:おもろうないわい!! 怖いわい!!
X :冗談よ。可能性が全くゼロとも言い切れんかもなあ…
わし:もし,そうなら,どうなる?
X :理論からすればで,現実はどうかわからん,「仮想的有能感」が高いからと言って,実際,高い実力を持っちょるわけじゃあないという理屈もあるけんのう。逆に,自分自身に実力がないことがわかっとるけん,余計にも「仮想的有能感」は高まるんじゃろうのう。
わし:そうしたら?
X :「仮想的有能感」が強くて,ホントに実力もある人はいるんだろうけど,大局的に見て,ブログの未来はない。ブログ文化は発展せんよのう。もしも,そうならばっちゅう限定付きじゃけどの。 ほんじゃが,「仮想的有能感」を強く持ちすぎて,そのことが却って内的動機付けにつながり,実力以上の力を出すなんてことはないんかいのう。それにしても…どうあれ,そこに「個の尊厳」はないのう…「個の尊厳」を全くもって喪失してしまう…ヒク…
わし:そうなんよ。わしはそこに危機感を感じる。〈個の尊厳〉の喪失は〈他者とのつながり〉の破棄・破綻を意味しちょる。しかものう,わしはのう,そうなってしまうのではないかと思われる兆候と思しきものを,現代のブログに見るんよ。勿論のう,この話はブログの世界だけに起きることじゃあない。人間がいるところには,どこにでも起こりうることじゃろうと思う。じゃがのう,ブログっちゅうもんは実に多くの人が利用して,非常に簡便で,瞬時に,しかものう,広範囲にメッセージを届けることができる,強烈な発信力を兼ね備えたコミュニケーションツールじゃないか。わしは,今後,ブログっちゅうもんは高次に自由度を持つ〈ブログ〉として,さらなる発展を遂げる可能性があるんじゃないかと考えちょる。じゃが,もし,仮に,意図し,企図した言説を操作する人間がブログという媒体を悪用したらどうなる? ひょっとしたら,今も…
X :出~た~,お前の大好きな「言説(discours)」!! グヒ,ヒク…ヒャックリ…ウ~

焼き肉屋の七輪の前に置かれた満タンの生ビール

わし:わしはのう,この前も「塾長の修士論文の内容が新学習指導要領及び解説の国語編に!!」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.28)を投稿したが,あの研究の動機の一つにのう,わしを含めて,「大衆」,言い換えりゃあ,「人」はのう,〈言説の権威性〉に巻き込まれやすい,言表を媒介に言説の〈相対化〉をよ~せん(うまくできない),じゃから,他人を誤解して理解したり,教員が所謂「児童生徒理解」を間違えて,児童生徒をどん底に突き落としたり,多くの人が一部悪質な社会システムに絡め捕られたりなどしちょるからのう,危機感を覚えたっちゅう~ことがあったんよ。ほんでのう,その根底には〈他者とのつながり〉の意識的・無意識的破棄があっての,それがまた〈他者とのつながり〉の破棄・放棄・破綻を引き起こすっちゅう,負のスパイラルを描いちょるんよ。
X :お前,やっぱり,酔うちょる。酔うと余計に何をよ~るんかわからんようになる…グヒ~
わし:わしはのう,テレビやラジオ,新聞,ネットなんかののう,ニュースや報道番組なんかを用心して見聴きするようにしちょるんよ。例の,最近報道されたA市の市長の暴言よ。あの一件。確かに,あの言表は,どのコンテクストで使おうが,それをテクストとして使おうが,いけんわい。じゃがのう,あの報道の仕方よ。あれって,最初の報道後に,実はこんなこともありましたゆ~て,付け足しを報道した。それに意図があったのかどうか,〈事実・真実〉はわしには分からん。でも,そうしたらどうだ。それまで,その市長のことをぼろかす抜かしとったコメンテーターや司会者らの中には,「(この案件に対して,)少しニュアンスが違ってきましたね。」ってなことをゆ~たもん(者)がおった。ニュースや報道番組などは,その〈事実〉を〈事実〉として報道できない。〈制約〉がありすぎるんじゃ。報道機関も確かに大変じゃろう。ただのう,意図的に報道していない/しているのではないのかと,わしには思えることだってある。全てひっくるめた事の顛末の一部を一つのテクストとして,事の顛末というコンテクストの中から切り取って視聴者に見せ,コメンテーターだとか司会者だとかが,自分のフィルターだけで勝手に喋り捲る。テクストとして,どこをどのように切り取り見せるかというところに,その報道機関の思想性や恣意性が出るもんじゃ。同じ事件を取り扱っても,全く同じ記事にならない各報道機関の成果物をみればわかるじゃろう。例えば,同じ事件を扱う新聞記事でも,その理解や論調は各新聞社で微妙に,また歴然と異なっとる。じゃがのう,問題はそこだけじゃない。例えば,コメンテーターや司会者が,ある「被疑者」を恰も「犯人」のように捲し立て,コメントしたとき,それを見聞きした多くの視聴者がすんなりと「ああ,この人は犯人だ。悪い人間だ。」と思ってしまうことに大きな問題がある。そりゃあ,ほんまに「犯人」だってこともある。「悪い人間だ」ってこともある。じゃが,世の中には悪い奴に嵌められて「被疑者」や「犯人」になったもん(者)もおる。無論,それでもいけないことをしてはいけない。でも,中には,完全な「白」ということもあるで。「冤罪」という言葉が死語にならないのが最たる左證よ。でものう,多くの視聴者は,その事件の一部始終を臨場して見聞したわけではないのに,いや,仮に見聞したところで,その「被疑者」や「犯人」のありのままの《自分(自己)》まで絶対に見聞することはできんけどの,それなのに,どうして,いとも簡単に「犯人だ」「悪い人間だ」と思ってしまうんじゃ?

X :〈真理・真実〉を見ようとしない。また,見るべき〈多様な視点〉を持たない。見ようとしない方がおもしろい。人の不幸は蜜の味ってか。例えば,そんな思いが余計にも〈多様な視点〉の形成を妨げる。さらに,もっと大きな視点から俯瞰すれば,現代が複雑な社会システムの中で動いていることを認識していない。だから,システムを織り成す一本一本の絡んだシステムの繊維を解きほぐせない。解きほぐすには〈多様な視点〉などを用いながら,そのシステムが紡ぐ一つ一つの事象を〈相対化〉できる力が要る。でも,育っていない。だから,巧妙にそれらのシステムの繊維を絡ませられ,〈事実・真実〉の一部だけを切り取られ見せられたとしても気づかず,声高に物を言う人達の言葉だけを恰も「事実・真実」のように鵜呑みにしてしまう。声高に物を言う人たちの言葉を繰り返し繰り返し聞いていく,聞かされていくうちに,それは真実味を帯びてくるんじゃ。例えば,多くの人が「地球は平たい板のような形だ。」と大合唱を始め,長い年月が過ぎれば,さらに数多くの人達はそれを確かめることはなく,疑わず,まあ,この場合は確かめにくいが,「地球は平たい板のような形だ。」 と信じ込んでしまう。確かに,声高に物を言う人たちは「「地球は平たい板のような形だ。」 と信じなければ痛い目に合わすぞ。」と言ったわけじゃあない。つまり,地球の形状を「平たい板」だと信じるように〈強制〉したわけじゃない。なのに,いつの間にか信じているということは,その言葉を聞かされた側の人間は,自覚のないところで,そのように信じるように〈強制〉された形となっちょる。本当は「犯人」ではない「被疑者」が「あいつは「犯人」だ。」と直接言われなかったとしても,「犯人」のように多くの声高に物を言う人達に言われれば,それを聞かされる数多くの人達は「あいつは「犯人」だ。」という表象化されない〈言葉〉を聞き,その表象化されない〈言葉〉による気づかない権威性(〈強制〉)の虜となって,その「被疑者」のことを「犯人だ」と思うようになる。いじめに見られる構造でもあるよのう。その「表象化されない〈言葉〉」を「言説」と呼び,「表象化されない〈言葉〉による気づかない権威性」を「言説の権威性」と言う。ということは,この「言説の権威性」は人の手によって操作できるということじゃのう。「地球は平たい板のような形だ。」 と最初,声高に唱え始めた多くの人間の中には,全く意図せず,それを口にした人間がいたかもしれないが,一方,中には「地球は平たい板のような形だ。」 という考えをどうしても「大衆」に広めたくて意図的に声を大にして唱えた人間もいたということじゃ。「あいつをどうしても貶めてやりたい。」と執念(しゅうね)く思って,ありもしないことを声高に,しかも,意図的に吹聴し,周囲を巻き込み信じ込ませるパターンの「いじめ」も同じ構造じゃ。じゃけん,教職に身を置く人間は,特に「システム思考」でものを見,考え,〈多様な視点〉で乳幼児・児童・生徒を理解し,さらに,乳幼児・児童・生徒や保護者,地域社会の人々と営む教育事象を〈相対化〉して,課題を解決し改善する教育活動を行わなければならんということよのう。ほんで,そのためには,まず教職に身を置く者自身が身の周りの事象を〈多様な視点〉でもって〈相対化〉できる能力を身に付けておかなければならないし,だからこそ,少なし児童・生徒にはそうした力を学校教育の中で付けておかんにゃあいけんっちゅうことよのう~。さらに,そのためには,他者との〈対話〉が大切になるよのう。自己とは違~とる数多くの他者と〈対話〉することで,それらの他者が持つ「視点」を〈相対化〉し,自己内に取り入れるものは採り入れ,要らんものは捨て,自己の〈多様な視点〉をつくらんといけんけんのう。そうすることで,結果的には,自己は〈他者とのつながり〉の中で生きちょるということを認識するようになる。これが大切なんよ。それを具現化できる可能性を秘めるものが「「語りの構造読み」を採り入れた国語の授業」ってか。これができて来れば,〈個の尊厳〉は守られるっちゅうわけじゃけんの。〈真理・真実〉に近づこうとする態度は〈個の尊厳〉を守る態度に通ずるわけじゃあ。また,逆も真なりじゃ。のう,そうじゃろう? お前,そう言いたいんじゃろう?

わし:長いわい!!!! ほんで,お前はわしか!!!! ほんで,酔うとったんじゃあないんか!?

X :う~ん? ヒック… 真面目に聴ーちょったんか?…
X :因みに,お前も長い…ヒク…
X :ああ,序(ついで)に,さらに因みに,敢えて,「敢えて」ゆ~ぞ…
X :(読者の)スマホの画面,スクロールしても,当分,全部,文字だらけ…ヒク

居酒屋で一杯目に呑む満タンに満たされたハイボール

わし:お前,ホンマに変わっちょるよのう。
X :うるさいわい。お前の方がもっと変わっちょる。ここのおっさん(大将)も変わっちょるがのう。
大将:聞こえたどう。お~い,母ちゃん,Xの伝票をこさえて(つくって),焼き野菜盛,ナムル,メガビール3ゆ~て書いちょいてくれ~!!
女将:あいよ!!
X :ちっ,ケチ臭い…うっぷ…
わし:「変わり者」と言えば,エミリ・ディキンスンを知っているか?
X :知らん。お前,発音できてないで。噛んじょる。
わし:うちの塾の「塾長のカナダ武勇伝(?)」を読んじょるじゃろうが。
X :ああ,ははは,お前,カナダに行って,語学研修を受けたにも拘らず,英語ができんで,かなり向こうで苦しんじょったのう…ははは…ヒク…
わし:そこまでまだ回は進んじょらん。投稿する前に先を言うな! 清少納言に怒られるで~
X :???
X :エミリ・ディキンスンとやらがどしたんな~? わしゃ~発音が良(え)かろうが。
わし:『エミリ・ディキンスン家のネズミ』※5というの,本の中に彼女が書いた詩がある。ああ,彼女は19世紀のアメリカの有名な詩人の一人なんよ。亡くなるまでは,彼女のことを詩人と知る人はいないくらいだった。何せ殆ど人との付き合いはなかったようじゃのう。「変わり者」のグループの人じゃったらしい。亡くなった後に,彼女の詩が有名になるんよのう。現代じゃあ,「変わり者」には,その人を排他的に見る負のイメージがあるが,本来はそういう意味じゃなかった。

一つの心が壊れるのをとめられるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう
一つのいのちの痛みを癒せるなら
一つの苦しみを静められるなら

一羽の弱ったコマツグミを
もう一度,巣に戻してやれるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう


X :まるでお前みたいじゃのう。そして,今のお前がここに在る。
わし:そう真剣になるな。
X :まあ,エミリ・ディキンスンみたいに立派じゃないがのう。
わし:この詩のう,『なつかしい時間』(長田弘,岩波書店(新書),2013.2.21)の中で見つけたんよ。この本にもあるんじゃがのう,これって,読んだ瞬間に思ったんよ,「ディグニティ(dignity)」じゃのうって。〈個の尊厳〉。
X :お前,また噛んだ。
わし:いちいち煩いわい。
わし:わしは最近よく思う。さっきの本にも同じ思いが書いてあったんじゃが,現代はあまりにも〈平均化〉してないか? ここからはわしの思いじゃが,みんな同じような服を着て歩いているとよく表現されとるじゃろう。比喩の意味での「服」でもあるし,本物の「服」をも差しちょると思うけどのう。しかも,時代が「モダン→(ポストモダン→)トランスモダン(≒ポスト・ポストモダン)」と移行(シフト)する中で,わしは,現代がポストモダンの終焉期で,かつ,多様な価値観が形骸化・空洞化し,ある種,人間的なエネルギーを喪失したデカダンス,う~ん,頽廃期にあるような気がしてならんのんよ。それが〈平均化〉に見えることもあるんじゃないかのう。「ポストモダン」を認めない人達もいるけれど,トランス(超越)せず,またモダンに戻るんじゃないのかとゆ~人もおるくらいよ。ただ,昔から平均化した価値観を打ち破ってきたのは所謂「変わり者」じゃった。そんなことがさっきの本に書いてある。これってよくわかるんよのう。じゃけん,「変わり者」は肯定的な正のニュアンスを含有している言葉じゃったんよのう。平均化していない価値観,それは,すなわち,わしが思うに〈オリジナリティーを持つ価値観〉のことであって,それを「大衆」に伝えた(伝えることになった)人,それが「変わり者」っちゅうわけよ。
X :ああ,それはわかる気がするのう…ほんで,〈個の尊厳〉,「システム思考」,〈多様な視点〉の形成,〈相対化〉,「語りの構造読み」,ほんでほんで,ブログ言説,一体,どうつながるんなあ?? 抑々,「ブログ言説」って,何なあ??

鉄板で焼かれる切れ目の入った高級ステーキ

次回以降,「類似言説」,「難解言説」,「毎日言説」及び「一回性言説」の〈相対化〉に挑む予定です。今しばらくお待ちください。
また,お付き合いいただけましたならば幸甚です。

第5回につづく

註1:本話は事実に虚構を織り交ぜて作成してあります。また,本話は「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-」の第4回に相当するものです。
註2:本話はアルコールを入れた塾長とMr.Xの親友同士等による〈対話〉を中心とした構成を採用しております。そのため,乱れた広島弁で表現してあります。広島県民が全てこのような話し方をしているわけではございませんので,予めお断り申し上げます。気を悪くされた広島県民の皆様には深くお詫び申し上げます。


※1 「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第2回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.1)を参照のこと。この回の呑兵衛悪友との悪業は,行きつけのお好み焼屋が舞台だった。
※2 呑兵衛の悪友たちにとって,この焼き肉屋も悪業を繰り返す隠れ家である。
※3 『他人を見下す若者たち』(速水敏彦,講談社現代新書 Kindle 版,2016.10)
※4 「「システム思考」と「主体性」ーいじめ問題と教師教育の視点に新学習指導要領を絡めてー」(小桝雅典,当塾公式ホームページ,2018.7.6)を参照このこと。
※5 『エミリ・ディキンスン家のネズミ』(エリザベス・スパイアーズ (著), クレア・A・ニヴォラ (イラスト), 長田 弘 (翻訳),みすず書房,新装版,2017.7.27)

© 2019 「鍛地頭-tanjito-」


Share this Post
アバター

About TANJITO

教職歴29年のベテラン塾長と育児・教育支援 こころのカウンセラーの副塾長が育児・療育・学校生活についてのお悩みを解決する相談ルームです。また,「オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」」及び「オンライン面接試験対策講座」を運営しています。

Leave a Comment

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください