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「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?―信じるという脅迫―

赤いハートを包む家族の手。 「鍛地頭-tanjito-」の教育論
この記事は約18分で読めます。

年明け早々,ふと布団の中で思ったことがあります。
「私のことを信じて」とか「あなたを信じている」といった言葉。
これって,相手に対する「脅迫」ではないのか…と。
相手の〈ありのまま〉を見取って発した言葉なのか…と。

抑々,遣い方や状況((社会的)コンテクスト)に応じて,言葉の持つ意味が180度変わる場合があります。
状況によっては,相手にとって良いことだと思い,発した言葉を,相手はそのように受け取っていなかったということはありませんか?

その背景にあるものは,本当の意味で相手を〈思いやる〉心の存否なのです。

ブログテーマを話す女性のキャラクター

0 プロローグ

「生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」」の副塾長 住本小夜子です。
メンタルケア心理士(心理カウンセラー)の試験を控え,頭がパンクしそうになりながら(笑),猛勉強を続けております。

心理学を学ぶようになり,これまで以上に他者(相手)の内面に目を向けられるようになったかなあと思います。
一つの言動によって,他者(相手)が何を考え,何を思い,何を感じているのか。そして,何を求めて,何を訴えているのか。
それらを見取り,寄り添っていこうとする力が付いてきたのかなあと思うのです。

さて,今回のテーマは,〈子育て支援の在り方〉についてです。
育児の悩みは尽きませんよね。こどもが成長するにつれ,悩みが軽減する場合もあれば,その逆の場合もあります。…〔量的課題〕
また,成長に伴い,こどもの理解度が増すことで自己解決できるものがある一方,成長段階特有の心身変化に伴う悩み(思春期,反抗期など)への対応など,こどもを取り巻く環境の変化も相俟って悩むことも少なくありません。…〔質的課題〕

「楽(たの)しく育児ができたら…。」と思わている方も多いのではないでしょうか? それとも,「楽(らく)に育児ができたら…。」と思われていますか?

「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」 。
一体,どこが異なるのでしょうか? それとも同じなのでしょうか?

私は思います。
何を重視するかで,「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」との相違が生じてしまうのだと。

では,その重視するものとは何なのか…。
私の実体験をもとにお話できればと存じます。

当塾が使用している〈 〉←この記号は「ギュメ(山括弧)」と言います。
「鍛地頭-tanjito-」では,この引用符を「メタ認知・〈相対化〉等により,
身の周りのあらゆる事象を俯瞰して見えてくる相」程度の意味合いで使用しています。
簡単に言えば,「(主体が捉えた)ホンモノの」ということでしょうか。
ですから,例えば,上述してある〈思いやりの心〉という言表は,
「ホンモノの思いやりの心」と解釈できます。

1 助けを求めることは逃げることではない。

息子が2歳5か月の頃,急に子育てが難しくなってきました。それまでは,(気が付けば,)育児書どおりに育ってきた息子でしたが,月齢を重ねるにつれ,コミュニケーション上のやり取りにおいて,上手くできない状況が多く感じられるようになりました。

例えば,
・毎日,何度も何度も同じ注意を受ける。
・特定の物事に対して自己主張が激しい。
・初対面の人に警戒心が全くなく,極端に馴れ馴れしい。
・他者との間で,「貸して」「どうぞ」のやり取りが上手くできない。
などといったことが目立ち始め,「私の躾方が悪いのだろうか?」と毎日悩んでいました。

この頃はまだ,息子が軽度の自閉スペクトラム症とはわからなかったので,とにかく躾が大切だと思い込み,厳しくしていた現実がありました。
しかし,私(だけ)がどんなに頑張っても上手くいかない。
育児ノイローゼになっていたのでしょうね。
「このままでは息子を殺してしまうかもしれない」という恐怖心が生まれ,泣きながら地区の民生委員の方に架電したのです。

電話で少しお話をしただけなのですが,私の状況(心境)を察知され,「今すぐ来ることは可能ですか?」と,即座に面談の席を設けてくださいました。

面談中,民生委員の方が次のようなことをおっしゃいました。
「住本さんは,自分の状況や感情に気付くことができたから大丈夫。」
「ここに気づかず,いや,たとえ気づいていたとしても,自分の状況を客観的に見ることができなくなってしまっていたら,育児放棄や虐待をしてしまう人が多いのですよ。」

自分の置かれた状況に気づく場合とそうでない場合との相違について考えてみると,そこに〈こども〉の存在が保護者とどのような関係性にあるのかが浮き彫りとなります。
私の場合,〈息子のために〉という気持ちが大きく働いていました。だから,私がどんなに頑張っても好転しない状況を客観的に見つめることができ,「このままでは,息子のために何もよくならない」と判断できたのです。
しかし,〈こどものため〉という想いが存在しなかったとしたならば,「なぜ私(保護者)だけが辛い思いをしなければならないのか」という衝動に埋没するしかなくなります。したがって,「自分さえ良ければ,それで良い。」という情動が生じ,〈こども〉の存在が消滅していることによって,育児放棄や虐待につながるのではないかと考えるのです。

面談で胸の内を明かしていくと,民生委員の方は,
「こどもと離れる時間を作った方がいい。」
「お母さんは一人で頑張りすぎ!! ゆっくりできる時間が必要!!」
と話されながら,あれやこれやと手続きを進めてくださいました。そして,息子の様子も落ち着いているからと,その日のうちに一時預かり保育を利用させてくださったのです。

初めて息子と離れる時間…。
いつ以来なのでしょう…?
それさえ思い出せない,一人で過ごす時間…。

煮詰まり過ぎていた自分に気付いたとき,息子もまた辛い思いをしていたのだと気付いたのです。

私がしてきた躾は,本当に息子にとって適切な方法だったのか?
大人の価値観でしかない,自分本位の方法になっていたのではないのか?
息子の気持ちに寄り添えていたのか?
いろいろなことを脳裡に思いめぐらせながら,最後にたどり着いたところにあったものは,「息子が愛おしい」というただその想いだけでした。

私は「息子が幼稚園に入園するまでは,自分(だけ)が責任をもってしっかりと育児をする」と決めていました。必然的にこどもとの時間が最も多いのは私であって,誰が助けてくれる訳でもない。
辛い気持ちや上手くいかないことをひた隠しにしながら,「いつでも良いお母さん」を演じている自分がいました。

親としての責任がある。周りの目が気になる。
だから,私がしっかりしないといけない。私がやるしかない…と。
いつしか,この強迫観念に近い責任感が自分自身の首を絞めてしまい,感情のバランスが崩壊してしまったのだと思います。


誰かに助けを求めることは,決して逃げることではありません。
話を聴いてくださる方が1人でもいてくだされば,心に伸し掛かる大きな負荷は軽減されます。私の実感です。

確かに,思いを打ち明けることは,本当に勇気のいることです。
だからこそ,それは決して逃げることではありません。
自らに対して立ち向かうことなのです。

逆に,助けを求めないことは自分だけを守ることなのです。
「誰かが私を誹謗するのではないか?」
「周囲から出来の悪い母親と思われるのではないか?」
みんな,「人」なのだから,このような思いに囚われることは止むを得ないことなのかもしれません。

しかし,そうした感情が湧出するその心底には,
「自分はいい人でいたい。」
「自分を守りたい。」
「自分が可愛い。」
といった識閾※1下の感情があるはずなのです。

そして,そこにこどもの姿はありません。
〈こどものため〉に立ち向かう保護者の姿もないのです。

こどもと私は,私が自らの胸中を包み隠さず,解放することで,他者に救っていただけたのです。

「誰に,何を思われてもいい!!」
「恥曝しと思われてもいい!!」
「ただ目の前にいる息子を守りたい!!」

ただこの一心が,私たち母子の運命を変えたことは言うまでもありません。

※1 「コトバンク」には,次のようにあります。

精選版 日本国語大辞典の解説

しき‐いき ‥ヰキ【識閾】

〘名〙 心理学で、刺激によって感覚や反応が起こる境界。無意識から意識へ、また、意識から無意識へと移るさかい目をいう語。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について

人生の分かれ道を現した画像,右か左かの選択を求められる。

2 何を求めているのかを察知する能力

意を決して助けを求めたことが契機となり,定期的に一時預かり保育を利用するようになりました。
元々,生後3か月から,ほぼ毎日オープンスペースにも通っていましたが,そこは必ず保護者が同伴します。
一方,一時預かり保育には保護者は同伴しません。
一時預かり保育では,親ではない大人からの教育や集団生活で教わり学ぶこともたくさんあるだろうし,私も自分のリフレッシュとして,こどもを預けている間,有効に時間を過ごすことができるからと考え,利用していたのです。

そうこうしているうちに,育児のサポートをしていただけるところがあると紹介を受け,別の相談窓口へと足を運びました。

対応してくださったスタッフの方は終始,「辛かったね~。」「大変よね~。」と共感(?)してくださったものの,なんだかモヤモヤして気持ちがパッとしないのです。なぜならば,私が求めていた「アドバイス」が何も出てこないから。

私の「どうすればいいですかね?」という問いに対し,1つでもいいからアドバイスが欲しいと思っていました。しかし,話せば話すほど「他に辛いことや聞いてほしいことはないですか?」と訊かれるばかり…。「楽(たの)しい育児」をするために何か良い案を頂けるのだろうと期待して行ったのに,なんだか私のプライベートを暴露しただけで,チェックされるだけされて,気分を害して帰宅したのでした。

通い慣れたオープンスペースに久々に顔を出したときでした。
保育士さんに上述した件について話すことができました。
助けを求めるときに誰に話すか迷った事実も伝えました。

「保育士さんには,いつもお世話になっているからこそ話せませんでした。」とウルウルしながら話を切り出すと,「相談してなにかアドバイスもらえた? もらえんかったじゃろ?」と保育士さんはその場面を恰も見ていたかのようにおっしゃいました。

「相談に来た人が何を求めて来ているのか理解できてないんよ。ただ「うんうん」と共感(?)しているだけじゃ何も解決せんのに。私たちは,このオープンスペースに来るお母さんとお子さんをしっかりと見ているんです。だから何も遠慮せず,困ったことがあれば訊いてください。親子の様子を見ているからこそ,的確なアドバイスができるんじゃけん。ね。」

その瞬間,我慢していた感情があふれ,目頭が熱くなったのを覚えています。

やっとの思いで打ち明けたのに,モヤモヤしたままでは,また自らの殻に閉じこもってしまいます。誰に助けを求めるのか,誰に打ち明けるのか。その選択を誤らないためには,日常の人間関係の構築(他者とのネットワークづくり)であったり,初対面であるからこその安心感が不可欠となったりすると実感しました。

このように考えてくると,前回のブログで塾長が述べていましたが,相談する側にも,される側にも,まずは〈傾聴〉※2の姿勢が必要なのだと思います。それとともに,多面的・多角的・総合的に(この場合,)多様な(社会的)文脈(コンテクスト)から得る情報を総括して,他者(相手)の心理を捉えようとする多視点を持った「心の理論」※3の形成が大切だとも思うのです。
例えば,カウンセラーもそのクライアントも。

そして,何より自分の心を他者(相手)の心のごとく開く〈思いやりの心〉が大切なのです。他者(相手)からも自分からも見えない相手/自分の心の領域※4に心眼を開こうと努力することが重要なのです。

確かに,その心の領域は自分にとっても,他者(相手)にとっても了解不能のものなのかもしれません。しかし,その心の領域に辿り着こうとする努力が肝心だと思うのです。それが当塾の基本理念でもある〈恕〉※5の相(すがた)でもあります。

※2 「傾聴」については,こちらをご参照ください。:「教師視点から考える「保護者等―教師(学校)」間の関係性について〔第2回〕」
※3 「心の理論」については,こちらをご参照ください。:「軽度自閉スペクトラム症のこどもと心の理論(theory of mind)」
※4 「ジョハリの窓」で例えると,「未知の窓」(「自分は知らない」かつ「他人は知らない」領域)のこと。詳しくは,当塾のブログ「自己理解と他者理解とが育む自己成長」をお読みください。
※5 詳しくは,当塾ホームページの「基本理念」及び「教員採用試験合格道場ーオンライン「鍛地頭-tanjito-」」の「第4節 「恕」の理念」(「第1章 【「地頭(総合的な人間力)」を鍛える教員養成】)をお読みください。

3 「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」の相違

「鍛地頭-tanjito-」の業務は,常に「こども第一」です。塾長も私も,常にこどもを中心に物事を捉えています。
それは,大人の勝手な個人の価値観で,こどもの可能性(未来)を潰してはならないと考えているからなのです。

どこにおいても,育児支援は存在します。
しかし,中にはこどもの可能性を脅かしているものが伺われ,大人の勝手な解釈(営利を含めた損得勘定)による,名ばかりの育児支援が蔓延しているのも事実です。

「その育児,大人の自己中心的な押しつけになってはいませんか?」
「その育児,その支援方法は,本当に〈こどものため〉のものなのですか?」
「「こどものため」とは言いながら,本当は自分(保護者)のためだけなのではないですか?」
と声を大にして言いたい!!

まず第一は、〈子育て支援〉の対象は誰かということです。子どもへの直接的な支援なのか、子どもと親をセットにした支援なのか、子どもを育てる親への支援なのか、親たちのグループづくりの支援なのか、親たちのグループづくりを進める人たちへの支援なのかをはっきりさせ ることです。また「子ども」を対象とする場合も、主に乳幼児期なのか、それとも思春期まで含むのかを明確にする必要がありますし、「親」を対象とするという場合も、母親中心ではなく本格的に父親を担い手にする(単なる「参加」ではなく)取り組みになっているのかどうか、子どもの育ちにかかわる祖父母世代や地域の人々の関与をも支援の対象に含めて構想するのかなどを明らかにする必要があるでしょう。

「第2章 子育て支援の概念を整理し理念を構築する」(社会福祉法人 日本保育協会,子どもが育ち 親も育つ 地域がつながる子育て支援 新しい子育て文化の創造をめざして-地域における子育て支援に関する調査研究報告書-,平成23年,p.17)

第二に、〈支援〉の内容と方法を明らかにする課題です。子どもを育てる困難を軽減するための支援(負担軽減・代理活動)なのか、それとも子どもを育てる力の育成にむけての支援(主体性の育成・教育活動)なのかという点です。後者の場合でも、「主体性の育成」をどのように行うのか、何に注目し、どのような方法で育成をはかるのかをはっきりさせることです。それらは、従来の「保育技術」「教育技術」「社会福祉援助技術」「カウンセリング技術」とどう違うのかの検討も必要です。

前掲資料 ,pp.17-18

また,平成24年8月に成立した「子ども・子育て支援法」の基本理念には,次のように記述されています。

(基本理念)
第二条 子ども・子育て支援は、父母その他の保護者が子育てについての第一義的責任を有するという基本的認識の下に、家庭、学校、地域、職域その他の社会のあらゆる分野における全ての構成員が、各々の役割を果たすとともに、相互に協力して行われなければならない。

「子ども・子育て支援法」(平成24年8月22日法律第65号)

上記の資料や法律を元に,私が定義する「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」は次のとおりです。

「楽(らく)な育児」の主体は一個人の大人だけである。
自分にとっての損得しかなく,自分さえ良ければそれで良い。こどもや周りの者に自らの価値観を押し付けるだけなので,気持ちに寄り添うことは到底できない。したがって,こどもを心から〈理解〉することはできない。

「楽(たの)しい育児」の主体は家族である。
大人は,こどもにとって何が最善なのかを常に考え,協力し合う。こどもの気持ちに寄り添い,家族みんながこどもの〈ありのまま〉※6に接しようと努めているため〈理解〉を深めることができる。ただし,〈ありのまま〉に接することは,一般的に述べる「甘やかすこと」では決してない。

家事・育児ストレスがたまると「手を抜いたほうがいいよ。」とよく言われると思います。ですが,「手を抜くこと」は「楽(らく)をする」ことでは決してありません。

「〈こどものため〉に,保護者が心に余裕を持ち,晴れやかな心で〈こども〉と接する。」

〈こども〉の存在があるからこそ,育児は成り立つのであって,大人を対象とする育児など存在しません。
「楽(らく)に育児をしたいから手を抜く」という行動は,大人が楽(らく)になったらそこで完結します。
「〈こどものため〉に楽(たの)しく育児をしたいから手を抜く」という行動であれば,目的は「〈こどものため〉」なので,手を抜いて余裕ができた分だけ〈こども〉とふれあうことができるのです。

例えば,家事の負担を減らすために圧力鍋を使った調理をしたのならば,調理時間の短縮ができます。家事に追われる時間が少し減ったことに満足して終わることなく,時間短縮で得た心の余裕を,こどもと接する時間に活用していただきたいと思うのです。
繰り返しますが,抑々,〈こども〉の存在がなければ,育児も教育も成り立つことはありません。

〈育児支援〉は大人が楽(らく)をするためのものではなく,家族が笑顔で過ごせるようにサポートするためのものだと,私は考えています。

※6 「鍛地頭-tanjito-」の解釈では,「ジョハリの窓」を例に挙げると,「開かれた窓」「隠された窓」「気づかない窓」「未知の窓」の全て,すなわち,〈ジョハリの窓〉そのものを指します。特に,「未知の窓」は了解不能の側面を持つと考えています。したがって,〈ありのまま〉とは,例えば,欲しいおもちゃを強請って道路上にひっくり返り,泣きじゃくるこどもの態様などの表層を表現するものでは決してありません。

4 「信じる」という脅迫

言葉というものは,遣い方やシチュエーション((社会的)コンテクスト)で全く意味の違ったものになる場合があります。

では,次に述べる「信じる」とは,抑々,どのような意味合いがあるのでしょうか?

【信じる】(信ずるに同じ)
1 疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。
2 疑うことなく,たよりとする
3 神仏などをあがめ尊び,身をまかせる。信仰する。

三省堂 大辞林
(下線及び強調は住本が施しました。)

「1 疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。」
これは,どのような状況が想定されるのか…。

例えば,「私を裏切らないと信じている。」「私に嘘をつかない人だと信じている。」といったように,私(自分)が主体となっており,自分にとって都合の良い解釈の場合には思い込みによる「信じること」が現れるように感じます。

何か自分にとっての不都合が生じたとき,
「私はあなたを信じている。だから,私のことも信じて。」というセリフを述べるならば,それは条件付きの脅迫となるのではないでしょうか。
言い換えるなら,「私はあなたを裏切らない。だから,あなたは私を裏切ってはいけない!!」となりませんか?

育児に関していえば,
「お母さんを困らせることはしないと信じているからね。」という言葉は,「お母さんを困らせることをしたら許さないからね!!」と変換されるのです。

次に,「2 疑うことなく,たよりとする」ということには,「全く何も確信のない状態にあっても信じる」という状況も含まれます。

巷間には,「信じる者は救われる」という言葉がありますが,果たして本当にそう言い切れるのでしょうか。

「信じていたのに裏切られた!!」という経験はありませんか? 私はあります。当時の私には,相手を判断する能力が乏しかったのです。そこに揺るがない信念や根拠があるのかどうかを見極める能力(心眼,心の理論)は必要であると思います。

誠実でなければ、
人を動かすことはできない。
人を感動させるには、
自分が心の底から感動しなければならない。
自分が涙を流さなければ、
人の涙を誘うことはできない。
自分が信じなければ、
人を信じさせることはできない。
- ウィンストン・チャーチル - 
(英国の政治家、ノーベル文学賞受賞 / 1874~1965)

人間関係の名言・格言集(職場や友人関係に悩む人,癒しツアー)

偽りで人の心を動かすことができたとしても,それは偽りでしかないのです。いつかその化けの皮は剥がれるし,そうなったときの信用や信頼は一瞬にして〈無〉に帰します。

「信じる」「信じない」という自分本位の感情ではなく,「信じてもらえる自分になること」に重点を置くことです。背伸びをしなくても,本来の自分で偽りなく〈思いやる心〉で接し,他者を〈信じて〉いれば,自ずと人はついてきます。

「言葉は、裏表それぞれ2つの顔を持ち、だれが言葉を使おうと、その2つの顔を消すことはできない。言葉とは、目に見えない隠された狂気である。」

「言葉という狂気」,住本小夜子のブログ(2009年4月13日)

住本:上述した文章は,私がいじめを受けた中で感じた言葉の持つ〈職能〉について,高校2年生の時に,書き記したエッセイ『言葉という狂気』という章の一節です。
本ブログを読んだ塾長に「高校生の時から,シュレーバーを知っていたのか? フロイトも?」と訊かれました。
というのも,『言葉という名の狂気』という書物が存在しているのだそうです。
当時の私は,書物を読むということが苦手でしたので,当然そのような書物が存在していることも,シュレーバーやフロイトという人物がいることも全く知りませんでした。

日本の古本屋(『シュレーバー 言葉という名の狂気』(渡辺哲夫,1993,¥1,000))

言葉一つとっても,その意味は計り知れない。 だからこそ,物事を固定観念で決めつけるのではなく,「多角的・多面的・総合的」に判断できる人になるように,まずは大人が自分を磨き,そして子育て(支援)を行う必要があるのです。

自己のフィルターを通して捉えた他者は〈自己が形象化した他者〉であり,一般に,これを「他者理解」と呼ぶのですが,それは《他者そのもの》を〈理解〉するのではありません。《他者そのもの》は自己にも,他者本人にも了解できないものだと思いますから。

だからと言って,〈自己が形象化した他者〉による「他者理解」で終わってしまえば,《他者そのもの》に,つまりは,ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》することはできません。

ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》しようと,ありのままの《他者》との《対話》を続けることこそが《思いやり》であるとともに,これからの育児でもあるし,教育でもあるのです。

こどもも見えない自己内の了解不能の領域に,これまた同様に,それを見ることができない保護者が問いかけ続ける。

こうした育児・教育に〈こども〉が不在であることなどあり得ないことなのです。

こどものためではなく,保護者のための育児・教育など,初めから存在しないのです。

5 エピローグ

私は,メンタルケアカウンセラー®として育児・教育支援を行っていく上で,当塾に来られた相談者(クライアント)だけが「楽(らく)」になるようなサポートはしたくありません。相談者であろうと教員になりたい方であろうと,その悩みには必ず〈こども〉の存在があります。

私は,上述した保育士さんのように,〈こども〉に基軸を据え,〈こども〉にも〈保護者〉にも,心から寄り添うことのできる心理士を目指します。育児の大変さを経験しているからこそ,分かち合い理解できることもたくさんあります。

「富貴は浮雲のごとし」 
- 孔子 - (中国の思想家、儒家の始祖 / 紀元前551~紀元前479)
【意味】 人の道に外れて得た富や地位は、浮き雲のようにはかないものだということ。

孔子の名言・格言集(『論語』として世界に生きる言葉,癒しツアー,p.3)

予測不可能な時代に取り残されないために,常に新しい情報や知識を取り入れることを疎かにしてはいけません。世界の未来を《相対化》するため,取り入れた知識をもとに訓練を重ね,〈生きて働く知識〉を習得し,日々研鑽する姿勢を忘れてはなりません。
こどもたちの輝く未来のために,〈質の良い支援〉を行うためには,まず大人の意識改革が必要であると,私は考えます。

「楽(たの)しい育児」が「楽(らく)な育児」になってはならない!!
家族みんなが笑顔でいられる。そのサポートをさせていただくために,たくさんの出会いや交流,貴重な御縁を大切にし,これからも,「鍛地頭-tanjito-」は〈憩い〉と〈思いやり〉をお届けして参ります。

幻想的なピングのチューリップ。

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